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神と仏 (講談社現代新書) 新書 – 1983/7/18
山折 哲雄
(著)
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人は古来、神秘という名の不思議や不安、恐怖にとらわれ、見えない神に祈願を捧げた。6世紀半ば、仏教とともに仏像がもたらされた時、日本人はそこに人間を見、来世を信じた。以来、神と仏は、陰に陽に、いつもわれわれの生活とともにある。肉体から霊魂を救済することをめざす神道、心身一如の状態を理想とする仏教。対照的な2つの宗教と、日本人はどのようにかかわってきたのだろうか。協調、融和、統合の関係を6つの側面からさぐり、日本人のアイデンティティに迫った。
さまざまの場所にいるカミ、ホトケ――古代の人間は、カミやホトケのような存在が、この宇宙空間のさまざまの場所に生息し生活しているのだと考えたとき、ようやく心の平安をえ、自分たちの生活の指針をうちたてることができると感じたのではないだろうか。現世を超越する怒りのカミやホトケ、あるいは山や川や樹木のように、われわれの身辺によりそって加護の手をさしのべてくれる慈愛にみちたカミやホトケが、しだいに一つのまとまりのある世界を形成するようになった。つまり、遠いところに超然としている天空のカミもいれば、近いところに寄りそって立つ地蔵菩薩のようなホトケもいる。そこから、さまざまな性格や属性をもつカミやホトケとわれわれ人間とを結ぶ、多様な遠近感覚が生みだされ、育てられていった。――本書より
さまざまの場所にいるカミ、ホトケ――古代の人間は、カミやホトケのような存在が、この宇宙空間のさまざまの場所に生息し生活しているのだと考えたとき、ようやく心の平安をえ、自分たちの生活の指針をうちたてることができると感じたのではないだろうか。現世を超越する怒りのカミやホトケ、あるいは山や川や樹木のように、われわれの身辺によりそって加護の手をさしのべてくれる慈愛にみちたカミやホトケが、しだいに一つのまとまりのある世界を形成するようになった。つまり、遠いところに超然としている天空のカミもいれば、近いところに寄りそって立つ地蔵菩薩のようなホトケもいる。そこから、さまざまな性格や属性をもつカミやホトケとわれわれ人間とを結ぶ、多様な遠近感覚が生みだされ、育てられていった。――本書より
- 本の長さ209ページ
- 言語日本語
- 出版社講談社
- 発売日1983/7/18
- 寸法10.6 x 1 x 17.4 cm
- ISBN-104061456989
- ISBN-13978-4061456983
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商品の説明
著者について
1931年、サンフランシスコに生まれる。東北大学文学部卒業。東北大学助教授、国立歴史民俗博物館教授を経て、現在、国際日本文化研究センター教授。専攻、宗教学、思想史。主著に『日本仏教思想論序説』――三一書房、『霊と肉』『日本宗教文化の構造と祖型』――東大出版会、『日本人の霊魂観』――河出書房新社、『日本人の心情』『日本人の顔』――日本放送出版協会――ほかがある。講談社現代新書にも『神秘体験』がある。
著者について
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2018年4月13日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
日本古来の山岳信仰や神道から仏教各派について、様々な角度から考察されています。最近は外国人観光客が増え、寺社の観光スポット化が進んいますが、本来の姿はどうだったのかについて知っておくのにコンパクトな教科書になるでしょう。
2021年12月11日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
日本における「神」と「仏」を二項対比として相対的に分析する。本書は宇宙飛行士の体験談という突拍子のない話題から始まり、読者を著者の神仏論に一気に引き込ませる。
本書の特徴は神仏の二項対比を試みることであるため、そう簡単に二項に分けられるものではないと思う部分もあるが、こうして比較してみることもまた面白く新しい発見がある。
一章では、「仏」における可視性と、「神」における不可視性という特徴から「神」は目に見えず漂うもの、「仏」は像としてその役割を表すもの、と分析する。やがて、「目に見えない」「神」は特定の土地と結びつけられ産土神や鎮守の神になる。その「場所」を哲学分野での「無の場所」という概念で読み解く。哲学をよく知らない私には、その「場所」概念はまだはっきりとは理解できない。ただ、人々にとって、自然環境を含む生活の場は心の拠り所であり信仰の場であり、逆に古の人々にとって山の向こう・海の向こう・空の向こう・夜の闇は未知の世界だったろうと想像できる。人間の歩んだ歴史とは、場を発見した後確定し名付けることのような気がする。それは現代でも深海探査や宇宙探査という形で行われている。
対して、日本に伝わった時点での「仏」は「見るもの」だった。著者は寺院の巨像がまさにその象徴だと言うが、現在では仏教伝来直後の巨像は飛鳥大仏くらいしか残っていない。ただ、奈良の大仏を造るのに全国から勧進を行ったことと、奈良の大仏殿や平安時代の平等院の阿弥陀堂が顔が見えるような構造をしていることからも、本来は仏像は「隠すもの」ではなく「見るもの」だったのではないかと私も思う。
ただ、近年の縄文ブームでは何らかの祭祀に用いられたと思われる遺物である土偶に関心が高まってきていて、日本人は、本当に「見えざる神」を「見えざるまま」に表現してきたのだろうか?とも思う。
二章では青森のイタコとゴミソの対比をイタコを「神霊の媒介者」、ゴミソを「修行の体現者」として分析する。イタコはテレビなどで見ることもあり有名だが、ゴミソのことはよく知らなかったので面白かった。
三章では法華経主義、密教、浄土教、禅の修行とその目指す所を比較分析する。こうして見て行くことで、同じ仏教でもそれぞれの肉体や死への考え方がわかる。仏教もまた、その中でさえ一枚岩ではないところが興味をひかれる理由の一つだ。
四章では「祟りと鎮め」として御霊信仰を扱う。「吾妻鏡」を「政治権力が源氏から北条氏へと受け継がれていった時代の転換を映し出す物語」として、前編・後編の内容の違いから「祟り」を読み解く。「北条執権体制による大量殺戮を体現する人物」北条時頼が若くして政治闘争による地獄を見、それだけではなく自らその地獄に身を投じ「みずから進んで生きてしまった」。のちに彼は自らが葬った亡き一族や一門の亡霊や怨霊に苦しむ。今でいうところの米軍兵士のPTSDのような症状だ。そして時頼は出家する。「目に見えない怨霊の恐怖に耐えてなお生き続けようとする時、彼の前途に仏門に入る以外の方法はなかった」。そういえば、即身仏の本を読んだ時も即身仏になった経緯として誤って人を殺してしまい仏門に入ったという上人が何人かいた。現代では全てのことが経済的価値によって計られ人もまたその構造の中で生きる運命にあるが、人の心は基本的には変わらないだろう。故意に人を殺めることは普通に生活していればあり得ないが、自転車にしろ自動車にしろ、交通事故等で不意に人を殺してしまう可能性は誰にでもある。現代社会には、この仏門にあたるものがあるのだろうか?
五章では山の回峯、海の遍路、里の巡礼を考察する。著者は、四国の遍路に対して西国・坂東・秩父観音巡礼は現世利益的で明るく、四国遍路は罪障滅却的で暗いと分析する。確かに西国などの巡礼には終わりがあり、各地に巡礼達成を記念する供養塔があるが、四国巡礼は終わりがなく何周もするという話も聞く。遍路者を無料で泊める善根宿にも差別があったというのは初めて聞いた。ネットで検索したところ、善根宿は現代でもあるそうだがホームレスが住んでいたりその他色々の者が出入りする可能性があるため必ずしも安全とは言えないらしい。
六章では「美と信仰」として仏教美術と神道美術の違いを見る。神像と仏像の比較として松尾神社の神像と能の尉面(翁面)の表情の類似を指摘する。仏像は若々しく温容で、神像は老いて険しい。しかし、神像はそもそもが少ないため、こう、と言い切るのは難しいと思う。神仏習合して僧形や武装した姿のものもあるし、同じ時代の老僧像の皺の深く刻まれた表現と比べると壮年の姿であるような気がする。また、女神像は威厳がありつつも若々しい姿をしている。
それにしても、仏像が若々しいのは釈迦が悟りを開いた際36才だったことがあるだろうが、初期仏像として海外で表現された釈迦80才とされる涅槃像も若々しい。ブッダを目指す教えとしての仏教は禁欲的で、庶民信仰のような子孫繁栄の思想がないからなのだろうか?日本の神の超人的特徴が生と死の狭間にある老人だったとして、仏の超人的特徴に肉体的な若さがあったのだろうか?それは何を意味しているのだろう。
本書の特徴は神仏の二項対比を試みることであるため、そう簡単に二項に分けられるものではないと思う部分もあるが、こうして比較してみることもまた面白く新しい発見がある。
一章では、「仏」における可視性と、「神」における不可視性という特徴から「神」は目に見えず漂うもの、「仏」は像としてその役割を表すもの、と分析する。やがて、「目に見えない」「神」は特定の土地と結びつけられ産土神や鎮守の神になる。その「場所」を哲学分野での「無の場所」という概念で読み解く。哲学をよく知らない私には、その「場所」概念はまだはっきりとは理解できない。ただ、人々にとって、自然環境を含む生活の場は心の拠り所であり信仰の場であり、逆に古の人々にとって山の向こう・海の向こう・空の向こう・夜の闇は未知の世界だったろうと想像できる。人間の歩んだ歴史とは、場を発見した後確定し名付けることのような気がする。それは現代でも深海探査や宇宙探査という形で行われている。
対して、日本に伝わった時点での「仏」は「見るもの」だった。著者は寺院の巨像がまさにその象徴だと言うが、現在では仏教伝来直後の巨像は飛鳥大仏くらいしか残っていない。ただ、奈良の大仏を造るのに全国から勧進を行ったことと、奈良の大仏殿や平安時代の平等院の阿弥陀堂が顔が見えるような構造をしていることからも、本来は仏像は「隠すもの」ではなく「見るもの」だったのではないかと私も思う。
ただ、近年の縄文ブームでは何らかの祭祀に用いられたと思われる遺物である土偶に関心が高まってきていて、日本人は、本当に「見えざる神」を「見えざるまま」に表現してきたのだろうか?とも思う。
二章では青森のイタコとゴミソの対比をイタコを「神霊の媒介者」、ゴミソを「修行の体現者」として分析する。イタコはテレビなどで見ることもあり有名だが、ゴミソのことはよく知らなかったので面白かった。
三章では法華経主義、密教、浄土教、禅の修行とその目指す所を比較分析する。こうして見て行くことで、同じ仏教でもそれぞれの肉体や死への考え方がわかる。仏教もまた、その中でさえ一枚岩ではないところが興味をひかれる理由の一つだ。
四章では「祟りと鎮め」として御霊信仰を扱う。「吾妻鏡」を「政治権力が源氏から北条氏へと受け継がれていった時代の転換を映し出す物語」として、前編・後編の内容の違いから「祟り」を読み解く。「北条執権体制による大量殺戮を体現する人物」北条時頼が若くして政治闘争による地獄を見、それだけではなく自らその地獄に身を投じ「みずから進んで生きてしまった」。のちに彼は自らが葬った亡き一族や一門の亡霊や怨霊に苦しむ。今でいうところの米軍兵士のPTSDのような症状だ。そして時頼は出家する。「目に見えない怨霊の恐怖に耐えてなお生き続けようとする時、彼の前途に仏門に入る以外の方法はなかった」。そういえば、即身仏の本を読んだ時も即身仏になった経緯として誤って人を殺してしまい仏門に入ったという上人が何人かいた。現代では全てのことが経済的価値によって計られ人もまたその構造の中で生きる運命にあるが、人の心は基本的には変わらないだろう。故意に人を殺めることは普通に生活していればあり得ないが、自転車にしろ自動車にしろ、交通事故等で不意に人を殺してしまう可能性は誰にでもある。現代社会には、この仏門にあたるものがあるのだろうか?
五章では山の回峯、海の遍路、里の巡礼を考察する。著者は、四国の遍路に対して西国・坂東・秩父観音巡礼は現世利益的で明るく、四国遍路は罪障滅却的で暗いと分析する。確かに西国などの巡礼には終わりがあり、各地に巡礼達成を記念する供養塔があるが、四国巡礼は終わりがなく何周もするという話も聞く。遍路者を無料で泊める善根宿にも差別があったというのは初めて聞いた。ネットで検索したところ、善根宿は現代でもあるそうだがホームレスが住んでいたりその他色々の者が出入りする可能性があるため必ずしも安全とは言えないらしい。
六章では「美と信仰」として仏教美術と神道美術の違いを見る。神像と仏像の比較として松尾神社の神像と能の尉面(翁面)の表情の類似を指摘する。仏像は若々しく温容で、神像は老いて険しい。しかし、神像はそもそもが少ないため、こう、と言い切るのは難しいと思う。神仏習合して僧形や武装した姿のものもあるし、同じ時代の老僧像の皺の深く刻まれた表現と比べると壮年の姿であるような気がする。また、女神像は威厳がありつつも若々しい姿をしている。
それにしても、仏像が若々しいのは釈迦が悟りを開いた際36才だったことがあるだろうが、初期仏像として海外で表現された釈迦80才とされる涅槃像も若々しい。ブッダを目指す教えとしての仏教は禁欲的で、庶民信仰のような子孫繁栄の思想がないからなのだろうか?日本の神の超人的特徴が生と死の狭間にある老人だったとして、仏の超人的特徴に肉体的な若さがあったのだろうか?それは何を意味しているのだろう。
2018年9月13日に日本でレビュー済み
「なぜ我々は対照的な二つの宗教を信じるのか」という帯にある通り、一般的に神仏習合と呼ばれるシンクレティズム(重層信仰)による神と仏の共存関係を説いているのだろうが・・。
まず、死んだ人間がやがて祖霊の段階を経てホトケやカミになるという日本人固有の宗教観がある。そのカミやホトケはどこか遠くに居るのではなく割と生活の傍にある。そのカミが立ち現れることを本来は「タタリ」といい、後に人間や社会に危害を加える「祟り」を含意する。カミの祟りに対してホトケの鎮めという二元的な構図が日本人の神仏信仰の枠組みになった。
と、著者の言葉の表面的な受け売りにするのは、私が理解出来ていないということでしょう。著者は神と仏に関する信仰の観念は日本人の宗教観の基礎のみならず、日本文化の基礎を明らかにするための重要なメルクマークであるとも言う。分かったような、分からないような。難しいなぁ・・。
一つ言えるのは、こういう200ページほどの新書判は簡単に読みやすいともいえるが、結論までの過程を端折り過ぎていて消化不良になることが多い。この本は違うが、タイトルで売るだけの本も多いし。イマイチ読み応えが無いんですよね。
まず、死んだ人間がやがて祖霊の段階を経てホトケやカミになるという日本人固有の宗教観がある。そのカミやホトケはどこか遠くに居るのではなく割と生活の傍にある。そのカミが立ち現れることを本来は「タタリ」といい、後に人間や社会に危害を加える「祟り」を含意する。カミの祟りに対してホトケの鎮めという二元的な構図が日本人の神仏信仰の枠組みになった。
と、著者の言葉の表面的な受け売りにするのは、私が理解出来ていないということでしょう。著者は神と仏に関する信仰の観念は日本人の宗教観の基礎のみならず、日本文化の基礎を明らかにするための重要なメルクマークであるとも言う。分かったような、分からないような。難しいなぁ・・。
一つ言えるのは、こういう200ページほどの新書判は簡単に読みやすいともいえるが、結論までの過程を端折り過ぎていて消化不良になることが多い。この本は違うが、タイトルで売るだけの本も多いし。イマイチ読み応えが無いんですよね。
2016年9月16日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
現代の仏教の低迷ぶりに、日頃から不安な気持ちでいた。そんな時に山折先生にであった。こんな感じは久しぶりだ。先生ありがとうございます。
2015年9月18日に日本でレビュー済み
初出は古いが、大変興味深く読ませていただいた。 日本人が外来の宗教の超自然的存在も「カミ」として取り込んできたのでは、と言う自分の持論からは少し離れる内容だったが、ただ、氏の他の著作を見るにどちらかと言えば仏教学寄りの先生のようなので、この辺りは納得したうえで読ませていただいたつもり。「半跏思惟像」のあたりは非常に面白く、何故弥勒像となっていったのかを掘り下げてもらえると嬉しかったのだが。 自分の学習の足りない部分を多く感じたので、なるべく早く再読にかかりたい。
2015年9月2日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
神と仏の違いを詳しくわかりやすく書かれているので読みやすかった
2005年12月15日に日本でレビュー済み
青森県・下北半島(恐山)のイタコは有名である。これに対して,同じ青森県で陸奥湾を挟んだ反対側・津軽半島のゴミソというものがいる。
イタコは,不特定の死者ボトケの媒介者として,ホトケオロシを行う(いわゆる口寄せ)。これに対して,ゴミソはホトケオロシを行わず,特定のカミの体現者として,祈祷・病気治療等を行う(カミオロシ)。
日本の「神」「仏」といった宗教観を,種々の見地から説明した本である。上記のイタコとゴミソの相違ということ(そもそもゴミソの存在自体)まったく知らなかったので,勉強になった。
イタコは,不特定の死者ボトケの媒介者として,ホトケオロシを行う(いわゆる口寄せ)。これに対して,ゴミソはホトケオロシを行わず,特定のカミの体現者として,祈祷・病気治療等を行う(カミオロシ)。
日本の「神」「仏」といった宗教観を,種々の見地から説明した本である。上記のイタコとゴミソの相違ということ(そもそもゴミソの存在自体)まったく知らなかったので,勉強になった。
2015年8月17日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
日本文化の源流について書かれた本です。山折先生らしい明快な切り口で、神と仏が語られます。我々の精神構造がなぜこのようになっているのかが分かります。