観光による「地方創生」に役立ちそうなので、以下↓ ポイントをメモしてみました。
ポスト・モダンは、西欧近代を押しつけられてきた日本においてこそ強く表れる。
「すでに技術的には西欧にひけをとらなくなったし、
押しつけの文明よりも心の奥底で願う生き方をしたい!」というつぶやきから
「日本!!」が登場してくる。
それがいかなる価値観に基づいて現れてくるのか、それはわからない・・・。
日本の置かれたこの曖昧さは、生活環境、なかんずく風景の問題として顕著。
古来から俳句や日本画に見られるような優れた自然観を持ちながら、
アイデンティティの欠如した日本の家やビルや自然の配置はデタラメ・・・。
原風景とは、あらゆる文化とあらゆる時代に共通の基本的な特徴を構成するもの。
つまり、太陽、海、川、大地、山~!
つまり、文化の差異化が生じる以前の風景。
(文化の差異化→美的次元の導入→自然環境の人為的変形→分裂状況への不安)
無意識の深層に記憶されている原風景への郷愁が現れてくるのは自然。
元型(原風景)には本来、西欧と日本の差異はない!
原風景は、現実には人間の作り上げるさまざまな(精神的・言語的・図形的・造園的な)表現なしには
存在しない(復活しない)、というのがミソ!そのような表現は文化的かつ歴史的に類型化されている。
ユングやパシュラールに代表される考え方の流れにおいては、
人間の想像力における象徴化のプロレスを分析して、原型を定義しようとする努力がなされてきた。
こうして数多くの神話が比較研究された。(-_-)/~~~
古代日本では「国見」という儀礼(=四方に視線をめぐらせ、国に対する主権を表明する。)があった。
文化の変遷とは、エリート階層が自分たちの風景の概念を押しつけてきたもの・・・。
ヨーロッパ文明は日本人の自然観をすっかり狂わせてしまった。
(ちなみに、ヨーロッパで山が美しいとされるようになったのは18世紀以降のこと。)
解答があり得るとすれば、近接学、自己言及、リゾーム、偶発性を歴史的観点から突き合わせること。
風景の意味化(意味の生成)について、主体は意味論的にその環境に組み込まれることになる。
それは無意識の占める部分が大きいが、
だからと言って未熟な人間はまだ無意識をコントロールできるようになったわけでもない!
ただ、意識の限界は知った・・。
風景の管理ができるようになるには、無意識をもっと管理できなければムリ・・。カオスの制御も必要。
確かに新地方様式の地域性は、劇作品のように、ひとつの表象と言えよう。
けれどもその表象は自分自身しか表現しない。自分自身、すなわち現実の風景である!
そしてこの現実の風景は同時に芸術作品でもあり、人間の風景に対する新たな関係の象徴である。
私の結論は・・・造景の時代の黎明期にあって、われわれの前に明ける展望は、
われわれの環境が全体として少しづつ芸術作品になっていき・・・
最終ページより抜粋
以上でメモは終わりです。では、「現実の風景」を見ていきましょう。
ここでは「日本」と「西欧」の景色の混じりようの変遷が語られていますが、
この本が書かれてから25年後の現在、どこに住んでいようと光のシャワーいっぱいのWEB風景の時代。
同じ国に住んでいる、でも異なる文化圏域の人よりも、国は異なるし言語も違うけれども、
同じ文化圏に属している人の方が「近い」と思える世界に私たちは住んでいます。
かって日本一の石炭積み出し港だった北九州市の若松港と産炭地筑豊、
(中心を流れるのはかって石炭を乗せた船を運んだ一級河川・遠賀川)
かって英国一の石炭積み出し港だったニューカッスル港と産炭地ウォールズエンド。
(中心を流れるのはかって石炭を乗せた船を運んだ一級河川・タイン川)
この「日本の風景」と「西欧の景色」は近い。
イギリスのニューカッスル・ウォールズエンドには石炭時代、
蒸気機関車の実用化で産業革命をリードした「鉄道の父」ジョージ・スチーブンソンが生まれ、
石油時代に入ってからは、
ユングの学名を冠した「シンクロニシティ」作詞作曲でグラミー賞に輝いたスティングが生まれました。
(このハードとソフト、どちらも英国と日本の風土を相互接続しながら生まれたかのようです。)
※スティング・・ジョイスさながら文学的情熱で故郷(炭鉱町)を脱出。
「孤独のメッセージ」が世界的にヒットし、
ユングの学名からとった「シンクロニシティ」の作詞作曲で、
’83グラミー賞に輝いたイギリスのミュージシャン、環境保護活動家。
なぜだか九州・宮崎シーガイア(町おこし観光施設)のCMキャラになったこともある。
「海の予約、大地の予約、太陽の予約、
私たちのファーストゲストはスティングです。」
(宮崎テーマ曲:テイク・ミー・テゥー・ザ・サンシャイン♪)
商業用の派手なイメージ(虚像)とは裏腹に
存在の根拠を問う哲学者としての実像を持つ元教師。
放浪の果てに現在、つながりの回復を求めて故郷と再び向き合っている。
「私は自分の物語を記憶にとどめ続け、
その意味を計り知ろうとしなければならない。
私の冴えない散文詩を、
卓越した何かに生まれ変わらせなければならない。
・・・・
何ものにも動じない外面の下に秘められた、
<内なる破綻>からの再生こそ、
その後の私の人生の生きる縁(よすが)となったのである。」
2004年スティング自伝
『ブロークン・ミュージック/スティング著』より
スティング
僕はよく、どうして自分の育ったシュールな環境にひかれるのかと思っていたけれど、
それが僕の心理的・象徴的重要性を持っているんだと、今はわかる。
それが僕の夢の風景なんだ。
僕のちっぽけな故郷、育った家、そこにいた亡霊たちが・・。
もっと広い視野で描くことはできないだろうか?
私ではない誰かの声で語ってみよう。
私とは異なる視点を表現してみよう。
僕が語らなければならない「物語」
僕が語りたいと願っている「物語」
人々が再び立ち上がる物語を通じて、自分を表現しているわけさ。
ベルグ博士は2009年「福岡アジア文化賞大賞」をこの九州・福岡の地で受賞されました。
明治日本の近代工業化をけん引した北九州市の赤レンガ作りの工場は世界遺産に登録されましたが、
ニューカッスルに点在する赤レンガ造りの工場に影響されて作られたのが北九州の工場群です。
北九州市のこの工場が世界遺産に勧告されたニュースと前後する5月6日、FACEBOOKを通して
ニューカッスルの観光ガイドをしているスティングの動画が届いたのは、
まさにシンクロニシティならぬ、通態性!
ともあれ、日本と西欧をつなぐ風景(原風景)への郷愁と新たな造景、
西欧で育まれたスティングの心の全体性の回復(風景の意味化)はそこにしかないということなのです。
続きは風土的出会いのビジュアル・ストーリー
『吾輩は子猫である・総集編/友情と物語で解く複雑系の科学』amazonレヴューでご一読いただけます。
プライム無料体験をお試しいただけます
プライム無料体験で、この注文から無料配送特典をご利用いただけます。
非会員 | プライム会員 | |
---|---|---|
通常配送 | ¥410 - ¥450* | 無料 |
お急ぎ便 | ¥510 - ¥550 | |
お届け日時指定便 | ¥510 - ¥650 |
*Amazon.co.jp発送商品の注文額 ¥3,500以上は非会員も無料
無料体験はいつでもキャンセルできます。30日のプライム無料体験をぜひお試しください。
¥990¥990 税込
発送元: Amazon.co.jp 販売者: Amazon.co.jp
¥990¥990 税込
発送元: Amazon.co.jp
販売者: Amazon.co.jp
¥93¥93 税込
配送料 ¥257 6月15日-16日にお届け
発送元: リサイクル商品在宅買取【りもったい】(株式会社シガースタイル) 販売者: リサイクル商品在宅買取【りもったい】(株式会社シガースタイル)
¥93¥93 税込
配送料 ¥257 6月15日-16日にお届け
発送元: リサイクル商品在宅買取【りもったい】(株式会社シガースタイル)
販売者: リサイクル商品在宅買取【りもったい】(株式会社シガースタイル)
無料のKindleアプリをダウンロードして、スマートフォン、タブレット、またはコンピューターで今すぐKindle本を読むことができます。Kindleデバイスは必要ありません。
ウェブ版Kindleなら、お使いのブラウザですぐにお読みいただけます。
携帯電話のカメラを使用する - 以下のコードをスキャンし、Kindleアプリをダウンロードしてください。
日本の風景・西欧の景観 そして造景の時代 (講談社現代新書 1007) 新書 – 1990/6/12
オギュスタン・ベルク
(著),
篠田 勝英
(翻訳)
{"desktop_buybox_group_1":[{"displayPrice":"¥990","priceAmount":990.00,"currencySymbol":"¥","integerValue":"990","decimalSeparator":null,"fractionalValue":null,"symbolPosition":"left","hasSpace":false,"showFractionalPartIfEmpty":true,"offerListingId":"UUhrVJhhlGztCsuO41pu42Vl8Kem8ck7LozuCnqroksxKkW09NHOrhmDyy6R55L%2F8aEBJ6yeUbAYlL7xmY%2FTL6miuug%2Bo5Scak4dQyDckinhyKrYnV5VNBDX%2BWnjpQtk","locale":"ja-JP","buyingOptionType":"NEW","aapiBuyingOptionIndex":0}, {"displayPrice":"¥93","priceAmount":93.00,"currencySymbol":"¥","integerValue":"93","decimalSeparator":null,"fractionalValue":null,"symbolPosition":"left","hasSpace":false,"showFractionalPartIfEmpty":true,"offerListingId":"UUhrVJhhlGztCsuO41pu42Vl8Kem8ck7ZT8nGqRBdx2ww0olmJ911J5e93vYy%2FCJwsLTGPHL77PLPjdqjKDcCiKGRIxRagwZbzXPIY%2FMkWtKa9N%2FvU9iw8CYfremVhlOHikfZ7G62E6wyIzk%2BfxpHe2h%2B%2FljPY7wzfNYl7f%2BVNd0sbby%2BaM%2BFA%3D%3D","locale":"ja-JP","buyingOptionType":"USED","aapiBuyingOptionIndex":1}]}
購入オプションとあわせ買い
ヨーロッパ近代が生んだ遠近法と中心がたえず移動する日本特有の空間。視線の差異の発見と再発見、野性空間・田園・都市における風景観念の比較を通して、主体――客体二元論たる近代景観論の解体を論じ、ポスト・モダンの風景=〈造景の時代〉を予見する。
風景としの田園――このような田舎の都市生活社たちは、周囲の環境に向けて、往時の農民とはもはやまったく無縁の視線を注ぐ。彼らにとっては田園はまず風景である。だからこそ彼らは田舎らしさの記号を、農家風の建築や手動ポンプの井戸を保存したいと熱烈に願う。そして反対に高圧線や野外広告等、風景を損なう近代経済の記号が拡がることに反対する。すなわち彼らはきわめて忠実な農村風景の守護者なのである。けれども彼らは農業にはまったく無縁で、たいていの場合、地域社会の新参者にすぎない。そのため地域社会は彼らに対して、しばしば煮え切らない対応を見せる。しかしながら田園の都市生活者の趣味嗜好は社会全体において支配的な潮流となり、そのため彼らの風景に関する主張が一般に優位に立つことになる。かつて都市生活者によって発見された田園風景は、こうして農民の消滅のおかげで田舎に対してさえも押しつけられるようになったのである。――本書より
風景としの田園――このような田舎の都市生活社たちは、周囲の環境に向けて、往時の農民とはもはやまったく無縁の視線を注ぐ。彼らにとっては田園はまず風景である。だからこそ彼らは田舎らしさの記号を、農家風の建築や手動ポンプの井戸を保存したいと熱烈に願う。そして反対に高圧線や野外広告等、風景を損なう近代経済の記号が拡がることに反対する。すなわち彼らはきわめて忠実な農村風景の守護者なのである。けれども彼らは農業にはまったく無縁で、たいていの場合、地域社会の新参者にすぎない。そのため地域社会は彼らに対して、しばしば煮え切らない対応を見せる。しかしながら田園の都市生活者の趣味嗜好は社会全体において支配的な潮流となり、そのため彼らの風景に関する主張が一般に優位に立つことになる。かつて都市生活者によって発見された田園風景は、こうして農民の消滅のおかげで田舎に対してさえも押しつけられるようになったのである。――本書より
- 本の長さ190ページ
- 言語日本語
- 出版社講談社
- 発売日1990/6/12
- 寸法10.6 x 0.9 x 17.4 cm
- ISBN-104061490079
- ISBN-13978-4061490079
よく一緒に購入されている商品
対象商品: 日本の風景・西欧の景観 そして造景の時代 (講談社現代新書 1007)
¥990¥990
最短で6月15日 土曜日のお届け予定です
残り7点(入荷予定あり)
¥1,650¥1,650
最短で6月15日 土曜日のお届け予定です
残り6点(入荷予定あり)
¥1,210¥1,210
最短で6月15日 土曜日のお届け予定です
在庫あり。
総額:
当社の価格を見るには、これら商品をカートに追加してください。
ポイントの合計:
pt
もう一度お試しください
追加されました
一緒に購入する商品を選択してください。
この商品をチェックした人はこんな商品もチェックしています
ページ 1 以下のうち 1 最初から観るページ 1 以下のうち 1
商品の説明
著者について
【オギュスタン・ベルク】Augustin Berque
1942年生まれ。パリ大学で地理学第三課程博士号および文学博士号取得。現在、フランス国立社会科学高等研究院教授。文化地理学専攻。1984――88年、日仏会館フランス学長。主な著書に『空間の日本文化』『風土の日本』――以上筑摩書房などがある。
【しのだ・かつひで】
1948年生まれ。東京大学文学部仏文学科博士課程修了。現在、白百合女子大学文学部助教授。フランス中世文学専攻。
1942年生まれ。パリ大学で地理学第三課程博士号および文学博士号取得。現在、フランス国立社会科学高等研究院教授。文化地理学専攻。1984――88年、日仏会館フランス学長。主な著書に『空間の日本文化』『風土の日本』――以上筑摩書房などがある。
【しのだ・かつひで】
1948年生まれ。東京大学文学部仏文学科博士課程修了。現在、白百合女子大学文学部助教授。フランス中世文学専攻。
登録情報
- 出版社 : 講談社 (1990/6/12)
- 発売日 : 1990/6/12
- 言語 : 日本語
- 新書 : 190ページ
- ISBN-10 : 4061490079
- ISBN-13 : 978-4061490079
- 寸法 : 10.6 x 0.9 x 17.4 cm
- Amazon 売れ筋ランキング: - 316,584位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 137位地理学・地誌学
- - 389位近代西洋哲学
- - 541位環境・エコロジー (本)
- カスタマーレビュー:
著者について
著者をフォローして、新作のアップデートや改善されたおすすめを入手してください。
著者の本をもっと発見したり、よく似た著者を見つけたり、著者のブログを読んだりしましょう
カスタマーレビュー
星5つ中3.5つ
5つのうち3.5つ
全体的な星の数と星別のパーセンテージの内訳を計算するにあたり、単純平均は使用されていません。当システムでは、レビューがどの程度新しいか、レビュー担当者がAmazonで購入したかどうかなど、特定の要素をより重視しています。 詳細はこちら
13グローバルレーティング
虚偽のレビューは一切容認しません
私たちの目標は、すべてのレビューを信頼性の高い、有益なものにすることです。だからこそ、私たちはテクノロジーと人間の調査員の両方を活用して、お客様が偽のレビューを見る前にブロックしています。 詳細はこちら
コミュニティガイドラインに違反するAmazonアカウントはブロックされます。また、レビューを購入した出品者をブロックし、そのようなレビューを投稿した当事者に対して法的措置を取ります。 報告方法について学ぶ
-
トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
レビューのフィルタリング中に問題が発生しました。後でもう一度試してください。
2015年5月13日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
2014年1月4日に日本でレビュー済み
山や川などの自然、レンガ造の街並みや高層ビル群などからなる都市。風景といっても様々な解釈があると思う。しかし本書を読んで気づくのは、現代人が見る風景というのは、前近代の人々が見ていたそれとは全く異なる性質のものであるということだ。
自らの周りに当たり前のようにある「環境」を特別視する意識を持つようになって初めて、風景という概念と環境に対する審美眼が生まれたと筆者は指摘する。例えば西欧においては農村の住人は彼らの住む地域を「風景」として認識することができず、逆説的に田園≒農村の風景はそれらを第3者的な視点から眺める「都市」によって発見されたとしている。更に西欧文化の中心である都市では、都市をひとつの家のようなものと考える価値観から、統一された都市が作られた。それが近年の近代化に伴う均質化によって初めて、「統一された街並み」という概念が生みだされたと指摘している。
一方で日本には古来より自然を題材にした俳句や絵画などの嗜みがあった。これは日本が伝統的に自然を特別視=客観視してきたことを意味し、自然を風景として指向する概念が受け継がれていたということを示す。逆に都市のような人工空間においても自然を求める傾向は強く、ここの住居に庭を作るといった手法が採られてきた。そこへ西欧都市による「街並み」の概念が持ち込まれ、自らの自然志向を相対化してしまったのである。結果、日本の都市は総体としてみたときに「まとまりに欠ける」というレッテルを張らざるを得なくなった。
つまり「風景」が発見されるには自らが主体的に関わる「環境」を客観的にみるきっかけがあったということだ。
近代化によって世界が狭まり、写真や想像の世界も含めれば、地球上のあらゆる「環境」を風景として知覚することができるようになった。いうなれば身の回りのあらゆる環境に対して”どの程度の距離を持って主観的・客観的に関わるか”ということが測りづらくなっているといえる。だから高層ビルや「〜風」といった見かけのデザインと場所の関連が希薄になってきている。「造景の時代」というのは読んで字のごとく、あらゆる風景をイメージとして網羅してしまった現在に新たな風景概念を作っていく試みに他ならない。
自らの周りに当たり前のようにある「環境」を特別視する意識を持つようになって初めて、風景という概念と環境に対する審美眼が生まれたと筆者は指摘する。例えば西欧においては農村の住人は彼らの住む地域を「風景」として認識することができず、逆説的に田園≒農村の風景はそれらを第3者的な視点から眺める「都市」によって発見されたとしている。更に西欧文化の中心である都市では、都市をひとつの家のようなものと考える価値観から、統一された都市が作られた。それが近年の近代化に伴う均質化によって初めて、「統一された街並み」という概念が生みだされたと指摘している。
一方で日本には古来より自然を題材にした俳句や絵画などの嗜みがあった。これは日本が伝統的に自然を特別視=客観視してきたことを意味し、自然を風景として指向する概念が受け継がれていたということを示す。逆に都市のような人工空間においても自然を求める傾向は強く、ここの住居に庭を作るといった手法が採られてきた。そこへ西欧都市による「街並み」の概念が持ち込まれ、自らの自然志向を相対化してしまったのである。結果、日本の都市は総体としてみたときに「まとまりに欠ける」というレッテルを張らざるを得なくなった。
つまり「風景」が発見されるには自らが主体的に関わる「環境」を客観的にみるきっかけがあったということだ。
近代化によって世界が狭まり、写真や想像の世界も含めれば、地球上のあらゆる「環境」を風景として知覚することができるようになった。いうなれば身の回りのあらゆる環境に対して”どの程度の距離を持って主観的・客観的に関わるか”ということが測りづらくなっているといえる。だから高層ビルや「〜風」といった見かけのデザインと場所の関連が希薄になってきている。「造景の時代」というのは読んで字のごとく、あらゆる風景をイメージとして網羅してしまった現在に新たな風景概念を作っていく試みに他ならない。
2009年4月29日に日本でレビュー済み
全体につづられている日本と西洋の比較よりも、
最後で語られている「モダン=風景の発見(主客分離)」と
「ポストモダン=風景の終焉→「造景」の時代(景色を見る→参加する)」
を対比した部分が興味深い。
準拠モデルとしての地球(有限性と特有性)という発想は、
特有性という観点がある点で地球全体主義=資源主義を超えている。
個人的には、この本の姉妹編ともいうべき『都市のコスモロジー』のほうが
啓発的だった。
最後で語られている「モダン=風景の発見(主客分離)」と
「ポストモダン=風景の終焉→「造景」の時代(景色を見る→参加する)」
を対比した部分が興味深い。
準拠モデルとしての地球(有限性と特有性)という発想は、
特有性という観点がある点で地球全体主義=資源主義を超えている。
個人的には、この本の姉妹編ともいうべき『都市のコスモロジー』のほうが
啓発的だった。