20年ぶりの再読。
学生時代に買った本ですが、大事に取ってあったので余程思い入れがったのだろう。
・・・
<僕>の独自性の問題、そしてそれに続く道徳の問題、どちらも刺激的で面白かった。でも、それを賞賛してもなお余りあるのは最後の章の『哲学とは』ではなかろうか。
ここに、<哲学>と「哲学」の違い、あるいは<哲学>と「哲学史」ないし「思想」との違いが書かれている。
つまり、<哲学>とは実に極私的問題であり、他人が理解する必要などないもの。また学校で教えるものでもなく、個人の疑念・疑問として知らずのうちに考えてしまうもの、とも言える。
他方でそうした変人奇人たちの一連の極私的文章を「哲学」という枠で括って、教え、場合によって利用するような輩すらいる。そして哲学とは大体そのようなものだし、そうやって<哲学>もその命脈を保ってきたという。
・・・
高校生の頃、進学先を決めねばならなかった。そして、未熟でもあった(今もだけど)。
環境関連の仕事に興味があり化学の専攻を希望していた。が、色弱であったため、学校の先生には「進学はできても就職は難しい」と言われた。それを確認もせずにそのまま渋々従った。既に愚の骨頂であった。そして文系に進むことになった。
周囲の友人たちを眺めてみる。なぜ法学部なのか、なぜ商学部なのか。返ってくるのは「親から言われた」「給料が高そうだから」。お前ら自分の頭で考えているのか?確固たる「自分」はないのか?
かくいう私も、何がやりたいかなんて全く考えていなかった。
そこで、一番役に立たなそうな学問、ということで哲学科を選んだ。
・・・
しかし道は苦しかった。
当初、何か大変なすごい秘密が隠されているのでは、と思った。秘密の発見以前に、とにかく理解できない。日本語は言わずもがな。ドイツ語の原典は、それこそ読むというより辞書を引く時間の方が長かったくらい。
縁あって、他の大学院でも学ばせてもらったが、修士一年の夏休みには、この道はなかろう、と就職へと舵を切った。理解できない絶望感は強かった。
・・・
今、永井氏の作品を読んで、改めて思った。
ああ、私はある意味で普通の人間たりえたのだ。人様が当然だと思えるようなことに、立てつくように疑問を感じて、止むにやまれぬ思いを感じてしまう質の人間ではなかったのだ、と。
そして、そうした<哲学>をする人たちの私的問題は、分からなくて当然。否、分かる必要もない。ただ、類似の問題を抱えてしまった人が、「ああ、自分と同じ疑問を持ったひとにも他にいるのだ」と感じるのみ。
思えば、自分にはそのような止むにやまれぬような疑問はなかった。あるとすれば、「人は死んだらどうなるのか」とか「人は(自分は)好きな人以外にでもどうして好意をもてるのか」とかその程度であった。
前者は小学生ごろからもっていた。筆者に言わせるとそれは、<老人>の哲学に該当するらしい。宗教がそのあたりの守備範囲とのこと。いいじゃない。勉強しようじゃないの。
そして後者は学生時代に今の嫁と付き合い始め出してからむくむくともたげてきた。K.ローレンツ(動物学者)やR.ドーキンス(進化生物学者)を読み、我が物顔で彼女に「動物として、大きな胸に目が行くのは仕方ないんだって」「種として、種に踊らされているから、他人に惹かれるのは仕方ない」といっても、当然理解は得られなかった。自分から喧嘩のタネをまいていたといっても過言ではない。それでも今まだ夫婦で(だいぶ)仲良く暮らせているのは、僥倖という他ない。
・・・
話は逸れてしまったが、永井氏の作品。
彼のいう<哲学>とは、ひょっとしたら<人生>と言い換えてもいいのではないか。他人に自分の人生をとやかく言われて、自分の人生が傷つくだろうか。自分が満足した人生を送っているところに、他人の価値尺度は必要だろうか。きっと不要なのだ。
もちろん、金銭、地位、名誉など多くの外的な切り口で自分の評価は上下しよう。これらのラベルを目指す人々は、その上下に一喜一憂しよう。しかし、もし本当にやりたい何かを持つのであれば、他人の評価や既成の価値があなたに影響を与えるものは僅かであろう。
本作は哲学的には、毛色の異なる独我論、そして道徳の限界、について述べられているもの。でもこれらを越えて、自分の頭で考える、自分の疑問を考える姿勢を強く説くものである。
響く人には、強く響く作品。
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<子ども>のための哲学 講談社現代新書―ジュネス (講談社現代新書 1301) 新書 – 1996/5/20
永井 均
(著)
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自分ひとり裸一貫で哲学することのすすめ。なぜ悪いことをしてはいけないのか。なぜぼくは存在するのか。この二つの大問題に答えはあるだろうか。脳に汗して考え、自分の答えを見つけるプロセスを語る。(講談社現代新書)
自分ひとり裸一貫で哲学することのすすめ。なぜ悪いことをしてはいけないのか。なぜぼくは存在するのか。この二つの大問題に答えはあるだろうか。脳に汗して考え、自分の答えを見つけるプロセスを語る。
自分ひとり裸一貫で哲学することのすすめ。なぜ悪いことをしてはいけないのか。なぜぼくは存在するのか。この二つの大問題に答えはあるだろうか。脳に汗して考え、自分の答えを見つけるプロセスを語る。
- ISBN-104061493019
- ISBN-13978-4061493018
- 出版社講談社
- 発売日1996/5/20
- 言語日本語
- 寸法11.4 x 1 x 17.4 cm
- 本の長さ216ページ
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商品の説明
著者について
1951年生まれ。慶應義塾大学文学部卒業。同大学院文学研究科博士課程単位取得。現在、信州大学教授。専攻は哲学・倫理学。著書に『〈私〉のメタフィジックス』『〈魂〉に対する態度』―勁草書房、『翔太と猫のインサイトの夏休み』―ナカニシヤ出版―など。
登録情報
- 出版社 : 講談社 (1996/5/20)
- 発売日 : 1996/5/20
- 言語 : 日本語
- 新書 : 216ページ
- ISBN-10 : 4061493019
- ISBN-13 : 978-4061493018
- 寸法 : 11.4 x 1 x 17.4 cm
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- - 197位近代西洋哲学
- - 320位哲学・思想の論文・評論・講演集
- - 1,129位講談社現代新書
- カスタマーレビュー:
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2023年12月3日に日本でレビュー済み
2022年6月16日に日本でレビュー済み
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この本は主に2部構成となっている。1部目は、誰もが考えるが誰にも分からない問題、<子ども>の時誰もが1度は疑問に思うであろう「なぜ僕は存在するのか?」について筆者なりの見解が述べられている。2部目は、「なぜ悪いことをしてはいけないのか?」という一見すると当たり前に感じられる道徳的な問題について言及している。僕は特に2部目を読んでいるときに感動を覚えた。なぜなら、筆者は多くの大人が使う言い逃れや言い訳、世間一般でいう常識を使わずにこの問題を根本からありのままにとらえているからだ。読む人にとっては筆者が非道徳的な人物だなんて批判するかもしれないが、僕にとってはきれいごとや考えなしの”道徳”に固められていない素直な人としてむしろ尊敬できるし信じられると感じた。
普段から世間に蔓延る常識や道徳などに疑問を持っている人、いわば自分で納得するこたえを得られないとそれを実行し難い人にとってはとても面白い本であると思う。逆に、常識は常識であるし道徳的なことは守って当たり前というように、みんながやっているからとか今までそうだったからそれをやるという人にとっては読んでいて苦痛であるかもしれない思う。
普段から世間に蔓延る常識や道徳などに疑問を持っている人、いわば自分で納得するこたえを得られないとそれを実行し難い人にとってはとても面白い本であると思う。逆に、常識は常識であるし道徳的なことは守って当たり前というように、みんながやっているからとか今までそうだったからそれをやるという人にとっては読んでいて苦痛であるかもしれない思う。
2015年11月4日に日本でレビュー済み
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近年活字恐怖症だからかもしれないが、やはり哲学は難しいと感じてしまった。
しかし他の入門書的なものよりかは解り易い。
しかし他の入門書的なものよりかは解り易い。
2016年10月30日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
面白く最後まで読めた。
哲学は主体的な営為であり、思想とは異なるという整理の仕方が分かりやすい。
難しい内容だ。
もう一度よみたい。
哲学は主体的な営為であり、思想とは異なるという整理の仕方が分かりやすい。
難しい内容だ。
もう一度よみたい。
2021年8月1日に日本でレビュー済み
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仏教的に言えば、「私」は自我のことであり、英語のbe動詞の「~である」を自分と勘違いしたものでしょう。例えば、身体、顔、心、名前などです。これはもともと思考が作り上げたもので、存在しません。
2020年5月1日に日本でレビュー済み
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とても良い内容でした。
2012年3月9日に日本でレビュー済み
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子どものための哲学入門書(手引書)と銘打っているが、永井さんには問題を戯画化して料理してしまうような不誠実さ(おせっかいさ?)がぜんぜんないため、かなり重厚で慎重な展開となっており、「子どものための・・・」というわりにはハイレベル。
テーマは2つ。「なぜぼくは存在するのか」と「なぜ悪いことをしてはいけないのか」である。
この2つの疑問は普遍的な問題なのかもしれないし、そうでないのかもしれないが、いつまでもそこにとどまってもいられないのでどこかの段階でこれらの問いを「了解事項(永遠の棚上げ事項)」にして日常の問題に取り組んでいくのが「大人」なのかもしれない。
きわめて私的で他人と共有できるかどうかもあやしい「私的な問い」を潜水するように追求することが哲学の入口であって、こういった肉感というか切迫感のないまま他人の哲学を勉強して思想の陳列棚を充実させることは哲学とはなんの関係もない、というのが本書の基本的立場である。哲学は役に立たない。役に立つとは何かの価値を前提としてその実現に貢献することだが、哲学にはどんな価値も前提としないことが許される唯一の営みである、ということに哲学の意義めいたものがある。哲学は尽きせぬ遊びのようにも思われる。
・・・2016年10月31日再読・・・
曰く・・・
子どものときに抱く素朴な疑問の数々を、自分自身がほんとうに納得がいくまで、決して手放さないこと。それによって「哲学」をはじめることができる。
ある人がどんな心理的事実をもったとしても、それを他人の心理状態を直接感じたこととは認めない、ということが「他人」という概念の中核を形成している。事実の問題ではなく、定義の問題である。
子どもの哲学につながらない「哲学」は、もはや哲学ではなく、思想(すでに考えられてしまったもの)の陳列棚にすぎない。すべての哲学者が思想家であるかのように見えるのは、人間が生き続け、考え続けることができない存在だからにすぎない。ある時点で切断された思考は思想に、哲学することと無縁な人の鑑賞物に変わる。生前から思想家であったような哲学者などいない。
思想を持てば、思考の力はその分おとろえる。ものを考え続けるためには、すでに考えられてしまったこと(思想)をそのつど打ち捨てて行かねばならない。自分に代わってそれをやってくれる人だけが、つまり有効な批判をしてくれる人だけが哲学上の友人(協力者)である。
哲学とはまったく利己的なものだが、幸いにしてその利は、だれも他に欲しがる人がいない自分だけの利であるため、あたかも公正な態度のように見える。だから、哲学の場合、友人と論敵はぴったり一致する。同じ問いを共有し、協力してそれを徹底的に解明し尽くしたいと思う友人としか、敵対することはできない。
思想は公表されなければ意味がないが、哲学は違う。
殺人者は、道徳的根拠を凌駕するような強い動機をもっていたのだろう。道徳は殺人を押しとどめることができなかった。道徳は考慮された上で捨てられた。それなのにその行為が道徳的に(つまり道徳という観点から)非難されるなんてことがどうしてできるのだろうか。道徳とそれ以外の欲求のうちそれ以外の欲求を選んだ人をなぜ道徳が裁くことができるのだろう。道徳的に悪いことは、たいてい道徳の存在を考慮に入れてなされるのだから、道徳的非難なるものはいつももうすでに無効になったものとしてしか登場しない。いったん考慮に入れてもらっただけでもありがたく思えばいいものを、道徳は図々しくも、単に考慮に入れるだけでなく必ず自分を選べとさえ要求する。結局のところ、道徳にできることは、それが存在しない場合の不道徳さを否定することだけではないのか。道徳が存在している場合の不道徳さには、もうほんとうは打つ手がないのではないか。
私にとっては好いことなんだけど、悪いことだからやらない、というのは、悪いと思うことによって、そのことが私にとって嫌なことになったから。私にとっては嫌なことなんだけど、善いことだからやる、というのは、善いと思うことによって、そのことが私にとって好いことになったから。いずれにしても、人間は自分にとって「好い」ことしかやらないし、そもそもやれない。
道徳とは、世の中にとって有利なこと(好いこと)とその人にとって有利なこと(好いこと)がうまく折り合うためにつくられた制度である。であるならば、道徳的に行動した方が自分にとって有利になる場合と、そうでない場合とを、するどく識別する能力を持つことこそが、自分にとってもっとも有利ということになるはず。でも、親は子どもをそんな風に育てようとはしない。そんな風にするどく識別するなんてことはかなり面倒なことであり、それくらいなら、いっそのこといつでも道徳的に正しく行動したいと思うような心性をつくる方が簡単だし、結果的にはその子の幸福にも貢献しがちだから・・・なのではなく、子どもがそういう人になることは親にとって不利だから。たいていの親は利己的で愛情深くないので、子どもを道徳的な人(親自身を含めた世の中にとって都合のよい人)へと育てる。
人間は道徳的でないからこそ、日々、道徳的言説を吐く。
倫理学は教義学であり、いうなればイデオロギーである。イデオロギーとは、実はある何かを正当化するためにできている説明体系のことである。イデオロギーは「なぜ悪いことをしてはいけないのか」といった問題そのものを認めない。それは根本前提であるから。
ニーチェは道徳主義的な概念体系にすがらざるをえないほどの弱者であり、そんな人間はほんとうはあまりいない。人間はみんな実は彼ほど弱くない。
問いが世の中で意味のある問いとして認められるかどうかは、問いの価値とは関係ない。
哲学をすることは祈ることに似ている。神の存在を信じていようといまいと、祈らざるをえないときには祈らざるをえない。同じように、哲学せざるをえない人は、哲学せざるをえない。だから、その内容が無神論的であろうと、哲学する人は、その行為の中で自分の神の存在を信じるのではないだろうか。
などなど。
テーマは2つ。「なぜぼくは存在するのか」と「なぜ悪いことをしてはいけないのか」である。
この2つの疑問は普遍的な問題なのかもしれないし、そうでないのかもしれないが、いつまでもそこにとどまってもいられないのでどこかの段階でこれらの問いを「了解事項(永遠の棚上げ事項)」にして日常の問題に取り組んでいくのが「大人」なのかもしれない。
きわめて私的で他人と共有できるかどうかもあやしい「私的な問い」を潜水するように追求することが哲学の入口であって、こういった肉感というか切迫感のないまま他人の哲学を勉強して思想の陳列棚を充実させることは哲学とはなんの関係もない、というのが本書の基本的立場である。哲学は役に立たない。役に立つとは何かの価値を前提としてその実現に貢献することだが、哲学にはどんな価値も前提としないことが許される唯一の営みである、ということに哲学の意義めいたものがある。哲学は尽きせぬ遊びのようにも思われる。
・・・2016年10月31日再読・・・
曰く・・・
子どものときに抱く素朴な疑問の数々を、自分自身がほんとうに納得がいくまで、決して手放さないこと。それによって「哲学」をはじめることができる。
ある人がどんな心理的事実をもったとしても、それを他人の心理状態を直接感じたこととは認めない、ということが「他人」という概念の中核を形成している。事実の問題ではなく、定義の問題である。
子どもの哲学につながらない「哲学」は、もはや哲学ではなく、思想(すでに考えられてしまったもの)の陳列棚にすぎない。すべての哲学者が思想家であるかのように見えるのは、人間が生き続け、考え続けることができない存在だからにすぎない。ある時点で切断された思考は思想に、哲学することと無縁な人の鑑賞物に変わる。生前から思想家であったような哲学者などいない。
思想を持てば、思考の力はその分おとろえる。ものを考え続けるためには、すでに考えられてしまったこと(思想)をそのつど打ち捨てて行かねばならない。自分に代わってそれをやってくれる人だけが、つまり有効な批判をしてくれる人だけが哲学上の友人(協力者)である。
哲学とはまったく利己的なものだが、幸いにしてその利は、だれも他に欲しがる人がいない自分だけの利であるため、あたかも公正な態度のように見える。だから、哲学の場合、友人と論敵はぴったり一致する。同じ問いを共有し、協力してそれを徹底的に解明し尽くしたいと思う友人としか、敵対することはできない。
思想は公表されなければ意味がないが、哲学は違う。
殺人者は、道徳的根拠を凌駕するような強い動機をもっていたのだろう。道徳は殺人を押しとどめることができなかった。道徳は考慮された上で捨てられた。それなのにその行為が道徳的に(つまり道徳という観点から)非難されるなんてことがどうしてできるのだろうか。道徳とそれ以外の欲求のうちそれ以外の欲求を選んだ人をなぜ道徳が裁くことができるのだろう。道徳的に悪いことは、たいてい道徳の存在を考慮に入れてなされるのだから、道徳的非難なるものはいつももうすでに無効になったものとしてしか登場しない。いったん考慮に入れてもらっただけでもありがたく思えばいいものを、道徳は図々しくも、単に考慮に入れるだけでなく必ず自分を選べとさえ要求する。結局のところ、道徳にできることは、それが存在しない場合の不道徳さを否定することだけではないのか。道徳が存在している場合の不道徳さには、もうほんとうは打つ手がないのではないか。
私にとっては好いことなんだけど、悪いことだからやらない、というのは、悪いと思うことによって、そのことが私にとって嫌なことになったから。私にとっては嫌なことなんだけど、善いことだからやる、というのは、善いと思うことによって、そのことが私にとって好いことになったから。いずれにしても、人間は自分にとって「好い」ことしかやらないし、そもそもやれない。
道徳とは、世の中にとって有利なこと(好いこと)とその人にとって有利なこと(好いこと)がうまく折り合うためにつくられた制度である。であるならば、道徳的に行動した方が自分にとって有利になる場合と、そうでない場合とを、するどく識別する能力を持つことこそが、自分にとってもっとも有利ということになるはず。でも、親は子どもをそんな風に育てようとはしない。そんな風にするどく識別するなんてことはかなり面倒なことであり、それくらいなら、いっそのこといつでも道徳的に正しく行動したいと思うような心性をつくる方が簡単だし、結果的にはその子の幸福にも貢献しがちだから・・・なのではなく、子どもがそういう人になることは親にとって不利だから。たいていの親は利己的で愛情深くないので、子どもを道徳的な人(親自身を含めた世の中にとって都合のよい人)へと育てる。
人間は道徳的でないからこそ、日々、道徳的言説を吐く。
倫理学は教義学であり、いうなればイデオロギーである。イデオロギーとは、実はある何かを正当化するためにできている説明体系のことである。イデオロギーは「なぜ悪いことをしてはいけないのか」といった問題そのものを認めない。それは根本前提であるから。
ニーチェは道徳主義的な概念体系にすがらざるをえないほどの弱者であり、そんな人間はほんとうはあまりいない。人間はみんな実は彼ほど弱くない。
問いが世の中で意味のある問いとして認められるかどうかは、問いの価値とは関係ない。
哲学をすることは祈ることに似ている。神の存在を信じていようといまいと、祈らざるをえないときには祈らざるをえない。同じように、哲学せざるをえない人は、哲学せざるをえない。だから、その内容が無神論的であろうと、哲学する人は、その行為の中で自分の神の存在を信じるのではないだろうか。
などなど。
2018年12月10日に日本でレビュー済み
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ある問題を解決する努力ではなく、なぜそれを謎と思ったかということの追求が著者に求められることじゃないの? っていうのが第一感
AからDまでの人の中で、なぜ自分がAなのかって疑問は、自分がAであるという生の体験と、4人が等しく意識というものを持つという抽象的な視点からの感想を無造作に混同している。なんか、永井氏の著作はいつもこの無造作が付きまとっていて、まっすぐに読みづらい。たとえて言うなら、一人称と三人称が混在しているような感じ
たとえばだが、自分は徳川家康の子孫であるかどうか、という疑問は解決する価値はない。私は著者の主張に、その程度の根拠のなさを感じる。その問いは、輪廻思想が正しければ問う価値がある。それと同じような、元の部分の無根拠を感じてしまう
例えば意識という言葉は、自分の生の体験総体をさす一方で、他人が物体とは違う動きをする根拠を何となく指すものとしても使うが、両者は意味が同じようで抽象度が違う。著者はいつも不注意というか、むしろそこに形而上学を組み立ててしまうところがあり、哲学としてどうなのかなあと感じてしまう
なぜ自分は(体験として)特別な存在であるのかという疑問は、なぜそれを疑問に感じてしまうのかということを、一足飛びに哲学に行ってしまうのではなく、もっと深く自分の幼少期を掘り起こす方向に行くことが正しいんじゃないかなあ
私の方の感覚がおかしいかも、という可能性はもちろん自分の方も問う必要があるけど
AからDまでの人の中で、なぜ自分がAなのかって疑問は、自分がAであるという生の体験と、4人が等しく意識というものを持つという抽象的な視点からの感想を無造作に混同している。なんか、永井氏の著作はいつもこの無造作が付きまとっていて、まっすぐに読みづらい。たとえて言うなら、一人称と三人称が混在しているような感じ
たとえばだが、自分は徳川家康の子孫であるかどうか、という疑問は解決する価値はない。私は著者の主張に、その程度の根拠のなさを感じる。その問いは、輪廻思想が正しければ問う価値がある。それと同じような、元の部分の無根拠を感じてしまう
例えば意識という言葉は、自分の生の体験総体をさす一方で、他人が物体とは違う動きをする根拠を何となく指すものとしても使うが、両者は意味が同じようで抽象度が違う。著者はいつも不注意というか、むしろそこに形而上学を組み立ててしまうところがあり、哲学としてどうなのかなあと感じてしまう
なぜ自分は(体験として)特別な存在であるのかという疑問は、なぜそれを疑問に感じてしまうのかということを、一足飛びに哲学に行ってしまうのではなく、もっと深く自分の幼少期を掘り起こす方向に行くことが正しいんじゃないかなあ
私の方の感覚がおかしいかも、という可能性はもちろん自分の方も問う必要があるけど
他の国からのトップレビュー
Shinya Uehara
5つ星のうち5.0
Five Stars
2015年2月28日にアメリカ合衆国でレビュー済みAmazonで購入
Very intriguing content. Title is a bit tricky and makes me think different about child's perspective