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神の証明: なぜ宗教は成り立つか (講談社現代新書 1392) 新書 – 1998/2/1
落合 仁司
(著)
- 本の長さ184ページ
- 言語日本語
- 出版社講談社
- 発売日1998/2/1
- ISBN-104061493922
- ISBN-13978-4061493926
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商品の説明
著者について
1953年、東京生まれ。1977年、東京大学卒業。82年、東京大学大学院単位取得退学。同志社大学助教授を経て、91年より同志社大学教授。専攻は宗教学、数理神学、東方キリスト教学。主な著書は『地中海の無限者』『トマス・アクィナスの言語ゲーム』『保守主義の社会理論』──いずれも頸草書房──。
登録情報
- 出版社 : 講談社 (1998/2/1)
- 発売日 : 1998/2/1
- 言語 : 日本語
- 新書 : 184ページ
- ISBN-10 : 4061493922
- ISBN-13 : 978-4061493926
- Amazon 売れ筋ランキング: - 770,346位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- カスタマーレビュー:
著者について
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2024年2月3日に日本でレビュー済み
数学でギリシャ正教の神秘主義を説明しようとする中盤以降の試みには付いて行けないが、それ以外は端的にギリシャ正教(東方教会)とカトリックやプロテスタント(西方教会)の違い、ギリシャ正教会の美点が歯に衣着せず書かれていて、良い意味でショッキングであると同時に忘れ難い著書!
2006年1月30日に日本でレビュー済み
我等が同志社大学の神学部教授、落合先生の著書です。在学中に買って実家で眠っていましたが、卒業後時間が経ってから読み直すと聖書の授業を受けていたころには感じることの出来なかった感覚に触れることができました。神とはどのような存在なのか、感覚的にしかなかなか表現し得ない世界を数学的に置き換えて表現しているところからも実感がわきあがってくる内容でした。
2019年9月9日に日本でレビュー済み
「神の証明」の或る試みだと思います。前半にあたる部分、つまり集合論による証明の前の章までは興味深く拝読しましたが、その昔小学校で習った集合の記号が出てきて、勿論そんな算数より何倍も高度な理論により神の証明なるものが延々と展開されるに及んでギブアップ。私の頭脳ではとてもついていけませんでした。なぜ神を証明しようとするのか、そこも理解できません。信仰とは個人的な(あくまで感覚・感情な)体験であると考える向きには、本書の証明は壮大な試みかもしれませんが、不要と思った次第です。
2009年6月28日に日本でレビュー済み
一言で感想を言えば、
『証明と名づけるのもおこがましいほどの抜けの多い議論の連続』
である。
私の批判する要点は下記6点:
1.神を無限の存在である、と証明もなしに規定している。まず無限集合のうんぬんを証明するまえに、神が有限か無限かの証明を端折ってはいけない。(神学界では常識となっていることかもしれないが、少なくとも本書の読者にその要点と筆者の立脚点を提示すべきである。)
2.無限集合論がたとえ正しいとしても神が存在している事の証明にはならない。(つまり、無限をもつなにかの存在が証明されたに過ぎない。)
3.無限の存在ばかり議論していて、次元性(4次元、5次元)の存在に関して触れられていない。つまり、神は無限であるかもしれないが、また次元も超越(つまり3次元の存在でない)している、と考えられるからである。
4.たとえその存在が認められるにしてもそれが宇宙・世界を造った、統御している、ということは証明されていない。(これも上記1.同様の意見提示に欠落がある。)
5.神という存在に帰せられている種々の性質(無謬性、性善的)と無限の存在性との関連が議論されていない。
6.ギリシャ哲学からずっと近代ドイツ哲学まで系譜として続いている『存在』をテーマとした哲学の成果に全く触れていない。(筆者にその方面の知識がないのでは、と邪推されかねない。すくなくとも参考文献にはまともな哲学書の名前が載っていない!)
そして、やるせないのは、さんざんカントールの集合論で無限の存在の証明に関して議論して、神の存在が論理的に正しいと結論づけたにも拘わらず、その舌のかわかないうちに、P.152でゲーテルのその集合論の論理展開を否定(すくなくとも公理系のどこかに論理的欠陥が存在することを証明した)することになっている。
その上、最後のページ(P.173)で宗教は論理的には説明できない信仰するしかない、と断定しているのを見ても明らかなように、タイトルとは裏腹になにも証明したことになっていない、ように私には思われる。
『証明と名づけるのもおこがましいほどの抜けの多い議論の連続』
である。
私の批判する要点は下記6点:
1.神を無限の存在である、と証明もなしに規定している。まず無限集合のうんぬんを証明するまえに、神が有限か無限かの証明を端折ってはいけない。(神学界では常識となっていることかもしれないが、少なくとも本書の読者にその要点と筆者の立脚点を提示すべきである。)
2.無限集合論がたとえ正しいとしても神が存在している事の証明にはならない。(つまり、無限をもつなにかの存在が証明されたに過ぎない。)
3.無限の存在ばかり議論していて、次元性(4次元、5次元)の存在に関して触れられていない。つまり、神は無限であるかもしれないが、また次元も超越(つまり3次元の存在でない)している、と考えられるからである。
4.たとえその存在が認められるにしてもそれが宇宙・世界を造った、統御している、ということは証明されていない。(これも上記1.同様の意見提示に欠落がある。)
5.神という存在に帰せられている種々の性質(無謬性、性善的)と無限の存在性との関連が議論されていない。
6.ギリシャ哲学からずっと近代ドイツ哲学まで系譜として続いている『存在』をテーマとした哲学の成果に全く触れていない。(筆者にその方面の知識がないのでは、と邪推されかねない。すくなくとも参考文献にはまともな哲学書の名前が載っていない!)
そして、やるせないのは、さんざんカントールの集合論で無限の存在の証明に関して議論して、神の存在が論理的に正しいと結論づけたにも拘わらず、その舌のかわかないうちに、P.152でゲーテルのその集合論の論理展開を否定(すくなくとも公理系のどこかに論理的欠陥が存在することを証明した)することになっている。
その上、最後のページ(P.173)で宗教は論理的には説明できない信仰するしかない、と断定しているのを見ても明らかなように、タイトルとは裏腹になにも証明したことになっていない、ように私には思われる。
2011年2月9日に日本でレビュー済み
古代ギリシャの哲学者・プラトンは、数学や幾何学を知らない奴は俺の弟子にはしてやらないよ、という旨のことを言ったらしいが、私もその通りだと思う。哲学を学ばんとする者は、すべからく数学を併せ学ぶべし、と。浅田彰や宮台真司といったポップな学者先生たちも同じことを言っている。
しかし、である。生半可に知り得た数学の知識で以ってして、同じく生半可に知り得たキリスト教神学を読み取らんとするこの「神の証明」という試みは、はたして、いかがなものであろうか。それはあまりに無謀というものであろう。愚の骨頂、である。素人の私でもそう考える。しかし、この本の著者・落合氏は、才頴でありながらも、その愚とやらを、もののみごとに犯してしまったのである。これはひどい。落合氏はそもそも経済学を専門としており、すなわち彼は社会科学系の人間であり、『保守主義の社会理論――ハイエク・ハート・オースティン』という名著を、過去に、しかも勁草書店などというお堅いところから上板し、それを世に問い、経済を齧っているのだからもちろん多少は数学の知識があったのかもしれないが、やはり所詮、彼は文系の人間であり、数学などはあまり表に出さない方がいいに決まっているのであるが、どこでどう釦の掛け違えがあったかは知らないが、生齧りな数学と、やはり専門外の神学、それもギリシア正教というきわめてアクの強い代物とを結び付けようとして、予想通りといえば予想通りだが、たいへんおかしなかたちで、とち狂うた論考を展開してしまったのである。お気の毒さま。否、身から出た錆か。
哲学、思想を論ずる際、自分の論説の拙さを糊塗するためか、それともただたんに箔をつけたいためか、無闇矢鱈に科学用語を援用する人たちが少なからず、いるにはいる。そういった人たちの目論見は、もう、すでにアラン・ソーカルらによって看破、論破されている。そのことは周知のことである。なのに何ゆえそんな無茶なチャレンジ、ジャンプをしてしまったのだろうか。生兵法は怪我のもとである。
斎藤哲也篇『使える新書』という本の中で、宮崎哲弥が篇著者・斎藤氏と対談をしているのだが、そこで渡辺恒夫という人の書いた『輪廻転生を考える』という新書本を挙げ、それとともにこの落合仁司『「神」の証明』を「トンデモ本」として断じていた。私も宮崎氏のその見解に同意である。そう、これは愚書なのである。
ついでだから書く。内田樹という人もひどい。彼は、フランスの精神分析学者・ジャック・ラカンの講読にあたり、難しい数式などが出てきても自分にはそれらがなんのことだかわからないから、そこらへんはすっ飛ばして読み進めた、とのことである。
数理神学。新しいね。でも君子危うきに近寄らず、である。
しかし、である。生半可に知り得た数学の知識で以ってして、同じく生半可に知り得たキリスト教神学を読み取らんとするこの「神の証明」という試みは、はたして、いかがなものであろうか。それはあまりに無謀というものであろう。愚の骨頂、である。素人の私でもそう考える。しかし、この本の著者・落合氏は、才頴でありながらも、その愚とやらを、もののみごとに犯してしまったのである。これはひどい。落合氏はそもそも経済学を専門としており、すなわち彼は社会科学系の人間であり、『保守主義の社会理論――ハイエク・ハート・オースティン』という名著を、過去に、しかも勁草書店などというお堅いところから上板し、それを世に問い、経済を齧っているのだからもちろん多少は数学の知識があったのかもしれないが、やはり所詮、彼は文系の人間であり、数学などはあまり表に出さない方がいいに決まっているのであるが、どこでどう釦の掛け違えがあったかは知らないが、生齧りな数学と、やはり専門外の神学、それもギリシア正教というきわめてアクの強い代物とを結び付けようとして、予想通りといえば予想通りだが、たいへんおかしなかたちで、とち狂うた論考を展開してしまったのである。お気の毒さま。否、身から出た錆か。
哲学、思想を論ずる際、自分の論説の拙さを糊塗するためか、それともただたんに箔をつけたいためか、無闇矢鱈に科学用語を援用する人たちが少なからず、いるにはいる。そういった人たちの目論見は、もう、すでにアラン・ソーカルらによって看破、論破されている。そのことは周知のことである。なのに何ゆえそんな無茶なチャレンジ、ジャンプをしてしまったのだろうか。生兵法は怪我のもとである。
斎藤哲也篇『使える新書』という本の中で、宮崎哲弥が篇著者・斎藤氏と対談をしているのだが、そこで渡辺恒夫という人の書いた『輪廻転生を考える』という新書本を挙げ、それとともにこの落合仁司『「神」の証明』を「トンデモ本」として断じていた。私も宮崎氏のその見解に同意である。そう、これは愚書なのである。
ついでだから書く。内田樹という人もひどい。彼は、フランスの精神分析学者・ジャック・ラカンの講読にあたり、難しい数式などが出てきても自分にはそれらがなんのことだかわからないから、そこらへんはすっ飛ばして読み進めた、とのことである。
数理神学。新しいね。でも君子危うきに近寄らず、である。
2006年5月11日に日本でレビュー済み
本書は、教養書であるはずの講談社現代新書ではありますが、学ぶ態度ではなく、娯楽として読むべき本。論理に飛躍が多く、厳密性もない。また、数学に関する記述では、致命的な誤解が多数あり、本書を読んだ読者も誤った理解をすることになるのかと思うとアタマがいたい。ゲーデルについては、著者は論文を読んでないか、理解していないかのいずれか。