著者は、国文法(橋本文法、学校文法)を批判し、自身が正しいと考える文法学説を開陳している。
国文法は、明治生まれの橋本進吉博士の文法学説を基にしている。橋本博士は偉大な言語学者ではあるが、その文法学説は国文法黎明期の学説であり、欠陥が多い。従って、国文法も欠陥が多い。著者が指摘する通りである。しかし、国文法を批判することに意味があるのだろうか。真に批判すべきは、行政の怠慢であろう。
国文法教育は、最新の文法学説を基にすべきと考える。
また、著者の文法に関する説明は冗長でわかりにくい。例えば「だろう」、「ようだ」及び「らしい」の説明に2頁を割いている。「だろう」は、話し手の心的態度を明示し、「らしい」は、他からの情報による推測、「ようだ」は、外界の在り方や他からの情報による推測である。と説明すれば数行で済む。著者は、「らしい」が、外界の在り方による推測には使えない事を強調している。しかし、20頁も必要ではないと考える。
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まちがいだらけの日本語文法 (講談社現代新書) 新書 – 2002/7/18
町田 健
(著)
あなたの日本語は正しいか
「らしい」と「ようだ」はどう使い分けるべきか。
正しい文法が日本語技術を向上させる。
文法はなぜ必要なのか――私たちは日本語の文法を知ることで、日本語という言語で正しく使える文とは一体どんなしくみをもっていなければならないのかを、改めて確認することができます。そして、日本語の文がもつしくみを確認できれば、日本語で言われたり書かれたりした文が、どんな意味を表しているのかを誤解なく理解することができるようになります。さらには、こちらのほうが大切なのですが、自分で日本語を言ったり書いたりする時に、自分が他の人に伝えたいと思っている意味を、できるだけ正確に表現できる「達意」の文を作ることができるようになるという利点もあります。――(本書より)
「らしい」と「ようだ」はどう使い分けるべきか。
正しい文法が日本語技術を向上させる。
文法はなぜ必要なのか――私たちは日本語の文法を知ることで、日本語という言語で正しく使える文とは一体どんなしくみをもっていなければならないのかを、改めて確認することができます。そして、日本語の文がもつしくみを確認できれば、日本語で言われたり書かれたりした文が、どんな意味を表しているのかを誤解なく理解することができるようになります。さらには、こちらのほうが大切なのですが、自分で日本語を言ったり書いたりする時に、自分が他の人に伝えたいと思っている意味を、できるだけ正確に表現できる「達意」の文を作ることができるようになるという利点もあります。――(本書より)
- ISBN-104061496182
- ISBN-13978-4061496187
- 出版社講談社
- 発売日2002/7/18
- 言語日本語
- 寸法10.5 x 1.2 x 17.5 cm
- 本の長さ272ページ
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商品の説明
著者について
■町田健(まちだけん)
1957年福岡県生まれ。東京大学大学院人文科学研究科博士課程単位取得。東京大学助手、北海道大学助教授などを経て、現在は名古屋大学教授。専門は言語学。著書に『言語学が好きになる本』『日本語のしくみがわかる本』――いずれも研究社出版、『日本語の時制とアスペクト』――アルク、『言語学』(共著)――東京大学出版会――など。
1957年福岡県生まれ。東京大学大学院人文科学研究科博士課程単位取得。東京大学助手、北海道大学助教授などを経て、現在は名古屋大学教授。専門は言語学。著書に『言語学が好きになる本』『日本語のしくみがわかる本』――いずれも研究社出版、『日本語の時制とアスペクト』――アルク、『言語学』(共著)――東京大学出版会――など。
登録情報
- 出版社 : 講談社 (2002/7/18)
- 発売日 : 2002/7/18
- 言語 : 日本語
- 新書 : 272ページ
- ISBN-10 : 4061496182
- ISBN-13 : 978-4061496187
- 寸法 : 10.5 x 1.2 x 17.5 cm
- Amazon 売れ筋ランキング: - 760,175位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- カスタマーレビュー:
著者について
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2016年3月23日に日本でレビュー済み
笑えない笑い話がある。ある女子中学生は英語が得意と自慢していたが、実際にネイティブスピーカーにその可能性を尋ねたら、全くお話しにならないレベルだったという。
このところ盛んな早期英語教育論ではあるが、その中身をみてみればお寒い内容でしかない。そこに踊る言葉の数々が抽象的なイメージだけであり、英語そのものが手段であるとの前提を見落とし、否、意図的に隠そうともする。
こうした少々意地悪な目線で見れば、本書の内容は真っ当でもある。実際、学生達に高校までの授業で一番退屈で役に立たないと感じていた科目を尋ねてみれば、その殆どがいわゆる「暗記科目」と呼ばれる教科目であることも容易に判る。その中の象徴的存在が「文法」である。
「文法」といえば、何か型にはまったものや規則といった堅苦しさや仰々しいとのイメージを伴うが、実際には文章を理解するためのツールであり約束事でもある。それがあればより的確な形で文意を読み取る事ができるためのアイテムといった方が適切でもあり、そうした約束事は最低限のものがあれば済む。
だが実際の学校現場ではどの様に扱われているかをみれば、それが上記の目的からはかけ離れているとの事実も確かであり、著者はそこに焦点をあてて、「学校文法」とそれに対する宗教的とも思えるほどの思い込みの高さが介在する点を問題視する。
「自立語と付属語」「品詞」「文節」といった「語と文」の関係に始まり 、文の構造と文の性質、こうした膨大で形式的な文法論を教え込まれれば、誰だって嫌にもなってしまい、それが「文法嫌い」を大量に生んでもいく。しかもそれを「記憶させる」ことで果たして本当に文章の読解能力を支援するためのツールと説明しうるのか。
こうした著者が読者に提示する数々の疑問に正面から応えることのできる現場教員は恐らくはいまい。そうした疑問に応えてしまえば、逆に「学校文法」なるものが持つ矛盾と限界を自ら証明することになってもしまうからである。
とはいえ著者もそうした「学校文法」が「文法論」のごくごく一部にしかすぎない点は著者も理解しているところであり、それが本書のデメリットとでもある。例えば日本語の文法と英文法を単純な形で比較し、英語ならばこの様な表現などしないと断定する点には疑問の余地が多分にある。
英語の関係詞に相当する品詞は確かに日本語にはないが、文章レベルで説明すればそれはさした問題でもないことも判る。関係詞が導く節は先行詞を具体的に説明する修飾辞であるとの説明に立つならば、それを一つの品詞として独立した扱いにする必然性は殊更に見当たらない。
むしろそうした外国語の性質を逆手に取る形で自然な日本語に訳すための手法が日本語にも用意されていて、それが「意訳」の形と意味に相当しもする。「直訳」がガチガチの学校文法に基づく文章理解のスタイルであるとするならば、著者の提起する「文法のあり方」はより実践的な文章理解のための作法と呼ぶことも可能になる。
この点が本書の詰めの甘い部分でもあり、著者の優しさが顔を覗かせてしまう部分でもある。こうした点から、是非とも本書を一読してほしい読者対象を敢えて限定するならば、それは小中高の学校教員それも公立学校で実際の現場に立つ教員達であり、指導要領などはあくまでもガイドラインの一つに過ぎないとの本来の意味を再確認して戴きたいことを願うばかりである。
このところ盛んな早期英語教育論ではあるが、その中身をみてみればお寒い内容でしかない。そこに踊る言葉の数々が抽象的なイメージだけであり、英語そのものが手段であるとの前提を見落とし、否、意図的に隠そうともする。
こうした少々意地悪な目線で見れば、本書の内容は真っ当でもある。実際、学生達に高校までの授業で一番退屈で役に立たないと感じていた科目を尋ねてみれば、その殆どがいわゆる「暗記科目」と呼ばれる教科目であることも容易に判る。その中の象徴的存在が「文法」である。
「文法」といえば、何か型にはまったものや規則といった堅苦しさや仰々しいとのイメージを伴うが、実際には文章を理解するためのツールであり約束事でもある。それがあればより的確な形で文意を読み取る事ができるためのアイテムといった方が適切でもあり、そうした約束事は最低限のものがあれば済む。
だが実際の学校現場ではどの様に扱われているかをみれば、それが上記の目的からはかけ離れているとの事実も確かであり、著者はそこに焦点をあてて、「学校文法」とそれに対する宗教的とも思えるほどの思い込みの高さが介在する点を問題視する。
「自立語と付属語」「品詞」「文節」といった「語と文」の関係に始まり 、文の構造と文の性質、こうした膨大で形式的な文法論を教え込まれれば、誰だって嫌にもなってしまい、それが「文法嫌い」を大量に生んでもいく。しかもそれを「記憶させる」ことで果たして本当に文章の読解能力を支援するためのツールと説明しうるのか。
こうした著者が読者に提示する数々の疑問に正面から応えることのできる現場教員は恐らくはいまい。そうした疑問に応えてしまえば、逆に「学校文法」なるものが持つ矛盾と限界を自ら証明することになってもしまうからである。
とはいえ著者もそうした「学校文法」が「文法論」のごくごく一部にしかすぎない点は著者も理解しているところであり、それが本書のデメリットとでもある。例えば日本語の文法と英文法を単純な形で比較し、英語ならばこの様な表現などしないと断定する点には疑問の余地が多分にある。
英語の関係詞に相当する品詞は確かに日本語にはないが、文章レベルで説明すればそれはさした問題でもないことも判る。関係詞が導く節は先行詞を具体的に説明する修飾辞であるとの説明に立つならば、それを一つの品詞として独立した扱いにする必然性は殊更に見当たらない。
むしろそうした外国語の性質を逆手に取る形で自然な日本語に訳すための手法が日本語にも用意されていて、それが「意訳」の形と意味に相当しもする。「直訳」がガチガチの学校文法に基づく文章理解のスタイルであるとするならば、著者の提起する「文法のあり方」はより実践的な文章理解のための作法と呼ぶことも可能になる。
この点が本書の詰めの甘い部分でもあり、著者の優しさが顔を覗かせてしまう部分でもある。こうした点から、是非とも本書を一読してほしい読者対象を敢えて限定するならば、それは小中高の学校教員それも公立学校で実際の現場に立つ教員達であり、指導要領などはあくまでもガイドラインの一つに過ぎないとの本来の意味を再確認して戴きたいことを願うばかりである。
2005年6月8日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
日本語には極めて劣悪な文法的な説明(説明にならない説明)が横行していると言うのは、言わずもがなですが、ではインド=ヨーロッパ語族以外の言語の分析に有効な方法論とはいかなるものかという問いには何も答えを出していない本だと思いました。既存の文法の揚げ足取りをする各論が延々と続くのですが、それだけではシステムにはなりません。著者は平易な語りを心がけたのでしょうが、問題点をはっきりさせていないこともあり、冗長でありながら、議論がまるでし尽くされていない印象を受けました。
特にソシュールの理論を説明する箇所は著者の誤解なのか、言葉が足りないだけなのか、大いに疑って読んだほうがいいと思います。言われていることだけ読めば「言語とは内部の差異だけが作り出す自立的な構造である」と言うような通俗的な構造主義のお題目以上のことはわかりませんし、いい加減に紹介された「ソシュール」の名で切り捨てられている往年の国語学者に少し同情してしまいます(たとえ彼らが悪文法の根源であるとしても)。
またソシュール以前の言語学を通時的な変化だけを問題にする比較言語学であるとしてあまりに大雑把に切り捨てていますが、西欧の言語学の歴史がそんな単純な枠組みに還元できるものではないことは言うまでもありません(プラトン、アリストテレス、ストア派から17世紀フランスのポール・ロワイヤル文法、コンディヤック、J.-J. ルソーまで19世紀の言語学とはまた別の言語へのアプローチは20世紀以降の言語学を生み出した土壌でもあり、また別の思考の可能性も示していると理解しています)。
ネット通販ではなく、書店で直接手にとって少し立ち読みした後だったら、絶対に買わなかっただろうと後悔しています。その中途半端さゆえ、初心者にも、専門家にもお勧めできない本です。
特にソシュールの理論を説明する箇所は著者の誤解なのか、言葉が足りないだけなのか、大いに疑って読んだほうがいいと思います。言われていることだけ読めば「言語とは内部の差異だけが作り出す自立的な構造である」と言うような通俗的な構造主義のお題目以上のことはわかりませんし、いい加減に紹介された「ソシュール」の名で切り捨てられている往年の国語学者に少し同情してしまいます(たとえ彼らが悪文法の根源であるとしても)。
またソシュール以前の言語学を通時的な変化だけを問題にする比較言語学であるとしてあまりに大雑把に切り捨てていますが、西欧の言語学の歴史がそんな単純な枠組みに還元できるものではないことは言うまでもありません(プラトン、アリストテレス、ストア派から17世紀フランスのポール・ロワイヤル文法、コンディヤック、J.-J. ルソーまで19世紀の言語学とはまた別の言語へのアプローチは20世紀以降の言語学を生み出した土壌でもあり、また別の思考の可能性も示していると理解しています)。
ネット通販ではなく、書店で直接手にとって少し立ち読みした後だったら、絶対に買わなかっただろうと後悔しています。その中途半端さゆえ、初心者にも、専門家にもお勧めできない本です。
2019年1月24日に日本でレビュー済み
先ず、ソシュール大好きな町田先生は、ソシュールを完全に否定した時枝氏を悪意の曲解の下で、何も知らない読者を前に攻撃している。
時枝誠記の「言語過程説」は、以下の本で発展的に紹介されている。
これこそ、「西洋語の文法」に幻惑されていない、日本語本来の性質を分析した成果である。
江戸時代の本居宣長からの古事記研究など言語研究の流れを高く評価するものである。
三浦つとむ著「日本語とはどういう言語か」講談社学術文庫43
一切の語を、語形や機能などでなく、「対象⇒認識⇒表現」という過程において調べてみると、次のように2つの種類に分けられる。
1.客体的表現
2.主体的表現
だから、P266で、町田先生が曲解しているが、例文「太郎が花子に会っ た」は、
客体的表現は「太郎が花子に会っ(事柄、出来事、江戸時代のアイデアからの「詞」)」、
主体的表現は「た(助動詞)」、
とならなければならない。
それを「太郎は花子」で切り出して、それに難癖をつけるのは、理解能力ゼロとしか言えない。
また、森田良行先生は、日本語には、「西洋語の過去現在未来」は存在しないと教える。
助動詞「た」は主観であり、「その出来事を確認した」という意味であると教えている。
日本語の文は、最初に客体的表現があり、その後ろに主体的表現が続くが、「た」が最後に来るのは主体側に含まれるからである。
動詞の説明も間違っている。
「走る」は、動作動詞であり、これは未来だ。
更に、現在を表現するには「走っている」とするが、これの説明が間違っている。
正しくは、日本語は膠着語だから、「走っ+て(接続助詞)+いる」の形にして、
「いる」が状態動詞だから、全体を状態動詞化して、現在を示すことに変えることになる。
全体、部分の説明は間違っている。
「は」の「主語」「主題」の説明もおかしい。
間違ったまま「は」が「主格・主語」か「主題」かをぐちゃぐちゃ議論している。
「は」は副助詞だから「限定」の意味しかない。「主格を表す働き」はない!
「が」だけが「主格」を示す。そして「が」は自明なら省略しても良い。
歴史的には助詞「が」は必要なかったから、後から創り出された。
要は、「は」の前の「が」は削除されるが、なくなっても機能は残っている。
[1-9-1] 「が」と「を」とは、格助詞であり、述部との関係が明確なので省略できます。
誰・が/行く?(普通)私/行く。(強調する場合)私・が/行く。
何・を/食べる?(普通)パン/食べる。(強調する)パン・を/たべる。
[1-9-2] 特に副助詞「は」「も」が出現する場合は、削除しなければなりません。
例文:太郎・が/花子・に/本・を/贈る。
副助詞「は」をつなげて「限定」すると…
太郎・・は/花子・に/本・を/贈る…削除されても「が」の働きは残る
花子・に・は/太郎・が/本・を/贈る
本・・は/太郎・が/花子・に/贈る…削除されても「を」の働きは残る
同様に、
副助詞「も」をつなげて「追加」すると…
太郎・・も/花子・に/本・を/贈る…削除されても「が」の働きは残る
花子・に・も/太郎・が/本・を/贈る
本・・も/太郎・が/花子・に/贈る…削除されても「を」の働きは残る
「は」「も」には、「格を示す働き」はないのです。
あくまでも「主格」は「が」で表現し、「目的格」は「を」です。
ただ省略されていて「表面に見えていない場合」があるだけです。
時枝誠記の「言語過程説」は、以下の本で発展的に紹介されている。
これこそ、「西洋語の文法」に幻惑されていない、日本語本来の性質を分析した成果である。
江戸時代の本居宣長からの古事記研究など言語研究の流れを高く評価するものである。
三浦つとむ著「日本語とはどういう言語か」講談社学術文庫43
一切の語を、語形や機能などでなく、「対象⇒認識⇒表現」という過程において調べてみると、次のように2つの種類に分けられる。
1.客体的表現
2.主体的表現
だから、P266で、町田先生が曲解しているが、例文「太郎が花子に会っ た」は、
客体的表現は「太郎が花子に会っ(事柄、出来事、江戸時代のアイデアからの「詞」)」、
主体的表現は「た(助動詞)」、
とならなければならない。
それを「太郎は花子」で切り出して、それに難癖をつけるのは、理解能力ゼロとしか言えない。
また、森田良行先生は、日本語には、「西洋語の過去現在未来」は存在しないと教える。
助動詞「た」は主観であり、「その出来事を確認した」という意味であると教えている。
日本語の文は、最初に客体的表現があり、その後ろに主体的表現が続くが、「た」が最後に来るのは主体側に含まれるからである。
動詞の説明も間違っている。
「走る」は、動作動詞であり、これは未来だ。
更に、現在を表現するには「走っている」とするが、これの説明が間違っている。
正しくは、日本語は膠着語だから、「走っ+て(接続助詞)+いる」の形にして、
「いる」が状態動詞だから、全体を状態動詞化して、現在を示すことに変えることになる。
全体、部分の説明は間違っている。
「は」の「主語」「主題」の説明もおかしい。
間違ったまま「は」が「主格・主語」か「主題」かをぐちゃぐちゃ議論している。
「は」は副助詞だから「限定」の意味しかない。「主格を表す働き」はない!
「が」だけが「主格」を示す。そして「が」は自明なら省略しても良い。
歴史的には助詞「が」は必要なかったから、後から創り出された。
要は、「は」の前の「が」は削除されるが、なくなっても機能は残っている。
[1-9-1] 「が」と「を」とは、格助詞であり、述部との関係が明確なので省略できます。
誰・が/行く?(普通)私/行く。(強調する場合)私・が/行く。
何・を/食べる?(普通)パン/食べる。(強調する)パン・を/たべる。
[1-9-2] 特に副助詞「は」「も」が出現する場合は、削除しなければなりません。
例文:太郎・が/花子・に/本・を/贈る。
副助詞「は」をつなげて「限定」すると…
太郎・・は/花子・に/本・を/贈る…削除されても「が」の働きは残る
花子・に・は/太郎・が/本・を/贈る
本・・は/太郎・が/花子・に/贈る…削除されても「を」の働きは残る
同様に、
副助詞「も」をつなげて「追加」すると…
太郎・・も/花子・に/本・を/贈る…削除されても「が」の働きは残る
花子・に・も/太郎・が/本・を/贈る
本・・も/太郎・が/花子・に/贈る…削除されても「を」の働きは残る
「は」「も」には、「格を示す働き」はないのです。
あくまでも「主格」は「が」で表現し、「目的格」は「を」です。
ただ省略されていて「表面に見えていない場合」があるだけです。