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「美少女」の現代史 (講談社現代新書) 新書 – 2004/5/20
ササキバラ ゴウ
(著)
宮崎 駿、吾妻ひでおから ときメモ、プランツ・ドールまで なぜ萌えるのか
まんが・アニメに溢れる美少女像はいつ生まれてどう変化したのか? 「萌え」行動の起源とは? 70年代末から今日までの歴史を辿る。
●なぜ宮崎 駿は、あんなに少女ばかりを主人公にしてアニメを作るんだろうか?
●最近よく聞く「萌え」っていう言葉は、結局のところ何なんだ?
●小説はあまり読まないが、村上春樹はなんとなく読んでしまうのは、なぜだろう。
●最近のまんが、アニメや小説では、なぜあんなに「妹」がもてはやされるんだろうか。
●『少女民俗学』を書いた大塚英志も、『制服少女たちの選択』を書いた宮台真司も、なぜあんなに少女のことばかり気にするんだろうか。
——おたく文化を鮮やかに論じる!
まんが・アニメに溢れる美少女像はいつ生まれてどう変化したのか? 「萌え」行動の起源とは? 70年代末から今日までの歴史を辿る。
●なぜ宮崎 駿は、あんなに少女ばかりを主人公にしてアニメを作るんだろうか?
●最近よく聞く「萌え」っていう言葉は、結局のところ何なんだ?
●小説はあまり読まないが、村上春樹はなんとなく読んでしまうのは、なぜだろう。
●最近のまんが、アニメや小説では、なぜあんなに「妹」がもてはやされるんだろうか。
●『少女民俗学』を書いた大塚英志も、『制服少女たちの選択』を書いた宮台真司も、なぜあんなに少女のことばかり気にするんだろうか。
——おたく文化を鮮やかに論じる!
- 本の長さ196ページ
- 言語日本語
- 出版社講談社
- 発売日2004/5/20
- ISBN-104061497189
- ISBN-13978-4061497184
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商品の説明
著者からのコメント
この本は、以下のような疑問を手がかりにして、書き進められました。
■なぜ宮崎駿は、あんなに少女ばかりを主人公にしてアニメを作るんだろうか?
■最近よく聞く「萌え」っていう言葉は、結局のところ何なんだ?
■六本木ヒルズにぶら下がっていた巨大なまんがっぽい絵の現代美術のオブジェって、もしかしてすごく恥ずかしいような気がするんだけど、気のせいだろうか。
■「Z」以降のガンダムは、なんとなく見るのが辛いのはなぜだろう。
■ギャルゲーをプレイしていると、なぜか昔の少女まんがを思い出してしまう。
■吾妻ひでおは、やはり歴史的にきちんと評価されるべきじゃないだろうか。
■小説はあまり読まないが、村上春樹はなんとなく読んでしまうのは、なぜだろう。
■最近のまんがやアニメや小説では、なぜあんなに「妹」がもてはやされるんだろうか。
■等身大フィギュアはともかく、ラブドールはさすがにヤバイような気がするんだが、行ってしまっていいんだろうか。
■「ほしのこえ」を作ったのは男性なのに、なぜ女性の一人称で話が進むんだろうか。
■昔「男おいどん」を読んで泣けたのはなぜだろう。
■「少女民俗学」を書いた大塚英志も、「制服少女たちの選択」を書いた宮台真司も、なぜあんなに少女のことばかり気にするんだろうか。
■実写のセーラームーンの最近のルナは、さすがにやり過ぎじゃないかと思うんだが、とりあえず見てしまっている私がそこにいるのには困ったもんだ。
上記の疑問を2つ以上感じたことのある方には、ぜひ本書のご講読をお勧めします。(ササキバラ・ゴウ)
■なぜ宮崎駿は、あんなに少女ばかりを主人公にしてアニメを作るんだろうか?
■最近よく聞く「萌え」っていう言葉は、結局のところ何なんだ?
■六本木ヒルズにぶら下がっていた巨大なまんがっぽい絵の現代美術のオブジェって、もしかしてすごく恥ずかしいような気がするんだけど、気のせいだろうか。
■「Z」以降のガンダムは、なんとなく見るのが辛いのはなぜだろう。
■ギャルゲーをプレイしていると、なぜか昔の少女まんがを思い出してしまう。
■吾妻ひでおは、やはり歴史的にきちんと評価されるべきじゃないだろうか。
■小説はあまり読まないが、村上春樹はなんとなく読んでしまうのは、なぜだろう。
■最近のまんがやアニメや小説では、なぜあんなに「妹」がもてはやされるんだろうか。
■等身大フィギュアはともかく、ラブドールはさすがにヤバイような気がするんだが、行ってしまっていいんだろうか。
■「ほしのこえ」を作ったのは男性なのに、なぜ女性の一人称で話が進むんだろうか。
■昔「男おいどん」を読んで泣けたのはなぜだろう。
■「少女民俗学」を書いた大塚英志も、「制服少女たちの選択」を書いた宮台真司も、なぜあんなに少女のことばかり気にするんだろうか。
■実写のセーラームーンの最近のルナは、さすがにやり過ぎじゃないかと思うんだが、とりあえず見てしまっている私がそこにいるのには困ったもんだ。
上記の疑問を2つ以上感じたことのある方には、ぜひ本書のご講読をお勧めします。(ササキバラ・ゴウ)
出版社からのコメント
「思想家ササキバラ・ゴウの誕生に立ちあえ」大塚英志
十何年か前、ササキバラ・ゴウが新入社員で徳間書店に入ってきた時、ぼくは彼に2本の原稿を見せた。誰かの原稿が落ちて代原を決めなくてはいけなかったのではなかったか。「君ならどっちを雑誌に載せる?」とぼくは聞いた。彼は無難な方の原稿を恐る恐る選んだが、彼の趣味はもう一本の方にあることがぼくにはわかった。だったら正直に選んだほうがいいよ、と言った。それが永野のりこのデビューのいきさつだ。
あるいは編集者として地道に生きていくようなもう一本の原稿を選ぶ方が正解だったかもしれない。けれど、ぼくはついうっかり、永野のりこの原稿を選ぶ生き方を彼に勧めてしまった。そんな風にぼくと彼は出会った。
それからずっと、ぼくたちはまんがの話しかしなかった。
ササキバラが明らかに変わったのは9・11からで、ぼくが徳間を辞めてからしばらく疎遠だったけれど、また何となく行き来が始まっていた少し後だった。皮肉なことに「9・11」を機にぼくたちの年代の物書きや「おたく」たちは明らかに右傾化していったけれど、ササキバラだけは例外的に「戦後民主主義」や「九条」を選択した。いわば「左傾化」した。
ネットの風向きや「世論」を考えれば物書きは右傾化するか、政治とまったく関係ないところに身を潜めるのがかしこい選択だ。けれど、ササキバラはそれを選択しない。通すべき筋を持たない人間には、そんな選択はできない。
だからササキバラの「左傾化」はそう遠くない将来、それが正しい選択だったことが理解されるはずだ。
講談社現代新書の新刊に関しては、あたかも『「おたく」の精神史』の姉妹編に見えるかもしれないが、本としてはササキバラの本の方が先に準備されていた。ササキバラの本を読者に届けるために少し下地がいる気がしたので、ぼくの本を先行させたのである。だから、ぼくの本で論じられなかったこと、踏み込まなかったことが徹底して論じられている。ササキバラの本が『「おたく」の精神史』の本論だとさえ言える。
あの日、永野のりこでなく、ありふれたまんがの方を選択する編集者になることだってできたササキバラは、しかし、そうではない生き方を選んでとうとうここまで来てしまった。
そして彼はぼくたちの世代の最後尾の、最も遅れてきた思想家としてたった今、その姿を見せた。
繰り返すが、9・11以降のササキバラの選択がいかに我々にとって重要だったのかは、やがて「戦時下」が終結した時にわかる。
思想家ササキバラ・ゴウの誕生にリアルタイムで立ちあえる君たちは幸福なのである。
十何年か前、ササキバラ・ゴウが新入社員で徳間書店に入ってきた時、ぼくは彼に2本の原稿を見せた。誰かの原稿が落ちて代原を決めなくてはいけなかったのではなかったか。「君ならどっちを雑誌に載せる?」とぼくは聞いた。彼は無難な方の原稿を恐る恐る選んだが、彼の趣味はもう一本の方にあることがぼくにはわかった。だったら正直に選んだほうがいいよ、と言った。それが永野のりこのデビューのいきさつだ。
あるいは編集者として地道に生きていくようなもう一本の原稿を選ぶ方が正解だったかもしれない。けれど、ぼくはついうっかり、永野のりこの原稿を選ぶ生き方を彼に勧めてしまった。そんな風にぼくと彼は出会った。
それからずっと、ぼくたちはまんがの話しかしなかった。
ササキバラが明らかに変わったのは9・11からで、ぼくが徳間を辞めてからしばらく疎遠だったけれど、また何となく行き来が始まっていた少し後だった。皮肉なことに「9・11」を機にぼくたちの年代の物書きや「おたく」たちは明らかに右傾化していったけれど、ササキバラだけは例外的に「戦後民主主義」や「九条」を選択した。いわば「左傾化」した。
ネットの風向きや「世論」を考えれば物書きは右傾化するか、政治とまったく関係ないところに身を潜めるのがかしこい選択だ。けれど、ササキバラはそれを選択しない。通すべき筋を持たない人間には、そんな選択はできない。
だからササキバラの「左傾化」はそう遠くない将来、それが正しい選択だったことが理解されるはずだ。
講談社現代新書の新刊に関しては、あたかも『「おたく」の精神史』の姉妹編に見えるかもしれないが、本としてはササキバラの本の方が先に準備されていた。ササキバラの本を読者に届けるために少し下地がいる気がしたので、ぼくの本を先行させたのである。だから、ぼくの本で論じられなかったこと、踏み込まなかったことが徹底して論じられている。ササキバラの本が『「おたく」の精神史』の本論だとさえ言える。
あの日、永野のりこでなく、ありふれたまんがの方を選択する編集者になることだってできたササキバラは、しかし、そうではない生き方を選んでとうとうここまで来てしまった。
そして彼はぼくたちの世代の最後尾の、最も遅れてきた思想家としてたった今、その姿を見せた。
繰り返すが、9・11以降のササキバラの選択がいかに我々にとって重要だったのかは、やがて「戦時下」が終結した時にわかる。
思想家ササキバラ・ゴウの誕生にリアルタイムで立ちあえる君たちは幸福なのである。
登録情報
- 出版社 : 講談社 (2004/5/20)
- 発売日 : 2004/5/20
- 言語 : 日本語
- 新書 : 196ページ
- ISBN-10 : 4061497189
- ISBN-13 : 978-4061497184
- Amazon 売れ筋ランキング: - 240,337位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 287位コミック・アニメ研究
- - 1,036位映画 (本)
- - 1,303位漫画・アニメ・BL(イラスト集・オフィシャルブック)
- カスタマーレビュー:
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2022年5月1日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
読みながら、ドンぴっしゃ!何だったんだ?と、思える本だと個人的に思う!最近の若者と昭和世代のカルチャーの違い、日本の思考の流れの変化を!わかりやすくサブカルチャーからの評論、吉田正高氏が、美少女アイコンは、変わらないって書籍に書かれていたが、受けて側の変化を、分析した内容、確かに、美少女のキャラ変化や、美少女の構成変化を!時系列で書かれている、考えれば、昭和の努力と根性が、架空世界で粉砕され(TT)現代に至るが、現実を見て、あの頃は、パロディーとしての作者が話す言葉の重みは、重いと思う、まるで今の政治や日本の思考までも影響を受けていると思わずにはいられない、表現の不自由論より、根本的、要因は、この一冊に答があるかも、やっと自分なりの思考パターンの警笛の旅も新しい道徳の旅に切り替える勇気になる一冊でした、昭和美少女ギャルアニメ、一部、パロディーだからって、現代なら人権大丈夫なのか!を、歴史的に何でこうなったかの思考論だと思う。
2019年11月15日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
卒論で戦闘美少女について書くことになり、その辺の本を漁っている時に手にした。河野真太郎の『戦う姫、働く少女』を読んだ後だったので、学術的な分析を離れ、精神論を軸にした分析はたいへん読みやすかった。レビューを書くに至ったのは「”傷つきやすい”と認識したから美少女は永遠に傷つかない存在になった」というのがガツンときたからだ。卒論と戦う中、”イケメン”アニメは大してないのになぜ戦闘美少女アニメはいつもあるのか、なんで戦闘美少女アニメにおじさんたちがハートを飛ばしてんだ?と考えはまとまらず、様々な本を読んでも突破口を手にできなかった。しかし「美少女」という概念のルーツにあるカラクリが面白かった、良い切り口を教わった気がする。シンプルにわかりやすくて説明がうめえな、と思った。その道に詳しくないただの女子大生だが、若くても、知識が浅くても、男女問わず読みやすい、というのはこれが「本」として出版されている以上大きな強みだと思う。
2004年6月1日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
青木光恵さんが「子供のころ『吾妻ひでお大全集』を読んで人生が変わった」みたいなことを書いているのを読んで、自分の体験との類似に驚いたことがありましたが、まあ、そういう種類の人が読むと、懐かしさと気恥ずかしさのアンビバレンツを感じずにはいられない本だと思います。
実際、この本は、吾妻ひでおに強くスポットを当てているのが一つの特徴で、たしかに、これまでのおたく史研究に欠けていたものを再発見した感があります(ただ、唐沢さんも書いてましたが、「やけ天」の主人公が「自由奔放に性に生きる美少女」とか書いてあるのはどーかなーと思います(^^))。一方、宮崎駿に関しては、「性的トラウマの反復」という斉藤環さんの身もふたもない分析の方が説得力があるように思いました。
そういう細かい点はさておき、この著者は、マンガ雑誌の編集者として、こういう歴史を現場で体験して来た人だけあって、後から遡っておべんきょーした人と違って、その当時の時代の空気みたいなものをハズしていないのがいいところで、少なくとも、70~80年代の「萌え」の表現史を研究する上では、おさえるべき流れを手堅くおさえている、という感じがします。
ただ、その表現史をセクシュアリティの歴史にまで一般化するためには、マンガやアニメ以外の歴史との対比をもっと行う必要があると思うのです。本書では、「萌え」の歴史を、「明日のために」とか「野球のために」といったわかりやすい価値感が「美少女のために」に置き換えられていく過程として分析しているのですが、実際には、この時代、世の中はバブルに向かって突き進み、「金のために」が主流になっていくわけです。(ないものねだりを承知で言えば) このような世の中の流れは、なぜマンガ表現には反映されなかったか、というところまで分析すれば、本書はより多くの人に訴える普遍性を持てたのではないかと思うのですが、いかがでしょう。
実際、この本は、吾妻ひでおに強くスポットを当てているのが一つの特徴で、たしかに、これまでのおたく史研究に欠けていたものを再発見した感があります(ただ、唐沢さんも書いてましたが、「やけ天」の主人公が「自由奔放に性に生きる美少女」とか書いてあるのはどーかなーと思います(^^))。一方、宮崎駿に関しては、「性的トラウマの反復」という斉藤環さんの身もふたもない分析の方が説得力があるように思いました。
そういう細かい点はさておき、この著者は、マンガ雑誌の編集者として、こういう歴史を現場で体験して来た人だけあって、後から遡っておべんきょーした人と違って、その当時の時代の空気みたいなものをハズしていないのがいいところで、少なくとも、70~80年代の「萌え」の表現史を研究する上では、おさえるべき流れを手堅くおさえている、という感じがします。
ただ、その表現史をセクシュアリティの歴史にまで一般化するためには、マンガやアニメ以外の歴史との対比をもっと行う必要があると思うのです。本書では、「萌え」の歴史を、「明日のために」とか「野球のために」といったわかりやすい価値感が「美少女のために」に置き換えられていく過程として分析しているのですが、実際には、この時代、世の中はバブルに向かって突き進み、「金のために」が主流になっていくわけです。(ないものねだりを承知で言えば) このような世の中の流れは、なぜマンガ表現には反映されなかったか、というところまで分析すれば、本書はより多くの人に訴える普遍性を持てたのではないかと思うのですが、いかがでしょう。
2012年6月29日に日本でレビュー済み
「教養としての〈まんが・アニメ〉」(講談社新書)を読み、面白かったので本書を手にした。
これも面白い、そしてわかり易い。
ただ、わかり易す過ぎて逆に警戒心を抱いてしまうのも確かで、加えて本書の到達点である「倫理」問題への接続はいささか性急過ぎる気がした。ただ、前者はこういうテーマでの一つの歴史化もありだろうと保留しながら見ることで問題ないし、また後者は本書が「倫理」問題への踏み台としてあるならば、納得がいく。次作では到達点である「倫理」への跳躍の軌跡を示してくれるのだろうという期待も広がる。
で、あえて本書に乗っかって現代の小説や他カテゴリーの作品を分析すると、けっこう簡単に出来るから、楽しかったりする。要はこの薄い新書を一つ読んだだけで知ったかぶりが出来るのだ。
たとえば米澤穂信の古典部シリーズ。
『遠回りする雛』では主人公の奉太郎とその友人である里志、それぞれの恋愛観が描かれるが、本書の『カリオストロの城』で示されたルパン的な恋愛観とそれは一致する。
なぜなら、奉太郎、里志両者は想い人である相手の内面を推し量り、自分が本当に相応しいのか(彼女を自分が害してしまうのではないか)を自分ひとりのナルシシズムに似た内面でもって踏み込むのを保留する。
それは後者の里志に顕著で、相手である伊原は明らかに里志に対して好意を示している(殆ど告白している)にも関わらず、上記の理由でイエス、ノーとハッキリしない保留をする。
「お互い好きなら付き合っちゃいなYO!」と一読み手としては単純に思いもするし、その関係性が変化しないと本当のところわからないわけで、厭らしい言い方をすれば、この里志は相手の事を本当に考えているように見せて、その実その相手は「自分を写した鏡」で結局は自分しか見ていないというナルシスティックな鏡像関係の中に生きている。このある意味複雑で単純な手続きを踏んだキャラクターが肯定されるのは、本書の「根拠を書いた男」というタームによってようやく理解出来た。
彼らは『あしたのジョー』のように「あした」を根拠に出来ないし、「君のためなら死ねる」といった「女」にも根拠を持てない。そこでの自分の根拠の模索が内面的な手続きによって示されているのだ。公正を期して言えば、そこには物語や外部からの要請で付き合えないという縛りもあるだろう。
小説でなくても例えばドラマ『時効警察』(2006年)なんかにも適応出来る。
このドラマの主人公霧山は時効を迎えた事件を捜査するのだが、その根拠は「趣味」である。
ここには初めからまがい物でしかないキッチュなものが示される(ピーポ君の紛い物であるそーぶ君など紛い物のアイテムが頻繁に登場する)。
要するに『西部警察』のような暑苦しい男のプライドを根拠にしない、パロディなのだが、興味深いのはヒロインである三日月の扱われ方である。
この三日月は霧山の根拠には一切されないどころか、気にも欠けられない。
しかし、三日月は一方的に霧山を欲望の対称として視線を投げかけ続け、アプローチしては失敗を繰り返す。
その様は「エッチマンガ」の男主人公が担っていた役割であり、ここに来て、それは男女が逆転している。
この逆転はライトノベルにおいては2012年にアニメ化された『這いよれニャル子さん』において顕著に示されている。ニャル子は根拠を持てなくなった男が放棄せざるを得なくなった戦いを担いながら、主人公である男の子真尋に露骨な形で欲望を剥き出しにする。あからさまな男女の転倒がここに示されている。
それは商業的な差異化を作り出すために生まれたと思われるが、この鉱脈はどれほど深いものなのか。
まだこの「美少女」の地図を頼りに掘り進めて良いものか。
それとも、里志や奉太郎のように、内面から根拠を手繰り寄せるのか。
または、全部脇において、マッチョなフリをすればよいのか。
私的には本書からそんな事を考えさせられた。
これも面白い、そしてわかり易い。
ただ、わかり易す過ぎて逆に警戒心を抱いてしまうのも確かで、加えて本書の到達点である「倫理」問題への接続はいささか性急過ぎる気がした。ただ、前者はこういうテーマでの一つの歴史化もありだろうと保留しながら見ることで問題ないし、また後者は本書が「倫理」問題への踏み台としてあるならば、納得がいく。次作では到達点である「倫理」への跳躍の軌跡を示してくれるのだろうという期待も広がる。
で、あえて本書に乗っかって現代の小説や他カテゴリーの作品を分析すると、けっこう簡単に出来るから、楽しかったりする。要はこの薄い新書を一つ読んだだけで知ったかぶりが出来るのだ。
たとえば米澤穂信の古典部シリーズ。
『遠回りする雛』では主人公の奉太郎とその友人である里志、それぞれの恋愛観が描かれるが、本書の『カリオストロの城』で示されたルパン的な恋愛観とそれは一致する。
なぜなら、奉太郎、里志両者は想い人である相手の内面を推し量り、自分が本当に相応しいのか(彼女を自分が害してしまうのではないか)を自分ひとりのナルシシズムに似た内面でもって踏み込むのを保留する。
それは後者の里志に顕著で、相手である伊原は明らかに里志に対して好意を示している(殆ど告白している)にも関わらず、上記の理由でイエス、ノーとハッキリしない保留をする。
「お互い好きなら付き合っちゃいなYO!」と一読み手としては単純に思いもするし、その関係性が変化しないと本当のところわからないわけで、厭らしい言い方をすれば、この里志は相手の事を本当に考えているように見せて、その実その相手は「自分を写した鏡」で結局は自分しか見ていないというナルシスティックな鏡像関係の中に生きている。このある意味複雑で単純な手続きを踏んだキャラクターが肯定されるのは、本書の「根拠を書いた男」というタームによってようやく理解出来た。
彼らは『あしたのジョー』のように「あした」を根拠に出来ないし、「君のためなら死ねる」といった「女」にも根拠を持てない。そこでの自分の根拠の模索が内面的な手続きによって示されているのだ。公正を期して言えば、そこには物語や外部からの要請で付き合えないという縛りもあるだろう。
小説でなくても例えばドラマ『時効警察』(2006年)なんかにも適応出来る。
このドラマの主人公霧山は時効を迎えた事件を捜査するのだが、その根拠は「趣味」である。
ここには初めからまがい物でしかないキッチュなものが示される(ピーポ君の紛い物であるそーぶ君など紛い物のアイテムが頻繁に登場する)。
要するに『西部警察』のような暑苦しい男のプライドを根拠にしない、パロディなのだが、興味深いのはヒロインである三日月の扱われ方である。
この三日月は霧山の根拠には一切されないどころか、気にも欠けられない。
しかし、三日月は一方的に霧山を欲望の対称として視線を投げかけ続け、アプローチしては失敗を繰り返す。
その様は「エッチマンガ」の男主人公が担っていた役割であり、ここに来て、それは男女が逆転している。
この逆転はライトノベルにおいては2012年にアニメ化された『這いよれニャル子さん』において顕著に示されている。ニャル子は根拠を持てなくなった男が放棄せざるを得なくなった戦いを担いながら、主人公である男の子真尋に露骨な形で欲望を剥き出しにする。あからさまな男女の転倒がここに示されている。
それは商業的な差異化を作り出すために生まれたと思われるが、この鉱脈はどれほど深いものなのか。
まだこの「美少女」の地図を頼りに掘り進めて良いものか。
それとも、里志や奉太郎のように、内面から根拠を手繰り寄せるのか。
または、全部脇において、マッチョなフリをすればよいのか。
私的には本書からそんな事を考えさせられた。
2007年4月17日に日本でレビュー済み
1961年生まれの元『少年キャプテン』編集長が、「美少女」(最初から思春期以上の人間を対象に作られ、異性として魅力の感じられる架空のキャラクター)イメージのあり方を手がかりに、主に男性の視点からの萌え(20頁)の歴史を論じた、2004年刊行の本。キャラ萌えの起源は一応1972〜73年頃(アイドルの登場と同時期)に見られ、女性が先行していたが、やがてアニメブームを契機にして1980年前後に男性側にも波及する(ラブコメ・ロリコンブーム。少年サンデー中心)。マニア向け情報メディアの創刊とも相俟って、この頃ジャンルの壁を越えたオタク的空間が成立し、美少女はその融合のシンボルの一つとして普及してゆく。美少女は、追求すべき価値や目標を失った男性に、日常的な恋愛物語の中で存在根拠を与えてくれる、傷つきやすい内面を想定された(エッチ漫画との差異)絶対的・非性的な存在として描かれ、時代の閉塞状況の中で、戯れ経由で本気を追求するパロディと並行して流行した。それらはメカ&美少女アニメ(戦い始める少女と戦いから撤退していく少年のイメージが主流。アイドル・女子高生・ジュニア小説・村上春樹ブームと連動)を経た後、1990年代以降こうした屈折を経ずにベタに表現の一手段として普及する。同時期に美少女フィギュアの発展とあわせて、立体表現への志向が強まり、写実的な性的身体を持った漫画的な顔の内面的な美少女キャラが一般化する(グラビアアイドルと連動)。また女性による美少女表現や、パソコンの普及といった新たな事態も見られ、特にギャルゲーはそのインタラクティブ性ゆえにバーチャルかつ唯我的な(自分の責任は回避=透明化した上で、一方的・暴力的に視線を投げかける)実存体験を可能にし、現在その倫理性が問われている。本書は美少女表現史を通じて男性の生きにくさを抉り出した男性論でもある。
2009年5月1日に日本でレビュー済み
「思春期以上の人間に向けられた多くのキャラクターたちは、性的な意味を
持っています。異性として魅力を発揮するように工夫されたキャラクターが、
多数作られています。……本書では、この『美少女』というイメージのあり方を
手掛かりにしながら、キャラクターと『萌え』の歴史を、主に男性の視点から
追っていきます」。
他のレヴューによって散々指摘されているように、単純にマンガ・アニメにおける
美少女キャラクターの変遷をたどるというよりは、それを見つめる側のあり様が問題と
されているわけで、その点においては「看板に偽りあり」との感はやや否めない。
言っていることは概ね正しいとは思う、ただしそれを問題視せねばならない理由が
分からない。ある種の人間は現実的な恋愛に魅力を感じるからコミットメントへと
向かい、ある種の人間は架空のキャラクターとの自己完結したセカイに快楽を
見出すから「萌え」や「美少女」を享受するし、またある種の人々は恋愛的なものに
退屈を感じて、というか眼中にもなく、他のコンテンツを消費する。
高い所にあるブドウは酸っぱい、的な感性が全くないとも思わないが、こうした多様性を
臆病や逃避と看做すのはいかがなものか、というよりは単細胞の戯言。
「浅く広く」の画一的消費から「深く狭く」の島宇宙的消費へ――情報社会・消費社会が
辿るであろう半ば必然、そんなもの、ただの趣味・嗜好以上の問題ではない。
現代においてはもはや生身の男女へのコミットメントのみを肯定・奨励しなければ
ならない理由というのはほとんどないわけで――あえて言えば国家というネズミ講の
成員が減少するのは問題だ、ということくらいでしょうか――、けれども筆者は
そこに何らかの違和感を覚えてしまうらしい。そこまでして他人とコミットしなければ
いけないのか、いけないと思うから氏は「倫理」ということばを持ち出すのだろうが、
さてそうなのか、と。したければしたらいい、したくなければしなくてもいい、理想的。
消費社会論、男性論の現象記述、文脈リテラシーにそう間違いはないように思える。
ただし、そもそもの問題意識に前時代的な臭気を感じずにはいられない。
持っています。異性として魅力を発揮するように工夫されたキャラクターが、
多数作られています。……本書では、この『美少女』というイメージのあり方を
手掛かりにしながら、キャラクターと『萌え』の歴史を、主に男性の視点から
追っていきます」。
他のレヴューによって散々指摘されているように、単純にマンガ・アニメにおける
美少女キャラクターの変遷をたどるというよりは、それを見つめる側のあり様が問題と
されているわけで、その点においては「看板に偽りあり」との感はやや否めない。
言っていることは概ね正しいとは思う、ただしそれを問題視せねばならない理由が
分からない。ある種の人間は現実的な恋愛に魅力を感じるからコミットメントへと
向かい、ある種の人間は架空のキャラクターとの自己完結したセカイに快楽を
見出すから「萌え」や「美少女」を享受するし、またある種の人々は恋愛的なものに
退屈を感じて、というか眼中にもなく、他のコンテンツを消費する。
高い所にあるブドウは酸っぱい、的な感性が全くないとも思わないが、こうした多様性を
臆病や逃避と看做すのはいかがなものか、というよりは単細胞の戯言。
「浅く広く」の画一的消費から「深く狭く」の島宇宙的消費へ――情報社会・消費社会が
辿るであろう半ば必然、そんなもの、ただの趣味・嗜好以上の問題ではない。
現代においてはもはや生身の男女へのコミットメントのみを肯定・奨励しなければ
ならない理由というのはほとんどないわけで――あえて言えば国家というネズミ講の
成員が減少するのは問題だ、ということくらいでしょうか――、けれども筆者は
そこに何らかの違和感を覚えてしまうらしい。そこまでして他人とコミットしなければ
いけないのか、いけないと思うから氏は「倫理」ということばを持ち出すのだろうが、
さてそうなのか、と。したければしたらいい、したくなければしなくてもいい、理想的。
消費社会論、男性論の現象記述、文脈リテラシーにそう間違いはないように思える。
ただし、そもそもの問題意識に前時代的な臭気を感じずにはいられない。