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武士道の逆襲 (講談社現代新書) 新書 – 2004/10/19
菅野 覚明
(著)
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武士道とは本当はどんな思想なのだろうか。ブームのようになっている武士道は、実は明治以降に作られたイメージにすぎない。「甲陽軍鑑」「葉隠」など重要文献を読みなおし、日本思想としての武士道を解明。(講談社現代新書)
武士道とは本当はどんな思想なのだろうか。ブームのようになっている武士道は、実は明治以降に作られたイメージにすぎない。「甲陽軍鑑」「葉隠」など重要文献を読みなおし、日本思想としての武士道を解明。
武士道とは本当はどんな思想なのだろうか。ブームのようになっている武士道は、実は明治以降に作られたイメージにすぎない。「甲陽軍鑑」「葉隠」など重要文献を読みなおし、日本思想としての武士道を解明。
- ISBN-104061497413
- ISBN-13978-4061497412
- 出版社講談社
- 発売日2004/10/19
- 言語日本語
- 寸法10.6 x 1.4 x 17.4 cm
- 本の長さ304ページ
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登録情報
- 出版社 : 講談社 (2004/10/19)
- 発売日 : 2004/10/19
- 言語 : 日本語
- 新書 : 304ページ
- ISBN-10 : 4061497413
- ISBN-13 : 978-4061497412
- 寸法 : 10.6 x 1.4 x 17.4 cm
- Amazon 売れ筋ランキング: - 141,486位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 220位東洋哲学入門
- - 223位日本の思想(一般)関連書籍
- - 1,184位講談社現代新書
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2019年2月25日に日本でレビュー済み
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武士道の成り立ちを理解するこができたとともに、明治武士道との違いが分かりやすく説明されていて、日本人として知ることができて良かったです。
2014年8月26日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
Samurai 何とかという名称に、百姓(どん百姓)の意味しか百姓について知らないんだろうなと思っていました。「明治武士道」の指摘はすばらしい。マドンナジャパンという集団があるそうで、遅きに過ぎたのに戦争中にバスの車掌さんが女性にかわったことを意識してかどうか、女性に働き場を多少の苦難はあってもと云う人たち、明治武士道をひとまず神棚にたかく置いて、ふだんの生活にはあまり出てこない神さまと同じようにさむらいを考えてはといういい読後感。
2019年8月27日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
本書は、武士道を、中世以前の武士道(「葉隠」的武士道)+近世の武士道(儒教的な「士道」)と、近代の武士道(新渡戸稲造等の「明治武士道」)に、二分し、まず、近代の武士道は、武士の実態とは乖離した、文明国家の体制確立のための、軍人・国民(臣民)道徳思想だと指摘しています。
つぎに、武士のいない近代の武士道以外が、本来の武士道だとし、これを中世以前の武士道(戦闘者)から、近世の武士道(為政者)への転身と、認識しており、本書では、この本来の武士道を中心に取り上げています。
しかし、筆者は、「葉隠」を訳注し、思い入れが過剰なのか、中世以前の武士道は、「葉隠」的な武士道だけではなく、臣下の主君からの離反や謀反も、度々みられたのに、本書では、それが一切取り上げられていません。
つまり、「葉隠」的武士道も、儒教的な「士道」も、臣下の主君への絶対忠誠なので、中世以前の武士道には、「葉隠」的武士道以外の武士道も想定しなければ、武士道の変遷を網羅したことにはならず、それは、次のように、まとめることができます。
中世以前の武士は、主君の御恩(「徳」)と臣下の奉公(「忠」)の主従関係で、主君は、実力主義ですが、臣下は、隷属的・宿命的な家人(けにん)型と、自立的・契約的な家礼(けらい)型に、大別できます。
家人型の臣下は、主君への絶対忠誠が、自分や一家・一族の利得(「孝」)なので、「忠孝一致」といえ、これは、「葉隠」的武士道に相当する一方、家礼型の臣下は、「孝」の有無で、主君に服属か離反(謀反)かを選択するので、「忠孝分離」といえ、これは、主君に儒教道徳(「徳」)が要求されます。
それが、近世には、戦乱が終結し、身分・地位が固定化・安定化したので、武士の主従関係も、主君は、血統主義になり、交代がないので、臣下の意識を改変するしかありません。
なので、主君の「徳」ではなく、臣下に儒教道徳が要求され、浪人以外の役人化した武士は、主君へ絶対忠誠になり、中世武士の家人型のみだった「忠孝一致」が、ほとんどの武士へと、適用が拡大しましたが、徳川将軍家にとって、譜代大名は、家人型的な家臣、外様大名は、家礼型的な家臣といえます。
そして、近代には、士農工商の身分が廃止され、全国民が君主の天皇の臣下(臣民)になると、天皇は、純粋な血統主義で、ここでも交代がないので、臣民の意識を改変するしかありません。
こうして、天皇の「徳」ではなく、臣民に儒教道徳が要求され、全臣民は、天皇へ絶対忠誠になり、近世武士のみだった「忠孝一致」が、当初は軍人のみでしたが、最後には全臣民へと適用が拡大しました。
このように、時代の社会環境の変化により、「忠孝一致」の対象者が、どんどん拡大していき、最後には全国民になるとともに、当初は、私的な思想だった武士道が、最後には公的な思想になり、先の大戦では、天皇への絶対忠誠で、「死」が強要され、それが多大な犠牲となっています。
ただし、中世と近世の境目には、豊臣政権が2度の朝鮮出兵を失敗し、徳川政権は日本の勢力拡大の政策を継承しなかったので、武士各人の領地拡大もなくなり、鎖国へと転換、世界が閉じたので、武士は戦闘者の実力主義から為政者の血統主義になり、役人化を受け入れるしかありませんでした。
一方、近世と近代の境目には、開国で世界が開き、天皇尊崇のもと、下級武士が上級武士への絶対忠誠を破棄し、武士は、主君への「忠」や一族・一家への「孝」より、自分個人の意志で結集し、維新政府が樹立され、四民平等の臣民が天皇と直結したのが、天皇への「忠孝」につながりました。
ここまでみると、本書の限界は、第1に、武士道の思想の背景となる時代の社会環境が、考慮されていないこと、第2に、中世以前の自立的・契約的な家礼型武士道を、取り上げていないことで、思想には、賞味期限があり、筆者が武士道を、どのように切り取ったのかに注意すべきです。
「葉隠」が執筆されたのは、江戸中期で、身分・地位が固定化・安定化した社会なので、浪人になる以外、武士には、職業選択の自由がほぼなく、自分が嫌悪する他人から逃れられないので、万一の際には、刀を抜くことになったのでしょう。
ですが、現代は、話し合いで自他の対立を解決できなくても、最終的に自分が、そこから退散できれば、問題自体がなくなるのに、そこで刀を抜いて、相手を斬るのは、近世よりも野蛮・極悪な行為になります。
そうみるのは、現代に隷属的・宿命的な関係は、極稀だからで、もし、そのような極限の環境下であれば、情状酌量の余地があると判断されますが、そうして、時代の社会環境を考慮しないと、思想を取り上げる意味は、まったくなく、異様で危険な思想だと相手にされず、一蹴されるだけです。
おそらく筆者は、中世以前の自立的・契約的な家礼型武士道を、打算的で謀反に道徳はないとし、あえて除外したとも推測できますが、現代は、実力主義で、自立的・契約的な関係が原則なので、家人型武士道(「葉隠」的武士道)より、家礼型武士道が、現在の道徳と類似しているでしょう。
そうなると、「葉隠」の意義は、どこにあるかですが、それは、家人型武士道を、儒教的な「士道」という「思想」(道徳)ではなく、「形式」(理屈なしの感情・行動の様式)で表現したかったからとみることができ、これらは、宗教の教義面(「思想」)と儀礼面(「形式」)の両面のようです。
「葉隠」で武士道を「形式」化したのは、「思想」は忘れ去られても、「形式」は生き残るからで、「孝」の目的のための手段が「忠」なら、「思想」的で打算的ですが、単純な「死」や純粋な「恋」は、理屈でない感情・行動なので、何とか「形式」に踏み留めようとしたとも読み取れます。
近世の宗教は、儒教が「思想」をほぼ独占したので、仏教・神道は、庶民に難解な「思想」(教義)を布教するよりも、寺社参詣という「形式」(儀礼)を植え付けようとしており、「葉隠」で武士道を「形式」化したのも、儒教的な「士道」という「思想」に対抗しているようにみえます。
それで近世も近代も、主君・君主の為政者の血統主義で共通しているので、実際には、先の大戦でも、難解な「思想」はなく、軍人勅諭・教育勅語・帝国憲法等の、簡単な「葉隠」的武士道のような「形式」が受け入れられ、「思想」は忘れ去られても、「形式」は生き残ることが、実証されています。
つぎに、武士のいない近代の武士道以外が、本来の武士道だとし、これを中世以前の武士道(戦闘者)から、近世の武士道(為政者)への転身と、認識しており、本書では、この本来の武士道を中心に取り上げています。
しかし、筆者は、「葉隠」を訳注し、思い入れが過剰なのか、中世以前の武士道は、「葉隠」的な武士道だけではなく、臣下の主君からの離反や謀反も、度々みられたのに、本書では、それが一切取り上げられていません。
つまり、「葉隠」的武士道も、儒教的な「士道」も、臣下の主君への絶対忠誠なので、中世以前の武士道には、「葉隠」的武士道以外の武士道も想定しなければ、武士道の変遷を網羅したことにはならず、それは、次のように、まとめることができます。
中世以前の武士は、主君の御恩(「徳」)と臣下の奉公(「忠」)の主従関係で、主君は、実力主義ですが、臣下は、隷属的・宿命的な家人(けにん)型と、自立的・契約的な家礼(けらい)型に、大別できます。
家人型の臣下は、主君への絶対忠誠が、自分や一家・一族の利得(「孝」)なので、「忠孝一致」といえ、これは、「葉隠」的武士道に相当する一方、家礼型の臣下は、「孝」の有無で、主君に服属か離反(謀反)かを選択するので、「忠孝分離」といえ、これは、主君に儒教道徳(「徳」)が要求されます。
それが、近世には、戦乱が終結し、身分・地位が固定化・安定化したので、武士の主従関係も、主君は、血統主義になり、交代がないので、臣下の意識を改変するしかありません。
なので、主君の「徳」ではなく、臣下に儒教道徳が要求され、浪人以外の役人化した武士は、主君へ絶対忠誠になり、中世武士の家人型のみだった「忠孝一致」が、ほとんどの武士へと、適用が拡大しましたが、徳川将軍家にとって、譜代大名は、家人型的な家臣、外様大名は、家礼型的な家臣といえます。
そして、近代には、士農工商の身分が廃止され、全国民が君主の天皇の臣下(臣民)になると、天皇は、純粋な血統主義で、ここでも交代がないので、臣民の意識を改変するしかありません。
こうして、天皇の「徳」ではなく、臣民に儒教道徳が要求され、全臣民は、天皇へ絶対忠誠になり、近世武士のみだった「忠孝一致」が、当初は軍人のみでしたが、最後には全臣民へと適用が拡大しました。
このように、時代の社会環境の変化により、「忠孝一致」の対象者が、どんどん拡大していき、最後には全国民になるとともに、当初は、私的な思想だった武士道が、最後には公的な思想になり、先の大戦では、天皇への絶対忠誠で、「死」が強要され、それが多大な犠牲となっています。
ただし、中世と近世の境目には、豊臣政権が2度の朝鮮出兵を失敗し、徳川政権は日本の勢力拡大の政策を継承しなかったので、武士各人の領地拡大もなくなり、鎖国へと転換、世界が閉じたので、武士は戦闘者の実力主義から為政者の血統主義になり、役人化を受け入れるしかありませんでした。
一方、近世と近代の境目には、開国で世界が開き、天皇尊崇のもと、下級武士が上級武士への絶対忠誠を破棄し、武士は、主君への「忠」や一族・一家への「孝」より、自分個人の意志で結集し、維新政府が樹立され、四民平等の臣民が天皇と直結したのが、天皇への「忠孝」につながりました。
ここまでみると、本書の限界は、第1に、武士道の思想の背景となる時代の社会環境が、考慮されていないこと、第2に、中世以前の自立的・契約的な家礼型武士道を、取り上げていないことで、思想には、賞味期限があり、筆者が武士道を、どのように切り取ったのかに注意すべきです。
「葉隠」が執筆されたのは、江戸中期で、身分・地位が固定化・安定化した社会なので、浪人になる以外、武士には、職業選択の自由がほぼなく、自分が嫌悪する他人から逃れられないので、万一の際には、刀を抜くことになったのでしょう。
ですが、現代は、話し合いで自他の対立を解決できなくても、最終的に自分が、そこから退散できれば、問題自体がなくなるのに、そこで刀を抜いて、相手を斬るのは、近世よりも野蛮・極悪な行為になります。
そうみるのは、現代に隷属的・宿命的な関係は、極稀だからで、もし、そのような極限の環境下であれば、情状酌量の余地があると判断されますが、そうして、時代の社会環境を考慮しないと、思想を取り上げる意味は、まったくなく、異様で危険な思想だと相手にされず、一蹴されるだけです。
おそらく筆者は、中世以前の自立的・契約的な家礼型武士道を、打算的で謀反に道徳はないとし、あえて除外したとも推測できますが、現代は、実力主義で、自立的・契約的な関係が原則なので、家人型武士道(「葉隠」的武士道)より、家礼型武士道が、現在の道徳と類似しているでしょう。
そうなると、「葉隠」の意義は、どこにあるかですが、それは、家人型武士道を、儒教的な「士道」という「思想」(道徳)ではなく、「形式」(理屈なしの感情・行動の様式)で表現したかったからとみることができ、これらは、宗教の教義面(「思想」)と儀礼面(「形式」)の両面のようです。
「葉隠」で武士道を「形式」化したのは、「思想」は忘れ去られても、「形式」は生き残るからで、「孝」の目的のための手段が「忠」なら、「思想」的で打算的ですが、単純な「死」や純粋な「恋」は、理屈でない感情・行動なので、何とか「形式」に踏み留めようとしたとも読み取れます。
近世の宗教は、儒教が「思想」をほぼ独占したので、仏教・神道は、庶民に難解な「思想」(教義)を布教するよりも、寺社参詣という「形式」(儀礼)を植え付けようとしており、「葉隠」で武士道を「形式」化したのも、儒教的な「士道」という「思想」に対抗しているようにみえます。
それで近世も近代も、主君・君主の為政者の血統主義で共通しているので、実際には、先の大戦でも、難解な「思想」はなく、軍人勅諭・教育勅語・帝国憲法等の、簡単な「葉隠」的武士道のような「形式」が受け入れられ、「思想」は忘れ去られても、「形式」は生き残ることが、実証されています。
2014年2月11日に日本でレビュー済み
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読んでおくべき本です。我々の祖先の生き様の一部分を、わかりやすく解説してくれていると思います。
2013年5月22日に日本でレビュー済み
「武士道」とは明治時代以降に出来た言葉である
武士道を表した最も有名なものとして新渡戸稲造の「武士道」を挙げる人は多いと思うが
新渡戸の「武士道」については当時から「武士の実態からかけ離れている」という批判はあった
では「武士」〜昔は兵(ツワモノ)などと呼んでいたか〜
とは一体どういうものだったのか
「武士」の実態を知らなければ「武士道」というものを理解出来ない
というか「武士道」なるものと「実際の武士」にどれほどの違いがあるのか
ということを知っておかなければ
我々は「武士道」についての認識が「葉隠」が「武士道」の全てであるような
浅薄なイメージ、ステロタイプの理解のみで通り過ぎてしまうような錯誤に陥ってしまう
本書はそのようなステロタイプな「武士道」にイメージ像を打破し
我々を源平以前から存在した「武士道」について再認識させてくれるであろう
武士道を表した最も有名なものとして新渡戸稲造の「武士道」を挙げる人は多いと思うが
新渡戸の「武士道」については当時から「武士の実態からかけ離れている」という批判はあった
では「武士」〜昔は兵(ツワモノ)などと呼んでいたか〜
とは一体どういうものだったのか
「武士」の実態を知らなければ「武士道」というものを理解出来ない
というか「武士道」なるものと「実際の武士」にどれほどの違いがあるのか
ということを知っておかなければ
我々は「武士道」についての認識が「葉隠」が「武士道」の全てであるような
浅薄なイメージ、ステロタイプの理解のみで通り過ぎてしまうような錯誤に陥ってしまう
本書はそのようなステロタイプな「武士道」にイメージ像を打破し
我々を源平以前から存在した「武士道」について再認識させてくれるであろう
2010年9月23日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
いわゆる武士道が発生し、現在一般に思われている武士道が成立する経緯が記されているが、武道を志す者が読むより学者が読む専門書だと判断する。
2013年9月25日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
武士道というのが為政者サイドによって、都合よく作られたものなのではなかろうか?と、疑っていたので、それが分かったのはよかった。★をひとつ減らしたのは、逆襲というタイトルのわりに現代との関わりについての記述が無いように感じたから。
2007年4月3日に日本でレビュー済み
「殺人の上手なり」からの「元祖武士道」、「江戸時代の道徳的な士道」、そして「新渡戸武士道」。その本質、違いや共通点が良く解る良書。
本来、武士のものの捉え方とその行動や言動の根底には「元祖武士道」があったのだなと改めて思い知らされ、当時の武士そしてその覚悟に想いを馳せると、本当に凄まじいものだったのだと感嘆した。
しかし、一方でその武士でさえも江戸太平の世では平和ボケしていた者も少なくなかったようで、それを想えば現在の「江戸太平の世」以上の平和ボケどころか「平和バカ」は最早、武士でも無く、武士の覚悟も無くなった現代日本人なのだから当然といえば当然だとも言える。
本来、武士のものの捉え方とその行動や言動の根底には「元祖武士道」があったのだなと改めて思い知らされ、当時の武士そしてその覚悟に想いを馳せると、本当に凄まじいものだったのだと感嘆した。
しかし、一方でその武士でさえも江戸太平の世では平和ボケしていた者も少なくなかったようで、それを想えば現在の「江戸太平の世」以上の平和ボケどころか「平和バカ」は最早、武士でも無く、武士の覚悟も無くなった現代日本人なのだから当然といえば当然だとも言える。