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文系のための数学教室 (講談社現代新書) 新書 – 2004/11/19
小島 寛之
(著)
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数式は「眺め方」さえわかればこわくない! 数学アレルギーはもったいない。微分積分や確率統計の「読み方」から、経済学、政治学、論理学、哲学がもっとおもしろくなる数学的思考をわかりやすく伝授します。
- 本の長さ224ページ
- 言語日本語
- 出版社講談社
- 発売日2004/11/19
- 寸法10.6 x 1 x 17.4 cm
- ISBN-104061497596
- ISBN-13978-4061497597
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登録情報
- 出版社 : 講談社 (2004/11/19)
- 発売日 : 2004/11/19
- 言語 : 日本語
- 新書 : 224ページ
- ISBN-10 : 4061497596
- ISBN-13 : 978-4061497597
- 寸法 : 10.6 x 1 x 17.4 cm
- Amazon 売れ筋ランキング: - 399,749位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- カスタマーレビュー:
著者について
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1958年、東京生まれ。東京大学理学部数学科卒業。同大学大学院経済学研究科博士課程修了。経済学博士。帝京大学講師を経て、同大学准教授。宇沢弘文に 師事し、数理経済学、環境経済学、意思決定理論を専門とする経済学者として旺盛な研究・執筆活動を行うかたわら、数学エッセイストとして活躍。中高生向け の入門書から高度な学術書まで多くの著書を持つ。日本ペンクラブ会員。著書多数(「BOOK著者紹介情報」より:本データは『 無限を読みとく数学入門 世界と「私」をつなぐ数の物語 (ISBN-13: 978-4044091026)』が刊行された当時に掲載されていたものです)
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2014年4月19日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
理系でしたが、今もう一度数学の理解が足りないと感じているこの頃 大掴みに理解してから、勉強しなおすには、いい本でした。
2015年4月19日に日本でレビュー済み
微積を理解したくて第1章だけ読みました。
積分はよくわかりました。ここは数学に疎い人でも完全に、たやすく理解できると思います。
が、微分が難しいです。
分析されるグラフとそれを分析した結果出てくるグラフがあるということはわかるのですが、両者の関係が分かりにくいです。
また、ありがたみがよくわからない。
ここは紙幅を費やしてもっと丁寧に記述して欲しいと思いました。
微分理解のためにもう少し他書に当たってみるつもりですが、何となくの感覚は得られたので無駄ではなかったと思います。
積分はよくわかりました。ここは数学に疎い人でも完全に、たやすく理解できると思います。
が、微分が難しいです。
分析されるグラフとそれを分析した結果出てくるグラフがあるということはわかるのですが、両者の関係が分かりにくいです。
また、ありがたみがよくわからない。
ここは紙幅を費やしてもっと丁寧に記述して欲しいと思いました。
微分理解のためにもう少し他書に当たってみるつもりですが、何となくの感覚は得られたので無駄ではなかったと思います。
2007年12月12日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
「数学嫌い」から「数学下手」へ。
この本を読んですぐに数学が上手になるわけではない。数学が好きになるための第一歩になればというスタンスで書かれている。
「文系のための」と題打たれているが、ここでの文系とは経済学・政治学といった社会科学の分野である。
数学を好きになるための肝はイメージ化と論理と法則といえようか。数式・数字からグラフなどを用いてイメージを形成する。無味乾燥に見える数式から具体的なイメージをいかに引き出すかのヒントを著者は多く提示している。また、何にでも法則を見いだすことの面白さも紹介している。一見、数学とは縁遠いような民主主義や神の存在証明にまで数学が使えるとは。大学の講義で数学と論理学の違いは数字を使うか言葉を使うかの違いだと聞いたことを思い出した。
一つおすすめのトピックスをあげるとすれば、セマンティックとシンタックスである。
「正しいこと」と「証明できること」は別である。なるほど、論理的に話しているように見えても全く話がかみ合わない議論とはこのセマンティックな議論であるのだと納得。お互いシンタックスに依拠した話を展開すれば、賛同するかは別にしても理解はできるだろう。日本ではセマンティックな論理学が教授され、シンタックスな論理学はまだまだのようである。ディベートが苦手なのもセマンティックに議論を展開させようとするからであろう。
この本を読んですぐに数学が上手になるわけではない。数学が好きになるための第一歩になればというスタンスで書かれている。
「文系のための」と題打たれているが、ここでの文系とは経済学・政治学といった社会科学の分野である。
数学を好きになるための肝はイメージ化と論理と法則といえようか。数式・数字からグラフなどを用いてイメージを形成する。無味乾燥に見える数式から具体的なイメージをいかに引き出すかのヒントを著者は多く提示している。また、何にでも法則を見いだすことの面白さも紹介している。一見、数学とは縁遠いような民主主義や神の存在証明にまで数学が使えるとは。大学の講義で数学と論理学の違いは数字を使うか言葉を使うかの違いだと聞いたことを思い出した。
一つおすすめのトピックスをあげるとすれば、セマンティックとシンタックスである。
「正しいこと」と「証明できること」は別である。なるほど、論理的に話しているように見えても全く話がかみ合わない議論とはこのセマンティックな議論であるのだと納得。お互いシンタックスに依拠した話を展開すれば、賛同するかは別にしても理解はできるだろう。日本ではセマンティックな論理学が教授され、シンタックスな論理学はまだまだのようである。ディベートが苦手なのもセマンティックに議論を展開させようとするからであろう。
2014年5月10日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
書籍の内容についてではありません。
内容については別の方のレビューを参考にして下さい。
書籍のデータがpdfと変わらないための不便さがあります。
Kindleで読むときにハイライトが出来ません。
文字の大きさも変えられません。
「自炊」したのと同じ商品を売る態度はどうなんだろうなと疑問を感じます。
Kindleで読む理由の半分以上が損なわれていると思います。
今からでも改善してください。
これなら紙媒体の方がマシです。
内容については別の方のレビューを参考にして下さい。
書籍のデータがpdfと変わらないための不便さがあります。
Kindleで読むときにハイライトが出来ません。
文字の大きさも変えられません。
「自炊」したのと同じ商品を売る態度はどうなんだろうなと疑問を感じます。
Kindleで読む理由の半分以上が損なわれていると思います。
今からでも改善してください。
これなら紙媒体の方がマシです。
2009年11月20日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
微分積分とは、一言でいえば現象と本質とを説明、求めていく計算方法であり、この本の冒頭40ページで読解術が身に付きます。
2010年11月30日に日本でレビュー済み
日常的な出来事などを例題として、数学という学問のおもしろさを感じられる本だと思う。
文系の人に限らず、楽しめると思う。
ただ、「めちゃめちゃすごい定理」という言葉づかいが気になった。新書の質が落ちて来ているのではないかと感じずにはいられなかった。
文系の人に限らず、楽しめると思う。
ただ、「めちゃめちゃすごい定理」という言葉づかいが気になった。新書の質が落ちて来ているのではないかと感じずにはいられなかった。
2013年8月3日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
内容はともかく、単にPDF化しただけの代物。
読みにくいねえ。文字の大きさを変更できないならその旨を書いて欲しかったね。
大手出版社の驕りでしょうか?
読みにくいねえ。文字の大きさを変更できないならその旨を書いて欲しかったね。
大手出版社の驕りでしょうか?
2015年10月14日に日本でレビュー済み
2004年の本。著者は執筆当時は帝京大学助教授で、数学エッセイの著書が多い人である。
曰く・・・
数理論理と日常論理は異なる。数理論理では二重否定(Aでない、ではない)は元のAと同じ。しかし、日常論理の二重否定(好きじゃないわけじゃない)は、「好き」という意味ではない。数理論理の「AならばB」は、AなのにBじゃない、だけが偽。裏を返せばAでないときにはすべて真となる(AなのにBが偽としか特定していない)。「構造改革なくして景気回復なし」は、構造改革しても景気回復しなかったとしたら、「構造改革していない(Aが偽)」なので、「構造改革なくして景気回復なし」という数理論理的には真ということになる。Aにあたるのが「構造改革しない」で、Bにあたるのは「景気回復しない」。「構造改革なくして景気回復なし」が偽になるのは、構造改革をしなくても景気回復した、というパターンだけ。これをなんだかおかしいと感じるのは、日常論理では「AならばB」という文に「因果関係」を感じてしまうから。
論理文を構成する個々の文の真偽に立ち入って考える立場がセマンティックスであり、文の内容や真偽とは無関係に形式的な推論の仕方だけに注目する立場をシンタックスという。
自然数論を含む公理系の文では、正しいにも関わらず証明できないものが存在する(ゲーデルの不完全性定理)。数学者が解決しようとしている問題は、証明という手続きで真偽をはっきりさせることができるかどうかの保証がない。証明不可能な定理を証明しようとする不毛な作業をしているのかもしれないという不安がつきまとう。
電車の速度を半分に落とせば、国土を今の4倍に使える(宇沢弘文)。東京-名古屋が2時間で結ばれなければ、途中に中継地点ができてそこが栄える。東京-名古屋が短時間で結ばれると経済はその2都市に集中してしまい、間の土地が不毛地帯になってしまう。高速移動は必ずしも豊かさを約束するものではない。
ケネス・アローのロジックによれば、民主主義的な選択というのはどうやったって不可能(と数学的に証明された)。
(1)xが神であるなら、xは完全である。(2)xが完全であるなら、xは存在する。(1)(2)より、(3)xが神であるなら、xは存在する、という三段論法がデカルトの神の存在証明にある。(1)は「神の定義」なので正しい。完全なものであるなら、存在するという属性をもつはず、ゆえに(2)も正しい(というのはちょっと理屈的に苦しい、というのが小島さんの意見)。人間はさまざまなことを考えることこそ存在している証拠である、とする。そんな自分もいろいろと疑い、自分の存在すら疑う。疑うとは完全でないことのあらわれである、とデカルトは考える。つまり、自分は不完全であり、そんな自分さえ存在しているのだから、完全であるものがその「存在する」という属性をもっていないわけはない、という議論になる。
ウィトゲンシュタインによれば、<私>が感じる<世界>のあらゆる<事実>、それらすべてが<私>の内側のできごとであり、<私>は外側を感じたり理解したりはしない。自分の意識に図像化されるものすべて、それが<世界>である。<世界>=<私>の境界を規定するものは<言語>である。ここでいう<言語>とはことばに限られるものではなく、いわば、「私の認識の全体」である。これが「論理空間の中にある事実が、すなわち世界である」という言説になる。<論理>こそ<私>の認識の限界を定める<言語>だとしている。<私>という存在の地平線を与えるものが<論理>であり、<論理>の射程範囲が<世界>全部で、それが<私>全部で、<私の生>である。
ウィトゲンシュタインは、<価値>を<私>の内部にないもの、<語りえぬもの>、形而上的なものとしてしりぞける。<世界>が<私>に降り注ぐ人生の雑多なできごとの総体を論理文として統合したものであるとするなら、その<私>に価値などというものを割り当てることは無意味である。<世界>=<私>はあるがままにあるのであって、価値のあるなしを考えるのは無意味である。「世界がどのようにあるか、ということが神秘的なのではない。世界がある、ということが神秘的なのである」
デカルトは存在を自分の意識に依拠させ、これを神の存在証明に用いたが、ウィトゲンシュタインは「神」を「語りえぬもの」として<世界>から排除し、<私>と<私の生>のみにこだわろうとしている。
などなど。
曰く・・・
数理論理と日常論理は異なる。数理論理では二重否定(Aでない、ではない)は元のAと同じ。しかし、日常論理の二重否定(好きじゃないわけじゃない)は、「好き」という意味ではない。数理論理の「AならばB」は、AなのにBじゃない、だけが偽。裏を返せばAでないときにはすべて真となる(AなのにBが偽としか特定していない)。「構造改革なくして景気回復なし」は、構造改革しても景気回復しなかったとしたら、「構造改革していない(Aが偽)」なので、「構造改革なくして景気回復なし」という数理論理的には真ということになる。Aにあたるのが「構造改革しない」で、Bにあたるのは「景気回復しない」。「構造改革なくして景気回復なし」が偽になるのは、構造改革をしなくても景気回復した、というパターンだけ。これをなんだかおかしいと感じるのは、日常論理では「AならばB」という文に「因果関係」を感じてしまうから。
論理文を構成する個々の文の真偽に立ち入って考える立場がセマンティックスであり、文の内容や真偽とは無関係に形式的な推論の仕方だけに注目する立場をシンタックスという。
自然数論を含む公理系の文では、正しいにも関わらず証明できないものが存在する(ゲーデルの不完全性定理)。数学者が解決しようとしている問題は、証明という手続きで真偽をはっきりさせることができるかどうかの保証がない。証明不可能な定理を証明しようとする不毛な作業をしているのかもしれないという不安がつきまとう。
電車の速度を半分に落とせば、国土を今の4倍に使える(宇沢弘文)。東京-名古屋が2時間で結ばれなければ、途中に中継地点ができてそこが栄える。東京-名古屋が短時間で結ばれると経済はその2都市に集中してしまい、間の土地が不毛地帯になってしまう。高速移動は必ずしも豊かさを約束するものではない。
ケネス・アローのロジックによれば、民主主義的な選択というのはどうやったって不可能(と数学的に証明された)。
(1)xが神であるなら、xは完全である。(2)xが完全であるなら、xは存在する。(1)(2)より、(3)xが神であるなら、xは存在する、という三段論法がデカルトの神の存在証明にある。(1)は「神の定義」なので正しい。完全なものであるなら、存在するという属性をもつはず、ゆえに(2)も正しい(というのはちょっと理屈的に苦しい、というのが小島さんの意見)。人間はさまざまなことを考えることこそ存在している証拠である、とする。そんな自分もいろいろと疑い、自分の存在すら疑う。疑うとは完全でないことのあらわれである、とデカルトは考える。つまり、自分は不完全であり、そんな自分さえ存在しているのだから、完全であるものがその「存在する」という属性をもっていないわけはない、という議論になる。
ウィトゲンシュタインによれば、<私>が感じる<世界>のあらゆる<事実>、それらすべてが<私>の内側のできごとであり、<私>は外側を感じたり理解したりはしない。自分の意識に図像化されるものすべて、それが<世界>である。<世界>=<私>の境界を規定するものは<言語>である。ここでいう<言語>とはことばに限られるものではなく、いわば、「私の認識の全体」である。これが「論理空間の中にある事実が、すなわち世界である」という言説になる。<論理>こそ<私>の認識の限界を定める<言語>だとしている。<私>という存在の地平線を与えるものが<論理>であり、<論理>の射程範囲が<世界>全部で、それが<私>全部で、<私の生>である。
ウィトゲンシュタインは、<価値>を<私>の内部にないもの、<語りえぬもの>、形而上的なものとしてしりぞける。<世界>が<私>に降り注ぐ人生の雑多なできごとの総体を論理文として統合したものであるとするなら、その<私>に価値などというものを割り当てることは無意味である。<世界>=<私>はあるがままにあるのであって、価値のあるなしを考えるのは無意味である。「世界がどのようにあるか、ということが神秘的なのではない。世界がある、ということが神秘的なのである」
デカルトは存在を自分の意識に依拠させ、これを神の存在証明に用いたが、ウィトゲンシュタインは「神」を「語りえぬもの」として<世界>から排除し、<私>と<私の生>のみにこだわろうとしている。
などなど。