本書には次のような側面がある。
(1) デカルト以降の西洋哲学史
(2) 近代批判
(3) 近代日本の作家・哲学者(宮沢賢治・西田幾多郎・夏目漱石)の自我観の紹介
(1) デカルト以降の西洋哲学史
まず、哲学史としてみると、デカルトとカント、それに対照させる形でライプニッツ、実存主義哲学としてキルケゴールとニーチェ、大衆社会批判としてヤスパースとハイデッガー、戦後の哲学者としてブーバーとレヴィナスがいる。逆にいうと、上記以外の哲学者はほとんど取り上げられない。なかでも、(ポスト)構造主義や心の哲学にはまったく言及がない。
さて、デカルトからハイデッガーに至るまでの哲学史に、自我の同一性・連続性・主体性の維持・強化を著者はみてとる。デカルトやカントの自我が理性的存在であるのに対し、キルケゴールからは意志という側面に力点がうつるが、この傾向自体は一貫しているという。
新書らしい、比較的オーソドックスで浅い概説にとどまっているが、他方で、その一貫的な傾向を強調することが目的の歴史叙述であることは留意しておいてもよいだろう。著者がそこを強調する理由は、もちろん批判したいからである。著者の立場はオーソドックスな「近哲批判」であり、初めからそういうスタンスでの記述となるため、解説にはバイアスがかかっている面がある。
ところで素人の私は、著者のデカルト批判に納得できなかった。
〈悪霊に欺かれているこの私の存在〉あるいは〈悪霊に欺かれていると説得される我の存在〉それ自体には懐疑を向けないという点で、デカルトの懐疑は不徹底だと著者は指摘する。しかし、そこに懐疑を向けたところで、結局は新たな「懐疑する私」が生まれるだけではないだろうか。この構造的なしぶとさゆえに、私は私にとって「明証的」であるとか、超越論的統覚は「要請」されるとか言われてきたのではないだろうか。
思うに、コギトは否定されるというより、単に忘れられて思考さえされなくなる他にだろう(かつてそうだったように?)。睡眠中はもちろん、何かに没頭しているときも(フロー状態)コギトはないといえる。あるいは、知的障害や精神障害の場合もふくめ、衝動性が極端に強い/自己内省能力が極端に低い人間はいる。こうした状態において、コギトは端的に「無い」。つまり、批判や否定の、したがって思考の対象としてすら消え去る。逆にいえば、批判することが可能なかぎりで、逆説的にもコギトは生きのびるように思われる。
(2) 「近代」批判
本書の根本動機は、嫌‐自我傾向、というか自我疲れといった現代人の精神状況にあるようだ。現代社会における生活とは選択の連続であり、その根拠はどんどん自明でなくなっている。現代人とくに青年は、選択・決定を押しつけられることに次第にウンザリしていき、自分で自分のことが分からなくなり、意識の価値下げに走る。まぁ私も身に覚えのある、自意識過剰な青年にありがちな経緯である。
とはいえ、こうしたアイデンティティの悩みと、デカルトのコギトやカントの超越論的自我とは、そのままストレートにつながる問題なのだろうか。そもそもこれは哲学ではなく社会学や社会心理学で扱われるテーマではないだろうか?(ex. ギデンズの「再帰性近代化」論)
さらにいえば、優柔不断に悩む青年こそが、コギトの体現者である、とも考えられないだろうか。いわば、彼らは「我思惟しすぎ」ており、「ゆえに、我在りすぎる」状況にあるのではないか。そこから逆に、デカルトの時代においては、ここまで物事の選択が個人に求められてはいなかった、と考えられるかもしれない。例えば、宗教のような「複雑性の縮減」機能がまだ十分に働いていた、など。そして、コギトや超越論的自我のバックボーンにある神の存在をみいだす、といった議論が展開できただろう。もちろん著者が西洋哲学における宗教の重要性を見落としているはずはなく、キリスト教・ユダヤ教・仏教への言及が散見されるが、しっかりと論じられることはない。
仏教にかんして本書から私が連想したのは、やはり昨今の「瞑想ブーム」である。これなどは、まさに現代人の自我疲れから生まれたものと捉えられるだろう。1990年代からうつ病の治療法として注目されてきたマインドフルネスは、もともとパーリ語satiの英訳であり、仏教由来である。それが心の治療を超えて一般に普及してきたわけだが、過剰になったコギトに対する解毒剤として需要されている側面もあるのだろう。
(3) 近代日本の作家・哲学者(宮沢賢治・西田幾多郎・夏目漱石)の自我観の紹介
本書では、西洋哲学史をざっくばらんに眺めたあと、宮沢賢治・西田幾多郎・夏目漱石という近代日本の知識人について、その自我観を紹介していく。しかし、大して画期的なことが書かれているわけでもなく、中途半端な概説にとどまる。著者自身、そこから特別な示唆を受けたわけでもないようだ。本書が出発点とした、上述のような現代人の状況に対する結論も、「現代社会で生きる以上は自我というフィクションを受け入れるしかないよね」という、否定はしないが平凡で物足りない内容だった。
ちなみに、日本人の自我観は仏教的だとか、だから近代的自我はもともと日本人に馴染まないんだとか、そういう雑な一般化はいくら新書でもどうかと思う。
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自我の哲学史 (講談社現代新書) 新書 – 2005/6/17
酒井 潔
(著)
「自我」なんて、本当にいるのだろうか? デカルト、カントに始まった「自我」概念は、西洋哲学のメインストリームとして今日に至る。しかし、それは日本人とは無縁のものではないか。異色の哲学史。
- 本の長さ256ページ
- 言語日本語
- 出版社講談社
- 発売日2005/6/17
- ISBN-104061497928
- ISBN-13978-4061497924
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登録情報
- 出版社 : 講談社 (2005/6/17)
- 発売日 : 2005/6/17
- 言語 : 日本語
- 新書 : 256ページ
- ISBN-10 : 4061497928
- ISBN-13 : 978-4061497924
- Amazon 売れ筋ランキング: - 617,706位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
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2005年7月25日に日本でレビュー済み
〈私〉というのは、一貫して「連続的」「同一的」であり、また、「主体的」に決断したり行動したりするものとして、義務や責任をおわなければならない。
――こんな「われわれが今日自明としているような『自我』概念は、西洋近世の哲学において形成されてきた」「歴史的概念」(本書より)にすぎないのである。
本書第一部は、その考察に当てられる。
そこでは、デカルト、ライプニッツ、カント、フィヒテ、キルケゴール、ニーチェ、フッサール、ハイデッガーといった、西洋近現代の哲学者たちの「自我」「自己」をめぐる考察が、的確に整理されている。とはいえたいへん読み応えがあり、西洋近現代哲学史の概説といっても充分な内容だと思う。(ただ僕的には、ウィトゲンシュタインについての考察が、核心に触れながらも数行だけというのは残念)
第二部では、そんな西洋近現代思想と対峙した20世紀初頭の日本人、宮沢賢治、西田幾多郎、夏目漱石を取り上げ、『西洋的自我』の概念がはたして日本人に馴染むのかを検討。そこに齟齬を見出すのである。
もちろん著者は、「伝統回帰」や、あるいは逆に「一層の西洋化、グローバル化」を叫ぶのではない。そんな簡単な話ではない。
しかし、一方でリバタリアニズム(市場経済における徹底した個人主義、競争主義。いわゆる『マネーの論理』)の台頭と、もう一方で「自分探し」や「癒し」ブームなどに象徴される「今の自分は本当の自分じゃない」的ムードが広がる21世紀のニッポン。この妙なちぐはぐ感、疎外感の源泉を、西洋的自我概念と日本人の齟齬に求めることもできるのではないか。
だからこそ今、本書の提起する問題はとても切実で、とても深い。
(難を言わしていただくと、このくらいの本になると新書とはいえ人名事項索引が不可欠である。版元には是非検討してほしい)
――こんな「われわれが今日自明としているような『自我』概念は、西洋近世の哲学において形成されてきた」「歴史的概念」(本書より)にすぎないのである。
本書第一部は、その考察に当てられる。
そこでは、デカルト、ライプニッツ、カント、フィヒテ、キルケゴール、ニーチェ、フッサール、ハイデッガーといった、西洋近現代の哲学者たちの「自我」「自己」をめぐる考察が、的確に整理されている。とはいえたいへん読み応えがあり、西洋近現代哲学史の概説といっても充分な内容だと思う。(ただ僕的には、ウィトゲンシュタインについての考察が、核心に触れながらも数行だけというのは残念)
第二部では、そんな西洋近現代思想と対峙した20世紀初頭の日本人、宮沢賢治、西田幾多郎、夏目漱石を取り上げ、『西洋的自我』の概念がはたして日本人に馴染むのかを検討。そこに齟齬を見出すのである。
もちろん著者は、「伝統回帰」や、あるいは逆に「一層の西洋化、グローバル化」を叫ぶのではない。そんな簡単な話ではない。
しかし、一方でリバタリアニズム(市場経済における徹底した個人主義、競争主義。いわゆる『マネーの論理』)の台頭と、もう一方で「自分探し」や「癒し」ブームなどに象徴される「今の自分は本当の自分じゃない」的ムードが広がる21世紀のニッポン。この妙なちぐはぐ感、疎外感の源泉を、西洋的自我概念と日本人の齟齬に求めることもできるのではないか。
だからこそ今、本書の提起する問題はとても切実で、とても深い。
(難を言わしていただくと、このくらいの本になると新書とはいえ人名事項索引が不可欠である。版元には是非検討してほしい)
2005年7月4日に日本でレビュー済み
タイトルどおり、デカルト以降の「自我」をめぐる哲学的な思弁の諸類型が、新書的な分量でコンパクトに紹介されている。ほぼ通説的なのだが、あえていえば、ライプニッツの「個体的概念」としての「自我」という発想を、今日もっとも再評価すべき議論として解説しているのが、おもしろかった。全体に、たとえば永井均の<私>論のような、読者を自分の「哲学」へと引きずり込んでいく熱い語りはみられないのだが、それなりの勉強にはなった。
ただ、後半からの、いかに「近代」の「日本人」は「西洋」の「自我」とうまくソリが合わずに、しかしなおも「自我」と格闘してきたのか、という話の展開は、退屈だった。その例としてあげられるのが、宮沢賢治・西田幾多郎・夏目漱石というのは、どうだろう。賢治はともかく、あとの二人は、なんだかんだいって「西洋」っぽすぎるのである。語弊を承知であえていえば、もう少し「ふつう」の日本人の「自我」の「哲学」から語ってもらいたかった。例えば、柳田國男や宮本常一が「発見」した、「西洋」とは非常に異質の、だが確固とした主体性を備えた、民衆の「自我」といったところから。そうした迂回路をとった方が、「日本人の自我」を「西洋」のそれと対比させて論じるのに、よかったのではないだろうか。
ただ、後半からの、いかに「近代」の「日本人」は「西洋」の「自我」とうまくソリが合わずに、しかしなおも「自我」と格闘してきたのか、という話の展開は、退屈だった。その例としてあげられるのが、宮沢賢治・西田幾多郎・夏目漱石というのは、どうだろう。賢治はともかく、あとの二人は、なんだかんだいって「西洋」っぽすぎるのである。語弊を承知であえていえば、もう少し「ふつう」の日本人の「自我」の「哲学」から語ってもらいたかった。例えば、柳田國男や宮本常一が「発見」した、「西洋」とは非常に異質の、だが確固とした主体性を備えた、民衆の「自我」といったところから。そうした迂回路をとった方が、「日本人の自我」を「西洋」のそれと対比させて論じるのに、よかったのではないだろうか。