デカルトやカント、あるいはフッサールに見られるような徹底的『基礎付け主義』に対し懐疑的な立場に立ち、クワインからデビッドソンを経て『自文化中心主義』のローティに至る系譜に共感的な視点で、近世哲学史を読み直していく対話形式の入門書。デカルト・ロック・バークリ・ヒューム・カントなどといった近世哲学の代表的人物の思想が著者の解釈で紹介されると同時に、彼らの思想が現代の心の哲学の問題とどのように関わってくるかが明らかにされていく。特に現代では否定的評価を下されがちなロックをむしろ肯定的に捉え、その思想の正否はともかくも、彼の思想がある意味ではバークリ・ヒューム・カントらの手によって歪められていったとする解釈は、ロックファンにとっては痛快である。また、最終章では、基礎付け主義への拘泥が孕む危険性に警鐘を鳴らすと同時に、ローティの唱える『自文化中心主義』の妥当性が強調されており、著者の倫理観が全面的に押し出されている。ただ、絶対的真理の想定の危険性ということを言うのであれば、何と言ってもやはり、J.S.Millに触れて欲しかった。まあ、そこらへんは読者自身の勉強に任せるということなのかもしれない。
とにかく本来は難解なはずの諸問題を対話形式を用いて、見事に優しい言語で表現しており、哲学の門外漢にとっても理解しやすいように思われた。秀作と言っていいだろう。
無料のKindleアプリをダウンロードして、スマートフォン、タブレット、またはコンピューターで今すぐKindle本を読むことができます。Kindleデバイスは必要ありません。
ウェブ版Kindleなら、お使いのブラウザですぐにお読みいただけます。
携帯電話のカメラを使用する - 以下のコードをスキャンし、Kindleアプリをダウンロードしてください。
対話・心の哲学 (講談社現代新書) 新書 – 2005/11/18
冨田 恭彦
(著)
現代哲学の最重要課題がよくわかる! 哲学は「絶対的真理」に到達できるのか?デカルト、ロック、カント、フッサール、クワイン、ローティらの議論を、平易な言葉で、わかりやすく読み解く哲学対話。
- 本の長さ304ページ
- 言語日本語
- 出版社講談社
- 発売日2005/11/18
- ISBN-104061498177
- ISBN-13978-4061498174
この商品をチェックした人はこんな商品もチェックしています
ページ 1 以下のうち 1 最初から観るページ 1 以下のうち 1
登録情報
- 出版社 : 講談社 (2005/11/18)
- 発売日 : 2005/11/18
- 言語 : 日本語
- 新書 : 304ページ
- ISBN-10 : 4061498177
- ISBN-13 : 978-4061498174
- Amazon 売れ筋ランキング: - 690,212位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- カスタマーレビュー:
著者について
著者をフォローして、新作のアップデートや改善されたおすすめを入手してください。
著者の本をもっと発見したり、よく似た著者を見つけたり、著者のブログを読んだりしましょう
-
トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
レビューのフィルタリング中に問題が発生しました。後でもう一度試してください。
2017年4月23日に日本でレビュー済み
「これが正しいという根拠はないんじゃないか」という人と、
「正しいかどうかは証明できなくてもとりあえず手直ししながらやっていこう」という人。
二人は反目しているだろうか?
反目というよりは、共通の前提を共有したうえで、根拠を厳密に問いたい人とプラグマティックに進めたい人との、
いわば性格の違いに過ぎないのではないだろうか。
著者はクーンのパラダイム論のような、枠組み全体の根拠のなさを疑っていくタイプの論述に手厳しく、
クワインのホーリズム的な、ある程度の蓋然性があれば正しいと見做してプラグマティックに進めていこうというタイプの論述を歓迎している。
しかしプラグマティックと言っている時点で「完璧に正しいという根拠はないけど」という枕詞がつくわけで、
それならばパラダイム論のようにその正しさの根拠を問う論述とは性格は違えど反目はしない筈である。
ホーリズムの信念の網目を、根底から疑問視するか、疑問はあれど手直しを繰り返して進めていくか、
前提は共有しているのだからそれはもはや個々人のスタイルであって、
著者のように2つを対立するもの、対照的なもののように扱う必要はないのではなかろうか。
「正しいかどうかは証明できなくてもとりあえず手直ししながらやっていこう」という人。
二人は反目しているだろうか?
反目というよりは、共通の前提を共有したうえで、根拠を厳密に問いたい人とプラグマティックに進めたい人との、
いわば性格の違いに過ぎないのではないだろうか。
著者はクーンのパラダイム論のような、枠組み全体の根拠のなさを疑っていくタイプの論述に手厳しく、
クワインのホーリズム的な、ある程度の蓋然性があれば正しいと見做してプラグマティックに進めていこうというタイプの論述を歓迎している。
しかしプラグマティックと言っている時点で「完璧に正しいという根拠はないけど」という枕詞がつくわけで、
それならばパラダイム論のようにその正しさの根拠を問う論述とは性格は違えど反目はしない筈である。
ホーリズムの信念の網目を、根底から疑問視するか、疑問はあれど手直しを繰り返して進めていくか、
前提は共有しているのだからそれはもはや個々人のスタイルであって、
著者のように2つを対立するもの、対照的なもののように扱う必要はないのではなかろうか。
2009年5月15日に日本でレビュー済み
ある限られた認識能力しか持たない(どの生物も、自分が生き残れる程度の認識能力しか持っていません)ヒトという動物の一種が、そうした制限のあることすら思いつかないまま、自らの認識能力のみに基づいて世界とは何か、真実とは何かについて語ろうとした苦闘の歴史を分かりやすくまとめています。もしもヒトという動物に目がなく、触角や嗅覚に頼る生物だったら、世界はまったく違うように認識され、まったく違う神が創出されていたに違いありません。その一方で、素粒子理論などはやはり同じような形に収束していたかもしれませんね。