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「責任」ってなに? (講談社現代新書) 新書 – 2005/12/17

3.4 5つ星のうち3.4 14個の評価

「責任がある」とはどういうことなのか? 責任という概念は暖味かつ多層的である。その成立条件から国家・国民としての責任まで、倫理学者が真摯に問い直し、日本を覆う「構造的無責任」の源泉を明かす。
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登録情報

  • 出版社 ‏ : ‎ 講談社 (2005/12/17)
  • 発売日 ‏ : ‎ 2005/12/17
  • 言語 ‏ : ‎ 日本語
  • 新書 ‏ : ‎ 264ページ
  • ISBN-10 ‏ : ‎ 4061498215
  • ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4061498211
  • カスタマーレビュー:
    3.4 5つ星のうち3.4 14個の評価

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大庭 健
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カスタマーレビュー

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上位レビュー、対象国: 日本

2011年4月24日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
リバタリアンとコミュニタリアンでは「責任」がどう違ってくるのか?という関心から手掛かりを求めて購入したのだが
戦争責任のところから読み始めてあきれかえった。高橋哲也の「戦後責任論」同様に哲学していない。
世間智のオンパレードである。しかも事実に関してあまり詳しくない。メインストリームのメディアの言説にしか触れていないからだろう。

東京裁判でも真珠湾攻撃について有罪者は出ていない。盧溝橋事件についてもだ。
だから文芸春秋の'11年2月号でジョセフ.ナイは満州事変が日米戦の最初の一発だったといっている。
それでいて石原莞爾は訴追されなかった。なぜかな。これを考えた人は誰かいないのか?

満州事変はもちろん国家の中枢が企図したものではなかった。
その後の「満州国」は日本の国家が承認しこれを支えた。
しかし戦後にできた北朝鮮と韓国も外国の軍隊がトップをもってきて造った国だという事は知っているはずだ。
知っていても、あれは一種の「満州国」ではないのか、と思わなければ抽象能力に問題がある。戦後東欧にできたソ連の衛星国も満州国ではないか。

朝鮮戦争を起こした側に立つソ連や中国が国連の安保理常任理事国におさまっている事の奇妙さに誰か気付いていないのか。
戦後は「侵略戦争の責任」は無くなったのではないか。サダム・フセインもそれで処刑はされていない。
イラン・イラク戦争、クエート侵略と二度やっているのに。

中国は侵略戦争の責任を日本に今もつきつけているが、自分が従うつもりがない規範を他者に当てはめようとするのは
なにかおかしいとは思わないのだろうか?朝鮮戦争の他にも中越戦争もある。台湾に対する武力侵攻のオプションを否定していない。

著者も自分の頭で考えられない「哲学学者」の一人ではないか。
ウィトゲンシュタインは哲学の本を読まずに「哲学をした」。著者も哲学に関心が少しでもあるならば世間智やクリシェに対して「哲学をし」たらどうか。

多くの書評氏の皆さんも自分の頭で考えて欲しい。疑問を感じないなら、疑問に立ち向かわないなら「過去の思想の奴隷」(J・Mケインズ)になるだけなのだ。

書評の場を借りて思わず「哲学をしてしまった」が著者の戦争責任論は岩波文化人、朝日新聞などにあふれる言説の典型例のようです。
これをきっちり、コテンパンに批判できるだがそれはいずれ暇ができたらということで。
5人のお客様がこれが役に立ったと考えています
レポート
2011年8月28日に日本でレビュー済み
かなり以前に購入してそのままになっていたものを、今回、一気に読みました。

責任の発生を応答性に見る考えには示唆を受けました。
それ以上に(日本または日本人の)「無責任性」を考える上で、「私的制裁(リンチ)=暴力」が非常に大きな要因となっているとの指摘には考えさせられました。

ただ、この指摘には二面が有るように思われます。
本書で述べられている「暴力が社会的な無関心(無応答)を構造化している」という指摘に加え、「社会的規範が私的なものである=反対者には(法の外で)私的制裁」という点です。
つまり日本においては「ルール」は社会性を持った規範としては成り難く、「私的な利害関係」に留まる傾向があり、それが権力者側には「権力=暴力」として、人々には「無応答性=無責任」として現れてくるのではないか、と。
この文脈で考えると、日本人に顕著と言われる「本音と建前」が、この指摘の別の「言い換え」と取ることも出来るのではと感じました。

最初のページを読んでいた時は、大変申し訳有りませんが、専門書になりきれない入門書のような中途半端な印象がありましたが、後半、特に私的制裁の事例から、ここ数年考えていたことに明確な「ある形」が見え始めて来た感があり有益でした。

今後、「暴力」「社会的規範」について類書を求めてみたいと思います。
1人のお客様がこれが役に立ったと考えています
レポート
2006年2月20日に日本でレビュー済み
 他の論者も書かれていることだが、戦争責任云々の議論がかなり弱いように思われる。責任を「応答-可能性(resonse-ability)」と解釈するというのは、元来デリダやレヴィナスのようなユダヤ系思想家に由来する方向性であり、日本でも高橋哲哉などでおなじみの概念ではある。しかし、唯一神の呼びかけに個人が真摯に耳を傾けている様がそもそものモデルになっている彼らユダヤ教系の「責任」概念と、日本で現実に対外的に問題になっている戦争責任の問題とを安易に接続して論じるのはかなり無理があるように思われる。

 というのも、前者の場合にはいわば神と人間との「二体問題」でしかなく、責任の所在も自明であるのに対し、後者の場合、リニアな因果関係が必ずしも明確ではなく、様々な要因が複雑にからみあった「多体問題」であり、そもそもどこに責任があるかからして必ずしも自明ではないからである。大庭がよく引くフランクファートやクリプキの議論なども、せいぜい個人レヴェルでしか妥当ではなく、これが歴史的な責任問題とどう整合的に連なるのか全く説得力がない。

 責任について倫理学者・哲学者達が取り扱えるのは、残念ながらせいぜい個人レベルどまりだと思われる。例えば中国共産党は、戦争が終わって60年経った今も、日本の「戦争責任」を新たに「産出」し続けることで外交的発言力を確保ないし増大させていることは誰でも知っているだろうが、現実の政治においてはまさに責任とは現在進行形の形で生み出されているものなのだ。こうした事態に対し(高橋の『靖国問題』もそうだったが)、哲学者達の問題意識はややナイーブな気がしてしまうのだがどうだろうか。
27人のお客様がこれが役に立ったと考えています
レポート
2006年8月23日に日本でレビュー済み
レスポンシビリティ=応答可能性

みたいな話で煙に巻かれた感じです。

立派な軍人さんと、A級戦犯とか政府の責任とか例が出てくるが、どれもピンと来ない。筆者自身の主張する”責任”という概念が、どうして後半の他人への批判につながっているのかが分からない。前半の哲学的、倫理学的考察もまるっきり分からない。私の頭が悪いのか、どこか大切な章が、自分の購入した本からは抜け落ちているのか?

現在言われている、自己責任とか製造物責任とか戦争責任とかの卑近な例を挙げて、明快に責任の所在が分かると思ったのが甘かった。

タイトルもずるい!
15人のお客様がこれが役に立ったと考えています
レポート
2006年1月24日に日本でレビュー済み
 著者は倫理学の大家、といってもいいと思うが、本書では理論と現実との距離があまりにも大きく、いささか失望した。

 私は本書において、「戦争責任」の議論が深まるのを期待していたのだが、この点に関しては完全に世間知レベル。「南京大虐殺はなかった」という一派を「デマゴーグ」呼ばわりしたり(周知のように、当時南京において、本当に「大虐殺」があったのか、はいまだに結論の出ていない問題である)、そういうデマゴーグを発する右翼が、反靖国派に対し「ひたすら暴力をふるって対抗する」(昨今の「運動」を見ていると、左の方が「暴力的」なのは、明白である)と語るなど、偏見に満ちたレッテル張りを繰り返している。

 しかも肝心の、「戦後生まれの日本人に、「戦争責任」はあるのか」は、完全にスルー。「戦争中の一兵卒」の問題などより(もちろん、この問題を「どうでもいい」というわけではないが)、この問題が、今、そして今後、最も重要であるのは言をまたないのに、である。

 「戦後生まれ(の中国人・韓国人)」が「戦後生まれ(の日本人)」の「戦争責任」を追求するということは、はたして可能なのか。こうした問題に答えるには、「倫理学者」には、荷が重すぎた、ということなのか。
18人のお客様がこれが役に立ったと考えています
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2006年1月29日に日本でレビュー済み
本書は、「責任」というものについて、倫理学、哲学、史実を切り口に、著者なりにまとめたものである。呼応可能性をキーワードに、責任があるとはどういうことか、をまず明らかにし、その現実への応用として戦争責任をテーマに掘り下げるなかで、個人の責任と集団の責任とのかかわりについて考察している。

「自分探し」やT・ネーゲルの議論を解離傾向として責任論の視点に結び付けて批判している箇所については、やや「こじつけ」を感じたが、全体としては、よくまとまっているように思う。
9人のお客様がこれが役に立ったと考えています
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2006年1月13日に日本でレビュー済み
 同じ著者の前著『私はどうして私なのか』は、永井均の「独我論」批判に足を取られすぎていまいちでしたが、今回の新書では永井均批判は最小限にとどめていて全体的にまとまっています。アンスコム流の「原因」と「理由」の区別から、人間同士の呼応関係における責任(「あのとき別に行動できたのではないか?」)を説き起こす議論はそれなりに説得力があります。また、上下関係や同調圧力の強い組織の中で、命令とモラルの狭間に立たされた個人が「自分の役割を果たしただけ」という形で責任逃れをする、「本当の自分」と「立場」を分離させる形での解離的な責任逃れがはびこっているというのもそうなのでしょう。

 そして、この本はさらにそうした理論をもとに国家の戦争責任などの具体的な責任の分析に入ります。いままでの大庭健の本では、こういった大庭健の左翼的立場からなされる発言は、(注)やあとがきにあって、本文できちんと語られることは少なかったのですが、この本ではそこのところを一歩踏み出しています。

 ただ、そこでの議論の運びにはちょっと納得できないところも多いです。著者は、集団も個人と同じ責任を負う主体であるとするのですが、この集団の過去の行為についての責任の場合、「あのとき別に行動できたのではないか?」という理論は成り立たなくなってしまうのではないでしょうか?つまり、日本の戦争犯罪について、戦争当時生まれていなかった人が「あのとき別に行動できたのではないか?」と自己に問うことは無意味であり、こういった集団の責任についてはまた別の理論が必要なのではないでしょうか?

 倫理学から現実問題へと向かうことの困難を考えさせる本です。
19人のお客様がこれが役に立ったと考えています
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2006年1月7日に日本でレビュー済み
「最低限どこまでやっていれば自らの責任を果たしたことになるのだろう?」仕事をしながら、そんなことを考えることが多くなっていました。折から耐震強度の偽装事件が発生し、建築主、設計事務所、確認検査機関、施工業者からの責任逃れとも思えるような発言を耳にし、ますます「責任とはなんだろうか」との思いを強くしていました。この本は「責任」とまじめに向かい合うには良い本です。ただし、表現が哲学的というのでしょうか、もっと簡単な言葉で語れないものかと思います。言いたいことのみをスーッと読み流す程度でも伝わるものはありました。
4人のお客様がこれが役に立ったと考えています
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