著者である村上氏は、授業でも扱われていたが、科学史を専門とされている先生である。私が村上氏の著書に初めて触れたのは恐らく高校生の頃であり、東京大学入試問題の現代文で扱われていたものであった。(『生と死への眼差し』「死すべきものとしての人間」)。決して易しい内容ではなかったが、一貫して論理的な構造をとっており、まさに論述式の現代文の問題として相応しいものであるように感じた。当時お世話になっていた講師の方が偶然にも村上氏を恩師として尊敬しており(学生時代にご教授頂いていたそうだ)、是非読むべきだと勧められていたのが本書である。このような形で村上氏の著書に再び触れることができて喜ばしいが、やはり読む際には当時のように(あるいはそれ以上に)その難解な内容に苦労することになった。以下、各章毎に私なりの要約を述べていく。
1.科学のなりたち
科学のなかである種の「発展」が起るとき、その「発展」に対して必ずしも「データ」が中心的な役割を果たしていないように思われる事例が多い。科学もまた、全時間・空間を縦貫し横断して成立するような「離陸」した存在ではないとすれば、科学に普通に与えられている客観性や普遍性はどう解釈したらよいのか。
近代科学が「ベーコン主義」、すなわち、直接事実に当たれ、予め仮設的な理論や秩序の存在を想定するな、というスローガンを標榜する。神の自然は、複雑さではなく、単純、簡潔さを選んだのであろう、とコペルニクスは考えた。そして、自然界の構造を定式化するのに、できるだけ簡単な形に仕上げる、もしくはその定式は簡単な形になっている、という信念は、われわれにも前提とされており、コペルニクスと同断である。
第一に、われわれの科学は、少なくともいくばくか、経験的な「事実」に先立つなにものかによって支えられている、ということである。第二に、「事実」や「現実」に直接的に密着しようとするところには、科学の体系はない、ということである。そして、この2つのことがらは、「ベーコン主義」に対する反論の根拠として十分であろう。理論は「即事実性」を備えているのであり、「超事実的」である。「事実先行性」と言い換えてもよい。つまり、「科学は事実を離れて成立する」のだ。
2.科学と価値
自然科学は、人文科学や社会科学と違って人間の価値判断から解放されているという特徴をもっている。自然科学のもつこの「没価値性」こそが、今日自然科学の全地球的な普及、つまり歴史的な時間と空間とを超越した全面的な普遍性の基盤となるものだ。すべての「事実」は、人間によって帰納力と演繹(えんえき)力との双方を備えたものとして把握された時に「事実」としての機能をもつことになるのであって、その帰納力と演繹力による双方向への「伸び」は、歴史的な時間と空間との関数関係によって流動するものと考えられる。すなはち、「科学は価値と意味の世界をもつ」のだと言える。クーンがその著「科学革命の構造」で「範型(パラダイム)」と呼んだのは、強力な支配力を獲得した理論系のことであり、そのような理論系のなかでの科学的な仕事は、「理論証明」的な性格、もしくはその理論系の適用範囲の探求という性格を備えているものとなる。クーンはそうした活動を「通常科学」と名づけた。その種の活動は、かなりはっきりと決定された手続きや規則に従って行われ、一種の「パズル解き」である、と考えられている。このような「通常科学」では「教科書」が大きな意味をもってくる。意味の世界の組織換えが科学的創造性なのだ。
3.現代科学の境位
「科学的である」ということの定義として、「分析的である」ということは、「現象を、ただ現象としてとらえるのではなく、その現象を、それを成り立たせている何らかの要素群に分解し、その要素群が、時間-空間の中でどのように振る舞うか、その有様を記述することによって、もっと現象を説明する」ということになろう。
医学は、その出発点において、患者の苦しみを取り除くという大前提を忘れるわけにはいかない。そして「苦しみ」は、科学的分析からは決して検出されない。「苦しみ」は、人間という一個の全体的な存在の主観的側面としてある。もし「先後関係」という概念を使うとすれば、つねに「苦しみ」が先にあり、その科学的分析は後である。
自然科学(のみならず全ての知識体系)は、「原理的には」物理学だけで世界を記述し尽くされるとする発想である。第一に、素粒子-原子-分子-高分子-細胞-個体-社会-宇宙といった自然の位階構造の存在と、第二に、高位の現象を律する法則と概念とは、それよりも一段下位の位階に属する法則と概念に「原理的には」置換できるという還元主義とが前提とされている。分析的思考法の根幹をなす原子論を、近代の「物理学帝国主義」と具体的にそう関わっているのか。第一に、原子論の前提として空間は、力学的世界観にとって最も重要である。第二の、偶然的性質を本質的性質に還元する、という原子論の特徴。第三の擬人主義という特徴は、「科学的である」ということの別名であるかのようにさえなってしまった。
近代科学は目的論的説明や機能的説明を排除し、因果的説明と分析的思考に頼ることよって、価値体系から解放され、自由かつ中立の立場を手に入れたと考えられた。そうした考え方はそれ自身が紛れもなく一つの価値体系であることを無視している点で明らかに間違っている。人間と自然との間に区別を立てるという知的習慣はヨーロッパの母胎の一つであるギリシアをはじめとして、多くの思想圏で共有していなかった。ギリシアでも、人間と自然との関係は、たかだかアナロジーによって対比されることはあっても本来峻別されるべきものではなかった。自然は人間のために創られた棲家であり、神の似像として象られた人間は、自然から切り離された特別の存在である、という確信こそ、ヘブライズムからキリスト教を通じて一貫して流れる一つの知的習慣であり、一方においては、観察する主体としての人間と、観察される対象(客体)としての自然という、近代科学の基本構造を導く大きなモチーフとなったことは、しばしば指摘される通りであろう。「科学では人間は「私」だけになる」。
4.科学技術の前途
既にニュートン力学は17世紀末に完成され、もはや新しい理論体系、新しい原理の探求はひとまず終わったと考えられた一八世紀前半の啓蒙主義時代には、なすべき仕事は、前代に構築された原理・理論体系をいかに「現実」と照合し、「現実」の問題の解明に応用し、利用して行くか、という非常にアクチュアルでプラグマティックな局面に集中されることになったのである。「知」つまり「科学」は、啓蒙主義時代に入ってようやく、神を讃える神聖な営みから、現実の問題解決のための「世俗的」な営みへと、引きずり下ろされる式を迎えたのであった。
5.科学の可能性
キリスト教では、神の理性が自然界を支配し統括している、という信念がある。他方、人間は、神の似像として神に造られた存在であり、それゆえまた、人間の備える理性もまた、不完全ながら神の理性の擬似的コピーである。すると人間の理性は、神の理性による自然界の支配把握に重なることはできなくても、少なくともある程度それに近いことはできる、と考えられる。こうした楽観主義は、自然科学発展のための最も重大な契機であろう。
自然を外側から全能という形で支配・制御・統括・把握するのが絶対者たる神なのである。しかも人間は、その神が自然に対してもつ「視座」と同じところに自分の眼をおいて、そこから、自然を眺め、把握し、場合によっては制御することのできる存在ということになる。眺められている自然と、眺めている人間との間の視座移行、もしくは対立的な分離を認めることができる。自然は、人間の前に投げ出されたものであり、人間は、主体としては、その投げ出されたものに挑む存在である、という主観と客観との分離は、キリスト教思想のなかに含まれていたことはたしかである。東西の思惟構造の差から何が生まれるのか。
「局地」的な近代西欧の科学技術が、今日「普遍」的で絶対的な意味をもつかのように、地球上に拡大しかつ拡大しつつある最大の理由は、その現実への「有効性」にあるが、その「有効性」を支えているのは、その体系が、人間の認識活動のある一面と密接に結びついているからにほかならない。西欧近代科学が自らに課した絶対的なテーゼは、ものごとを、時間・空間の枠組みのなかに、できる限り詳しく記述し描写することであった。西欧近代科学の知識体系が、現実の問題解決に「有効」である理由が、このような「時間と空間内での事象の記述」に、ほとんど間然するところにないほどに見事に成功しところにあることは明かであろう。それは、要素主義的記述であり、還元主義的発想である
以上が、本書の主な内容であり、科学のあり方や、将来的な社会とのかかわりについて論じられている。最後に、本書の中で私が特に関心をもった部分について述べてみようと思う。
村上氏は、「今日わが国に流行としてびまんしている反進歩の思想は、経済規模の拡大を進歩と混同したうえでの、きわめて皮相な性格のものである感を免れない。今日のわれわれにとって最も急務なことは、われわれの未来をわれわれが制御する、という強い意志と実行力であり、またそれらを支えるために、未来への「進歩」を自らのうちに再確認することではなかろうか」(P.162)と述べている。私は、強く同感し納得させられた。技術は技術によってしか解決できない。公害がいかにひどくても、その公害を解消させるのは、公害を生みだした科学である。公害撲滅のために政府の動きが鈍いのは事実だが、それと科学そのものとは別問題である。
また、同じく4章の中で次のように述べられている。「現在の現象的な公害の解決には、私はそれほど悲観してはいない。新しい問題の発生は、あらゆる「発展」につきものであり、それが大企業のエゴイズムやその大企業優先の政策しかとれない政府に直接の責任があるのであれ、そういう公害現象を、料学技術の準拠枠のなかで解決することは不可能であるはずはない。いや、それ以外に何の手段があるというのか」(P.178)確かに、環境を守れという運動は、きわめて保守的な思想の表出であり、懐古的なものであるように感じる。一体どんな環境を守るというのか。環境は守るものではなく、創るものである。それには科学しか対応できない。近代科学は、そして近代は、近代以外の方向から否定されるのではない。よりいっそう近代を進める形で、近代は克服されなければならない。
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近代科学を超えて (講談社学術文庫) 文庫 – 1986/11/5
村上 陽一郎
(著)
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幾多の重要な科学的発見が必ずしも既成の事実に拠るものではなかったことを検証した著者は、進んでトマス・クーンのパラダイム論の成果の上に立って、科学理論発展の構造の分析を本書で試みた。パラダイムとサブ・パラダイム、サブ・パラダイム同士の緊密な相関関係に着目しながら、科学の縦断的(歴史的)=横断的(構造論的)考察から、科学史と科学哲学の交叉するところに、科学の進むべき新しい道をひらいた画期的科学論である。
- ISBN-104061587641
- ISBN-13978-4061587649
- 出版社講談社
- 発売日1986/11/5
- 言語日本語
- 寸法10.8 x 1.1 x 14.8 cm
- 本の長さ228ページ
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著者について
1936年東京生まれ。東京大学教養学部教養学科(科学史科学哲学分科)卒。東京大学先端科学技術研究センター教授を経て、現在、国際基督教大学教授。主な著書に『日本近代科学の歩み』『西欧近代科学』『近代科学と聖俗革命』『科学と日常性の文脈』『時間の科学』など。学術文庫に『科学史の逆遠近法』『宇宙像の変遷』、『科学的発見のパターン』(訳)がある。
登録情報
- 出版社 : 講談社 (1986/11/5)
- 発売日 : 1986/11/5
- 言語 : 日本語
- 文庫 : 228ページ
- ISBN-10 : 4061587641
- ISBN-13 : 978-4061587649
- 寸法 : 10.8 x 1.1 x 14.8 cm
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2017年7月23日に日本でレビュー済み
2017年12月26日に日本でレビュー済み
我々はいかにも客観的な事実が目の前にあって、科学はそれを客観的に理解しているものだと思っている。しかし、「事実」というものがいかに「理論」という虫眼鏡を通して見られているものかがよく分かる。書かれているのは少し古いが、今読んでも得るところの多い名著だと思う。
2005年1月26日に日本でレビュー済み
時間・空間内で一意的法則に基づいて事象を記述する近代科学は、
人間の意識とは独立に、外界の「もの」の世界の存在とそのなかに張りめぐらされた法則の存在を認めるマルクスの立場(唯物論)と通底するが、
元来は、創造主たる神への信仰がもたらしたヨーロッパ文化圏の臆見 ― 神のオーダー(命令)で世界にオーダー(秩序:自然法則)ができた ― だったのである。
ここに、自然の中には秩序があり、法則が貫いているのだというドグマが誕生した。
混沌を秩序へと凝縮させる機能を持つ創造力の作動過程 ― 科学理論の形成過程 ― に、合理的な説明など不可能である。
科学理論の形成過程には、心も含めて全人間的営みが作用しているにもかかわらず、科学的分析の場面では、心そのものの排除に全力を尽くすからである。
科学理論の変遷とは、新しい事実群の発見という知識の蓄積作業によって、真理へと連続的に漸近していく過程ではなく、
旧来の事実群を別の概念枠で再編成するという意味の世界(「規約」)の組織換えであり、不連続な変革 ― 革命 ― の歴史なのである。
キリスト教的世界創造信仰としての合理的世界秩序への信頼(16-17世紀:ガリレオ、ケプラー、ニュートン)が、
18世紀において「百科全書派」を筆頭にキリスト教的宇宙観からの解放(「聖俗革命」)へと変革し、
19世紀に至り、ようやく今日の無神論的力学的世界観、即ち近代科学としての体裁が整ったのだという解説も含め、著者には教えられることばかりであった。
『新しい科学論』『科学のダイナミックス』との併読をオススメする。
人間の意識とは独立に、外界の「もの」の世界の存在とそのなかに張りめぐらされた法則の存在を認めるマルクスの立場(唯物論)と通底するが、
元来は、創造主たる神への信仰がもたらしたヨーロッパ文化圏の臆見 ― 神のオーダー(命令)で世界にオーダー(秩序:自然法則)ができた ― だったのである。
ここに、自然の中には秩序があり、法則が貫いているのだというドグマが誕生した。
混沌を秩序へと凝縮させる機能を持つ創造力の作動過程 ― 科学理論の形成過程 ― に、合理的な説明など不可能である。
科学理論の形成過程には、心も含めて全人間的営みが作用しているにもかかわらず、科学的分析の場面では、心そのものの排除に全力を尽くすからである。
科学理論の変遷とは、新しい事実群の発見という知識の蓄積作業によって、真理へと連続的に漸近していく過程ではなく、
旧来の事実群を別の概念枠で再編成するという意味の世界(「規約」)の組織換えであり、不連続な変革 ― 革命 ― の歴史なのである。
キリスト教的世界創造信仰としての合理的世界秩序への信頼(16-17世紀:ガリレオ、ケプラー、ニュートン)が、
18世紀において「百科全書派」を筆頭にキリスト教的宇宙観からの解放(「聖俗革命」)へと変革し、
19世紀に至り、ようやく今日の無神論的力学的世界観、即ち近代科学としての体裁が整ったのだという解説も含め、著者には教えられることばかりであった。
『新しい科学論』『科学のダイナミックス』との併読をオススメする。