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内省と遡行 (講談社学術文庫) 文庫 – 1988/4/4
柄谷 行人
(著)
外部に出ること、これが著者がめざした理論的仕事の課題である。ただし著者は、外部を実態的に在るものとして前提してしまうことと、詩的に語ることを自ら禁じた。むしろ、不徹底かつ曖昧な言説に止めをさすために、内部に自らを閉じこめ、徹底化することで自壊させる方法を採った。内省から始めた哲学理論の批判は、ここにぎりぎりの形で提示された。「内省と遡行」から「言語・数・貨幣」へ、さらに「探究」への転回を試みた画期的評論集。
- 本の長さ326ページ
- 言語日本語
- 出版社講談社
- 発売日1988/4/4
- ISBN-104061588265
- ISBN-13978-4061588264
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商品の説明
著者について
1941年兵庫県生まれ。東京大学経済学部卒。同大学院英文科修士課程修了。現在法政大学教授。漱石論により群像新人文学賞、『マルクスその可能性の中心』で亀井勝一郎賞受賞。著書に『畏怖する人間』『意味という病』『マルクスその可能性の中心』『日本近代文学の起源』『探究?』『反文学論』『探究?』『言葉と悲劇』『終焉をめぐって』など多数がある。
登録情報
- 出版社 : 講談社 (1988/4/4)
- 発売日 : 1988/4/4
- 言語 : 日本語
- 文庫 : 326ページ
- ISBN-10 : 4061588265
- ISBN-13 : 978-4061588264
- Amazon 売れ筋ランキング: - 531,168位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 373位論理学・現象学
- - 1,129位哲学・思想の論文・評論・講演集
- - 1,533位講談社学術文庫
- カスタマーレビュー:
著者について
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1941年生まれ。評論家 (「BOOK著者紹介情報」より:本データは『 世界史の構造 (ISBN-13: 978-4000236935 )』が刊行された当時に掲載されていたものです。)
-
トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
レビューのフィルタリング中に問題が発生しました。後でもう一度試してください。
2018年7月12日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
古びない感じです。独自のスタイルが最初期からあります。小林秀雄先生も、あ、あの人だと、文章ですぐわかる人ですが、この本の作者もそれの独特なものを。批評が毎回詰め将棋のように理に落ちることがとても面白いです。この人は大江健三郎先生が割に小説の波長が合う批評家の一人だなと考えておりましたが、大江健三郎先生の世界文学志向の文章について論じる本について、世界的文学論じることでを己の知的さを示すためにもてあそんでいるみたいな批判をしており、あの人は誰にでも完全な肯定はできないタイプの作家なのだなと。村上春樹先生とかの論じる本では気味が悪くなるくらい持ち上げている批評家の本を読んだことがあるけども、大江先生よくも悪くも分かり易いクセのある作家なんだなと。左右どっちにもそれなりの悪意を覚えさせる。しかし初期はその頃の昭和キモ文学の象徴としての記念碑が実に多いと思います。あと村上龍、限りなく透明に近いブルーについての、初見の実に嫌な感じを語っており、その頃ニューヨークにいて、つい外人にその嫌ったらしさを英語で説明してしまったと、語っており、こちらは単なるアクション小説みたいなものにしかそれに思わなかったので、新しい価値観に戸惑う批評家を感じました。人間は出現する様々な汚いものを浄化すると言うより慣れていき、じき、慣れることで汚さすら感じなくなってゆく。みたいなことかと。
2021年2月24日に日本でレビュー済み
ここを頂点として、また文学評論に戻ったほうがよかった。この作品は素晴らしい。でももっと素晴らしいのは、この人の文学評論だ。シャープで鋭いが、決して作家や作品を裏切らない。また読みたくなるような評論だけど、その評論文自体が、一個独立の作品だった。
本書までは、思考そのものだった。オリンピックのゴールドメダリストのような、オペレーション自体が超越していた。
本書までは、思考そのものだった。オリンピックのゴールドメダリストのような、オペレーション自体が超越していた。
2014年1月31日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
よい本です。汚れもなく、読み安く、結構な品です。値段も手ごろでした。
2022年7月14日に日本でレビュー済み
本書は、ハイデッガー、ニーチェ、ゲーデル、龍樹、カントール、ソシュール、ウィトゲンシュタイン、
フロイト、マルクスといった人物たちの諸世界に対する<その立ち位置感や諸視点>を解説しながら、
その世界内における諸命題の分析、批評、転回を加えながら、
その構造体の仕組みの<解体>を試みていくような書である。
・<記号学的世界>あるいは、その派生的な世界(言語-論理)をどのように捉えていたか
・プラトニズム構造体(イデール・ロゴス的な土俵/二項対立的な世界)と<その解体>
(<外→内/内→外>「内省/遡行(言葉⇌数⇌貨幣)」)
本書の全体像は、あとがき浅田彰氏による解説から、
(あとがき/浅田彰)
・これは驚くべき敗北の記録である
・<自己言及的な形式体系(偽の告白)>という結局は閉じたヴィジョンを、
「言語ゲーム」に向けて開いていくこと事態がどれほど苛酷な「戦争」であったかを、
本書はその<輝かしい敗北の連鎖>において示している
・「分業(差異化)と交通(横断的結合)」が織りなす歴史という把握(325)
・構造主義の析出する形式体系は(~)「内なる外」としてのメタレベルに留保され(~)
そこから形式体系を吊り支えるような<不可視の中心>を、暗に前提しているのだ(323)
・形式化を突き進めようとするとき立ち現れるのは、
形式体系が自らの上に折り重なり、自らを根拠づけようとする奇妙なループに他ならない。
言語について語るのが<言語>であり、
数についての命題を符号化して表現するのが<数>であり、
商品価値を標示するのがもともとの一商品にすぎない<貨幣>であるというループ。
(自己言及的・自己関係的・自己差異的な形式的な差異体系)
(~)
著者は粘り強い思考の果てに、こうした徹底的認識に到達し、
ついでにそれを無造作に投げ捨てる——
それが依然として内省の立場の枠内での「あがき」にすぎないがゆえに(『地下室の手記』的)
・少しずつニュアンスを変えながら、同じことが何度も何度も繰り返される。
脱出路が見えたと思ったら、やがてまた放棄される。
こうして敗北を重ねながら、著者は絶えず新たな地点に立って攻撃を再開するのだ。
その驚くべき粘り強さが、本書にはほとんど悲劇的な輝きを与える——
といったように、いずれにせよ、ヒトは、
ソシュールが述べるような<実質 substanceと形相 forme>といった概念に直面するとき、
あるいは引き戻されるときに、その割合を<どのように>即自的な世界に振り分けるか、また、
マルクス的持続(規則均衡/貨幣/差異化ループ)の世界のなかでの規則の変動——
これもソシュールの概念を借りれば、
通事言語学での時間といった概念のファクターのなかでの差異的な価値の変化——に対して、
どの程度の距離をおきながら、あるいは量りながら、<どのような>諸アプローチをとりながら、
といった個々人の自身への<その度合い>に還元される場やものに引き戻されていくのだろう。
本書『内省と遡行』はそのような<前-主客未分節>といった領域から、
諸世界を通して、何かを意味するもの、あるいは意味しないものを、
<言葉>以前の諸視点から、<それはどのようなものか>を考察できるような書でもある。
参考図書
『言葉・狂気・エロス―無意識の深みにうごめくもの』『マーラーと世紀末ウィーン』
『言語・思考・現実(L・ベンジャミン・ウォーフ)』『文化人類学と言語学(E・サピア)』
『ソシュール 一般言語学講義: コンスタンタンのノート』『ソシュール小辞典』
『反哲学的断章』『ウィトゲンシュタイン全集 9 確実性の問題/断片』『生物から見た世界』
------------------------------------------------------------------------------------
1 内省と遡行
序説
1.主知性のパラドックス
2.下向と上向
3.知の遠近法
4.時と場所
5.作品とテクスト
2 言語・数・貨幣
序説 基礎論
1.形式化と現象学的還元
2.代数的構造――ゼロと超越
3.順序構造――分裂生成
------------------------------------------------------------------------------------
(記号学_パロール/ラング・連鎖)
・「言語ゲーム」の規則とは、われわれが理解したとたんに見出される<結果>でしかない(~)
(言語ゲーム内で)ある記号で何かを「意味している」ことが成立するそのかぎりで、
たちまち「(あらたな規則的な何かを)でっちあげられる」
このような規則の変改を規制するような規則はありえない、
とウィトゲンシュタインは言う(『哲学探求』84)(302)
------------------------------------------------------------------------------------
(記号学_パロール/ラング・連鎖_2)
・数学的空間の構造(言語ゲームの命題)は、
精神生理学的空間の構造とは正反対のもの
(精神生理学的空間を<どのようにして>知るのか、が命題となる)
(『象徴形式としの遠近法(木田元)』)
・われわれは諸言語の文法(その連鎖)に支配されている(ニーチェ)
------------------------------------------------------------------------------------
(記号学)
・ハイデッガーのフッサール批判・プラトニズム批判——
<印欧語的な形式化体系の世界/主語-述語/形相以外の捨象>——に対する
・<特定の文法的機能の呪縛>とは、ぎりぎり究極のところ、
生理学的価値判断(差異・対象化/形相化)と、
種族的条件の呪縛(諸言語ゲーム)にほかならないのだ(『善悪の彼岸』)
・プラトン的世界<矛盾律の強制>をたえず戦略的に迂回していくことにおいて、
<存在(形相)>は解釈にすぎない(ニーチェ)
・ソシュールは(~)還元不可能な差異にたどりつく。(~)
このことは外的(形相的)な記号、文字、テクストに固執しているかぎりはありえない。
(前-記号学からの<記号の表象化>)(158)
(ゲーデルの証明、ゼノンのパラドックス、亀とうさぎのパラドックス、嘘つきパラドックスなど)
・無限後退的な連鎖関係を閉じるような「究極のシニフィエ(恣意性)」(224)
------------------------------------------------------------------------------------
(記号学_言語学)
・龍樹(ナーガールジュナ)はあらゆる言語表現がパラドックスとなる弁証を徹底的に(~)
たとえば「アナログとデジタル」あるいは<0/1>といった二分法そのもの(~)
(数学の命題/ロジカル・タイプ『プリンキピア・マテマティカ』)
(言語ゲーム/自己言及的な形式体系/差異化体系/差異の哲学の命題)
------------------------------------------------------------------------------------
(記号学_言語学_2)
・クラス(メタレベル/範疇化)
・メンバー(オブジェクトレベル/対象化)
(諸言語ゲームの世界/反証可能性)
・カントールの方法
① 無限といった概念を実無限(消失点)として捉える
② 集合とは、ある<消失点>によって形成されている配置・関係を<還元>するところに成り立つ
・カントールのパラドックス
<「無限集合」を可算的なものとして囲い込むためのメタレベル>が、暗黙に前提されている
(<空集合は諸集合を含む差異体系である>)(126)
・形式的空間の遠近法的倒錯——すべてを見通すようなあの<消失点>そのものを消すようなこと——
(123)
------------------------------------------------------------------------------------
(_下部集合)
・共同主観的規則(客観性/印欧語的な世界)
・<表象作用の確実性>といった概念は<その特定の通事的言語世界での使用において成り立つ>
・「社会的性格」の「終わりなき分析」をする共同体はどこへ向かっていくのか
・ツリー構造の自己差異化の無限ループ(<偶然的>な過程として諸共同体の命題・連鎖)
・たえまなく自己差異化する差異体系にほかならない「機械によって機械を生産する」(266)
・マルクスが見出すのは、
メタレベル(上部構造)がたえずオブジェクトレベル(諸対象化)に下降してくることによる
根源的な「不均衡」なのである
(矛盾をもつ命題/生成のループ)
(<意味づけ><価値づけ>の増殖化/恣意性の二重性)(128)
フロイト、マルクスといった人物たちの諸世界に対する<その立ち位置感や諸視点>を解説しながら、
その世界内における諸命題の分析、批評、転回を加えながら、
その構造体の仕組みの<解体>を試みていくような書である。
・<記号学的世界>あるいは、その派生的な世界(言語-論理)をどのように捉えていたか
・プラトニズム構造体(イデール・ロゴス的な土俵/二項対立的な世界)と<その解体>
(<外→内/内→外>「内省/遡行(言葉⇌数⇌貨幣)」)
本書の全体像は、あとがき浅田彰氏による解説から、
(あとがき/浅田彰)
・これは驚くべき敗北の記録である
・<自己言及的な形式体系(偽の告白)>という結局は閉じたヴィジョンを、
「言語ゲーム」に向けて開いていくこと事態がどれほど苛酷な「戦争」であったかを、
本書はその<輝かしい敗北の連鎖>において示している
・「分業(差異化)と交通(横断的結合)」が織りなす歴史という把握(325)
・構造主義の析出する形式体系は(~)「内なる外」としてのメタレベルに留保され(~)
そこから形式体系を吊り支えるような<不可視の中心>を、暗に前提しているのだ(323)
・形式化を突き進めようとするとき立ち現れるのは、
形式体系が自らの上に折り重なり、自らを根拠づけようとする奇妙なループに他ならない。
言語について語るのが<言語>であり、
数についての命題を符号化して表現するのが<数>であり、
商品価値を標示するのがもともとの一商品にすぎない<貨幣>であるというループ。
(自己言及的・自己関係的・自己差異的な形式的な差異体系)
(~)
著者は粘り強い思考の果てに、こうした徹底的認識に到達し、
ついでにそれを無造作に投げ捨てる——
それが依然として内省の立場の枠内での「あがき」にすぎないがゆえに(『地下室の手記』的)
・少しずつニュアンスを変えながら、同じことが何度も何度も繰り返される。
脱出路が見えたと思ったら、やがてまた放棄される。
こうして敗北を重ねながら、著者は絶えず新たな地点に立って攻撃を再開するのだ。
その驚くべき粘り強さが、本書にはほとんど悲劇的な輝きを与える——
といったように、いずれにせよ、ヒトは、
ソシュールが述べるような<実質 substanceと形相 forme>といった概念に直面するとき、
あるいは引き戻されるときに、その割合を<どのように>即自的な世界に振り分けるか、また、
マルクス的持続(規則均衡/貨幣/差異化ループ)の世界のなかでの規則の変動——
これもソシュールの概念を借りれば、
通事言語学での時間といった概念のファクターのなかでの差異的な価値の変化——に対して、
どの程度の距離をおきながら、あるいは量りながら、<どのような>諸アプローチをとりながら、
といった個々人の自身への<その度合い>に還元される場やものに引き戻されていくのだろう。
本書『内省と遡行』はそのような<前-主客未分節>といった領域から、
諸世界を通して、何かを意味するもの、あるいは意味しないものを、
<言葉>以前の諸視点から、<それはどのようなものか>を考察できるような書でもある。
参考図書
『言葉・狂気・エロス―無意識の深みにうごめくもの』『マーラーと世紀末ウィーン』
『言語・思考・現実(L・ベンジャミン・ウォーフ)』『文化人類学と言語学(E・サピア)』
『ソシュール 一般言語学講義: コンスタンタンのノート』『ソシュール小辞典』
『反哲学的断章』『ウィトゲンシュタイン全集 9 確実性の問題/断片』『生物から見た世界』
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1 内省と遡行
序説
1.主知性のパラドックス
2.下向と上向
3.知の遠近法
4.時と場所
5.作品とテクスト
2 言語・数・貨幣
序説 基礎論
1.形式化と現象学的還元
2.代数的構造――ゼロと超越
3.順序構造――分裂生成
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(記号学_パロール/ラング・連鎖)
・「言語ゲーム」の規則とは、われわれが理解したとたんに見出される<結果>でしかない(~)
(言語ゲーム内で)ある記号で何かを「意味している」ことが成立するそのかぎりで、
たちまち「(あらたな規則的な何かを)でっちあげられる」
このような規則の変改を規制するような規則はありえない、
とウィトゲンシュタインは言う(『哲学探求』84)(302)
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(記号学_パロール/ラング・連鎖_2)
・数学的空間の構造(言語ゲームの命題)は、
精神生理学的空間の構造とは正反対のもの
(精神生理学的空間を<どのようにして>知るのか、が命題となる)
(『象徴形式としの遠近法(木田元)』)
・われわれは諸言語の文法(その連鎖)に支配されている(ニーチェ)
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(記号学)
・ハイデッガーのフッサール批判・プラトニズム批判——
<印欧語的な形式化体系の世界/主語-述語/形相以外の捨象>——に対する
・<特定の文法的機能の呪縛>とは、ぎりぎり究極のところ、
生理学的価値判断(差異・対象化/形相化)と、
種族的条件の呪縛(諸言語ゲーム)にほかならないのだ(『善悪の彼岸』)
・プラトン的世界<矛盾律の強制>をたえず戦略的に迂回していくことにおいて、
<存在(形相)>は解釈にすぎない(ニーチェ)
・ソシュールは(~)還元不可能な差異にたどりつく。(~)
このことは外的(形相的)な記号、文字、テクストに固執しているかぎりはありえない。
(前-記号学からの<記号の表象化>)(158)
(ゲーデルの証明、ゼノンのパラドックス、亀とうさぎのパラドックス、嘘つきパラドックスなど)
・無限後退的な連鎖関係を閉じるような「究極のシニフィエ(恣意性)」(224)
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(記号学_言語学)
・龍樹(ナーガールジュナ)はあらゆる言語表現がパラドックスとなる弁証を徹底的に(~)
たとえば「アナログとデジタル」あるいは<0/1>といった二分法そのもの(~)
(数学の命題/ロジカル・タイプ『プリンキピア・マテマティカ』)
(言語ゲーム/自己言及的な形式体系/差異化体系/差異の哲学の命題)
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(記号学_言語学_2)
・クラス(メタレベル/範疇化)
・メンバー(オブジェクトレベル/対象化)
(諸言語ゲームの世界/反証可能性)
・カントールの方法
① 無限といった概念を実無限(消失点)として捉える
② 集合とは、ある<消失点>によって形成されている配置・関係を<還元>するところに成り立つ
・カントールのパラドックス
<「無限集合」を可算的なものとして囲い込むためのメタレベル>が、暗黙に前提されている
(<空集合は諸集合を含む差異体系である>)(126)
・形式的空間の遠近法的倒錯——すべてを見通すようなあの<消失点>そのものを消すようなこと——
(123)
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(_下部集合)
・共同主観的規則(客観性/印欧語的な世界)
・<表象作用の確実性>といった概念は<その特定の通事的言語世界での使用において成り立つ>
・「社会的性格」の「終わりなき分析」をする共同体はどこへ向かっていくのか
・ツリー構造の自己差異化の無限ループ(<偶然的>な過程として諸共同体の命題・連鎖)
・たえまなく自己差異化する差異体系にほかならない「機械によって機械を生産する」(266)
・マルクスが見出すのは、
メタレベル(上部構造)がたえずオブジェクトレベル(諸対象化)に下降してくることによる
根源的な「不均衡」なのである
(矛盾をもつ命題/生成のループ)
(<意味づけ><価値づけ>の増殖化/恣意性の二重性)(128)
2013年7月30日に日本でレビュー済み
本書の「内省と遡行」と「言語・数・貨幣」では、以前に著した「隠喩としての建築」や「形式化の諸問題」で取り上げたテーマに改めて挑戦している。著者は同じテーマを巡って何度も書き直したことになるが、著者曰く未完の論文である。
テーマは、形式体系の内部で形式化を徹底させることによって、自己言及の矛盾を露呈させ形式体系の瓦解を図り、外部へ出ることである。
本書には、当時、群像に連載中だった『探究』の抄録として「転回のための8章」が付記されている。そこでは、上記テーマ(ディコンストラクション)について著者自身が述べられている通り、ドゥルーズ・ガタリに引き寄せてはいるが、それは「あがきに過ぎなかった」。既に構図ができているから、帰結としてそれ以上の進展を得られなかったのも致し方ないように思う。
形式化を徹底することで形式体系を疑問符の中に叩き込み、それらを超えて行く何かへの期待があった。常に知的興奮をもたらしてくれる著者にして突き破って外部へ出ることは適わず、内部に閉じ込められた著者を心身ともに危機に陥れた。
それでも挑み続け、『マルクスその可能性の中心』で検討された価値形態論、中でも「人間は意識しないがそう行う」という交換に戻っていき、交換する立場と交換される立場から論じたのが「転回のための8章」である。転回して外部についての新たな『探究』がはじまった。
テーマは、形式体系の内部で形式化を徹底させることによって、自己言及の矛盾を露呈させ形式体系の瓦解を図り、外部へ出ることである。
本書には、当時、群像に連載中だった『探究』の抄録として「転回のための8章」が付記されている。そこでは、上記テーマ(ディコンストラクション)について著者自身が述べられている通り、ドゥルーズ・ガタリに引き寄せてはいるが、それは「あがきに過ぎなかった」。既に構図ができているから、帰結としてそれ以上の進展を得られなかったのも致し方ないように思う。
形式化を徹底することで形式体系を疑問符の中に叩き込み、それらを超えて行く何かへの期待があった。常に知的興奮をもたらしてくれる著者にして突き破って外部へ出ることは適わず、内部に閉じ込められた著者を心身ともに危機に陥れた。
それでも挑み続け、『マルクスその可能性の中心』で検討された価値形態論、中でも「人間は意識しないがそう行う」という交換に戻っていき、交換する立場と交換される立場から論じたのが「転回のための8章」である。転回して外部についての新たな『探究』がはじまった。
2008年4月27日に日本でレビュー済み
ポストモダンというのは、ある意味「閉塞」の時代です。
自由な社会が成立し、豊かな生活を享受し、一見すると素晴らしい時代。
でも、本当は何もない時代。
過去もない、未来もない、何も出来ない、どこにも行けない、良いも悪いも分からない。
そういったないないづくしの状況の中で、生きる希望を失わないための思想がポストモダニズムだといえるでしょう。
この本は、まさにそのような希望のための試みでした。
本書が志向しているのは外部、つまり「ここではないどこか」です。閉塞状況を打ち破ってくれるような、「どこか」を目指した思考の軌跡が本書です。
それも安易に「これが外部だ!」と語るのではなく、徹底的に内部を語ることで。内部が自ら音を立てて崩れるまで、内部を突き進んだのがこの『内省と遡行』でした。
それは希望であると同時に、絶望でもあります。何故なら本書が問題としたのは、「ここが外部だ!と言った瞬間、そこはたちどころ内部になってしまう」という、まさにそのことだったからです。本書で幾度となく登場する「自己言及性」のパラドックスというのがこれです。
だからこそ、本書は内部にこだわるのです。「ここ」が「ここ」でなくなるまで、徹底して「ここ」について語る。
それは敗北することを運命づけられた試みです。そしてそうであるが故に、この本は読まれ、讃えられるべきだと思います。
『構造の力』と並んで、二十世紀後半の日本における思想的達成といえる書物でしょう。
自由な社会が成立し、豊かな生活を享受し、一見すると素晴らしい時代。
でも、本当は何もない時代。
過去もない、未来もない、何も出来ない、どこにも行けない、良いも悪いも分からない。
そういったないないづくしの状況の中で、生きる希望を失わないための思想がポストモダニズムだといえるでしょう。
この本は、まさにそのような希望のための試みでした。
本書が志向しているのは外部、つまり「ここではないどこか」です。閉塞状況を打ち破ってくれるような、「どこか」を目指した思考の軌跡が本書です。
それも安易に「これが外部だ!」と語るのではなく、徹底的に内部を語ることで。内部が自ら音を立てて崩れるまで、内部を突き進んだのがこの『内省と遡行』でした。
それは希望であると同時に、絶望でもあります。何故なら本書が問題としたのは、「ここが外部だ!と言った瞬間、そこはたちどころ内部になってしまう」という、まさにそのことだったからです。本書で幾度となく登場する「自己言及性」のパラドックスというのがこれです。
だからこそ、本書は内部にこだわるのです。「ここ」が「ここ」でなくなるまで、徹底して「ここ」について語る。
それは敗北することを運命づけられた試みです。そしてそうであるが故に、この本は読まれ、讃えられるべきだと思います。
『構造の力』と並んで、二十世紀後半の日本における思想的達成といえる書物でしょう。