日本史に精通する茶道研究の大家が、茶道・陶芸・古典・武術に精通する戦国時代の特異な英雄である
古田織部に光を当てた論考である。茶道といえば千利休が誰より有名だが、後継者たる織部は利休から
深く学びながらもさらに進んで多様な色彩と異国の意匠を自由に表現することに成功したことを鮮明にする、
日本茶道史研究の金字塔といわれる書である。織部のあらゆる領域を豪快に統合してみせる手腕には、
世界中のあらゆる情報の摂取が行いやすくなった現代だからこそ、継承すべきものがあるように思われる。
「利休処罰の原因については、古来、さまざまな説が伝わり、千古の謎とさえいわれている…。…
評論家や小説家などは、歴史の実証性などを無視し、勝手な空想から、途方もない迷論奇説を吐くこと
が多い。…ところで、私は、…じっくりと、十数年がかりで、想を練ってきたが、最近になって、明確
な結論に達することができた。…それを一口でいえば、堺町人出身の茶湯者(ちゃのゆしゃ)として、
自由勝手に振舞ってきた利休の言動が、日本全国を平定し、新たに封建的身分制度を実施しつつあった
…豊臣政権にとって、一介の町人として、許しがたい存在となってきたからである。」(58〜60頁)
「利休の茶事の作為は、きわめて自由闊達であり、形式と虚構を忌み嫌っている。利休にいわせれば、作為
とは…、新しい発見をすること、創意を凝らすことなのである。茶事の趣向は、つねに新鮮でなければなら
ぬ。新鮮なればこそ、魅力があり、客を楽しませ、もてなすことができる。それが、亭主の、何よりの心づく
しと、いうものである。その点、織部は、師匠利休の教え通りを実施している。利休の…反対を行なっている。
…利休が、しっくりと調和のとれた、安定感のある形状を好んだのに対して、織部は、異様な力強さを、形の
上で表現しようと努力したのである。そこに、戦国武将古田織部の個性が生かされていた。」(196〜7頁)
「まず、利休好みの特徴が、どこにあるかといえば、目立たぬ、しかも、よく調和のとれた美しさの表現にある
らしい。一見したところは、いかにも素朴な、平凡すぎる品物だが、いかにも使用に便利で、しかも、いくら使って
も、毎日ながめていても、飽きがこない。…これにたいして、織部好み、織部形は、目に立つ美を、あらゆる形
において、表現しようとつとめている。利休が静中に美を求めたのにたいして、織部が動中に美を捉えようとした
ところは、やはり、武人としての本質から出発したものと、考えられる。…織部は、…茶において、地味な美しさ
を愛することしか知らなかった数寄者たちに、はなやかな美を愛することを教えたのである。」(211〜2頁)
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古田織部の茶道 (講談社学術文庫 932) 文庫 – 1990/7/1
桑田 忠親
(著)
「茶の湯の名人」の称をもち、千利休の高弟中の随一と謳われる古田織部(ふるたおりべ)は、自ら千軍万馬の戦場を往来した戦国大名。その故にか豊臣家滅亡後、家康より切腹を命ぜられる悲劇をもって波瀾の生涯を閉じる。織部こそ利休に次ぐ茶の湯名人と確信する著者は、あらゆる史料を博捜してその人と芸術を描き出す。桃山文化の神髄として不朽の光を放ち続ける織部の茶道の全体像を、初めて明らかにされた記念碑的労作。
- 本の長さ255ページ
- 言語日本語
- 出版社講談社
- 発売日1990/7/1
- ISBN-104061589326
- ISBN-13978-4061589322
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商品の説明
著者について
1902年東京生まれ。1925年国学院大学卒業。東京大学史料編纂宮補、立教大学講師、国学院大学教授を経て、国学院大学名誉教授。著書に『茶道の歴史』『茶器と懐石』(以上、学術文庫)『千利休研究』『日本茶道史』『山上宗二記の研究』など多数。1987年5月5日没。
登録情報
- 出版社 : 講談社 (1990/7/1)
- 発売日 : 1990/7/1
- 言語 : 日本語
- 文庫 : 255ページ
- ISBN-10 : 4061589326
- ISBN-13 : 978-4061589322
- Amazon 売れ筋ランキング: - 162,029位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 91位茶道 (本)
- - 558位講談社学術文庫
- - 11,000位アート・建築・デザイン (本)
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上位レビュー、対象国: 日本
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2013年2月17日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
茶聖・千利休の愛弟子にして、<織部焼>の創始者でもある戦国の大名茶名人・古田織部の茶道について書かれた本です。
と、知った風なことを書きましたが、実はわたしの織部歴は一ヶ月未満です。先日訪れた京都の楽美術館で長次郎の楽茶碗に「ぐっ」ときてしまったわたしは、当然帰宅後「いやいや、色が分かんないから白黒写真はやめて」と空しく抗議しながら長次郎の作品集を読み、その後楽焼のプロデューサーである利休の侘び茶思想へと関心が向き、「むう、そういえば茶道は禅かあ・・」と少し呻きつつ(自分と宗派が違うので)利休を勉強しながら漫画『へうげもの』をレンタルして一気に読み、結果漫画の主人公・古田織部に感情移入してしまい(山上宗二も凄すぎると思いましたが)、本書にたどり着きました。漫画的な演出やフィクション部分があるとはいえ、『へうげもの』では、利休の造形も複雑で個人的には非常に良かったです。
本書では、織部の手紙や関係者の家の古文書を豊富に提示しながら、
「一、武と茶の経歴」「二、利休との交誼」「三、豊臣から徳川へ」「四、織部と数寄大名」「五、織部と数寄者」「六、大坂陣と織部」「七、織部の処罰とその原因」「八、織部と茶道」「九、織部好みと織部焼」「古田織部年譜」「解説」と9章に分けて著述されています。
本書は文章自体が平易で読みやすいですし、またわたしは漫画を先に読んでいたので、大体の関係者(有名な武将は置くとして、個人的にはやや細かい部類に属する織田有楽や佐竹義宣、ヴァリヤーノ、小堀遠州、中川清秀など)や織田信長の使番であったころから関ヶ原までの織部の半生、またエピソードが頭に入っており、そのおかげでとても読み進めやすかったです。エピソードも漫画に出てきたものと比較しながら、どれをとってどれを捨てているというようなこととか、この部分は史実として信憑性がない逸話とされているけどエンターテイメント性を考えてあえて取り上げて、膨らませたり創作したのかな?とか色々思いを馳せながら面白く読めました。著者は、ドラマや小説における史実とかけ離れたアレンジには不賛成のようで、本書中で「あのドラマの●●はいただけない」「あの小説の解釈は残念」等おっしゃっていますが、わたしはアレンジ許容派なので、そのあたりも気にならなかったです。
それにしても、利休の死後独自の茶道を築き上げたためもあり「門下の異端児」とみなされ、紛れもない門下の高弟でありながら必ずしも「利休七哲」に加えられないという織部ですが(本書には「宗左の『江岑筆記』では織部を含めているが、その前後に書かれた多くの茶書には必ずしも織部を加えていない」と書かれていますが、Wikiなどを見ると一般には織部を加えている向きが多いようです)、利休が秀吉の不興を買い堺での蟄居を言い渡されたとき、織部と細川忠興だけが危険を冒してまで師匠の見送りに来たという逸話だけを取ってみても、熱い師弟の繋がりを思わせるには十分です。また、著者が本書中で書いておられるように、ただの真似ではなく茶道には「創作」が肝要と教えた師・利休の心をしっかりと学び形にしたのは弟子の中でも織部が最たるものであったわけで、本当、織部は智と誠を併せ持ったいい弟子だったのだなあ〜としみじみ尊敬してしまいます。わたしは、好みとしては、思想色が強く、無駄を削ぎに削ぎ落すシンプルで毅然とした利休茶道のほうが合うのですが、彩色や絵入りの明るい織部茶道も勉強したい、と思うのは、古田織部という茶人の人となりに惹かれるところが大きいという気がします。
織部入門としては手ごろな一冊かと思いますが、より分かりやすくするためには漫画『へうげもの』を併読されることも個人的にはお勧めします。
と、知った風なことを書きましたが、実はわたしの織部歴は一ヶ月未満です。先日訪れた京都の楽美術館で長次郎の楽茶碗に「ぐっ」ときてしまったわたしは、当然帰宅後「いやいや、色が分かんないから白黒写真はやめて」と空しく抗議しながら長次郎の作品集を読み、その後楽焼のプロデューサーである利休の侘び茶思想へと関心が向き、「むう、そういえば茶道は禅かあ・・」と少し呻きつつ(自分と宗派が違うので)利休を勉強しながら漫画『へうげもの』をレンタルして一気に読み、結果漫画の主人公・古田織部に感情移入してしまい(山上宗二も凄すぎると思いましたが)、本書にたどり着きました。漫画的な演出やフィクション部分があるとはいえ、『へうげもの』では、利休の造形も複雑で個人的には非常に良かったです。
本書では、織部の手紙や関係者の家の古文書を豊富に提示しながら、
「一、武と茶の経歴」「二、利休との交誼」「三、豊臣から徳川へ」「四、織部と数寄大名」「五、織部と数寄者」「六、大坂陣と織部」「七、織部の処罰とその原因」「八、織部と茶道」「九、織部好みと織部焼」「古田織部年譜」「解説」と9章に分けて著述されています。
本書は文章自体が平易で読みやすいですし、またわたしは漫画を先に読んでいたので、大体の関係者(有名な武将は置くとして、個人的にはやや細かい部類に属する織田有楽や佐竹義宣、ヴァリヤーノ、小堀遠州、中川清秀など)や織田信長の使番であったころから関ヶ原までの織部の半生、またエピソードが頭に入っており、そのおかげでとても読み進めやすかったです。エピソードも漫画に出てきたものと比較しながら、どれをとってどれを捨てているというようなこととか、この部分は史実として信憑性がない逸話とされているけどエンターテイメント性を考えてあえて取り上げて、膨らませたり創作したのかな?とか色々思いを馳せながら面白く読めました。著者は、ドラマや小説における史実とかけ離れたアレンジには不賛成のようで、本書中で「あのドラマの●●はいただけない」「あの小説の解釈は残念」等おっしゃっていますが、わたしはアレンジ許容派なので、そのあたりも気にならなかったです。
それにしても、利休の死後独自の茶道を築き上げたためもあり「門下の異端児」とみなされ、紛れもない門下の高弟でありながら必ずしも「利休七哲」に加えられないという織部ですが(本書には「宗左の『江岑筆記』では織部を含めているが、その前後に書かれた多くの茶書には必ずしも織部を加えていない」と書かれていますが、Wikiなどを見ると一般には織部を加えている向きが多いようです)、利休が秀吉の不興を買い堺での蟄居を言い渡されたとき、織部と細川忠興だけが危険を冒してまで師匠の見送りに来たという逸話だけを取ってみても、熱い師弟の繋がりを思わせるには十分です。また、著者が本書中で書いておられるように、ただの真似ではなく茶道には「創作」が肝要と教えた師・利休の心をしっかりと学び形にしたのは弟子の中でも織部が最たるものであったわけで、本当、織部は智と誠を併せ持ったいい弟子だったのだなあ〜としみじみ尊敬してしまいます。わたしは、好みとしては、思想色が強く、無駄を削ぎに削ぎ落すシンプルで毅然とした利休茶道のほうが合うのですが、彩色や絵入りの明るい織部茶道も勉強したい、と思うのは、古田織部という茶人の人となりに惹かれるところが大きいという気がします。
織部入門としては手ごろな一冊かと思いますが、より分かりやすくするためには漫画『へうげもの』を併読されることも個人的にはお勧めします。
2019年5月20日に日本でレビュー済み
古田織部好みの茶碗が、師の千利休好みの茶碗とは異なり、型破りでいびつなのはなぜか、また、織部が徳川家康から切腹を命じられたのはなぜか――かねがね疑問を抱いていたが、『古田織部の茶道』(桑田忠親著、講談社学術文庫)が、これらの謎を解いてくれました。
「罪を蒙って堺に帰る利休を、だれはばからず、淀の渡し場まで見送り、慰めのことばをかけたのは、利休の門弟に人多しといえども、織部と、細川忠興だけだった」。
「『古田家譜』には、(豊臣)秀吉と織部の茶に関して、重大なことを伝えている。それは、秀吉は、利休を処罰すると、ほどなく、古田織部に命じ、利休に代わって茶の指南をさせたが、あるとき、織部に向かって、――利休相伝の茶の湯というのは、要するに、堺の町人の茶であるから、武家にはふさわしくない。だから、利休流の町人茶をば、武家流、大名ふうに、改革せよ――と、命じたというのである。これは、織部が利休などとは違って、美濃出身の地侍で、千軍万馬の間を往来し、槍ひとすじで、山城国西ケ岡三万五千石の大名に封ぜられたところの、根っからの武人だったからであろう」。
「利休門下には。織部ほど、師匠と反対な趣向を凝らした茶人は、他に見あたらない。利休一辺倒の茶人たちにとって、織部こそは、小ざかしき反逆者だったのである。・・・しかし、利休門下に人多しといえども、本当に利休の(人まねをせず、創意を凝らせという)教訓を遵奉し、それを実践にうつしたのは、織部一人ではなかったかと、私は思うのである。・・・織部は、利休によって完成された中世ふうの茶事の法式を破り、大名好みの桃山芸術に見られる多様な色彩と豪快な感覚を自在に表現することに成功している。もし、利休が生きていたなら、門弟中、わが道を最も正しく伝えたものは織部だというに、相違あるまい。利休に次ぐ時代の茶の湯の名人は、やはり、織部といえるのである」。
「(元和元<1615>年)5月7日、大坂城をおとしいれ、(豊臣)秀頼以下豊臣氏一族を滅ぼすと、6月11日になって、(織部の家臣の)木村宗喜の(京都放火未遂)事件の責任を取らせるため、古田織部、および、その嗣子の(古田)山城守重広に切腹を命じた。罪名は、大坂がたに内通したというのである。ついで、古田家の財産は没収され、領地は改易となった。主謀者の木村宗喜は、閏6月29日になって、死刑に処せられている」。この時、織部は72歳でした。
「家康から咎めを受けると、織部は、――かくなる上は、申しひらきも見苦し――といって、一言の弁解もなく、切腹して果てたので、世の数寄者たちは、こぞって、その最期のいさぎよさに感嘆したと、いうことである。利休の最期の有様と、一脈、相通ずるものがあった」。「かれの(徳川方とも豊臣方とも分け隔てなく付き合う)自由勝手な行動が家康の怒りをかっていることを、(織部は)充分に承知してのことであろう」。
「罪を蒙って堺に帰る利休を、だれはばからず、淀の渡し場まで見送り、慰めのことばをかけたのは、利休の門弟に人多しといえども、織部と、細川忠興だけだった」。
「『古田家譜』には、(豊臣)秀吉と織部の茶に関して、重大なことを伝えている。それは、秀吉は、利休を処罰すると、ほどなく、古田織部に命じ、利休に代わって茶の指南をさせたが、あるとき、織部に向かって、――利休相伝の茶の湯というのは、要するに、堺の町人の茶であるから、武家にはふさわしくない。だから、利休流の町人茶をば、武家流、大名ふうに、改革せよ――と、命じたというのである。これは、織部が利休などとは違って、美濃出身の地侍で、千軍万馬の間を往来し、槍ひとすじで、山城国西ケ岡三万五千石の大名に封ぜられたところの、根っからの武人だったからであろう」。
「利休門下には。織部ほど、師匠と反対な趣向を凝らした茶人は、他に見あたらない。利休一辺倒の茶人たちにとって、織部こそは、小ざかしき反逆者だったのである。・・・しかし、利休門下に人多しといえども、本当に利休の(人まねをせず、創意を凝らせという)教訓を遵奉し、それを実践にうつしたのは、織部一人ではなかったかと、私は思うのである。・・・織部は、利休によって完成された中世ふうの茶事の法式を破り、大名好みの桃山芸術に見られる多様な色彩と豪快な感覚を自在に表現することに成功している。もし、利休が生きていたなら、門弟中、わが道を最も正しく伝えたものは織部だというに、相違あるまい。利休に次ぐ時代の茶の湯の名人は、やはり、織部といえるのである」。
「(元和元<1615>年)5月7日、大坂城をおとしいれ、(豊臣)秀頼以下豊臣氏一族を滅ぼすと、6月11日になって、(織部の家臣の)木村宗喜の(京都放火未遂)事件の責任を取らせるため、古田織部、および、その嗣子の(古田)山城守重広に切腹を命じた。罪名は、大坂がたに内通したというのである。ついで、古田家の財産は没収され、領地は改易となった。主謀者の木村宗喜は、閏6月29日になって、死刑に処せられている」。この時、織部は72歳でした。
「家康から咎めを受けると、織部は、――かくなる上は、申しひらきも見苦し――といって、一言の弁解もなく、切腹して果てたので、世の数寄者たちは、こぞって、その最期のいさぎよさに感嘆したと、いうことである。利休の最期の有様と、一脈、相通ずるものがあった」。「かれの(徳川方とも豊臣方とも分け隔てなく付き合う)自由勝手な行動が家康の怒りをかっていることを、(織部は)充分に承知してのことであろう」。
2010年7月4日に日本でレビュー済み
織部は、千利休をはじめ、今井宗久、今井宗薫など、多くの茶人と交流し
広い地域で活躍し、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康さまなどに使えて、
手柄をあげたとされている。我が家の仏壇に保存しています。ありがとうございます。
広い地域で活躍し、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康さまなどに使えて、
手柄をあげたとされている。我が家の仏壇に保存しています。ありがとうございます。
2009年5月18日に日本でレビュー済み
1902年に生まれ、東京大学史料編纂所等に勤務し、1987年に亡くなった著名な茶道史研究者が、1968年に刊行した本を文庫化したもの。古田織部正重然(初名は左介、景安)(1544〜1615)は美濃出身と見られ、織田信長の使番として活躍した戦国武将である。彼は父から茶を習い、後に千利休の高弟となって珠光流茶道を伝承した。しかし利休が豊臣秀吉によって切腹させられた後、彼は秀吉の御伽衆となり、町人茶を武家風に改革する作業に従事し、まもなく茶の湯の名人と見られるようになった(この間に隠居)。この頃から彼は徳川家康と親しくなり、江戸時代初期には二代将軍秀忠に茶の湯を指南するまでに至り、多くの有力大名を弟子として、高い権勢を誇った。しかし、彼は茶の世界の秩序を重んじて、徳川と豊臣の政治的対立が顕在化しても、両陣営の人々との交際をやめることが無かった。彼は大坂夏の陣の際には徳川方についたが、彼の家臣木村宗喜による京への放火の陰謀が発覚したため、豊臣滅亡の直後、内通容疑で父子共に切腹となり、領地は改易となった。彼が草庵の茶室内部をより明るくし、立ったままで手水を使わせるために手水鉢を背高に据え、異様な力強さを形の上で表現する織部沓形茶碗を好むなどの、新しい作意を凝らしたことは、師の利休が目立たない調和のとれた素朴で静的な美を好んだことと、好対照をなしている。そのため、彼は非業の最期のこともあり、利休門下の異端児とも見なされてきたが、著者は彼を利休の正統な継承者と見なし、その意義を高く評価する。本書は著者自身による史料収集の成果に基づき、非常に実証的に一人の「忘れられたみごとな教養人」の実像を提示した本であり、ややべたぼめしすぎている感はあるが、茶道や伝統に関心のある人には一読をお勧めしたい本である。