まず、わたくしは他の訳者による翻訳には目を通していないため、佐々木氏の翻訳がベストなものであるかの判断はできないことをお断りしておく。
一般的に、古典の条件は、その時代背景の中で読まれなくても、読まれた時代時代において資するものである、ということであると思われる。しかるに、この「君主論」は「マキャベリズム」ということばを生み出したように、時代背景から切り離されて読まれることで多大な誤解を生み出してきたことはよく知られている。そのような場合、やはりマキャベリの生涯を辿ることで、この著作がどのような意図のもとに生み出されてきたのかを洞察することは正しい理解のために必須であろう。本書は前半にマキャベリの伝記を置き、同時にフィレンツェを取り巻く時代状況にも言及しながら、「君主論」が生み出された背景を的確に叙述している。この前半の知識を基に後半の本文を読めば、そのような誤解を最小限にとどめることができる、という前提のもとに執筆されている。そして、わたくしの見る限りそのような訳者の意図は達成されていると思われる。
他のレビュアーの方も触れている通り、マキャベリが理想的な君主として言及しているチェーザレ・ボルジアの生涯を題材にした塩野七生の「チェーザレ・ボルジア あるいは優雅なる冷酷」も併せて読むと、この本の理解も一層深まるのではないか。
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マキアヴェッリと『君主論』 (講談社学術文庫) 文庫 – 1993/12/27
佐々木 毅
(著)
小国分立し戦乱が絶え間なかったルネサンス期イタリアにあって、マキアヴェッリは権力の本質、その獲得と維持の方法、喪失の原因を追究した。政変により2度も追放の憂き目を見る数奇な運命のなかで、彼が著した『君主論』は近代政治学の嚆矢となる。本書はマキアヴェッリの主著『君主論』を全訳するとともに、その生涯をとりまく華麗な歴史群像を描写しながら思想形成の背景を明らしにした力作である。(講談社文庫)
- 本の長さ328ページ
- 言語日本語
- 出版社講談社
- 発売日1993/12/27
- ISBN-104061591096
- ISBN-13978-4061591097
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商品の説明
著者について
1942年秋田県生まれ。東大法学部政治学科卒業。東大法学部教授。専攻は政治学史、政治思想。主な著書に『マキアヴェッリの政治思想』『主権・抵抗権・寛容』『プラトンと政治』『近代政治思想の誕生』『現代アメリカの保守主義』『保守化と政治的意味空間』など。学術文庫に『アメリカの保守とリベラル』がある。
登録情報
- 出版社 : 講談社 (1993/12/27)
- 発売日 : 1993/12/27
- 言語 : 日本語
- 文庫 : 328ページ
- ISBN-10 : 4061591096
- ISBN-13 : 978-4061591097
- Amazon 売れ筋ランキング: - 371,659位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
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著者について
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2003年12月3日に日本でレビュー済み
マキャヴェッリの『君主論』の邦訳はいくつもあり、本書もその一つ。こちらの特徴は日本を代表する政治学者で、現東大総長(2003)の佐々木毅氏が、マキャヴェッリを「近代政治学の祖」と位置づけて彼の生涯、当時のヨーロッパ、イタリアの政治・社会状況、そしてマキャヴェッリが独自の政治思想を形成する過程を追う大部の論考が最初に置かれている点である。他の邦訳で巻末の注釈として扱われる内容がひとつの読み物となり、豊富な予備知識を得ることができる。他のヨーロッパ諸国とは異なる、近代統一まで統一国家を成したことのない、「コムーネ」に代表されるイタリアの都市国家群としての性格の分析が詳しく興味深い。著者は『君主論』を現代の処世に役立つ「マキャヴェリズム」の教科書ではなく、読者に当時のルネッサンス・イタリアの人々と同時代の人間になってもらい、近代政治学の誕生の現場に立ち会わせることを企図していると思われる。
2011年8月4日に日本でレビュー済み
前半はマキアヴェッリと彼の周囲の歴史です。
つまり都市国家が群雄割拠するイタリアの歴史です。
その部分がかなり専門的すぎて私のような一般読者には役に立たない。
「コムーネが…シニョーリア制が…コンソリは…オットカールの…ポデスタ制が…グェルフ党が…ギベリン党が…アンツィアーニが…」
ファンタジーで言うなら指輪物語の最初の序章部分を読んでいる気分です。
ですから興味がない人は無理して読まない方がいいでしょう。
私のような一般人からすれば後半の『君主論』だけで十分です。
つまり都市国家が群雄割拠するイタリアの歴史です。
その部分がかなり専門的すぎて私のような一般読者には役に立たない。
「コムーネが…シニョーリア制が…コンソリは…オットカールの…ポデスタ制が…グェルフ党が…ギベリン党が…アンツィアーニが…」
ファンタジーで言うなら指輪物語の最初の序章部分を読んでいる気分です。
ですから興味がない人は無理して読まない方がいいでしょう。
私のような一般人からすれば後半の『君主論』だけで十分です。
2004年9月18日に日本でレビュー済み
マキアヴェッリの生涯についての伝記と、「君主論」の全訳から成っている本書は、ある意味とてもお得であるかもしれません。「君主論」が書かれた歴史的背景、またもっと進んでマキアヴェッリという人が「君主論」という著書をものした精神的背景が仄見えるからです。マキアヴェッリという人の人生の中で彼本人がどういう形で「君主論」的考えを形成して行ったかという問題はとても興味深いものがあります。本書はそのきっかけが一つ一つ指摘されていて、その道筋がよくわかるように出来ています。しかし、著者自身も言われている様に、訳文に注釈が不足しており、特に古代史の予備知識が無いとマキアヴェッリの真意がよく伝わってこない部分があり、この点はかなり不満なところです。
著者はあくまで学者としてマキアヴェッリを見て、その思想を理解しようとしておられます。そこはマキアヴェッリの影響をかなり濃厚に受けている、作家の塩野七生氏などとは一線を画し、特に伝記の部分でのマキアヴェッリヘの評価では、著者が彼をどう見ているのかが判然としません。私の受ける印象としてはマキアヴェッリという人は、自らの政治技術を認めてくれるならばその政権の性質を問わない、醒めたテクノクラートとしての官僚である、というものですが、著者はマキアヴェッリが無節操であるという非難に、当時としては珍しくないこと、と消極的な反論を返すだけで、人間マキアヴェッリには関心を示されない。例えば、仕える権力には拘らないマキアヴェッリも生涯、どうやら祖国フィレンツェには叛したことがないようなので、彼を愛国者と弁護することも出来たでしょうが、そんなことはしない。いくら政治を愛したマキアヴェッリでも一生政治のみをして生きてきたわけではないのです。怒りもあろう、不安もあろう、そんな人間臭いマキアヴェッリが僅かにしか触れられていません。それは残念なことです。
著者はあくまで学者としてマキアヴェッリを見て、その思想を理解しようとしておられます。そこはマキアヴェッリの影響をかなり濃厚に受けている、作家の塩野七生氏などとは一線を画し、特に伝記の部分でのマキアヴェッリヘの評価では、著者が彼をどう見ているのかが判然としません。私の受ける印象としてはマキアヴェッリという人は、自らの政治技術を認めてくれるならばその政権の性質を問わない、醒めたテクノクラートとしての官僚である、というものですが、著者はマキアヴェッリが無節操であるという非難に、当時としては珍しくないこと、と消極的な反論を返すだけで、人間マキアヴェッリには関心を示されない。例えば、仕える権力には拘らないマキアヴェッリも生涯、どうやら祖国フィレンツェには叛したことがないようなので、彼を愛国者と弁護することも出来たでしょうが、そんなことはしない。いくら政治を愛したマキアヴェッリでも一生政治のみをして生きてきたわけではないのです。怒りもあろう、不安もあろう、そんな人間臭いマキアヴェッリが僅かにしか触れられていません。それは残念なことです。
2005年1月10日に日本でレビュー済み
昔の人であれ今の人であれ、人間の内面や本性といったものはさほど変わりはしないので、ルネッサンス期イタリアのマキアヴェリによる権力への考察は、それが「人間」なるものの本質に肉薄しているが故に、現代の日本人にも説得力をもって語りかけてきます。
他方、「君主論」は当時のイタリアを中心とする国内的・国際的な権力闘争に対する観察によって生を受けた著作であり、具体的な時代背景の産物であることは間違いありません。そうした意味において、マキアヴェリのアプローチの妥当性やその限界を知るためには、彼の生きた時代のイタリアが置かれた戦略環境やフィレンツェ内外における権力闘争といった事柄を理解することが必要になります。
そこで本書では、前半部分でマキアヴェリの生涯を通じて「君主論」の背景となる時代状況を解説し、後半部分に「君主論」そのものの邦訳を収めるという形になっており、背景を含めたマキアヴェリ政治思想全体への理解の下、「君主論」に対する深い理解が得られるよう工夫がなされています。本文中の注という形で背景等を加えるよりも、読み易く、また総合的に理解できるのではないでしょうか。
「君主論」は「権謀術数」の教科書のように理解される向きが強く、甚だしきに至っては商戦や経営の観点から解説がなされたりすることさえありますが、本書を読めば、そうした理解が如何に皮相的なものであるか、自ら見えてこようかと思います。
他方、「君主論」は当時のイタリアを中心とする国内的・国際的な権力闘争に対する観察によって生を受けた著作であり、具体的な時代背景の産物であることは間違いありません。そうした意味において、マキアヴェリのアプローチの妥当性やその限界を知るためには、彼の生きた時代のイタリアが置かれた戦略環境やフィレンツェ内外における権力闘争といった事柄を理解することが必要になります。
そこで本書では、前半部分でマキアヴェリの生涯を通じて「君主論」の背景となる時代状況を解説し、後半部分に「君主論」そのものの邦訳を収めるという形になっており、背景を含めたマキアヴェリ政治思想全体への理解の下、「君主論」に対する深い理解が得られるよう工夫がなされています。本文中の注という形で背景等を加えるよりも、読み易く、また総合的に理解できるのではないでしょうか。
「君主論」は「権謀術数」の教科書のように理解される向きが強く、甚だしきに至っては商戦や経営の観点から解説がなされたりすることさえありますが、本書を読めば、そうした理解が如何に皮相的なものであるか、自ら見えてこようかと思います。