昔は対象が人間であれ社会であれ包括的に全体を議論し、研究していた。しかし今日では対象は細分化し、方法も「科学的」やら数学の利用が流行り、それらが分からないと時代遅れ、古臭い知識しかないと嘲笑される。実践的意味はどの程度あるのか不明の、今の学問のあり方は本当に望ましいのか。
こういった批判をマスメディアなどで見かけるだろう。本書の内容をまとめるとそのように言っているように見える。
まず20世紀初頭に出されたムーアの『倫理学原理』の名が出てくる。それからムーアもその一員だったラッセル、ケインズらのブルームズベリー・グループ(この名はここでは使っていない)が出てくる。ムーアによれば善のような倫理学の根本概念は定義できず、それを快楽のような感覚で計ろうとしたとベンサムらの功利主義を攻撃した。ムーアの主張よりも、ベンサムがいかに攻撃されたかが書いてある。ベンサムは社会の改良のため努力したのに、馬鹿にされているだけである。
続いて清水の矛先は経済学に向かう。なにしろ数学的手法で自然科学化した最たる社会科学が経済学なので、清水に気に入られるはずもない。倫理の問題だから、厚生経済学を勉強した。エッジワース箱の図まで出てくる。もちろん経済学に対して怒り心頭である。経済学で基数的効用より無差別曲線が取って代わった、その理由を「謂わば個人間比較への嫌悪のようなものが最初にあって、そこから無差別曲線の利用が生じているのであろう。」(本書p.174)と書いてあるが、無差別曲線の方が基数的効用より制約が少なく一般的であるからである。清水に言わせると現実はダサくて汚いものであるから「エレガント」な分析は不適当で、分析もダサくて汚くあるべき、とのことか。
あと哲学でヴィトゲンシュタインが取り上げられる。もう以上から明らかだろう。著者は『論理哲学論考』(トラクタトゥス)でなく後期の『哲学探究』に共感を覚えている。
次にヴィーコである。まるでデカルトを攻撃するため取り上げているようだ。デカルトへの攻撃は凄まじい。初めはデカルト派だったヴィーコは後に反デカルト派になる。転向したのである。次の文は清水の経歴を多少知っている者は面白く読めるかもしれない。
「一般的に言って、古来、思想の発展を担うものは、大部分、転向の能力のある人間に限られているからである。」(p.303)
これが一番書きたかった意見ではないか。さてヴィーコと言えば清水の編になる中央公論「世界の名著」続巻にある『新しい学』で知った者も多かろう。その著書をここでは次のように書いてがっかりさせる。
「正直な気持を言うと、私には、この書物の内部へ本気で入り込んで行く勇気がない。かつては若干の勇気があって、それを試みたことがあるけれども、この書物の大きさに加えて、何という曖昧、何という晦渋であろう。ヴィーコの眼に映った自然がそうであったと思われるが、これは全く不透明な書物である。」(p.346)
あと、コントとハロッドがある。引用されたハロッドの意見は誰でも同意すると思うが、清水は自分を代弁してくれたと喜んでいる。
なお解説のp.464から465に清水自身が書いた本書の宣伝パンフレットの文が載っている。短いからすぐ読める。本書を手にしたならまずここを読むよう勧めたい。
本書は著者の後期の特徴である被害者意識が感じられ、対立する意見や手法について二者択一を迫っているように見える。
それにしても清水はロールズの『正義論』をなぜ取り上げなかったのか。解説者(川本隆史)も同様の疑問を持ったらしい。清水は読んでおり、解説に相性が悪いとか、気分が変わって読んでいるうちに投げ出してしまったと言った、とある。その理由を解説者は推察している。
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倫理学ノート (講談社学術文庫) 文庫 – 2000/7/10
清水 幾太郎
(著)
ケインズ、ロレンス、ムアたちに代表される20世紀前半以来の英語圏倫理学の伝統──。その“欺瞞”に異を唱える著者は、メタ倫理学や新厚生経済学の不毛を断罪し、自然の弁証法を通して「新しい時代の功利主義」を提唱する。本書は、後期清水社会学を代表する名著であり、新たな倫理学を思索し構築するための出発点である。
- 本の長さ475ページ
- 言語日本語
- 出版社講談社
- 発売日2000/7/10
- ISBN-104061594370
- ISBN-13978-4061594371
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商品の説明
著者について
1907年東京の生まれ。東京帝国大学文学部卒業。社会学者、ジャーナリスト。讀賣新聞社論説委員、20世紀研究所所長などを経て、学習院大学教授、清水研究室主宰。文学博士。著書:『流言蜚語』『社会的人間論』『社会学講義』『社会心理学』『論文の書き方』『現代思想』『オーギュスト・コント』ほか。1988年歿。
登録情報
- 出版社 : 講談社 (2000/7/10)
- 発売日 : 2000/7/10
- 言語 : 日本語
- 文庫 : 475ページ
- ISBN-10 : 4061594370
- ISBN-13 : 978-4061594371
- Amazon 売れ筋ランキング: - 414,585位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
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著者について
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2007年4月2日に日本でレビュー済み
渾身の力作とはこのことで、兎に角、邦語訳のほとんど無いような文献ばかり渉猟し山のように読みまくった結果に出来たような本だ。といっても悪口ではなく、著者の力量、格闘ぶりを如実に表す金字塔として強く推したい1作。ムーア、ケインズ、ヴィトゲンシュタイン、ヴィーコ、コントと独特の視点で思想の水脈を掘り起こし(といっても至極妥当)、対峙させて、著者独自の見解を盛り込む。咳き込むような勢いで書かれている全編に惹かれて一気に読み込んでしまう。ムーア、ラッセルの論理実証主義のバックグラウンドからケインズへと論じるあたりは、必ずしも多く紹介されている文脈ではないので楽しかった。他にも随所に、思想史の機微に触れる面白さはある一方、経済学の基礎理論をしっかり抑えてその思想的な意味へと迫り、疑義を呈する辺りは、著者の力量を物語る。清水幾太郎は、雰囲気に流れやすい人文・社会思想系の学者ではなく、商社マンになっても大成しただろうような、現実感覚と嗅覚、生活力があって、それが、「我が思想の断片」など自伝に類する著作では無類の魅力になっている。が、そのせいで、批判や批評は卓抜でも、どこか自分の思想的な位置は動いてばかりではっきりしない恨みは残る。コントやデューイをやっても、エッセンスだけの紹介で奥に進まない。どこか軽く扱われやすい所以だが、本書は、同氏の本気の力量がみなぎり趣は他の著作とは異なる。が、それでも、対象にぶつかっては何かをつぶやきながら先に進んでしまう体質は同じで、全編読んでも、釈然としないものが残る。「現代」では、その釈然としなさ、これが、真摯な思考の「状態」なのだ、そういうことを示しているのかもしれない。
2009年7月19日に日本でレビュー済み
橋爪大三郎がヴィトゲンシュタインに関する新書を出していた。少し読み始めてみて、しきりに思い出したのが、清水幾太郎のヴィトゲンシュタイン論だ。それはどの本に入っていたのか? ひと昔前なら、まず清水の本を本棚からあれこれ探すのに時間がかかる。清水本が一箇所に固まっていない場合もあるだろうから、またあれこれ。本が見つかったら中身をペラペラ。ここでも時間がかかる。・・・というようなことは、ネット検索をすれば不要になった。
便利ではあるな。すぐに本書『倫理学ノート』に入っていることが判明。東京近郊に在住であれば、大きな本屋さんに行けば置いてありましたがな。そう、ネットでもすぐに買える。なるほど便利ではあるな。思い立って、次の日にはこの本を読めるのである。本棚のどこかには同じ文庫があるだろうが・・・・。
と、要らぬ前置きが過ぎたが、今や英雄として語られることの多いヴィトゲンシュタインについて、清水はラッセルの(自らの「出自」を忘却したかのような)分析哲学批判の一文からヴィトゲンシュタイン論を開始している。
<言語のことだけを考えて、世界のことを考えない言語学的哲学というのは、もう時間は教えないが、以前よりも速く軽快な調子で動くから、と言う理由で振り子のない時計を好む子供のようなものである>
この子供とは、勿論ヴィトゲンシュタインのことを指している。
評者はあらゆる学が、「子供の遊び」のようになった起源にはヴィトゲンシュタインがいたのではないかと愚考する。清水の40年ほど前の本書はなるほど古いにしても、今も読む価値があると思う。特にヴィトゲンシュタイン論がそうだ。
尤も、断っておかねばならないが、清水のこの一編における結論で言えば、子供=生命としてヴィトゲンシュタインの転換を高く評価しているのである。
軽快な調子でするすると検索できることと、世界のような厄介なものを言語モデルとして「振り子のない時計」にすることとは親和性が高い。異論もあるだろうが・・・。勿論、清水の意図は全く別のものである。
便利ではあるな。すぐに本書『倫理学ノート』に入っていることが判明。東京近郊に在住であれば、大きな本屋さんに行けば置いてありましたがな。そう、ネットでもすぐに買える。なるほど便利ではあるな。思い立って、次の日にはこの本を読めるのである。本棚のどこかには同じ文庫があるだろうが・・・・。
と、要らぬ前置きが過ぎたが、今や英雄として語られることの多いヴィトゲンシュタインについて、清水はラッセルの(自らの「出自」を忘却したかのような)分析哲学批判の一文からヴィトゲンシュタイン論を開始している。
<言語のことだけを考えて、世界のことを考えない言語学的哲学というのは、もう時間は教えないが、以前よりも速く軽快な調子で動くから、と言う理由で振り子のない時計を好む子供のようなものである>
この子供とは、勿論ヴィトゲンシュタインのことを指している。
評者はあらゆる学が、「子供の遊び」のようになった起源にはヴィトゲンシュタインがいたのではないかと愚考する。清水の40年ほど前の本書はなるほど古いにしても、今も読む価値があると思う。特にヴィトゲンシュタイン論がそうだ。
尤も、断っておかねばならないが、清水のこの一編における結論で言えば、子供=生命としてヴィトゲンシュタインの転換を高く評価しているのである。
軽快な調子でするすると検索できることと、世界のような厄介なものを言語モデルとして「振り子のない時計」にすることとは親和性が高い。異論もあるだろうが・・・。勿論、清水の意図は全く別のものである。