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西田幾多郎の思想 (講談社学術文庫) 文庫 – 2002/5/10
小坂 国継
(著)
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日本最初の哲学書といわれる「善の研究」の執筆者で近代日本を代表する哲学者、西田幾多郎。
強靱な思索力で意識を深く掘りさげ、心の最深部にある真実の心は何かを探求し、独自の哲学大系を構築した。西田哲学とは実際どのようなものなのか。
本書は、求道者西田の思索における悪戦苦闘の跡を辿り、その思想の特色と現代的意義を分かりやすく紹介する。
強靱な思索力で意識を深く掘りさげ、心の最深部にある真実の心は何かを探求し、独自の哲学大系を構築した。西田哲学とは実際どのようなものなのか。
本書は、求道者西田の思索における悪戦苦闘の跡を辿り、その思想の特色と現代的意義を分かりやすく紹介する。
- 本の長さ384ページ
- 言語日本語
- 出版社講談社
- 発売日2002/5/10
- 寸法10.8 x 1.5 x 14.8 cm
- ISBN-10406159544X
- ISBN-13978-4061595446
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商品の説明
著者について
■小坂国継(こさかくにつぐ)
1943年、中国張家口生まれ。1966年、早稲田大学第一文学部哲学科卒業。1971年、早稲田大学大学院文学研究科博士課程修了。宗教哲学専攻。現在、日本大学経済学部教授、日本大学大学院総合社会情報研究科教授、文学博士。
著書に『西田哲学の研究』『西田哲学と宗教』『西田幾多郎』『西田幾多郎をめぐる哲学者群像』『善人がなぜ苦しむのか』『西田哲学と現代』、訳書にコプルストン『ヘーゲル以後の哲学』『理性論の哲学(上・下)』他多数がある。
1943年、中国張家口生まれ。1966年、早稲田大学第一文学部哲学科卒業。1971年、早稲田大学大学院文学研究科博士課程修了。宗教哲学専攻。現在、日本大学経済学部教授、日本大学大学院総合社会情報研究科教授、文学博士。
著書に『西田哲学の研究』『西田哲学と宗教』『西田幾多郎』『西田幾多郎をめぐる哲学者群像』『善人がなぜ苦しむのか』『西田哲学と現代』、訳書にコプルストン『ヘーゲル以後の哲学』『理性論の哲学(上・下)』他多数がある。
登録情報
- 出版社 : 講談社 (2002/5/10)
- 発売日 : 2002/5/10
- 言語 : 日本語
- 文庫 : 384ページ
- ISBN-10 : 406159544X
- ISBN-13 : 978-4061595446
- 寸法 : 10.8 x 1.5 x 14.8 cm
- Amazon 売れ筋ランキング: - 382,943位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 219位日本思想史
- - 519位東洋哲学入門
- - 523位日本の思想(一般)関連書籍
- カスタマーレビュー:
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2013年7月21日に日本でレビュー済み
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ご専門の方に読書ガイドをお願いしたところ、第1冊に紹介されたのがこの図書です。西田幾多郎の生涯から接近することができますから、この分野を読み慣れていないわたしには読み進めやすく、大変たすかりました。多くのかたに安心してすすめられる良書であると思います。
2013年4月15日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
西田幾多郎の思想を更に詳しく理解する為の入門書である。その上で個々の著作に接すれば、より深く理解出来るのではないだろうか。
2009年5月5日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
「あなたは西田幾多郎を読むと良い。」高校生の頃、小論文の指導をして下さった国語教師にこう言われた。だが、どんな青臭いものをしたためたのかは覚えていないし、この言葉も当時はあまり気に止めていなかった。やがて浮き世に放り出され、理不尽な断絶が当たり前のような面を下げてそこかしこにそびえ立っているのに気づき、ほとほと気疲れしていたが、ふとしたきっかけで「一即多、多即一」という言葉を知り、今更ながら手にとってみた。
重厚で難解であろう原典を、丁寧に整理して見通しを立て、良い意味でくどくどしく平易な言葉で噛み砕き、西田本人の公私両面における苦悩と時代的背景、そして哲学史上の位置づけまで周到に示してくれる著者の仕事は圧巻である。 明治から昭和にかけての長期にわたる哲学的格闘は、根底の問題意識こそ一貫しているものの、微妙な視点の変遷を含むものであるらしい。初期の唯心論的な「純粋経験」の考察には独我論の匂いを感じて幻滅しかけたが、中期に至った行為と身体に関する考察は、現代のゲーム理論やアフォーダンスにも通ずるようで非常に興味深かった。
どこまでも弁証法一本槍だが、とにかく切れ味がいい。道徳のはるか彼方で神までも自己否定に至る後期の宗教的境地と世界思想はその極みだろう。世界と自己が不可分なものとして相互を限定しあい、相即的に相互を創造しあう。なるほど、表層的な理解では全体主義との謗りを免れないだろうし、そうでなくともスピリチュアルな恍惚を得るだけで終わってしまいかねない。扱いが難しい。偏狭な自己完結は愚直であり、安易な折衷主義は愚鈍である。実践を生きる中で、この哲学を体現できる精神の強さを求めたい。
重厚で難解であろう原典を、丁寧に整理して見通しを立て、良い意味でくどくどしく平易な言葉で噛み砕き、西田本人の公私両面における苦悩と時代的背景、そして哲学史上の位置づけまで周到に示してくれる著者の仕事は圧巻である。 明治から昭和にかけての長期にわたる哲学的格闘は、根底の問題意識こそ一貫しているものの、微妙な視点の変遷を含むものであるらしい。初期の唯心論的な「純粋経験」の考察には独我論の匂いを感じて幻滅しかけたが、中期に至った行為と身体に関する考察は、現代のゲーム理論やアフォーダンスにも通ずるようで非常に興味深かった。
どこまでも弁証法一本槍だが、とにかく切れ味がいい。道徳のはるか彼方で神までも自己否定に至る後期の宗教的境地と世界思想はその極みだろう。世界と自己が不可分なものとして相互を限定しあい、相即的に相互を創造しあう。なるほど、表層的な理解では全体主義との謗りを免れないだろうし、そうでなくともスピリチュアルな恍惚を得るだけで終わってしまいかねない。扱いが難しい。偏狭な自己完結は愚直であり、安易な折衷主義は愚鈍である。実践を生きる中で、この哲学を体現できる精神の強さを求めたい。
2017年5月16日に日本でレビュー済み
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開戦時、西田は入院せざるをえないほどのリウマチを患っていた。真珠湾攻撃の知らせは病院のベットで聞く。
「先生は今日のことについて何も知ってはおられなかった。号外の大きな紙にれいれいしく印刷された記事の内容をお伝えしたときの先生の憂慮に満ちたお顔、たいへんなことを仕出かしてしまったというような満面の憂いを私は忘れることができない」(相原信作)261~2頁
当時の国民や知識人が共有していた昂揚感や解放感は西田にはなかった、と著者も擁護するものの、死期も近かったことからすればそれは当然であるかもしれない。
ところが、その後戦時下の東条内閣の要請に応えて「世界新秩序の原理」を起草したのは、西田と田辺寿利である。
「私は偏狭な日本主義者に対して日本精神に世界性のあることを主張したいとおもふのです」
これに基づいて東条英機は「大東亜宣言」を出し国会で演説する。
「皇道」とか「八紘一宇」という言葉を西田が遣っていることについて、著者は「当時においては日常的に使用されていた」、「方便としてやむをえざる要素もあった」と言い訳する。「仔細に検討すれば、西田は「皇室」をけっして実体化しているわけではなく、これを「絶対現在」とか「永遠の今」として「空」ないしは「絶対無」と見なしており・・・」(268頁)云々。
民族協和、大東亜共栄圏というお題目とあまり変わりはない。
「西田は文化の基礎として国家を考えているのではない。反対に、文化という基礎の上に国家を考えているのである」(271頁)
ハイデガーと対比して戦争協力、「政治的現実へのコミットが、時期的にも問題的にもきわめて限定されてい」(中村雄二郎『西田幾多郎Ⅱ』岩波現代文庫249頁)たにしても、違う意味でハイデガー以上に戦争遂行に深く関わっていたとも云える、と私なら判定しておきたい。
ハイデガーも次第に距離をとって終戦を迎え、沈黙を守って後、晩年まで長命を保って哲学的思索を続けたことからすれば、寧ろハイデガーの立ち回りの方がより慎重で末期のナチとナチ狩りに対して寧ろ超然としていたとさえ云えるかもしれない。
京都学派だけが潔癖で大戦の行方について軌道修正をしようとしてあと少しの処で失敗していたなどという微妙で軽々のものではない、と考えておかねばならないだろう。
「先生は今日のことについて何も知ってはおられなかった。号外の大きな紙にれいれいしく印刷された記事の内容をお伝えしたときの先生の憂慮に満ちたお顔、たいへんなことを仕出かしてしまったというような満面の憂いを私は忘れることができない」(相原信作)261~2頁
当時の国民や知識人が共有していた昂揚感や解放感は西田にはなかった、と著者も擁護するものの、死期も近かったことからすればそれは当然であるかもしれない。
ところが、その後戦時下の東条内閣の要請に応えて「世界新秩序の原理」を起草したのは、西田と田辺寿利である。
「私は偏狭な日本主義者に対して日本精神に世界性のあることを主張したいとおもふのです」
これに基づいて東条英機は「大東亜宣言」を出し国会で演説する。
「皇道」とか「八紘一宇」という言葉を西田が遣っていることについて、著者は「当時においては日常的に使用されていた」、「方便としてやむをえざる要素もあった」と言い訳する。「仔細に検討すれば、西田は「皇室」をけっして実体化しているわけではなく、これを「絶対現在」とか「永遠の今」として「空」ないしは「絶対無」と見なしており・・・」(268頁)云々。
民族協和、大東亜共栄圏というお題目とあまり変わりはない。
「西田は文化の基礎として国家を考えているのではない。反対に、文化という基礎の上に国家を考えているのである」(271頁)
ハイデガーと対比して戦争協力、「政治的現実へのコミットが、時期的にも問題的にもきわめて限定されてい」(中村雄二郎『西田幾多郎Ⅱ』岩波現代文庫249頁)たにしても、違う意味でハイデガー以上に戦争遂行に深く関わっていたとも云える、と私なら判定しておきたい。
ハイデガーも次第に距離をとって終戦を迎え、沈黙を守って後、晩年まで長命を保って哲学的思索を続けたことからすれば、寧ろハイデガーの立ち回りの方がより慎重で末期のナチとナチ狩りに対して寧ろ超然としていたとさえ云えるかもしれない。
京都学派だけが潔癖で大戦の行方について軌道修正をしようとしてあと少しの処で失敗していたなどという微妙で軽々のものではない、と考えておかねばならないだろう。
2004年11月12日に日本でレビュー済み
この本はNHKのラジオ講座の教科書が元になっており、啓蒙書だろうと思ったが、どっこい、じっくり腰をおろして読むことになった。西田幾多郎は石川県金沢市生まれの哲学者であり、同時代・同郷の鈴木大拙とともに石川県が誇る思想家である。実は僕も石川県生まれで、小さいときから学校で西田幾多郎の偉さを聞かされ、高校生の倫理社会の時間には、先生から講義があったほどである。しかし、精神年齢が極めて低い僕には、ちんぷんかんぷんだった記憶がある。小坂氏のこの本は、西田の全著書・書簡集はもちろん、鈴木大拙を始め、西田と親交あつかった多くの人物の書簡も紹介され、西田幾多郎の思想史(研究史)といって過言ではないと思う。小坂氏は、西田幾多郎の『純粋経験』という哲学概念を、『道を歩いていて、思いがけなく野辺に咲く花を見、「アッ」と驚きの言葉を発したその瞬間状態』と紹介しているように、実に分かりやすい。かといって、西田の哲学概念の引用は、正確であり、直接、西田の著書に触れることにもなるといって過言ではない。ところで、今、何故、西田哲学なのか?小坂氏は、最後の方で地球環境について述べているが、これは西田の『行為的直観』=『物となって見、物となって行う』に関連しているようである。言い換えれば、地球環境保全には、自己(いろんな自己があるだろうが)を、それらを否定して、『地球となって見、地球となって行う(行うという意味は広いようだ)』ことが必要だと僕は理解している。何れにせよ、この本を読めば、西田は抽象的論議をもてあそぶような哲学者ではないことがわかる。それどころか、生きることの意味・人生について深く追求した哲学者であることがわかる。
2003年7月5日に日本でレビュー済み
NHKのラジオテキストがもとになっているだけあってたいへん読みやすい。無駄に難解な用語も言い回しも使われていない。禅に代表される抽象的で非論理的な東洋思想をなんとか理論化しようとした西田の生み出した哲学は、結局禅と同様難解なものになってしまったわけだが、これからわれわれがやらねばならないのは、これにさらにわけのわからないカタカナ用語を加えて近寄りがたくするのではなく、もっと噛み砕いて自分たちの血や肉にしていくことだろう。まさにこの本がやっているように。しかし、最後の環境問題への応用の議論は、残念ながら私にはかえって西田哲学の現実社会への応用の限界を感じさせるものだった。