
無料のKindleアプリをダウンロードして、スマートフォン、タブレット、またはコンピューターで今すぐKindle本を読むことができます。Kindleデバイスは必要ありません。
ウェブ版Kindleなら、お使いのブラウザですぐにお読みいただけます。
携帯電話のカメラを使用する - 以下のコードをスキャンし、Kindleアプリをダウンロードしてください。
戦後責任論 (講談社学術文庫) 文庫 – 2005/4/9
高橋 哲哉
(著)
甦る戦争の記憶と戦後日本の責任を問い直す戦後60年を経てもなぜ日本の戦争責任が問われるのか。台頭する新ナショナリズムを鋭く批判しかつて破壊したアジアの民衆との信頼関係を回復する戦後責任を論述
- ISBN-104061597043
- ISBN-13978-4061597044
- 出版社講談社
- 発売日2005/4/9
- 言語日本語
- 本の長さ288ページ
この商品をチェックした人はこんな商品もチェックしています
ページ 1 以下のうち 1 最初から観るページ 1 以下のうち 1
著者について
著者をフォローして、新作のアップデートや改善されたおすすめを入手してください。

著者の本をもっと発見したり、よく似た著者を見つけたり、著者のブログを読んだりしましょう
-
トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
レビューのフィルタリング中に問題が発生しました。後でもう一度試してください。
2020年4月23日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
15年戦争を太平洋戦争と言われたりするがその実像を現代に生きる私たちは正確に捉えねばならない。
2006年3月27日に日本でレビュー済み
歴史事実に関する議論は全くされていない。(論敵に対する無意味な言葉遊びは沢山ある)
著者が唯一議論できそうな問題はいわゆる「従軍慰安婦問題」であるが、それすら粗末に過ぎるであろう。「従軍慰安婦問題」などすでに議論すらされなくなっているにもかかわらず、この書においては既に偽証、間違い、勘違いが明らかになっている元慰安婦への正当なる批判さえ悪意の産物であるかのように批判されている。
自由主義史観への批判もただ、無意味にネオナチと比較し類似点を指摘するという印象操作に終始している。
責任論に関して結論が議論の先にあるころは明白なのだが、ポストモダニストの常套手段、つまり煩雑な観念論によって理が通っているようにみせるという手法がとられている。
「政治的共同体」などと口にする人間に、国家の歴史的責任などを何十年説かれたとしても一握りの説得力ももたないだろう。
また、責任に関しては個別の事件に関する責任と、戦争全体に関する責任は分けて議論すべきである。細かい事件を誇大宣伝して戦争責任なるマクロな問題に飛躍させ、そのまま「戦争=犯罪」、「日本人=加害者」、「アジア人=被害者」なる幼稚な認識に基づき議論されたのでは話にならないではないか。
クリストファー ソーン著 「太平洋戦争とは何だったのか」
秦郁彦 「慰安婦と戦場の性」
仲正昌樹「なぜ「話」は通じないのか」第3章、「歴史と正義」第2章
でも読んで「客観的」という言葉の意味と、何よりまず先に事実を知ることの大切さを知るべきである。
著者が唯一議論できそうな問題はいわゆる「従軍慰安婦問題」であるが、それすら粗末に過ぎるであろう。「従軍慰安婦問題」などすでに議論すらされなくなっているにもかかわらず、この書においては既に偽証、間違い、勘違いが明らかになっている元慰安婦への正当なる批判さえ悪意の産物であるかのように批判されている。
自由主義史観への批判もただ、無意味にネオナチと比較し類似点を指摘するという印象操作に終始している。
責任論に関して結論が議論の先にあるころは明白なのだが、ポストモダニストの常套手段、つまり煩雑な観念論によって理が通っているようにみせるという手法がとられている。
「政治的共同体」などと口にする人間に、国家の歴史的責任などを何十年説かれたとしても一握りの説得力ももたないだろう。
また、責任に関しては個別の事件に関する責任と、戦争全体に関する責任は分けて議論すべきである。細かい事件を誇大宣伝して戦争責任なるマクロな問題に飛躍させ、そのまま「戦争=犯罪」、「日本人=加害者」、「アジア人=被害者」なる幼稚な認識に基づき議論されたのでは話にならないではないか。
クリストファー ソーン著 「太平洋戦争とは何だったのか」
秦郁彦 「慰安婦と戦場の性」
仲正昌樹「なぜ「話」は通じないのか」第3章、「歴史と正義」第2章
でも読んで「客観的」という言葉の意味と、何よりまず先に事実を知ることの大切さを知るべきである。
2023年9月13日に日本でレビュー済み
戦後責任を問い直す(戦後責任再考;記憶・亡霊・アナクロニズム;ジャッジメントの問題)
ネオナショナリズム批判(日本のネオナショナリズム; 自由主義史観を批判する;加藤典洋氏敗戦後論を批判する; ネオナショナリズムと慰安婦問題)
私たちと他者たち(汚辱の記憶をめぐって;哀悼をめぐる会話;日の丸・君が代から象徴天皇制へ)
ネオナショナリズム批判(日本のネオナショナリズム; 自由主義史観を批判する;加藤典洋氏敗戦後論を批判する; ネオナショナリズムと慰安婦問題)
私たちと他者たち(汚辱の記憶をめぐって;哀悼をめぐる会話;日の丸・君が代から象徴天皇制へ)
2013年10月9日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
尊敬している高橋先生の📖を次々安価で買い込んでは夢中で読んでいます
2006年6月4日に日本でレビュー済み
非常にバランスが取れた本。
もちろん、戦後責任をめぐる日本の姿勢に批判を
展開しているというところに結論があるという時点で、
ある種の色がついた書であることは論を待たない。
だが、それでいてこの書が均整を保ちえているという
所以はやはり、異質なるものに対して、真摯且つ紳士的
に向き合っているという点にある。
他者を攻撃するという視点に立つのではなく、あくまでも
正当なる言論という手段を持ってして、且つ倫理的に応答
するという知識人が持ちえるべきマナーを兼ね備えている
時点で品があるといえるのだ。
保守的な論調に良く見られるような、他者への寛容を欠いた
排撃的且つ侮蔑的な論考は、本編を通して一片も見られない。
それは、対象がどういうものに対してであれ、一貫していえ
ることである。
こういった姿勢が良識派と目される所以なのであろう。
それはひとえに戦後責任=他者への応答可能性としての責任
と考えている思慮深い温厚な精神から発せられるものである
ようにも思われる。
と同時に、筆者が哲学者であり、倫理的な観点で論理を持っ
てしてものごと考えるということも関係しているのかもしれない。
いずれにせよ、寛容の上に成り立つ愛国といったものこそ
が現代日本において真に求められる態度である故、日本を本当に
愛するものこそがこういった書を読み、戦後責任に真摯に向き合う
必要があるように感じられる。
もちろん、戦後責任をめぐる日本の姿勢に批判を
展開しているというところに結論があるという時点で、
ある種の色がついた書であることは論を待たない。
だが、それでいてこの書が均整を保ちえているという
所以はやはり、異質なるものに対して、真摯且つ紳士的
に向き合っているという点にある。
他者を攻撃するという視点に立つのではなく、あくまでも
正当なる言論という手段を持ってして、且つ倫理的に応答
するという知識人が持ちえるべきマナーを兼ね備えている
時点で品があるといえるのだ。
保守的な論調に良く見られるような、他者への寛容を欠いた
排撃的且つ侮蔑的な論考は、本編を通して一片も見られない。
それは、対象がどういうものに対してであれ、一貫していえ
ることである。
こういった姿勢が良識派と目される所以なのであろう。
それはひとえに戦後責任=他者への応答可能性としての責任
と考えている思慮深い温厚な精神から発せられるものである
ようにも思われる。
と同時に、筆者が哲学者であり、倫理的な観点で論理を持っ
てしてものごと考えるということも関係しているのかもしれない。
いずれにせよ、寛容の上に成り立つ愛国といったものこそ
が現代日本において真に求められる態度である故、日本を本当に
愛するものこそがこういった書を読み、戦後責任に真摯に向き合う
必要があるように感じられる。
2014年11月3日に日本でレビュー済み
2009年12月に発足した
「戦争と女性の人権博物館」(慰安婦博物館)日本建設委員会呼びかけ人
に名を連ねて作者は立場を明確にした。
しかしそれはカントが先験的弁証論で示した理性の誤謬のさらなる一例でしかない。
「我々の知識は経験によって始まり」、それを超えることは出来ない。
世界解釈の数学の仮説に優劣をつけるのは、観測データだ。
良き意思を持って大衆に善を教えたソフィストもかつては哲学者だったが、
近代哲学は理性の越権を厳しく戒めたカントから始まった。
そして啓蒙時代を経て、いまやソフィストは不要になった。
純粋理性の内省を持たない人を私は哲学者とは呼ばない。
「戦争と女性の人権博物館」(慰安婦博物館)日本建設委員会呼びかけ人
に名を連ねて作者は立場を明確にした。
しかしそれはカントが先験的弁証論で示した理性の誤謬のさらなる一例でしかない。
「我々の知識は経験によって始まり」、それを超えることは出来ない。
世界解釈の数学の仮説に優劣をつけるのは、観測データだ。
良き意思を持って大衆に善を教えたソフィストもかつては哲学者だったが、
近代哲学は理性の越権を厳しく戒めたカントから始まった。
そして啓蒙時代を経て、いまやソフィストは不要になった。
純粋理性の内省を持たない人を私は哲学者とは呼ばない。
2002年5月6日に日本でレビュー済み
この本は、日本の戦後責任のあり方を、90年代半ばから台頭してきた2つのナショナリズムを批判することで考えようとしているが、私が最も感銘を受けたのは、責任を他者への「応答可能性」と捉える点にある。呼びかけに答えること、それを原初的な約束と考える著者。呼びかけられたものは、それを聞いてしまった以上は、それに対して無責任ではいられないこと、それに「応答しない自由」はないんだということ、逆に、そこからのみ、他者との共生の可能性が開けるということ、そういう意味では、この本を単に歴史学や政治学の枠で括るのは正しくないだろう。共生の意味を考え、実践する人、人文社会科学系の人にはぜひ読んでいただきたい。共生が不可避に含む抑圧や暴力を、ポストコロニアルな視点で描いた「自己に開かれた」書物ではないだろうか。記憶・表象・暴力のポリティックスを描いた、画期的な論考。