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誤解された仏教 (講談社学術文庫) 文庫 – 2006/9/8

3.1 5つ星のうち3.1 24個の評価

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インドに発した仏教は、長い時間をかけてわが国へと到達したが、伝播の道筋で土着の思想と習合し、本来の思想から大きく変容した。この結果、「死者儀礼」「死者に対する〈仏〉という呼称」「霊魂の存在」など、現代に通じる誤った仏教理解が生じる。こうした誤解に塗れた日本人の仏教観を叱り、「仏教=無神論・無霊魂論」の主張を軸に、正伝の仏法を説く。(講談社学術文庫)


死者を仏と呼んではならぬ! 霊魂は無い! 霊魂や輪廻転生、神、死者儀礼等をめぐる問題を軸に、日本人の仏教に対する様々な誤解を龍ミン師が喝破。仏教についての正しい理解のあり方を説いた刺激的論考。

登録情報

  • 出版社 ‏ : ‎ 講談社 (2006/9/8)
  • 発売日 ‏ : ‎ 2006/9/8
  • 言語 ‏ : ‎ 日本語
  • 文庫 ‏ : ‎ 256ページ
  • ISBN-10 ‏ : ‎ 4061597787
  • ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4061597785
  • 寸法 ‏ : ‎ 10.8 x 1 x 14.8 cm
  • カスタマーレビュー:
    3.1 5つ星のうち3.1 24個の評価

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上位レビュー、対象国: 日本

2022年11月26日に日本でレビュー済み
仏教は無我を説き、ウパニシャッドの宇宙と一体となるという梵我一如を説いていないという。しかし、無我の非二元は一元のワンネス(梵我一如)にも通じ、どちらを強調するかで同じものでははないだろうか。無我、または一元を悟れば、無明から解放され、苦しみは無くなる。本書は新大乗の提案まであり、仏教理解のために貴重である。
1人のお客様がこれが役に立ったと考えています
レポート
2020年11月13日に日本でレビュー済み
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勉強になった
2010年6月16日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
この書物は以前は柏樹社から『誤解だらけの仏教―「新大乗運動」の一環としてー』(1993/04)として刊行されていた単行本である。
    ISBN-10: 482630076X  ISBN-13: 978-4826300766
初版には著者に心酔する竹村マキオ氏(現在は東洋大学学長)のあとがきがついている。

この書物が大手な出版社からより的確な題名となって文庫化されたことは嬉しい。 仏教教義の理解として現代の日本国の僧侶、特に禅家の、はどのような陥穽に堕ちるに傾向があるのかを提示してくれている。それ故に「エンゲージドブッディズム」というものに関心を持つ人々には我が意を得たりとして膝を打つ見解に溢れている。

****

 まず序文から輪廻観の否定が提示されるのには面食らう。輪廻観を受入れている坊さんたちをあきれたノータリンのように登場させて、この科学の時代に輪廻は成立してないことが明らかと主張している。また些細なことだが,ある神職(如何なる系統の人だか全く不明)を自分は高く評価すると書かれていることは重要な意味を持つ。今は化石的な存在となった、神仏習合・本地垂迹を受入れている古式の諸々な神道の伝統の人ではありえない(因に「古神道」という概念は実証的には妄想である)。著者はそれを最も嫌うようだから。
「近代科学主義イデオロギーと輪廻否定の中で座禅をするのが真実の仏教じゃ」というのがこの本の基調である。誤解された仏教というのはお釈迦さんから著者の生きていた時点迄を指している。

著者が本願寺蓮如の言葉を随所に引いて「仏教は無我」を繰り返すことがこの書物の構成上の特徴である。日本に於いて「無我」とは一般的には「無私」を意味していたことは山折哲雄氏の著作のいくつか(たとえば『日本人の宗教感覚』(NHK))に誰でも見ることができる。 つまり歴史的な日本人が「無我」という場合にはいきなり「空」といった中観派的な難しいことよりはまず、無私(→滅私〔奉公〕)を述べているか否かを想起すべきであろう。  
 さてそもそも蓮如氏どういう意味で「無我」と述べたのかに関して著者はなんら説明を加えておらず、唐突に出て来るのでめんくらう。並みいる戦国大名の中でも屈指の戦略家として知る人ぞ知る人物であり、近畿の商業・軍事上の拠点を押さえた大阪城はまさに石山本願寺城を手直ししたものである。猿太閤豊臣秀吉は織田信長公ではなくて本願寺蓮如を引き継いだことはその後の行動をみれば判る(家康公は〔北条〕早雲の志を引き継いだといえる)。蓮如氏の、文章は脇へ置いて、行動を追っていくと天才的な大衆組織者でもあった蓮如が語る場合は弥陀への「無私」、すなわち本願寺教団への滅私奉公が極楽往生へ直結すると述べているのだと自然に理解できよう。(ちなみにその見解が妥当かどうかは私にはわかりません、凡人にとっては死んでみないと判らないから。)その眼で「仏教な無我」だと述べていることを想起すれば、龍樹の名前は知っていてもチャンドラキールティ系統の中観派を彼が知っていた筈はないので、蓮如が述べる「無我」とはまずは「無私」であると理解してすることが妥当であろう。

一般書生齧りの仏教オタク(在家)が巷で主張しているように
仏教は無我を説いた、だからアートマンを前提としている輪廻觀はヒンドゥーからの混入物であるのだそうだ。
因にアートマンを輪廻の「主体」としてのアートマンというのはインドのもろもろな哲学の一部の見解にすぎない。

「魂が存在しない」と述べている人というのは身体は実体として存在していると述べているのに等しいことに気がついていない。
四法印の中にある「諸法無我」は「あらゆる事物は永遠普遍の実体として存在しているわけではない」というのが正確な意味であるが、「ぼわぼわ〜っ」と情緒的に禅的な「無」の情趣を味わって「羯ー!」と言われれば頓悟するとでも? 「無学」

「三学」という言葉も随所に見られる。その自体は雲照律師も常に述べていたことであって、結構なことである。しかし問題なのは秋月の戒律観である。持戒は自誓によるべしという意味のことを著者は書いている。自誓によって戒体が得られるのは三昧に至らなければ無理だが、戒師から授戒の儀式を得れば、日常的な意識で誰にでも可能である。それ故に鑑真和上は戒壇を日本に設けられたわけである。著者は科学を「信じる」ので戒体という形而上的な対象の存在は信じない。数学的な感覚を全く持っていないことが随所で判る。

「密教は仏教ではない」という記述も複数見られる。

神仏分離肯定、戒律否定、輪廻否定(四諦の中の苦諦の否定)、つまり三宝否定、

こうした己の私見を既成の権威を持って来て偽装させる。
学界の権威と知己であることを以て「高崎直道君は.....、」「末木文美士君は...」etc.と述べて業界内の人々に自分を権威づける。名前を挙げられている何人かにかつて聞いた事がありますが、単に著者とは顔見知りなだけで友人でもなんでもないということであった。
 出発点は鱸(鈴木)大拙(ハゲ頭な在家の禅マニア)の弟子にして翻訳を中心にして西欧近代哲学を齧ったような(勿論、古代も中世もだめ)ものの妙心寺派に属して学んだ仏教に関しては中途半端な知識しか持ってない「無学」(仏教用語の「如来」ではなく、知識がない)著者は既成の権威が何よりも好きなのである。

著者が提示する視点をまさに仏教用語での「邪見」と呼ぶ。なかでも三宝否定は越法罪の中でも最も深刻な領域(最早懺悔が不可能)に属する。それでいて空海という人物が好きだそうである、空海を憎悪する日蓮が好きだそうである。そういう人々の見解に対して一かけらの敬意さえも抱いていないのに有名人との親近感を偽装する。まさにこういう輩を師匠だと崇めている者達(名前は伏せる)の程度が知れるというものである。 上から目線で「誤解された仏教」にも有益な点はあったと述べていること自体がなんとも滑稽である。

著者は身を以て誤解された仏教を提示してくれているので、知識ばかりか品性の上でも反面教師としては最上の部類に属する。この書物は初版の推薦文と共に必読書として永く版を重ねるべき本だと思います。

まとまりが悪いので暇な時に改稿します。
17人のお客様がこれが役に立ったと考えています
レポート
2009年12月19日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
本書の内容はタイトル通り、仏教に関する誤解を解く目的で書かれている。
「霊魂はない。自我もない。神もいない。輪廻もない。」にも関わらず、日本仏教は
これらがあたかも存在するように振る舞っていることを批判している。

初心者向けの本ではないので仏教に関するある程度の知識がないと、しんどいと思う。
また著者は、修行せずに頭で考えるだけでは分からないと主張しているので、本書だけでは
著者の主張を完全には理解できないようだ。

釈尊が「後有を受けず」といい切っていることを輪廻否定の根拠としているように読めたが、
それは釈迦が悟ったからであって、悟らなければ輪廻すると解釈出来るんじゃないの?
という気がする。私の理解が不足しているためだと思うが、よく分からない処が結構あります。
20人のお客様がこれが役に立ったと考えています
レポート
2016年8月6日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
例えば、パーリ仏典の長部経典、その中のサーマンニャパラ・スッタ(漢訳では阿含経のなかの沙門果経)
を読むと、仏教を誤解しているのが実はこの秋月龍珉師自身であることが誰の目から見ても明らかです。

まず、禅が仏教であるという誤解が説かれなければそれが理解できません。
禅はその出自に関して嘘が2つあります。
有名な拈華微笑、摩訶迦葉という伝説が先ず嘘です。
次に、達磨が正統な仏陀の28代目の後継で中国に来たというのも、嘘です。
実はいまだに「南インドのタミル系パッラヴァ朝において国王の第三王子」という
ボーディー・ダルマなる人物の存在は確認されていません。

どうして、出自に嘘が必要なのでしょうか?

何故、「本家はこちら」と言う必要が有ったのでしょう。

とにかく、「悟りさえすれば・・・」などと釈迦が言うのかと考えれば、そんなこと
あり得ないことに気が付きます。

禅は元々荘子の「万物斉同」の教えであり、これが言葉を変えると「無」と同義です。
なので、禅者であり同時に荘子の研究者が多く存在するのは、そのような真相が存在します。
それは禅の元が荘子なので、納得しやすいはずです。
例えば、松尾芭蕉などがそうです。
禅語で名の知れた「明鏡止水」は荘子の言葉ですね。

また、釈尊が説いたのは「悟り」ではなく「解脱」です。これは現在、混同されているので、
仏教書を読んでも、その著者が「悟り」と「解脱」をごっちゃにして書籍を書いているため、
一般人はこの混乱の影響をもろに受けて、両者の違いを理解することは容易ではありません。

さらに、仏教史上有名なサムエ論争というのが有ります。
これは、インド仏教と中国禅のどちらが正統かという論争をチベットで行いました。
この論争は3度行われ、インド仏教の正しさが証明されています。
そういう訳で、今のチベット仏教があります。
ここで、もし中国禅が正統だとしたら、今のチベット仏教はチベット禅とかになって
いるはずです。

この時、禅側は頓悟を主張し、悟りさえすれば六波羅蜜や功徳や戒律などの修行は不要だとします。
一方、インド仏教は修行階梯は存在するのだ。悟りさえすればと考えるのは誤りだと
主張しました。
これを頓悟に対し、インド側は漸悟(時間がかかる)と呼ばれました。

釈尊が聞いてもこれはびっくりするでしょう。
八正道も何もいらないと言うんです。

この相違を簡単に見分けるには、例えば「仏弟子の告白」と禅匠の生活を比べれば
一目瞭然でしょう。
ボロをまとい、酒をくらい、詩を読んで仙人のように生き、例えば無門関の第一則
「さあ言ってみよ、祖師の関とは何か。ただこの「無」字...これが禅の究極の一関
である。故にこれを「禅の門なき関門」と名付ける・・・・
 ・・・それはちょうど、関羽将軍の太刀を自分の手に奪い取ったようなものである。仏に
会えば仏を殺し、祖師に会えば祖師を殺すものとなろう。生死の際にのぞんで真に
自由自在、どこにどう生まれようと、解脱無碍(げだつむげ)の真の生を楽しむであろう。
 さて、そこでどのように努力したらよいのか。自己の気力の全てを尽くして、ただ
「無」になりきれ。なりきり続けてやむことなく、ためらうことがなければ、見よ、灯明に
火がともれば、暗黒はたちまち光明となる。」
と、この世で自在に生きると言うのが強調されます。豪傑な感じがするでしょう?

ところが、釈尊もお弟子達も、修行の最終的な経験はこれとは全く異なります。
三明六通のあと、四聖諦の経験するのが真解脱と定義されています。

なので、この本で著者はもともと禅が仏教でないにも拘わらず、これを正伝の仏教と呼び、
仏教を誤解してると言っている訳です。道元も同じです。

ちゃんとした仏教を理解するには、パーリ語仏典は欠かせません。
もちろん、これにも後世の創作部分が存在するにしても、禅を正しい仏陀の教えと
して理解するよりは比較にならないほど、正確です。

秋月師は仏陀は幽霊を否定しただとか書いてありますが、
原始仏典にはちゃんと幽霊の存在を扱った経典群が存在しますよ。
餓鬼事経と言うのがそれです。アマゾンでも売っています。

この方も瀬戸内寂聴師となんら変わりません。
42人のお客様がこれが役に立ったと考えています
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2009年12月18日に日本でレビュー済み
このタイトルからすると、一般読者相手の啓蒙書かと予想しますが、

読んでみるとかなり違います。

前半は、僧侶や仏教「学者」の「妄説」や「歪曲」に対して

秋月師が怒りを爆発させた内容で、不謹慎ながら、「まあまあ」と

なだめたくなります。

後半は、仏教が何故無神論であるか、無霊魂論であるか、というような

論題について、禅の考え方や西田哲学の考え方を導入しつつ

論じておられるのですが、私の理解では、結局は言葉では説明できず、

悟らないとわからない、という結論になっています。

それは間違いではないでしょうが、それなら何故、言葉で延々と説明するのでしょう?

さらに私見を述べれば、著者の論旨に従うと、仏教は無神論であり、無霊魂論で

あるのみならず、非「無神論」でもあり、非「無霊魂論」でもあると思うのですが。

耳障りな点としては、この本は、雑誌の連載にあまり編集の手を加えずに成ったらしく、

同じ台詞が何回も出てきます。

内容から言ってあまり一般の読者がターゲットとは思えず、

かといって専門家向けでもない、やや荒削りな本ではないかと

思いますが、秋月師の考えを理解するためには、読んでおいて無駄はないと

思いました。
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