古典です。日本の人類学者が書いた本で、これほど古典的な著作はめったにないといってよいでしょう。文庫化されて幸いです。もはや「同時代の事実」から「歴史」へと変化した本書の事例も、昨今では批判にさらされている「構造主義」的な傾向の強い本書における著者たちの理論も、しかしここまでクリアーに提示され、文化の相対性を意識しながらも人間の本質に迫りながら理路整然と論じられていれば、まったく古い印象はうけず深く納得させられます。
人が自己を意識したとき、つまりやがて死ぬであろう生きているこの私に気付いたとき、いまここに存在していることの驚きと喜びと不安がうまれ、そのインパクトが人間独自の文化を形成します。葬式や先祖祭祀といった死の儀礼はその内の最たるものというか、事の本性からして究極的な文化であって、その人間の起源にぎりぎりまで接近できそうな文化こそが、本書の主題です。
共著者である二人の人類学者が、それぞれのフィールドである東南アジアのイバンとトラジャという二つの「民族」における死の儀礼を比較しながら、議論を進めていきます。方や、死をめぐる観念が日常生活の中にみちみちており、身近な他者の死という出来事を、死者の魂や他界の濃密さのある世界の彼方へと送り出すイバン、方や、死の儀礼が驚異的なまでに盛大に行なわれ、動物の供犠をはじめ派手な消費を伴う祝祭のなか、他者の死の経験が社会を再構築していくトラジャ、と、この見事な対比をみせる二つのフィールドの事例から、死の儀礼の何たるかが考察されていくわけです。
特に重要なのは、この死なるものが、生なるものへと転化されていくメカニズムに対する著者たちの注目です。死は、生の対極としてありつつも、しかし生と共存し、生を意味づけ力づける。その表裏一体ぶりを構造的かつ動的に理解しようとする著者達の卓見こそが、本書に揺るがぬ古典性を与えているように思います。
無料のKindleアプリをダウンロードして、スマートフォン、タブレット、またはコンピューターで今すぐKindle本を読むことができます。Kindleデバイスは必要ありません。
ウェブ版Kindleなら、お使いのブラウザですぐにお読みいただけます。
携帯電話のカメラを使用する - 以下のコードをスキャンし、Kindleアプリをダウンロードしてください。
死の人類学 (講談社学術文庫) 文庫 – 2006/11/10
至上の超越者「死」に対する人間の態度。 語りの対象となり、イコンのうちに視覚化され、儀礼的演技の中で操作される死。ボルネオ、スラウェシの事例をもとに、文化の中で死がいかに扱われるかを考察。
- ISBN-104061597930
- ISBN-13978-4061597938
- 出版社講談社
- 発売日2006/11/10
- 言語日本語
- 本の長さ352ページ
この商品をチェックした人はこんな商品もチェックしています
ページ 1 以下のうち 1 最初から観るページ 1 以下のうち 1
登録情報
- 出版社 : 講談社 (2006/11/10)
- 発売日 : 2006/11/10
- 言語 : 日本語
- 文庫 : 352ページ
- ISBN-10 : 4061597930
- ISBN-13 : 978-4061597938
- Amazon 売れ筋ランキング: - 938,826位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 2,229位講談社学術文庫
- - 2,241位文化人類学一般関連書籍
- カスタマーレビュー:
著者について
著者をフォローして、新作のアップデートや改善されたおすすめを入手してください。
著者の本をもっと発見したり、よく似た著者を見つけたり、著者のブログを読んだりしましょう
著者の本をもっと発見したり、よく似た著者を見つけたり、著者のブログを読んだりしましょう
-
トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
レビューのフィルタリング中に問題が発生しました。後でもう一度試してください。
2014年11月9日に日本でレビュー済み
本書で二人の著者が取り上げるのは、それぞれがフィールドワークの対象とした
インドネシアはボルネオ島のイバン族、スラウェシ島のトラジャ族の双方における
葬儀を中心とした死の民俗学。それら観察における強調点は「死という無に向かう
事柄を、生を生み出す方向へ、より正しくは生の再生産へと転化させる」契機と
して葬儀を位置づける点にある。
冒頭から フィリップ・アリエス や ジャンケレヴィッチ らの死をめぐる抽象的な研究史が
連ねられ気圧されたりはするが、いざその実践の観察に入ってしまえば、概ね極めて
オーソドックスといえるリポート。
ひとまずの括りとして言えば、「イバンにおける死のありようが大変観念的であるのに
対して、トラジャではきわめて儀礼的である」。
「死霊の世界はこの世のレプリカ」として位置づけられるイバンはただし「肉体の
死後も存続する霊魂の存在が厳密な意味で永遠不滅のものであるとする観念は
ほとんどない。……死霊の世界で二度目の死を『死ぬ』と、霊魂は文字通り雲散霧消
してしまう。分解した霊魂は霧となり、さらには朝露ないし雨となって、この地上に
舞い降りてくるのである。……そこにあるのは、物質的な物としての稲への吸収で
あり、さらには身体的な人間の活動への寄与にほかならない。つまり生の再生産は
霊魂から霊魂への再生産ではなく、霊魂から肉体という一種ねじれのある再生産
なのである」。
対して、有力者ともなれば葬儀が二年を跨ぐトラジャにおいて展開されるのは
「肉の政治学」。「第一に、トラジャの死者祭宴は、対内的には、つまり祭宴主催者の
家族の内部においては、死者の財産およびリーダーシップの継承をめぐる政治学と
して」そして第二に、「対外的には、つまり死者が属する共同体に対しては、勲功
祭宴として現れる。……共同体への寛大な肉の分配というかたちで祭宴主催者は
村落社会における自らの地位を確保し、その威信を高め、村人を自分のもとに
ひきつけようとする」。さらに、「第三に、共同体を越えたレベルの問題がある。
ある共同体の首長の死に際して大きな死者祭宴がもたれる、あるいはそのような
かたちで富と組織力が誇示されることは、他の共同体の首長にとっては一種の
挑戦を受けることでもある」。
いずれの場合においても、「『死ぬために生きている』というトラジャの人々の
言葉を引いたが、事態はその言葉とは裏腹に、むしろ死が生を与えることを
示している。こういってよければ、彼らは死を生きているのである」。
個人的に最も印象的だったのはトラジャにおける下位階層の男の葬儀の場面、
遺族が支配階層からの生贄の提供を拒否する。その理由は「こうした水牛は後日
返さなければならない借りになるわけで、返済できなければ、抵当として水田を
取り上げられてしまう」から。
「野心的な富者にとっては、死をめぐる贈与交換は投資の機会でもある」。
この圧倒的な生々しさ、「肉の政治学」の威力を物語る無二のシーン。
「祭儀は教育の永遠に真実なる形態である。つまり教育とは、過去の世代が
真実にして現実なるものと認識してきたものを生き生きと思い浮かべることである」。
本書で繰り返される再生産構造の発露としての「死」は、このことばに絶対的な
説得力を与えてみせる。末尾で引かれる伊丹十三『 お葬式 』が極めて象徴的、
「祭儀」が「思い浮かべる」べき何かを失ってしまった人間にとって、葬儀における
立ち振る舞いの一切はマニュアルの猿真似に終始するしかない。
格式ばった硬質な表現にいささかの読みづらさはつきまとうが、ドキュメンタリーと
しても、葬儀を考える糸口としても、非常に有用な一冊。
インドネシアはボルネオ島のイバン族、スラウェシ島のトラジャ族の双方における
葬儀を中心とした死の民俗学。それら観察における強調点は「死という無に向かう
事柄を、生を生み出す方向へ、より正しくは生の再生産へと転化させる」契機と
して葬儀を位置づける点にある。
冒頭から フィリップ・アリエス や ジャンケレヴィッチ らの死をめぐる抽象的な研究史が
連ねられ気圧されたりはするが、いざその実践の観察に入ってしまえば、概ね極めて
オーソドックスといえるリポート。
ひとまずの括りとして言えば、「イバンにおける死のありようが大変観念的であるのに
対して、トラジャではきわめて儀礼的である」。
「死霊の世界はこの世のレプリカ」として位置づけられるイバンはただし「肉体の
死後も存続する霊魂の存在が厳密な意味で永遠不滅のものであるとする観念は
ほとんどない。……死霊の世界で二度目の死を『死ぬ』と、霊魂は文字通り雲散霧消
してしまう。分解した霊魂は霧となり、さらには朝露ないし雨となって、この地上に
舞い降りてくるのである。……そこにあるのは、物質的な物としての稲への吸収で
あり、さらには身体的な人間の活動への寄与にほかならない。つまり生の再生産は
霊魂から霊魂への再生産ではなく、霊魂から肉体という一種ねじれのある再生産
なのである」。
対して、有力者ともなれば葬儀が二年を跨ぐトラジャにおいて展開されるのは
「肉の政治学」。「第一に、トラジャの死者祭宴は、対内的には、つまり祭宴主催者の
家族の内部においては、死者の財産およびリーダーシップの継承をめぐる政治学と
して」そして第二に、「対外的には、つまり死者が属する共同体に対しては、勲功
祭宴として現れる。……共同体への寛大な肉の分配というかたちで祭宴主催者は
村落社会における自らの地位を確保し、その威信を高め、村人を自分のもとに
ひきつけようとする」。さらに、「第三に、共同体を越えたレベルの問題がある。
ある共同体の首長の死に際して大きな死者祭宴がもたれる、あるいはそのような
かたちで富と組織力が誇示されることは、他の共同体の首長にとっては一種の
挑戦を受けることでもある」。
いずれの場合においても、「『死ぬために生きている』というトラジャの人々の
言葉を引いたが、事態はその言葉とは裏腹に、むしろ死が生を与えることを
示している。こういってよければ、彼らは死を生きているのである」。
個人的に最も印象的だったのはトラジャにおける下位階層の男の葬儀の場面、
遺族が支配階層からの生贄の提供を拒否する。その理由は「こうした水牛は後日
返さなければならない借りになるわけで、返済できなければ、抵当として水田を
取り上げられてしまう」から。
「野心的な富者にとっては、死をめぐる贈与交換は投資の機会でもある」。
この圧倒的な生々しさ、「肉の政治学」の威力を物語る無二のシーン。
「祭儀は教育の永遠に真実なる形態である。つまり教育とは、過去の世代が
真実にして現実なるものと認識してきたものを生き生きと思い浮かべることである」。
本書で繰り返される再生産構造の発露としての「死」は、このことばに絶対的な
説得力を与えてみせる。末尾で引かれる伊丹十三『 お葬式 』が極めて象徴的、
「祭儀」が「思い浮かべる」べき何かを失ってしまった人間にとって、葬儀における
立ち振る舞いの一切はマニュアルの猿真似に終始するしかない。
格式ばった硬質な表現にいささかの読みづらさはつきまとうが、ドキュメンタリーと
しても、葬儀を考える糸口としても、非常に有用な一冊。
2007年8月8日に日本でレビュー済み
20年以上前に出版されたものの文庫化。
インドネシアの異なる二つの部族、すなわちイバン族とトラジャ族で綿密なフィールドワークを行った著者達が、対照的なそれぞれの部族の死生観の違いを通して、人類一般の「死の人類学」というものを考えようとする試み。
が、あとがきに著者自身が書いているように、「死の人類学」というものの、全体を通してイバン族とトラジャ族のみの死生観の研究のような内容になっており(これはこれでもちろん興味深く読めるのだが)、タイトルと内容のギャップには少し注意をしなければならない。
つまり、「人類にとって死はどんな意味があるの??」とか、「人類はこれまで死をどのように考えてきたか」等の問に解答を与えるような類の本では無いということだ。
民俗誌に興味がある人には、是非お勧め。
インドネシアの異なる二つの部族、すなわちイバン族とトラジャ族で綿密なフィールドワークを行った著者達が、対照的なそれぞれの部族の死生観の違いを通して、人類一般の「死の人類学」というものを考えようとする試み。
が、あとがきに著者自身が書いているように、「死の人類学」というものの、全体を通してイバン族とトラジャ族のみの死生観の研究のような内容になっており(これはこれでもちろん興味深く読めるのだが)、タイトルと内容のギャップには少し注意をしなければならない。
つまり、「人類にとって死はどんな意味があるの??」とか、「人類はこれまで死をどのように考えてきたか」等の問に解答を与えるような類の本では無いということだ。
民俗誌に興味がある人には、是非お勧め。