本書の背景にあるのは、ネーション(国民)―ステート(国家)―資本制というトライアングル構造を「止揚」しなければならない、という政治的主張である。が、どうも私には、その主張自体が実感としてピンとこない。これは柄谷氏と私の世代間的な格差かもしれないが、いちいち頭に「?」と疑問符が付く点が少なからずあった。
例えば氏は本書第三章「入れ札と籤引き」で、無記名投票という現行の制度は投票の自由を保証しない、と述べる。「実際、皆さんが属する会社や大学などの組織で、無記名投票をする場合を考えてください。投票者が少ないところでは、完全に票読みがされて、秘密などありえないのです。それなら、無記名投票にしてもしなくても同じようなものではないでしょうか。」(p.157)しかし柄谷氏のこの「実感」を、無党派層が増加しつつある現在の選挙状況にそのまま当てはめることには無理がある。また氏が籤引き制度を推奨するのは、人間は権力欲から逃れられないので権力者の選出にさいしては「偶然性」を外部から導入するのがよい、と考えるからだが、それだけではない。氏は、政治の世界においてある程度選び出された候補者間では、能力の差などいわば「誤差」にすぎないと述べている。そかしこの洞察はむしろ、事務能力の上下のみで判断するような官僚主義的な見方を政治家に逆投影した結果であるように思える。
その他、氏の市民通貨論にも議論の不十分さを覚える。なぜ富の蓄積を追究してはならないのか、なぜ剰余価値を生まないアソシエーションが「ユートピア」と称えられるのか。互酬的交換関係は、私と他者との間を不平等にする「剰余」を本当に生じさせないのか。これらの疑問は、柄谷氏にすれば当然の「前提」かもしれないが、そうした前提を納得させる議論は、あまり詳細に展開されていない。氏の論述によれば、地球温暖化も環境汚染も遺伝子組み換え食品の問題も全て、資本の自己増殖に帰着する。けれどもこれらは、ある種の洗練された「物々交換」である市民通貨を導入しかたらといって解決がはかれる問題ではあるまい。資本主義の欠点として氏が持ち出す具体例は、誰もが指摘できるような凡庸なものだ。
面白かったが、それ以上のものはあるだろうか。評論はしょせん評論だ、という意地悪な感想も残る。
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日本精神分析 (講談社学術文庫) 文庫 – 2007/6/8
柄谷 行人
(著)
「日本精神分析」というエッセイは、日本の文化に関する考察である。私はいつも、日本人の経験を、自民族中心主義に陥ることなく、普遍的に意味をもつようなかたちで提示したいと思っていた。しかし、ある意味で、本書のエッセイはすべて、そのような姿勢で書かれている、といえる。ゆえに、本のタイトルを「日本精神分析」としたのである。――〈「学術文庫版へのあとがき」より〉
近代国家を乗り越える道筋を示す画期的論考。資本、国家、ネーションの三位一体が支える近代国家。芥川、菊地、谷崎の短編を手がかりに、近代日本のナショナリズムと天皇制、民主主義、貨幣を根源的に問う。
近代国家を乗り越える道筋を示す画期的論考。資本、国家、ネーションの三位一体が支える近代国家。芥川、菊地、谷崎の短編を手がかりに、近代日本のナショナリズムと天皇制、民主主義、貨幣を根源的に問う。
- 本の長さ304ページ
- 言語日本語
- 出版社講談社
- 発売日2007/6/8
- ISBN-104061598228
- ISBN-13978-4061598225
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登録情報
- 出版社 : 講談社 (2007/6/8)
- 発売日 : 2007/6/8
- 言語 : 日本語
- 文庫 : 304ページ
- ISBN-10 : 4061598228
- ISBN-13 : 978-4061598225
- Amazon 売れ筋ランキング: - 88,706位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
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著者について
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1941年生まれ。評論家 (「BOOK著者紹介情報」より:本データは『 世界史の構造 (ISBN-13: 978-4000236935 )』が刊行された当時に掲載されていたものです。)
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トップレビュー
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2011年10月1日に日本でレビュー済み
柄谷によると、世界中の先進国の政治である社会民主主義は、(1)資本制(2)ネーション(共同体)(3)ステート(国家)の三位一体的構造である。つまり「経済的に自由にふるまい、そのことが階級的対立や諸矛盾をもたらすとき、それを国民の相互扶助的な感情によって越え、議会を通して国家権力によって規制し富を再分配する」ということを示す。
資本制による悪影響(環境汚染等)によりこの構造を早く脱却しなくてならないのだが、この三位一体構造をくずすのは難しく、封建社会以降これに変わる構造は発明されてない。
柄谷はアソシエーションにより三位一体構造からの変革を提案する。アソシエーションとは資本主義的な市場経済の上に相酬的・相互扶助的な交換(地域貨幣等)を回復する、この交換原理を広げることで上記の三位一体構造は数世紀かけ消滅する。
アソシエーションによる効果はなかなか難しいと思われるが、三位一体構造の限界が見え始めている現在、現状の把握と智慧を出し合うことは急務だろう。
(危機を言い立てる人はいるが、代案を提案できる人はあまりいない。)
第二章の表題でもある「日本精神分析」は多くの気づきを与えてくる。
『たとえば、漢字やカタカナとして受け入れたものは、所詮外来的であり、だからこそ、何を受け入れても構わないのです。外来的な観念は、所詮漢字やカタカナとして表記上区別される以上、恐れる必要はない。それらは本質的に内面化されることもなく、また、それに対する抵抗もない。不必要だとみなされれば、たんに脇に片ずけられるだけです。結果として、日本には外来的なものがすべて保存されるということになる。』(p78抜粋)
『宣長は仏教や儒教のような偉大な観念が日本にもあったなどとはいわないのです。むしろ日本には知的・道徳的なレベルでは何もオリジナルなものはなかった、ただ知的・道徳的原理によって否定され隠蔽されてしまう小さな感情(もののあはれ)を大切にするのが、やまと魂だというわけです。
ー中略ー
宣長は日本語が漢語より優れているのは、テニヲハがあるからだといいます。ほとんどの概念は漢字で書けますが、テニヲハのような助詞はそうできない。ここには何の価値のある内容もふくまれていない。にもかかわらずそのような「辞」には、概念にならないような微妙な感情や情緒が示されている。いわば、それだけがやまとだ。』(p88抜粋)
実は日本人は外来のものを内面的には何も取り入れていない、それは記述言語に明確に示されている。という着想は非常におもしろい。
資本制による悪影響(環境汚染等)によりこの構造を早く脱却しなくてならないのだが、この三位一体構造をくずすのは難しく、封建社会以降これに変わる構造は発明されてない。
柄谷はアソシエーションにより三位一体構造からの変革を提案する。アソシエーションとは資本主義的な市場経済の上に相酬的・相互扶助的な交換(地域貨幣等)を回復する、この交換原理を広げることで上記の三位一体構造は数世紀かけ消滅する。
アソシエーションによる効果はなかなか難しいと思われるが、三位一体構造の限界が見え始めている現在、現状の把握と智慧を出し合うことは急務だろう。
(危機を言い立てる人はいるが、代案を提案できる人はあまりいない。)
第二章の表題でもある「日本精神分析」は多くの気づきを与えてくる。
『たとえば、漢字やカタカナとして受け入れたものは、所詮外来的であり、だからこそ、何を受け入れても構わないのです。外来的な観念は、所詮漢字やカタカナとして表記上区別される以上、恐れる必要はない。それらは本質的に内面化されることもなく、また、それに対する抵抗もない。不必要だとみなされれば、たんに脇に片ずけられるだけです。結果として、日本には外来的なものがすべて保存されるということになる。』(p78抜粋)
『宣長は仏教や儒教のような偉大な観念が日本にもあったなどとはいわないのです。むしろ日本には知的・道徳的なレベルでは何もオリジナルなものはなかった、ただ知的・道徳的原理によって否定され隠蔽されてしまう小さな感情(もののあはれ)を大切にするのが、やまと魂だというわけです。
ー中略ー
宣長は日本語が漢語より優れているのは、テニヲハがあるからだといいます。ほとんどの概念は漢字で書けますが、テニヲハのような助詞はそうできない。ここには何の価値のある内容もふくまれていない。にもかかわらずそのような「辞」には、概念にならないような微妙な感情や情緒が示されている。いわば、それだけがやまとだ。』(p88抜粋)
実は日本人は外来のものを内面的には何も取り入れていない、それは記述言語に明確に示されている。という着想は非常におもしろい。
2012年7月15日に日本でレビュー済み
はじめて柄谷さんの本を読みました。
扱われている内容や議論の土台となる論理は少し古いかもしれませんが,読みやすくて,アイデアとしてはとても面白い本だと思います。
皆さんがおっしゃるように,文芸批評がすばらしいです。
ちょっと深読みしすぎかなとも思いますが,面白い。
個人的には3つ目の「入れ札と籤引き」が興味深かったです。
扱われている内容や議論の土台となる論理は少し古いかもしれませんが,読みやすくて,アイデアとしてはとても面白い本だと思います。
皆さんがおっしゃるように,文芸批評がすばらしいです。
ちょっと深読みしすぎかなとも思いますが,面白い。
個人的には3つ目の「入れ札と籤引き」が興味深かったです。
2008年6月13日に日本でレビュー済み
谷崎潤一郎の佳作短編『小さな王国』を講談社の「少年少女日本文学館」で読み返していて、本書を思い出した。本書には谷崎の同作と芥川龍之介『神神の微笑』、菊池寛『入れ札』といった意外に見逃しがちな傑作短編を収録、これらをネタに、2002年当時の柄谷の問題意識を語った興味深い書である。「あとがき」には柄谷が主として関わった出版社の実質的な経営者であった内藤裕治氏への追悼の辞があるから、あとがき本文を読むまでもなく「NAM」運動へ注力していた時期だとわかる。
柄谷の解説はそれぞれ才気煥発と言わざるを得ないが、それにも増して豊穣だと思わせられるのは文豪達のテキストである。文章が巧く、読んでいて抜群に面白い。なかんずく谷崎の一作は大傑作かどうかはともかく、まったく無駄なく一つの世界を形成していると感じられる。
本作は谷崎にとっては代表作といえるものではないが、これと『神童』が最も鮮烈に印象に残っている。『神童』は文庫などで読めるのだろうか。以前は全集の1冊を古本屋で購入して読んだ記憶がある。中公文庫の「潤一郎ラビリンス」には入っているのだろうか? このシリーズも絶版だろうが。
柄谷の解説はそれぞれ才気煥発と言わざるを得ないが、それにも増して豊穣だと思わせられるのは文豪達のテキストである。文章が巧く、読んでいて抜群に面白い。なかんずく谷崎の一作は大傑作かどうかはともかく、まったく無駄なく一つの世界を形成していると感じられる。
本作は谷崎にとっては代表作といえるものではないが、これと『神童』が最も鮮烈に印象に残っている。『神童』は文庫などで読めるのだろうか。以前は全集の1冊を古本屋で購入して読んだ記憶がある。中公文庫の「潤一郎ラビリンス」には入っているのだろうか? このシリーズも絶版だろうが。
2017年2月12日に日本でレビュー済み
私は自分自身の信条が左翼からは距離があると思っているが、読書対象としては左翼的著作や雑誌にも学ぶべき部分が多々あると感じており、図書館などで意図的に「世界」や岩波新書など「進歩的な」書物を積極的に読んでいる。
雑誌「文学界」で特集号が出され、わが国左翼の理論的リーダーの一人でありかつ今でも左翼支持を公言し主張しているとされる柄谷行人が、ライフワークとして「トランスクリティーク」という英文の著作を完成し、その要約版として「日本精神分析」と題する本を出版した、という記事を読んだので、興味をもって「日本精神分析」を読んでみた。
先ず第一章として、「帝国と国民国家」という論文がある。古くはローマ帝国があり、東洋には中華帝国があった。日本もかつてはその中華帝国の一部に過ぎなかった、と著者は説く。そしてモンゴル帝国があり、比較的近くはオスマン・トルコ帝国があった。「帝国」は民族や文化の多様な相違を越えて普遍的に支配する必要から「法にもとづく統治手段」を持つ必要がある。さらに「世界宗教」「普遍的文字」を持つ。「帝国」は普遍的手段・原理で統治するために、異質な民族・文化に対して、「同化」を強要することがむしろ少ない、とする。
これに対して、近代に発生した「国民国家(ネーション・ステート)」は、初めから同質的住民と、政府に対する積極的同意を前提とするために、異質な民族を征服したときに「同化」を強要して圧政に陥る可能性が高い、と指摘する。この結果発生する「帝国主義」は、名前は似ているが実は本来の「帝国」とはまったく無関係で、その本質は「国民国家」の延長上にある、というハンナ・アーレントの論文が引用されている。国民国家の「ナショナリズム」はベネディクト・アンダーソンが定義する「想像の共同体」、すなわち「民族の先祖」、「子孫の永続性」を共有する共同体としての国家を主張する思想である。18世紀に啓蒙主義、合理主義が発展して宗教的思考を衰退させ、宗教に代わって死と不死との問題に解を与えたのがナショナリズムであるとする。フランス革命で、自由・平等・友愛とともに、資本・国家・ネーションが三位一体として結合し、以後、国家的管理強化による資本主義否定が「レーニン主義」を導き、またネーションの感情的側面を強調した結果「ファシズム」が発生した、と説く。
私は、律令制を導入し、漢字を採り入れ、仏教を受け入れたことを理由に、日本が中華帝国の「一部となっていた」という著者の主張には賛成しかねる。政治制度的・文化的影響があるということと、実際に帝国という国家支配機構の一部に従属するということとは、やはり違うであろう。むしろ、漢字を導入しつつも、日本語を維持したという事実こそ重視されるべきだろう。日本が中国の一部になった、属国になった、という歴史的事実もない。「帝国主義は普遍的な法や宗教にもとづいて統治した」というが、たとえばオスマン帝国は、イスラム教を単純に普遍的宗教として制服した多民族に強制したのではなく、むしろ適宜政教分離制度を導入して、巧みに異教徒を自らの体制に組み込んで統治したのであり、その事実を冷静に見れば、統治は理念や原理に基づいて成功したのではなく、実践的な戦術や経営能力によって成功したと考えるのが自然である。民族意識・民族主義が、宗教的統合意識にとってかわって、近代的国民国家の基盤となったという指摘はそのとおりと思うが、近代の民族主義の台頭は、啓蒙思想の普及もさることながら、交通や通信の進歩による「民族意識」の普及・宣伝・伝搬の手段の発達が大きな貢献をした、という説明の方が理解しやすい。また、レーニン主義とファシズムの両方を資本制・国家・ネーションステートの三位一体の同根に結び付けているが、現実には社会主義とファシズムの親和性は、コンセプトや基本思想によるというよりも、現実的統治技術あるいはマネジメント上の問題の類似性によるものであると思う。
第二章に、この本の題名ともなっている「日本精神分析」がある。文芸評論家の常套手段として、ここでは芥川龍之介の短編小説「神々の微笑」を取り上げ、その中から日本人のキリスト教観を題材に、日本の外国とのかかわり方について述べている。ここで述べられている趣旨は、「日本には『自己』あるいは『原理』という概念が欠落しているため、外から来たものとの衝突がなく、何も彼もが受け入れられ、それでいて実は何も受け入れられていない。」という主張である。丸山真男の「日本はいかなる外来思想も受け入れるが、ただ雑居しているだけで、内的な核心を結ぶことがない。」という文章が引用されている。この理由として、日本は、地勢的に中国大陸との間に朝鮮半島が防護壁として存在したため、構造的「国家」と生成的「社会」の区別があいまいなままで過ごすことができた、と説く。このため、あらゆる意思決定(=構造) が「いつのまにかそうなる」(=生成) というかたちをとってきたのだと主張している。一方、朝鮮は日本と逆に、大陸からの政治的・文化的圧迫に晒されつづけてきたために、中国以上に原理的・体系的であろうとした傾向がある、と分析している。この前提のもとに、日本の天皇制が存続した理由について、たまたま明治政府の歴代支配者の便宜と、戦後は社会主義陣営に対抗するうえでの米国の戦術上の便宜によるものであり、根の深いものではない、と断じている。
私は、この「分析」なるものが、西欧中心観にもとづく偏った理解であると思う。このような思考パターンは、この著者に限らず、最近では塩野七生にいたるまで、わが国の知識人に非常に多い。丸山真男は、深い広範囲な学識から、私が尊敬する知識人のひとりであるが、多くの危うい判断を残している。日本だけでなく、アジアの歴史・思想・文化には、西欧的思想だけで理解すべきでない部分がある、という考えは、リー・クアン・ユー、マハティール、毛沢東、などから多くの主張があり、私はそちらの方が正しいと考えている。日本は、それなりに自身の文化を維持しつつも、非常に多様な外国文化を消化吸収して独自の文化を形成してきたことは、ほとんど自明であるし、決して「なにも受け入れない」と「否定的に」、少なくとも「否定的にのみ」とらえる必要はないと考える。天皇制の持続という問題も、実際に明治のエリート達が、便利な統治機構として有効に利用したことは事実だろうし、また戦後は米国駐留軍がその権威を日本統治の安定のために有効と判断して利用したことも事実である。しかし、それぞれの場合にそのように判断するにたる「根の深い」理由があったのであり、それを考えずに「根の深いものではない」と断定するのは誤りであると考える。
第三章に「入れ札とくじ引き」という文章がある。ここでは菊池寛「入れくじ」をとりあげ、手下の気持ちを考えてくじ引きで道連れを決めた国定忠治の話から、「くじ引き」を無記名投票や入学選抜試験に代わるものとして、現代社会の選抜方法に積極的に導入する提案をしている。無記名投票は、代表する者と代表される者を切り離すために、選ばれた議員は選んだ有権者に対して拘束を受けない、と指摘する。また、実際の投票の現場では、多くの場合、本当の「投票者の秘密」はない、ともいう。議会に対する人々の失望は、普通選挙において人々が「議会は人民の代表であるべき」と考えることから始まる。この反動として「真の代表者」を求める大衆心理が発生し、結果としてヨーロッパではルイ・ボナパルトやヒトラーを生み、日本では近衛文麿を生んだのである、と主張する。この「民主主義」の欠陥を補い、人間の権力へのあくなき欲求を制限する具体的手段として、古代ギリシアのアテネでは、「くじ引き」を権力者の選抜に用いていたことを取り上げる。くじ引き導入の有効性の主張は、つまるところ「権力の誘惑に抵抗する人間の能力への不信」から来ている。著者は、大学や高校の入試にまで「くじ引き」を導入することを提案している。こういう手段の導入によって、単純な競争に意味がないことを示すことで、無用な競争や失望、無用な努力による無駄を除くことが出来るとする。
この著者の主張もこのあたりになってくると、いよいよ怪しい側面が覆いがたく大きくなってくる。無記名投票の問題点の指摘には、ある程度妥当な部分もあるが、所詮現実世界の人間の制度に、完全なものはないのである。それに対する代案として、くじ引きという提案は、あまりに稚拙で荒唐無稽と言わざるをえない。たとえある時期に現実にギリシアで採用された制度であるとしても、歴史的事実としてすでに廃止され、以後採用されたことがないという事実がある以上、当然多くの副作用・問題点があったためであると考えるのが自然であろう。学者としていろいろの知識があることを示すわりには、なんとも単純で幼稚な提案であると思わざるをえない。
第四章では、「市民通貨の小さな王国」というタイトルで、谷崎潤一郎の短編小説「小さな王国」を取り上げ、地域で限定的に通用する独自通貨の導入を提案している。これにより、資本主義の弊害である資本の過剰蓄積や独占を防ぐことができる、とする。
一般に左翼系の人々は、「資本蓄積」を悪の根源として、排撃すべきものと主張しがちであるが、社会主義や共産主義においてさえも、産業を推進し高度化しようとする場合、十分な資本の蓄積が必須であることは歴史的に自明である。この文章も、気楽な文芸批評としては読めても、社会制度の改革提案としては、なんとも考察不足で幼稚であると言わざるをえない。
柄谷行人は、今でもマルクスレーニン主義を重視して、資本主義体制に対して批判的立場を貫くと公言しているという。学者としてそういう姿勢はひとつの選択であり、それ自体はなんら問題とはしない。そういう研究から、われわれ一般人が学ぶべき、興味深い考察が出てくる可能性もあると思う。しかし、長年の学習と研究の成果をこうしてライフワークとしてまとめ、新たな提案をしたという著作の要約版としては、少なくともその提案の中味がずいぶん安易でお粗末であったというのが私の率直な感想である。
雑誌「文学界」で特集号が出され、わが国左翼の理論的リーダーの一人でありかつ今でも左翼支持を公言し主張しているとされる柄谷行人が、ライフワークとして「トランスクリティーク」という英文の著作を完成し、その要約版として「日本精神分析」と題する本を出版した、という記事を読んだので、興味をもって「日本精神分析」を読んでみた。
先ず第一章として、「帝国と国民国家」という論文がある。古くはローマ帝国があり、東洋には中華帝国があった。日本もかつてはその中華帝国の一部に過ぎなかった、と著者は説く。そしてモンゴル帝国があり、比較的近くはオスマン・トルコ帝国があった。「帝国」は民族や文化の多様な相違を越えて普遍的に支配する必要から「法にもとづく統治手段」を持つ必要がある。さらに「世界宗教」「普遍的文字」を持つ。「帝国」は普遍的手段・原理で統治するために、異質な民族・文化に対して、「同化」を強要することがむしろ少ない、とする。
これに対して、近代に発生した「国民国家(ネーション・ステート)」は、初めから同質的住民と、政府に対する積極的同意を前提とするために、異質な民族を征服したときに「同化」を強要して圧政に陥る可能性が高い、と指摘する。この結果発生する「帝国主義」は、名前は似ているが実は本来の「帝国」とはまったく無関係で、その本質は「国民国家」の延長上にある、というハンナ・アーレントの論文が引用されている。国民国家の「ナショナリズム」はベネディクト・アンダーソンが定義する「想像の共同体」、すなわち「民族の先祖」、「子孫の永続性」を共有する共同体としての国家を主張する思想である。18世紀に啓蒙主義、合理主義が発展して宗教的思考を衰退させ、宗教に代わって死と不死との問題に解を与えたのがナショナリズムであるとする。フランス革命で、自由・平等・友愛とともに、資本・国家・ネーションが三位一体として結合し、以後、国家的管理強化による資本主義否定が「レーニン主義」を導き、またネーションの感情的側面を強調した結果「ファシズム」が発生した、と説く。
私は、律令制を導入し、漢字を採り入れ、仏教を受け入れたことを理由に、日本が中華帝国の「一部となっていた」という著者の主張には賛成しかねる。政治制度的・文化的影響があるということと、実際に帝国という国家支配機構の一部に従属するということとは、やはり違うであろう。むしろ、漢字を導入しつつも、日本語を維持したという事実こそ重視されるべきだろう。日本が中国の一部になった、属国になった、という歴史的事実もない。「帝国主義は普遍的な法や宗教にもとづいて統治した」というが、たとえばオスマン帝国は、イスラム教を単純に普遍的宗教として制服した多民族に強制したのではなく、むしろ適宜政教分離制度を導入して、巧みに異教徒を自らの体制に組み込んで統治したのであり、その事実を冷静に見れば、統治は理念や原理に基づいて成功したのではなく、実践的な戦術や経営能力によって成功したと考えるのが自然である。民族意識・民族主義が、宗教的統合意識にとってかわって、近代的国民国家の基盤となったという指摘はそのとおりと思うが、近代の民族主義の台頭は、啓蒙思想の普及もさることながら、交通や通信の進歩による「民族意識」の普及・宣伝・伝搬の手段の発達が大きな貢献をした、という説明の方が理解しやすい。また、レーニン主義とファシズムの両方を資本制・国家・ネーションステートの三位一体の同根に結び付けているが、現実には社会主義とファシズムの親和性は、コンセプトや基本思想によるというよりも、現実的統治技術あるいはマネジメント上の問題の類似性によるものであると思う。
第二章に、この本の題名ともなっている「日本精神分析」がある。文芸評論家の常套手段として、ここでは芥川龍之介の短編小説「神々の微笑」を取り上げ、その中から日本人のキリスト教観を題材に、日本の外国とのかかわり方について述べている。ここで述べられている趣旨は、「日本には『自己』あるいは『原理』という概念が欠落しているため、外から来たものとの衝突がなく、何も彼もが受け入れられ、それでいて実は何も受け入れられていない。」という主張である。丸山真男の「日本はいかなる外来思想も受け入れるが、ただ雑居しているだけで、内的な核心を結ぶことがない。」という文章が引用されている。この理由として、日本は、地勢的に中国大陸との間に朝鮮半島が防護壁として存在したため、構造的「国家」と生成的「社会」の区別があいまいなままで過ごすことができた、と説く。このため、あらゆる意思決定(=構造) が「いつのまにかそうなる」(=生成) というかたちをとってきたのだと主張している。一方、朝鮮は日本と逆に、大陸からの政治的・文化的圧迫に晒されつづけてきたために、中国以上に原理的・体系的であろうとした傾向がある、と分析している。この前提のもとに、日本の天皇制が存続した理由について、たまたま明治政府の歴代支配者の便宜と、戦後は社会主義陣営に対抗するうえでの米国の戦術上の便宜によるものであり、根の深いものではない、と断じている。
私は、この「分析」なるものが、西欧中心観にもとづく偏った理解であると思う。このような思考パターンは、この著者に限らず、最近では塩野七生にいたるまで、わが国の知識人に非常に多い。丸山真男は、深い広範囲な学識から、私が尊敬する知識人のひとりであるが、多くの危うい判断を残している。日本だけでなく、アジアの歴史・思想・文化には、西欧的思想だけで理解すべきでない部分がある、という考えは、リー・クアン・ユー、マハティール、毛沢東、などから多くの主張があり、私はそちらの方が正しいと考えている。日本は、それなりに自身の文化を維持しつつも、非常に多様な外国文化を消化吸収して独自の文化を形成してきたことは、ほとんど自明であるし、決して「なにも受け入れない」と「否定的に」、少なくとも「否定的にのみ」とらえる必要はないと考える。天皇制の持続という問題も、実際に明治のエリート達が、便利な統治機構として有効に利用したことは事実だろうし、また戦後は米国駐留軍がその権威を日本統治の安定のために有効と判断して利用したことも事実である。しかし、それぞれの場合にそのように判断するにたる「根の深い」理由があったのであり、それを考えずに「根の深いものではない」と断定するのは誤りであると考える。
第三章に「入れ札とくじ引き」という文章がある。ここでは菊池寛「入れくじ」をとりあげ、手下の気持ちを考えてくじ引きで道連れを決めた国定忠治の話から、「くじ引き」を無記名投票や入学選抜試験に代わるものとして、現代社会の選抜方法に積極的に導入する提案をしている。無記名投票は、代表する者と代表される者を切り離すために、選ばれた議員は選んだ有権者に対して拘束を受けない、と指摘する。また、実際の投票の現場では、多くの場合、本当の「投票者の秘密」はない、ともいう。議会に対する人々の失望は、普通選挙において人々が「議会は人民の代表であるべき」と考えることから始まる。この反動として「真の代表者」を求める大衆心理が発生し、結果としてヨーロッパではルイ・ボナパルトやヒトラーを生み、日本では近衛文麿を生んだのである、と主張する。この「民主主義」の欠陥を補い、人間の権力へのあくなき欲求を制限する具体的手段として、古代ギリシアのアテネでは、「くじ引き」を権力者の選抜に用いていたことを取り上げる。くじ引き導入の有効性の主張は、つまるところ「権力の誘惑に抵抗する人間の能力への不信」から来ている。著者は、大学や高校の入試にまで「くじ引き」を導入することを提案している。こういう手段の導入によって、単純な競争に意味がないことを示すことで、無用な競争や失望、無用な努力による無駄を除くことが出来るとする。
この著者の主張もこのあたりになってくると、いよいよ怪しい側面が覆いがたく大きくなってくる。無記名投票の問題点の指摘には、ある程度妥当な部分もあるが、所詮現実世界の人間の制度に、完全なものはないのである。それに対する代案として、くじ引きという提案は、あまりに稚拙で荒唐無稽と言わざるをえない。たとえある時期に現実にギリシアで採用された制度であるとしても、歴史的事実としてすでに廃止され、以後採用されたことがないという事実がある以上、当然多くの副作用・問題点があったためであると考えるのが自然であろう。学者としていろいろの知識があることを示すわりには、なんとも単純で幼稚な提案であると思わざるをえない。
第四章では、「市民通貨の小さな王国」というタイトルで、谷崎潤一郎の短編小説「小さな王国」を取り上げ、地域で限定的に通用する独自通貨の導入を提案している。これにより、資本主義の弊害である資本の過剰蓄積や独占を防ぐことができる、とする。
一般に左翼系の人々は、「資本蓄積」を悪の根源として、排撃すべきものと主張しがちであるが、社会主義や共産主義においてさえも、産業を推進し高度化しようとする場合、十分な資本の蓄積が必須であることは歴史的に自明である。この文章も、気楽な文芸批評としては読めても、社会制度の改革提案としては、なんとも考察不足で幼稚であると言わざるをえない。
柄谷行人は、今でもマルクスレーニン主義を重視して、資本主義体制に対して批判的立場を貫くと公言しているという。学者としてそういう姿勢はひとつの選択であり、それ自体はなんら問題とはしない。そういう研究から、われわれ一般人が学ぶべき、興味深い考察が出てくる可能性もあると思う。しかし、長年の学習と研究の成果をこうしてライフワークとしてまとめ、新たな提案をしたという著作の要約版としては、少なくともその提案の中味がずいぶん安易でお粗末であったというのが私の率直な感想である。
2012年4月9日に日本でレビュー済み
柄谷行人の講演録が中心になってます。理想論な所は否めないですが、そこに社会や人への可能性も感じます。