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豆腐屋の四季 (講談社文庫 ま 10-2) ペーパーバック – 1983/6/1
松下 竜一
(著)
泥のごとできそこないし豆腐投げ怒れる夜のまだ明けざらん――零細な家業の豆腐屋を継ぎ、病弱な身体を酷使する労働の日々、青春と呼ぶにはあまりに惨めな生活の中から噴き上げるように歌は生れた。そして稚ない恋の成就……60年代の青春の燦きを刻して世代を超えて読み継がれた感動のベスト・セラー!
- 本の長さ336ページ
- 言語日本語
- 出版社講談社
- 発売日1983/6/1
- ISBN-104061830589
- ISBN-13978-4061830585
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登録情報
- 出版社 : 講談社 (1983/6/1)
- 発売日 : 1983/6/1
- 言語 : 日本語
- ペーパーバック : 336ページ
- ISBN-10 : 4061830589
- ISBN-13 : 978-4061830585
- Amazon 売れ筋ランキング: - 889,802位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 11,401位講談社文庫
- - 13,500位近現代日本のエッセー・随筆
- - 37,140位評論・文学研究 (本)
- カスタマーレビュー:
著者について
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イメージ付きのレビュー
5 星
とにかく、多くの方に読んでいただきたい。
コロナ禍の頃、「ブックカバーチャレンジ」という企画があり、この作品を選びました。読み進めていく内に、ここに描かれている若い二人に心を寄せている自分がおり、次のページが気になって仕方がありませんでした。
フィードバックをお寄せいただきありがとうございます
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
レビューのフィルタリング中に問題が発生しました。後でもう一度試してください。
2022年9月18日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
涙するとても素晴らしい感動の本です!
2020年5月11日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
コロナ禍の頃、「ブックカバーチャレンジ」という企画があり、この作品を選びました。
読み進めていく内に、ここに描かれている若い二人に心を寄せている自分がおり、次のページが気になって仕方がありませんでした。
読み進めていく内に、ここに描かれている若い二人に心を寄せている自分がおり、次のページが気になって仕方がありませんでした。
コロナ禍の頃、「ブックカバーチャレンジ」という企画があり、この作品を選びました。
読み進めていく内に、ここに描かれている若い二人に心を寄せている自分がおり、次のページが気になって仕方がありませんでした。
読み進めていく内に、ここに描かれている若い二人に心を寄せている自分がおり、次のページが気になって仕方がありませんでした。
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2019年9月24日に日本でレビュー済み
著者の松下竜一のことを知ったのは、30年も前のことである。
当時、筑摩書房から「終末から」という総合雑誌が発刊されていた。
ぼくの友人が、そこに初めての連載を持つというので、毎号買った。
その雑誌には、井上ひさしの傑作である「吉里吉里人」が連載され、その他にも「虚無への供物」で有名な中井英夫などが連載を持っていた。
そんな中に、松下竜一はいた。
松下竜一の連載は「起て! 乱訴の兵」というタイトルだった。
これは「乱訴の弊」という法律用語があるのだが、それをもじったものである。
乱訴の弊というのは、庶民が勝手に訴訟を起こすようになると裁判所が乱れて困る、という意味である。
だから、法律用語や裁判手続きは、庶民が乱訴しないように分かりにくくしているのだと、そのことを正当化する言葉なのである。
ところが、松下竜一は、その乱訴の弊という概念すら逆手にとって、「素人がじゃんじゃん訴訟をおこしちゃる」という立場を採ったのである。
彼は九州の豊前火力発電所反対運動を自ら起こし、弁護士の助けを借りずに、反対訴訟を起こしていた。
そのドキュメントが「起て! 乱訴の兵」なのだった。
その文章は、生活者の立場から、しぶとく行政の一方的な発電所建設に反対していくものであったが、実に哀歓に富んでいて、ぼくはこの作家の名前を記憶したのだった。
この雑誌は、結局7号で終末を迎えてしまい、「吉里吉里人」などはその後、書き下ろしで出版される。
「終末から」の7冊は、今もぼくの本棚に埃をかぶって積まれている。
しかし、その後、松下竜一の本が注目されるようになる。
最初に読んだのが「砦に拠る」だ。
これは、下筌ダム反対で、個人で砦・蜂の巣城を創り、そこに立て籠もって抵抗した室原知幸氏の物語である。
ぼくは、小学校の頃、テレビでこの闘争のことを見た記憶があって、打ち上げ花火を機動隊に水平に発射してまで戦う姿には、ちょっと驚いた記憶があった。
読んだ当時、ぼくは成田空港反対運動に参加していたこともあって、変人の個人的な抵抗には限界があるという風に考えていた。
でも彼がその作品で、奇特な老人の頑固一徹な抵抗を、批判はしつつも温かい眼差しで表現していたことが忘れられなかった。
その後、「ルイズ 父にもらいし名は」も読んだ。
これは関東大震災の最中、憲兵隊に虐殺された大杉栄と伊藤野枝の娘である、伊藤ルイの生涯を描いたノンフィクションであった。
ミクシィで読書日記を書くようになる以前は、読書ノートを残す習慣を持っていなかったために、今ではどんな内容だったかも思い出すことはできない。
けれども、この作品もまた、大杉や伊藤野枝やルイズに注がれている視線の温かさが、読後感として残っている。
(大杉の虐殺に関しては、甘粕正彦が犯人ではない、というのが最近の通説になっていて、ぼくにとってはそこから「甘粕正彦 乱心の荒野」などへの関心に繋がっていくのだが、それはここでは置いておく)
さらに、反日武装戦線の爆弾闘争を描いた「狼煙を見よ」も読んだ記憶があるが、この二作ほどの印象は残らなかった。
前置きが長くなってしまった。
その松下竜一が、1968年に自費出版した手記が、この「豆腐屋の四季」である。
その後、単行本化され、文庫本になったが絶版になっていた。
それが、最近、再刊されたという情報を得てアマゾンで検索したら、古い講談社文庫版が古本で出品されていて、それを購入して読んだのである。
内容は、彼の1967年11月から1968年11月までの1年間の手記である。
彼は大分県の片田舎の貧しい豆腐屋で、当時は30歳くらい。
生まれつき病弱で、子どもの頃の大病によって片目を失明している。
家も貧しい豆腐屋で、愛情深かった母親は彼が高校卒業後に亡くなる。
そして彼は否応なく、家業の豆腐屋を継ぐ。
毎日毎日、明け方の2時から油揚げをつくり、豆腐を手づくりする毎日。
昔の庶民は、みんなそんなものだった、のかもしれないが、それにしても悲しいほどに貧しく、労働に追われる毎日である。
つくった豆腐が売れず、廃棄されていく悲しみ。
老いた父と二人での豆腐作りには、どこにも出口が無いようにも思える。
しかし、彼には見初めた女性がいた。
豆腐を配達する先の小さな店の娘。
彼が知ったときには、まだ中学生でしかなかった11歳も年下の女性である。
その娘を、高校を卒業したら妻に、と思い、彼は一途に待つ。
そして、娘も彼の思いに応える。
そうして始まった、夫婦の生活の中で、彼が妻に1年間の記録を本にして出したい、と言う。
まだ18歳の妻は赤貧の生活であるにもかかわらず「それじゃ、お金を貯めなくてはね」と応える。
この本には、そんな貧しい豆腐屋の毎日の哀歓が綴られている。
そして、その中に、彼の短歌がちりばめられている。
彼は、その5年ほど前から短歌をつくり、朝日新聞の朝日歌壇に投稿して注目されてもいたのである。
1960年代後半としても、貧しいと思う。
つましいと思う。
しかし、生活の意味とか価値は、経済な豊かさではなく想いの多さにこそ拠っているのではないかと思えてくる。
そして読み終えて一番感じることは、世の中には、こういう風に「書かなければ生きていけない人がいる」ということである。
書かなければ生きていけない・・・。
それは、ぼくのように、ライターとかコピーライターを生業にして、それで収入を得ているから、という意味ではない。
自己表現をしなければ、生きていけない、つまり生きていくことと書くこととが同義であるような人たちのことである。
そして、松下竜一は、まぎれもなく、書かなくては生きていけない作家の一人であったと思うのである。
彼の作品のすべて読んでいるわけではないし、たぶん、その後の作品については読まないだろう。
けれども、書かなくてては生きていけない表現者である松下竜一の原点が、この「豆腐屋の四季」であることは、切ないほどに胸に迫ってきた。
当時、筑摩書房から「終末から」という総合雑誌が発刊されていた。
ぼくの友人が、そこに初めての連載を持つというので、毎号買った。
その雑誌には、井上ひさしの傑作である「吉里吉里人」が連載され、その他にも「虚無への供物」で有名な中井英夫などが連載を持っていた。
そんな中に、松下竜一はいた。
松下竜一の連載は「起て! 乱訴の兵」というタイトルだった。
これは「乱訴の弊」という法律用語があるのだが、それをもじったものである。
乱訴の弊というのは、庶民が勝手に訴訟を起こすようになると裁判所が乱れて困る、という意味である。
だから、法律用語や裁判手続きは、庶民が乱訴しないように分かりにくくしているのだと、そのことを正当化する言葉なのである。
ところが、松下竜一は、その乱訴の弊という概念すら逆手にとって、「素人がじゃんじゃん訴訟をおこしちゃる」という立場を採ったのである。
彼は九州の豊前火力発電所反対運動を自ら起こし、弁護士の助けを借りずに、反対訴訟を起こしていた。
そのドキュメントが「起て! 乱訴の兵」なのだった。
その文章は、生活者の立場から、しぶとく行政の一方的な発電所建設に反対していくものであったが、実に哀歓に富んでいて、ぼくはこの作家の名前を記憶したのだった。
この雑誌は、結局7号で終末を迎えてしまい、「吉里吉里人」などはその後、書き下ろしで出版される。
「終末から」の7冊は、今もぼくの本棚に埃をかぶって積まれている。
しかし、その後、松下竜一の本が注目されるようになる。
最初に読んだのが「砦に拠る」だ。
これは、下筌ダム反対で、個人で砦・蜂の巣城を創り、そこに立て籠もって抵抗した室原知幸氏の物語である。
ぼくは、小学校の頃、テレビでこの闘争のことを見た記憶があって、打ち上げ花火を機動隊に水平に発射してまで戦う姿には、ちょっと驚いた記憶があった。
読んだ当時、ぼくは成田空港反対運動に参加していたこともあって、変人の個人的な抵抗には限界があるという風に考えていた。
でも彼がその作品で、奇特な老人の頑固一徹な抵抗を、批判はしつつも温かい眼差しで表現していたことが忘れられなかった。
その後、「ルイズ 父にもらいし名は」も読んだ。
これは関東大震災の最中、憲兵隊に虐殺された大杉栄と伊藤野枝の娘である、伊藤ルイの生涯を描いたノンフィクションであった。
ミクシィで読書日記を書くようになる以前は、読書ノートを残す習慣を持っていなかったために、今ではどんな内容だったかも思い出すことはできない。
けれども、この作品もまた、大杉や伊藤野枝やルイズに注がれている視線の温かさが、読後感として残っている。
(大杉の虐殺に関しては、甘粕正彦が犯人ではない、というのが最近の通説になっていて、ぼくにとってはそこから「甘粕正彦 乱心の荒野」などへの関心に繋がっていくのだが、それはここでは置いておく)
さらに、反日武装戦線の爆弾闘争を描いた「狼煙を見よ」も読んだ記憶があるが、この二作ほどの印象は残らなかった。
前置きが長くなってしまった。
その松下竜一が、1968年に自費出版した手記が、この「豆腐屋の四季」である。
その後、単行本化され、文庫本になったが絶版になっていた。
それが、最近、再刊されたという情報を得てアマゾンで検索したら、古い講談社文庫版が古本で出品されていて、それを購入して読んだのである。
内容は、彼の1967年11月から1968年11月までの1年間の手記である。
彼は大分県の片田舎の貧しい豆腐屋で、当時は30歳くらい。
生まれつき病弱で、子どもの頃の大病によって片目を失明している。
家も貧しい豆腐屋で、愛情深かった母親は彼が高校卒業後に亡くなる。
そして彼は否応なく、家業の豆腐屋を継ぐ。
毎日毎日、明け方の2時から油揚げをつくり、豆腐を手づくりする毎日。
昔の庶民は、みんなそんなものだった、のかもしれないが、それにしても悲しいほどに貧しく、労働に追われる毎日である。
つくった豆腐が売れず、廃棄されていく悲しみ。
老いた父と二人での豆腐作りには、どこにも出口が無いようにも思える。
しかし、彼には見初めた女性がいた。
豆腐を配達する先の小さな店の娘。
彼が知ったときには、まだ中学生でしかなかった11歳も年下の女性である。
その娘を、高校を卒業したら妻に、と思い、彼は一途に待つ。
そして、娘も彼の思いに応える。
そうして始まった、夫婦の生活の中で、彼が妻に1年間の記録を本にして出したい、と言う。
まだ18歳の妻は赤貧の生活であるにもかかわらず「それじゃ、お金を貯めなくてはね」と応える。
この本には、そんな貧しい豆腐屋の毎日の哀歓が綴られている。
そして、その中に、彼の短歌がちりばめられている。
彼は、その5年ほど前から短歌をつくり、朝日新聞の朝日歌壇に投稿して注目されてもいたのである。
1960年代後半としても、貧しいと思う。
つましいと思う。
しかし、生活の意味とか価値は、経済な豊かさではなく想いの多さにこそ拠っているのではないかと思えてくる。
そして読み終えて一番感じることは、世の中には、こういう風に「書かなければ生きていけない人がいる」ということである。
書かなければ生きていけない・・・。
それは、ぼくのように、ライターとかコピーライターを生業にして、それで収入を得ているから、という意味ではない。
自己表現をしなければ、生きていけない、つまり生きていくことと書くこととが同義であるような人たちのことである。
そして、松下竜一は、まぎれもなく、書かなくては生きていけない作家の一人であったと思うのである。
彼の作品のすべて読んでいるわけではないし、たぶん、その後の作品については読まないだろう。
けれども、書かなくてては生きていけない表現者である松下竜一の原点が、この「豆腐屋の四季」であることは、切ないほどに胸に迫ってきた。
2015年7月29日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
豆腐屋さんってこんなに大変なのか。これほどの苦労をして豆腐をつくり困難な問題を抱えながら、兄弟、夫婦の絆が強く、愛の力で生きていく。そこから生まれた歌の数々。こんなに美しい歌を読めるのはどうしてなのか。筆者の生きる力には感動した。
2019年3月7日に日本でレビュー済み
再掲
読んだものは2000年12刷
初出は1969年講談社、前年に自費出版
40年前の作品である。松下さん(1937-2004)の自叙伝であり初作品。
6人兄弟、姉1人と弟4人、19歳の時に母(46歳)を失い進学を諦め家業を継ぐ。
自らも生後間もなく高熱により右眼を失明。その後も病弱のまま人生を歩むことになる。
弟らの自堕落な生き方に対する不安や苛立ちで自死を覚悟するが末弟のためにと留まる。
読書だけが趣味だった松下が25歳で短歌作りを始めたことで生きがいを見つけ出す。そして遅い青春を迎える。
読んでいてどうしてそんなに苦労するの、頑張るのと胸が苦しくなる。日々の労働に追われていながら短歌を詠み、近所の自然に鋭い観察眼をもつ。弱きものへの限りない優しさが伝わってくる。
この作品の後の大活躍と言ってもよい松下竜一の生き様の原点がここにあるのだろう。
読んだものは2000年12刷
初出は1969年講談社、前年に自費出版
40年前の作品である。松下さん(1937-2004)の自叙伝であり初作品。
6人兄弟、姉1人と弟4人、19歳の時に母(46歳)を失い進学を諦め家業を継ぐ。
自らも生後間もなく高熱により右眼を失明。その後も病弱のまま人生を歩むことになる。
弟らの自堕落な生き方に対する不安や苛立ちで自死を覚悟するが末弟のためにと留まる。
読書だけが趣味だった松下が25歳で短歌作りを始めたことで生きがいを見つけ出す。そして遅い青春を迎える。
読んでいてどうしてそんなに苦労するの、頑張るのと胸が苦しくなる。日々の労働に追われていながら短歌を詠み、近所の自然に鋭い観察眼をもつ。弱きものへの限りない優しさが伝わってくる。
この作品の後の大活躍と言ってもよい松下竜一の生き様の原点がここにあるのだろう。
2014年2月23日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
もう何十年も前にテレビで観た豆腐屋の四季をできたらもう一度観たいものだと思っていました。今回文庫を見つけてさっそくオーダーし、読み始めたら感動で涙が止まりません。この本は現在の私たちの価値観を真正面から挑戦しつつ、しかもせつないほどピュアな愛情で包んでくれます。松下竜一さんはすばらしい宝を私たちに残してくれました。
2019年11月29日に日本でレビュー済み
「ルイズ 父に貰いし名は」の著者が、家業の豆腐屋をやっていた頃にその日々を小文と短歌で綴ったもの。朝日歌壇への投稿や各紙の地方版へ随筆を書いて注目され、その後ノンフィクション作家になるのだが、それも頷ける。人の哀切を掬い上げる視点、それを飾らない言葉で表現してみせる文章力、すべてがこの初期の段階で圧倒的だ。どうやったらこんな文章が書けるのだろう。貧しく過酷な生活の中で、家族やそして一回入選歌を目にしただけの短歌仲間の哀しみを思う優しい目に胸が詰まる。奥さんもなんてかわいらしい人だろう。