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日本近代文学の起源 (講談社文芸文庫 かB 1) 文庫 – 1988/6/1
柄谷 行人
(著)
“歴史主義的普遍性”の基盤を鋭くくつがえし、新たな思考の視座を布置・構築して行く、最も現代的な“知の震源”・柄谷行人の鮮やかにして果敢な知的力業。名著『マルクスその可能性の中心』に続く快著。
- 本の長さ270ページ
- 言語日本語
- 出版社講談社
- 発売日1988/6/1
- ISBN-104061960180
- ISBN-13978-4061960183
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登録情報
- 出版社 : 講談社 (1988/6/1)
- 発売日 : 1988/6/1
- 言語 : 日本語
- 文庫 : 270ページ
- ISBN-10 : 4061960180
- ISBN-13 : 978-4061960183
- Amazon 売れ筋ランキング: - 201,561位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 305位講談社文芸文庫
- - 41,454位ノンフィクション (本)
- - 56,373位文学・評論 (本)
- カスタマーレビュー:
著者について
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1941年生まれ。評論家 (「BOOK著者紹介情報」より:本データは『 世界史の構造 (ISBN-13: 978-4000236935 )』が刊行された当時に掲載されていたものです。)
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2018年8月17日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
例えば、ヒューモアとしての唯物論は、タイトルからして大変に理解しづらく難しかったのですが、これは個人的に子供の頃から大変に日本近代文学に親しかったので、大変に分かり易くかつ知的刺激を多大に受けました。(例えばライプニッツのモナドとか症候群とかロシアの交通に関する哲学思想の説明など殆ど分かりません)で、この、タイトルからして、長尺を章だてで順序立てて区切って、などを想像しておりましたが、全然いつもの、短いスパンでそれぞれのその場のテーマで語るだけでした。無論近代文学にかかることですが、柄谷先生は、ああ言う大時代的なモノで、それでわかるわけでもなく、細かいテーマの積み重ねで連鎖して、読者の中で繋がる、という伝え方に関する重要なキーポイントを教えてくれました。ただ、伊藤整先生の文学の方法などは、まさにその、大時代的なものでそちらの力のこもったものと、柄谷先生の芥川龍之介的なシャープなものと、どちらも素晴らしいです。
2016年6月11日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
モノ、オブジェクトとしての風景の発見から始まる。一昔前の著書だが、風景と内面の発見、告白のフーコー権力論、事後的な「児童」概念等々今でこそ通用し続ける論がほとんどで興味深い。「おもてなし」の精神の日本人、「和」の日本人、といった伝統的な文脈、これらも当然にこのテクストによって解体出来る。良書。
2021年7月3日に日本でレビュー済み
最近、「教養」を得ると称して明治以後の日本の作家の本を勧める運動が増えている。最近でも、現代の活字離れに対して、リテラシー(読解力)を上げる為に、夏目漱石の著書や芥川龍之介、田山花袋、二葉亭四迷といった作品を読めと言う輩の多いこと。けれど、この柄谷行人氏の様に、文学に潜む「制度」や「物語」を暴く様な読み解き方をする人間が現代でもかなり少数派なのは、小説を読むことでリテラシーを上げることとは実はあまり関係が無いと気づけない人が多いことが、この著書を読めば理由がわかる。「風景の発見」、「内面の発見」、「告白という制度」、「病」のメタファー(隠喩)(※文学作品にある制度やメタファーを発見した人なら他にスーザン・ソンダクがいるが)、「児童」(子ども)の発見などがこの本の肝になる。
確かに柄谷行人氏は「鋭い」。そこには歴史性すら塗り替える価値観の転倒、無意識的な「制度」の告発があり、「今」でも面白い本かと思う。1980年以降のニューアカ(ニューアカデミズム)ブームでこの本は話題になった。他のレビューの方がフーコーの影響が強いと述べているが、半分当たっている。実際はこの「方法」は、いち早くフーコーの方法を取り入れた、蓮實重彦氏のやり方に実は近い(詳しくは「 表層批評宣言 」を読むべし)。当時のブームの渦中に同様にいた栗本慎一郎氏によれば、蓮實重彦氏にその読み解き方を教授されたという(参照:「 鉄の処女―血も凍る「現代思想」の総批評 」)。柄谷行人氏は批評という「政治」に入り込み90年代までそういう論壇政治を行っていた人だ。柄谷氏は蓮實重彦氏に頭が上がらなかったことは柄谷氏の批評が蓮實氏に一切向けられなかったことからもわかる。蓮實重彦氏に公然と喧嘩を売ったのは高山宏氏であるが、彼にしても某H氏と伏字にする位だ。それに東大の総長になった位だ。論壇での蓮實氏の力は当時強かったことからも伺える。
「起源」を語ることの困難さは、ある用語や「言語」が発生することによって、集団の無意識がその用語や言語「空間」に価値を転倒させてでも「正当化」の理屈を与えてしまうことが理由だ。ここは卓見である。ミシェル・フーコーは「 言葉と物 人文科学の考古学 」で「「人間」は19世紀の初めに成立した「ことば」に過ぎない」(意訳)と述べセンセーションを巻き起こしたが、これは現代の一般の人々にまだ届いていない感性であることを痛感する。要はその「ことば」が無ければ、そこに「事物」は「存在しない」に等しいということと同義である。これは人間にとって「言語」が如何に重要かという面を裏付けている。それを徹底的に議論したのが故・丸山圭三郎氏だ。
例えば、アルプスの<雄大な>「風景」はそこに「自然」に対する「価値」を見出したのはルソーとも言われているが、それまではアルプスは邪魔な山脈に過ぎなかったということである。柄谷氏によれば自然に対する「風景」という「見方」は明治以後の文学作品から登場し、それによって価値の「意味」付けが発生したと述べている。
私はこの本を大学時代に読んで、その「制度」の強烈さに強い刺激を受けた。今回再読をして、その「起源」を巡る困難さを改めて痛感した。いや、正直詳しい内容を忘れていたので別の意味で新鮮な読後感だった。
けれど、これ以後、そして現代の柄谷氏の思想経緯を考えると、どこか「意気地」がない。色々と突飛なことを述べているが、「何か」が足かせになっている。それは恐らく本人の自身「感性」の転倒が出来てないからだろう。エリック・ホッファーに憧れても、ホッファーの様な生き様を体験しようとは考えなかった、「度胸」の無さが本人の限界ではなかったかと今では思う。これが哲学者のシモーヌ・ヴェイユになると、自らルノーの生産工場で働き出すのだ(実際に餓死による自死を選んだことからも伺える)。この違いは非常に大きい。憧れが「体験」や「危険」の渦中に飛び込む気がないことが、今更本人の「限界」と嘆いても仕方がないが、その弱さを正直にさらけ出せるならまだ許せるが、鋭い感性があるのに、その「うじうじさ」が議論を無意識に錯綜させている感じが見受けられる。私個人は、その点でこの著者が好きになれない。それでもこの本は色々と鋭いので、一読はするべき本と私は思う。
確かに柄谷行人氏は「鋭い」。そこには歴史性すら塗り替える価値観の転倒、無意識的な「制度」の告発があり、「今」でも面白い本かと思う。1980年以降のニューアカ(ニューアカデミズム)ブームでこの本は話題になった。他のレビューの方がフーコーの影響が強いと述べているが、半分当たっている。実際はこの「方法」は、いち早くフーコーの方法を取り入れた、蓮實重彦氏のやり方に実は近い(詳しくは「 表層批評宣言 」を読むべし)。当時のブームの渦中に同様にいた栗本慎一郎氏によれば、蓮實重彦氏にその読み解き方を教授されたという(参照:「 鉄の処女―血も凍る「現代思想」の総批評 」)。柄谷行人氏は批評という「政治」に入り込み90年代までそういう論壇政治を行っていた人だ。柄谷氏は蓮實重彦氏に頭が上がらなかったことは柄谷氏の批評が蓮實氏に一切向けられなかったことからもわかる。蓮實重彦氏に公然と喧嘩を売ったのは高山宏氏であるが、彼にしても某H氏と伏字にする位だ。それに東大の総長になった位だ。論壇での蓮實氏の力は当時強かったことからも伺える。
「起源」を語ることの困難さは、ある用語や「言語」が発生することによって、集団の無意識がその用語や言語「空間」に価値を転倒させてでも「正当化」の理屈を与えてしまうことが理由だ。ここは卓見である。ミシェル・フーコーは「 言葉と物 人文科学の考古学 」で「「人間」は19世紀の初めに成立した「ことば」に過ぎない」(意訳)と述べセンセーションを巻き起こしたが、これは現代の一般の人々にまだ届いていない感性であることを痛感する。要はその「ことば」が無ければ、そこに「事物」は「存在しない」に等しいということと同義である。これは人間にとって「言語」が如何に重要かという面を裏付けている。それを徹底的に議論したのが故・丸山圭三郎氏だ。
例えば、アルプスの<雄大な>「風景」はそこに「自然」に対する「価値」を見出したのはルソーとも言われているが、それまではアルプスは邪魔な山脈に過ぎなかったということである。柄谷氏によれば自然に対する「風景」という「見方」は明治以後の文学作品から登場し、それによって価値の「意味」付けが発生したと述べている。
私はこの本を大学時代に読んで、その「制度」の強烈さに強い刺激を受けた。今回再読をして、その「起源」を巡る困難さを改めて痛感した。いや、正直詳しい内容を忘れていたので別の意味で新鮮な読後感だった。
けれど、これ以後、そして現代の柄谷氏の思想経緯を考えると、どこか「意気地」がない。色々と突飛なことを述べているが、「何か」が足かせになっている。それは恐らく本人の自身「感性」の転倒が出来てないからだろう。エリック・ホッファーに憧れても、ホッファーの様な生き様を体験しようとは考えなかった、「度胸」の無さが本人の限界ではなかったかと今では思う。これが哲学者のシモーヌ・ヴェイユになると、自らルノーの生産工場で働き出すのだ(実際に餓死による自死を選んだことからも伺える)。この違いは非常に大きい。憧れが「体験」や「危険」の渦中に飛び込む気がないことが、今更本人の「限界」と嘆いても仕方がないが、その弱さを正直にさらけ出せるならまだ許せるが、鋭い感性があるのに、その「うじうじさ」が議論を無意識に錯綜させている感じが見受けられる。私個人は、その点でこの著者が好きになれない。それでもこの本は色々と鋭いので、一読はするべき本と私は思う。
2021年12月1日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
難しいからって低評価をするのもなんなんなので★3つにしましたが、私的には何も得るところがなかったので本当は★0個です。それなりの訓練を受けた方でないと読むのは難しいと思います。読書メーターなどではわかりやすかったという評を書いている方もいるので専門家にはよいのだと思います。
2014年10月26日に日本でレビュー済み
日本の近代文学において、いかなる人間や意識の転回が起きたかを描出したものであるが、何よりも著者の論理の明快さから、切れ者の本だという印象を圧倒的に受ける。
具体的で根拠の確かさが分かる文章を理詰めに積み上げているからであるが、その根本に、意識がその背景に依拠しているというような「転倒」の概念や、外面が内面を左右するというような考えがあるところが、現代性を持っている要因と言えるだろう。
今さら読んだが、もっと早く読んだ方が良かったようにも思う。もっとも昔の自分の国語力で面白く読めたかはわからない。
それぞれの引用文が、論理のなかで密接につながり、理屈自体が無駄のない姿を現している。だからこそ説得力があるのだと思う。
具体的で根拠の確かさが分かる文章を理詰めに積み上げているからであるが、その根本に、意識がその背景に依拠しているというような「転倒」の概念や、外面が内面を左右するというような考えがあるところが、現代性を持っている要因と言えるだろう。
今さら読んだが、もっと早く読んだ方が良かったようにも思う。もっとも昔の自分の国語力で面白く読めたかはわからない。
それぞれの引用文が、論理のなかで密接につながり、理屈自体が無駄のない姿を現している。だからこそ説得力があるのだと思う。
2012年6月26日に日本でレビュー済み
久しぶりに再読。(再再読か)
今現在(2012年)がパラダイムシフトの時代であることは多くの識者が述べている。
ただ、古い体制から新しい視座へ、という論調がほとんど。
しかし、こうした時代というのは一筋縄ではいかないということは、本書を読めばわかる。
旧いものが新しいものにとって代わる時の、転倒・ねじれ。
それはかなり意図的なものであり、しかも新たなるイデオロギーが現出するとき、
私たちは無反省にそれを自明のこととして受け止める…。
渦中にいるときは見えにくいものを、
頭を冷やし目を凝らして見つめる知性が、私たちに求められている。
この本は古びない。
今現在(2012年)がパラダイムシフトの時代であることは多くの識者が述べている。
ただ、古い体制から新しい視座へ、という論調がほとんど。
しかし、こうした時代というのは一筋縄ではいかないということは、本書を読めばわかる。
旧いものが新しいものにとって代わる時の、転倒・ねじれ。
それはかなり意図的なものであり、しかも新たなるイデオロギーが現出するとき、
私たちは無反省にそれを自明のこととして受け止める…。
渦中にいるときは見えにくいものを、
頭を冷やし目を凝らして見つめる知性が、私たちに求められている。
この本は古びない。
2010年5月30日に日本でレビュー済み
初めて読んでから20年程経つが、今回10年振りくらいに再読した。その間にNAMの崩壊、「統制的理念」への理論的後退というイベントがあったために、特に若い世代では著者への知的関心が薄らいでるのではないかと思う。だが、「探究2」くらいまでの柄谷の著作は今でも十分再読に値するものだ。
本書は文芸時評家として活動を開始した彼が「日本近代文学」という概念機制の相対化を試みた一冊だ。方法論的にはフーコーの影響が大きいが、「言文一致」や「内面をもった主体」がどのように明治期に育まれ、その原初が隠蔽されて歴史・常識というイデオロギーになってしまうのか、というメカニズムを明かそうと試みた一冊である。そして、言文一致や演劇の革新等が政府により主導されたという事実、教育勅語と徴兵令がワンセットで勅されたこと等を挙げながら、日本語や文学の問題が、そのまま政治イデオロギーの問題であったことを著者は指摘する。
本書を初めて読んだ大学入学当時の僕はアホだったので、著者が緻密に分析したこの忘却の構造は(著者の言う通り)通俗的な文学史ではないにしろ、やはり結局はどこか文学の内輪話のように感じたものだ。社会や経済とは関係ないんじゃないかと。こういった違和感は、(柄谷世代と違って)その頃既に文学が政治と関連した知的ムーヴメントではなくなって久しかったからなのだが、多分今の若い読者は更に輪をかけて何で本書の著者がこんなに真剣に日本近代文学を「」に入れて相対化しようとしていたかピンとこない人が多いと思う。そこが読み難さになるかもしれないが、この読み難さ/違和感こそがかつて近代文学によってある種の思考機制が完成/一般化され、その始原が忘却されたからに他ならないとしたら?(つまり、ある意味で文学が社会的役目を終えたということにやはりなるのではあるが。そして、この違和感により著者自身も最終的に「運動」に向かったのであった。)
自明なものとして僕らが捉えているものが案外、歴史の浅いいい加減なものだということを知ることは、徹底した思考のためには必要なことだ。そして、今の時代にはそういう言論こそ必要なのに欠けている気がするので、本書の知的技法は未だスリリングであるはずだ。
<追記>
上記のレビューを書いて12年後(!)、この原著版を再読した。きっかけは今年話題になった、日本のマネ受容に関する練馬区立美術館の展覧会の公式図録を読んでいて、マネに日本で最初に言及したのが鴎外であること、また彼と逍遥との没理想主義論争と日本のマネ受容が深く関係していることを知ったから。
そこで、マネやクールベによる「風景の発見」を再考したくて本書を再読したのだが、本書の指摘は彼らの画風の理解にも大変役立った。
また、「児童の発見」での年齢別教育制度の批判は、いま教育分野で「学び合い」やアクティブラーニング、北欧モデル等への関心が高まっていることを先取りするような問題意識だと思う。やっぱり凄い本だと感心したと同時に、定本の方も読んでみようと思った。
本書は文芸時評家として活動を開始した彼が「日本近代文学」という概念機制の相対化を試みた一冊だ。方法論的にはフーコーの影響が大きいが、「言文一致」や「内面をもった主体」がどのように明治期に育まれ、その原初が隠蔽されて歴史・常識というイデオロギーになってしまうのか、というメカニズムを明かそうと試みた一冊である。そして、言文一致や演劇の革新等が政府により主導されたという事実、教育勅語と徴兵令がワンセットで勅されたこと等を挙げながら、日本語や文学の問題が、そのまま政治イデオロギーの問題であったことを著者は指摘する。
本書を初めて読んだ大学入学当時の僕はアホだったので、著者が緻密に分析したこの忘却の構造は(著者の言う通り)通俗的な文学史ではないにしろ、やはり結局はどこか文学の内輪話のように感じたものだ。社会や経済とは関係ないんじゃないかと。こういった違和感は、(柄谷世代と違って)その頃既に文学が政治と関連した知的ムーヴメントではなくなって久しかったからなのだが、多分今の若い読者は更に輪をかけて何で本書の著者がこんなに真剣に日本近代文学を「」に入れて相対化しようとしていたかピンとこない人が多いと思う。そこが読み難さになるかもしれないが、この読み難さ/違和感こそがかつて近代文学によってある種の思考機制が完成/一般化され、その始原が忘却されたからに他ならないとしたら?(つまり、ある意味で文学が社会的役目を終えたということにやはりなるのではあるが。そして、この違和感により著者自身も最終的に「運動」に向かったのであった。)
自明なものとして僕らが捉えているものが案外、歴史の浅いいい加減なものだということを知ることは、徹底した思考のためには必要なことだ。そして、今の時代にはそういう言論こそ必要なのに欠けている気がするので、本書の知的技法は未だスリリングであるはずだ。
<追記>
上記のレビューを書いて12年後(!)、この原著版を再読した。きっかけは今年話題になった、日本のマネ受容に関する練馬区立美術館の展覧会の公式図録を読んでいて、マネに日本で最初に言及したのが鴎外であること、また彼と逍遥との没理想主義論争と日本のマネ受容が深く関係していることを知ったから。
そこで、マネやクールベによる「風景の発見」を再考したくて本書を再読したのだが、本書の指摘は彼らの画風の理解にも大変役立った。
また、「児童の発見」での年齢別教育制度の批判は、いま教育分野で「学び合い」やアクティブラーニング、北欧モデル等への関心が高まっていることを先取りするような問題意識だと思う。やっぱり凄い本だと感心したと同時に、定本の方も読んでみようと思った。
2010年12月18日に日本でレビュー済み
柄谷行人の一見難解な著作群で、「批評とポスト・モダン」と共に「読み易い」のが本書である!
〜所謂「人文書」に「読み易い」本が稀少なのは、学界員しか解らぬ難解語が並び著者がエラそうな本の方が、メーカー側は「解説・怪説」本諸利権等等を無限に(理論上は)手にし易く、読者には「高定価」や解説「恩着せ」が可能だからとの「界=会」な仕分持説(笑)は措く〜
真骨頂は、宮内寒弥「七里ヶ浜〜或る運命」が暴いた、
「おバカ生徒のボート遭難でクビになった舎監恋人を慕う結核女性」を「美しい」と宣う超おバカ神話化(♪真白き富士の峯〜♪の俗歌や徳富「不如帰」に詳しい「下級武士ルサンチマン=キリスト教化」欺瞞等)
に満ちた「(湘南)近代文学」や、ミッシェル・フーコー「精神疾患と心理学(神谷訳)」が
「狂人こそが心理学の秘密を握る!」
と看破した「近代心理学」の、正に諸「近代」なるものの欺瞞・詐欺への徹底的暴露自体だろう。学界を叩き切った栗本慎一郎にも通じる、柄谷の「全世界を獲得する」ブンド的痛快・愉悦に満ちた1冊!
〜所謂「人文書」に「読み易い」本が稀少なのは、学界員しか解らぬ難解語が並び著者がエラそうな本の方が、メーカー側は「解説・怪説」本諸利権等等を無限に(理論上は)手にし易く、読者には「高定価」や解説「恩着せ」が可能だからとの「界=会」な仕分持説(笑)は措く〜
真骨頂は、宮内寒弥「七里ヶ浜〜或る運命」が暴いた、
「おバカ生徒のボート遭難でクビになった舎監恋人を慕う結核女性」を「美しい」と宣う超おバカ神話化(♪真白き富士の峯〜♪の俗歌や徳富「不如帰」に詳しい「下級武士ルサンチマン=キリスト教化」欺瞞等)
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「狂人こそが心理学の秘密を握る!」
と看破した「近代心理学」の、正に諸「近代」なるものの欺瞞・詐欺への徹底的暴露自体だろう。学界を叩き切った栗本慎一郎にも通じる、柄谷の「全世界を獲得する」ブンド的痛快・愉悦に満ちた1冊!