私のすでに亡くなった祖父が異様な情熱を傾けて読んでいたのがこの「死霊」である。
読む前から、ある程度覚悟していたが、やはり難解な作品である。
この深遠なドラマは三輪与志(みわよし)の風癲病院来訪から始まる。
その設定そのものからして異様な雰囲気が漂っている。
どこまでも暗い灰色の世界である。
三輪与志の述べる「虚体」とは何か?
それは、仏教哲学における「空」の論理か?
埴谷雄高氏のもうひとつのペンネームが般若雄高であることに思いをいたすと、何か得体の知れない宗教的形而上文学のような感じがする。
今のところ第1巻を読了したばかりである。
今後の展開に胸踊らせる思いをしている。
この「死霊」は文体が難解であるが、読んでいるうちに慣れてくるので、ぐんぐんと埴谷ワールドに引き込まれる。
難しいのは最初だけなのでまだこの作品を読んだ事の無い読者の方々はリラックスして本書に挑戦して欲しいものです。
それにしても・・・
「睨みの悪魔」たる、首猛夫のいつ果てるともなき饒舌ぶり、その鉄面皮ぶりは読者の笑いを誘うに充分過ぎる。
或いはやはりこの作品はドストエフスキーのパロディなのか?
それとももっと深刻なテーマを啓示しているのかは神のみぞ知るである。
なにはともあれ、インド哲学の芳香がプンプン漂う作品である。
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死霊(1) (講談社文芸文庫 はJ 1) 文庫 – 2003/2/10
埴谷 雄高
(著)
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晩夏酷暑の或る日、郊外の風癲病院の門をひとりの青年がくぐる。青年の名は三輪与志、当病院の若き精神病医と自己意識の飛躍をめぐって議論になり、真向う対立する。三輪与志の渇し求める<虚体>とは何か。三輪家4兄弟がそれぞれのめざす窮極の<革命>を語る『死霊』の世界。全宇宙における<存在>の秘密を生涯かけて追究した傑作。序曲にあたる1章から3章までを収録。日本文学大賞受賞。
半世紀をかけた畢生の傑作
埴谷雄高作品、初の文庫化
晩夏酷暑の或る日、郊外の風癲病院の門をひとりの青年がくぐる。青年の名は三輪与志、当病院の若き精神病医と自己意識の飛躍をめぐって議論になり、真向う対立する。
三輪与志の渇し求める<虚体>とは何か。三輪家4兄弟がそれぞれのめざす窮極の<革命>を語る『死霊』の世界。
全宇宙における<存在>の秘密を生涯かけて追究した傑作。序曲にあたる1章から3章までを収録。日本文学大賞受賞。
半世紀をかけた畢生の傑作
埴谷雄高作品、初の文庫化
晩夏酷暑の或る日、郊外の風癲病院の門をひとりの青年がくぐる。青年の名は三輪与志、当病院の若き精神病医と自己意識の飛躍をめぐって議論になり、真向う対立する。
三輪与志の渇し求める<虚体>とは何か。三輪家4兄弟がそれぞれのめざす窮極の<革命>を語る『死霊』の世界。
全宇宙における<存在>の秘密を生涯かけて追究した傑作。序曲にあたる1章から3章までを収録。日本文学大賞受賞。
- 本の長さ432ページ
- 言語日本語
- 出版社講談社
- 発売日2003/2/10
- 寸法10.8 x 1.5 x 14.8 cm
- ISBN-104061983210
- ISBN-13978-4061983212
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登録情報
- 出版社 : 講談社 (2003/2/10)
- 発売日 : 2003/2/10
- 言語 : 日本語
- 文庫 : 432ページ
- ISBN-10 : 4061983210
- ISBN-13 : 978-4061983212
- 寸法 : 10.8 x 1.5 x 14.8 cm
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上位レビュー、対象国: 日本
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2016年2月9日に日本でレビュー済み
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2019年9月5日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
内容については批判的なレビューも多く私ももっともだと思う。形而上的な無為な長文のやり取り。無駄としか思えない悪い意味でのこじらせた小説的情景描写。確かに辟易とする。神秘的な部分においても深いようでそこまで深くはない。
ただ埴谷雄高が高い評価を受けているのはその異常なバランスだと思う。
おそらく私含め現代の人は意識がもっと物質的というか、精神世界や言葉など目に見えないものに関してここまで現実的に実感として生きていない。埴谷雄高は普通の人より随分そっちをリアルに生きていてその比重バランスがおかしい。
つまり内容の良し悪しではなく、読んでいると埴谷雄高のその異常なバランスに引き込まれることが一番の魅力なのだと思う。文章的ドラッグと言っても良いかもしれない。どうせドラッグならもっと気持ち良い領域に行きたいものだが、陰鬱とした精神領域は彼の居場所というか個性なのだろう。ただ威力の強さは評価に値する。
ただ埴谷雄高が高い評価を受けているのはその異常なバランスだと思う。
おそらく私含め現代の人は意識がもっと物質的というか、精神世界や言葉など目に見えないものに関してここまで現実的に実感として生きていない。埴谷雄高は普通の人より随分そっちをリアルに生きていてその比重バランスがおかしい。
つまり内容の良し悪しではなく、読んでいると埴谷雄高のその異常なバランスに引き込まれることが一番の魅力なのだと思う。文章的ドラッグと言っても良いかもしれない。どうせドラッグならもっと気持ち良い領域に行きたいものだが、陰鬱とした精神領域は彼の居場所というか個性なのだろう。ただ威力の強さは評価に値する。
2017年9月18日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
「全然難解でなどない」という澁澤龍彦の言葉を紹介すれば,推薦は十分だろう。素晴らしい傑作だ。冒頭の精神病院の描写から,(この巻)最後の川沿いの場面まで,ぎゅっと濃縮した文体で進んで行く。この作品,よく哲学が引き合いに出されるが,私はむしろ詩的な面に魅力を感じる。
いくつか意見を言わせてもらえば,漢字にルビをもう少しつけてもらってもいいのではないか,と思う。「擡げる」,「梃子」、あたりはいいとしても,「嬲る」,「橋廊(渡り廊下のことか?)」あたりは辞書を調べないと(調べようにも)少々キツい。また,そろそろ,注釈をつけてもらってもいいのではないか。筆者没後何年も経っているし,もはや文学史の中に位置づけられているのだから。それに,研究している人もきっといるだろうし,研究の成果が結構たまっているのではないか?こういう作品は,色々な人が,ああでもないこうでもないと批評や解釈が出てくるのは宿命。註など不要、という人は飛ばして読めばいい。
いくつか意見を言わせてもらえば,漢字にルビをもう少しつけてもらってもいいのではないか,と思う。「擡げる」,「梃子」、あたりはいいとしても,「嬲る」,「橋廊(渡り廊下のことか?)」あたりは辞書を調べないと(調べようにも)少々キツい。また,そろそろ,注釈をつけてもらってもいいのではないか。筆者没後何年も経っているし,もはや文学史の中に位置づけられているのだから。それに,研究している人もきっといるだろうし,研究の成果が結構たまっているのではないか?こういう作品は,色々な人が,ああでもないこうでもないと批評や解釈が出てくるのは宿命。註など不要、という人は飛ばして読めばいい。
2017年3月26日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
精神病院で変な人達が衒学的な持論を戦わせる
という物語の枠は夢野久作の『ドグラマグラ』の影響も大きいと思うのだが
あまり強調されることがないよう思う。
自分を意識する自分という問題意識も似ておりもっと影響が語られるべきかと思う。
話もそれなりには面白いが、色んな面で独創性には乏しい。
観念論も古臭く、かつ与太話以上の説得力は皆無。
やっぱりイマイチだよなぁ。
という物語の枠は夢野久作の『ドグラマグラ』の影響も大きいと思うのだが
あまり強調されることがないよう思う。
自分を意識する自分という問題意識も似ておりもっと影響が語られるべきかと思う。
話もそれなりには面白いが、色んな面で独創性には乏しい。
観念論も古臭く、かつ与太話以上の説得力は皆無。
やっぱりイマイチだよなぁ。
2020年4月30日に日本でレビュー済み
― 私達の魂は肉体のなかに投げこまれ、そこで数と時と広さを見出す。魂はかかるものに推理を加え、それを自然、必然と呼び、他の何物をも信ずることはできない。―パスカル
三輪与志・黒川健吉は、失踪した学友矢場徹吾の消息について語り合っています。
黒川は、『はたと想念が止まってしまう=すると、その瞬間から、周囲の物体と同一化したような固着した表情』を見せる『難破』ぐせをもっています。
三輪与志は、『自同律の考究』という自ら論文を書いていて、『存在は不快を噛みしめなければならないのだろうか』と煩悶していて、言ってみれば、「青春時代の憂鬱」を共有する仲です。身柄を保護されたという連絡で、学友矢場徹吾に会いに来た三輪与志は、依託を引き受けた××癲狂院院長岸博士と会話する。岸博士は『自己が自己の幅の上へ重なっている以外に、人間の在り方はない』自己意識の信者として『信仰告白・岸杉夫』の見解を述べます。しかし言葉少なの三輪が求める回答は、畢竟『虚体』。
・・・しかしまだその詳細は明かされません。
折から、三輪家祖母の墓参りのため三輪与志を迎えにきた与志の許嫁、津田安寿子があらわれます。やがて護送車で到着した矢場徹吾は、ただ微笑むだけの「黙狂」と化しています。そこへふいに影から見も知らぬ首猛夫の登場、首は兄三輪高志の友人と自己紹介します。そして政治運動の同志です。端で三輪与志や岸博士の禅問答を聞きながら『虚無主義の克服など一瞬間ですからね。僕の行動の原理はーこの世に人間しかいない』首は去り掛け、謎のことばを言い放ちます。Villon, our sad bad gland mad brothers name!
第一章 癲狂院にて。
自宅に帰るさ、未明の散歩をする三輪与志。『無限の縮小感』と称された与志の内観は、少年期から青年期にかけての、最も美しい自己告白です。自同律不快の詩的表現。『彼の怯えとくいちがったようにかれの意識を駆け抜けるこの宇宙的な気配は何処かの果てで彼自身と合致せねばならぬ』
深夜、三輪の自宅を訪ねる不届き者、人間不信の現実主義者、首猛夫がいます。津田安寿子の父、警視総監、津田康造へ『宣戦布告』にやってきました。
アジア的思考形式の象徴である津田氏へ。停滞するとりとめのない優柔さ、得たいの知れない寛容さを表貌する職業的立場と個人感情への不満と抵抗。ここでの首猛夫は「死」の十二使徒、「死」の福音史家を自負しています。
三輪家の祖母の墓参に付き添う津田夫人に、首猛夫は三輪与志の印象を述べる。自省の「悪魔」に憑りつかれた「綿屑」の喩え話しをします。
三輪家の祖母の墓参りに集う津田康造、津田夫人、首猛夫(中座)、津田老人、三輪夫人、津田安寿子と三輪与志はまだ来ていない。特異なのは、三輪家、津田家とは縁があるのかないのか、何かを「象徴」する青服・黒服の謎の人物がいることです。
とりわけ黒服の男は津田老人へ、あるボクサーの見たノックダウン中の幻視を語ります。『―あちら側へ』。
運河沿いの黒川健吉の住まいは斜ぐらい屋根裏部屋です。健吉は引きこもり、庇の奥々には蝙蝠が巣くっているようで、ふしぎと健吉と蝙蝠は「同居」しています。
訪ねて来た首猛夫に向かい、ここぞとばかり、黒川健吉は日ごろのうっ憤を晴らすように饒舌になります。『ちっぽけな計算尺たる人間自体の偉大なる質的変化は試みられていない』、『存在が存在たり得なくなった無限の涯ての地点』、『人間が人間を超克する必要』があるなど、酒の勢いさながら饒舌この上ありません。
いつにない黒川健吉のそんな様子を静聴していた首猛夫は、三輪与志と併せ『そんな君達を哀れな精神的兄弟』とシニカルに憐憫をこめて、Villon, our sad bad gland mad brothers name!と言い、曰く『死の社会学』と断じます。
第三章 屋根裏部屋
三輪与志・黒川健吉は、失踪した学友矢場徹吾の消息について語り合っています。
黒川は、『はたと想念が止まってしまう=すると、その瞬間から、周囲の物体と同一化したような固着した表情』を見せる『難破』ぐせをもっています。
三輪与志は、『自同律の考究』という自ら論文を書いていて、『存在は不快を噛みしめなければならないのだろうか』と煩悶していて、言ってみれば、「青春時代の憂鬱」を共有する仲です。身柄を保護されたという連絡で、学友矢場徹吾に会いに来た三輪与志は、依託を引き受けた××癲狂院院長岸博士と会話する。岸博士は『自己が自己の幅の上へ重なっている以外に、人間の在り方はない』自己意識の信者として『信仰告白・岸杉夫』の見解を述べます。しかし言葉少なの三輪が求める回答は、畢竟『虚体』。
・・・しかしまだその詳細は明かされません。
折から、三輪家祖母の墓参りのため三輪与志を迎えにきた与志の許嫁、津田安寿子があらわれます。やがて護送車で到着した矢場徹吾は、ただ微笑むだけの「黙狂」と化しています。そこへふいに影から見も知らぬ首猛夫の登場、首は兄三輪高志の友人と自己紹介します。そして政治運動の同志です。端で三輪与志や岸博士の禅問答を聞きながら『虚無主義の克服など一瞬間ですからね。僕の行動の原理はーこの世に人間しかいない』首は去り掛け、謎のことばを言い放ちます。Villon, our sad bad gland mad brothers name!
第一章 癲狂院にて。
自宅に帰るさ、未明の散歩をする三輪与志。『無限の縮小感』と称された与志の内観は、少年期から青年期にかけての、最も美しい自己告白です。自同律不快の詩的表現。『彼の怯えとくいちがったようにかれの意識を駆け抜けるこの宇宙的な気配は何処かの果てで彼自身と合致せねばならぬ』
深夜、三輪の自宅を訪ねる不届き者、人間不信の現実主義者、首猛夫がいます。津田安寿子の父、警視総監、津田康造へ『宣戦布告』にやってきました。
アジア的思考形式の象徴である津田氏へ。停滞するとりとめのない優柔さ、得たいの知れない寛容さを表貌する職業的立場と個人感情への不満と抵抗。ここでの首猛夫は「死」の十二使徒、「死」の福音史家を自負しています。
三輪家の祖母の墓参に付き添う津田夫人に、首猛夫は三輪与志の印象を述べる。自省の「悪魔」に憑りつかれた「綿屑」の喩え話しをします。
三輪家の祖母の墓参りに集う津田康造、津田夫人、首猛夫(中座)、津田老人、三輪夫人、津田安寿子と三輪与志はまだ来ていない。特異なのは、三輪家、津田家とは縁があるのかないのか、何かを「象徴」する青服・黒服の謎の人物がいることです。
とりわけ黒服の男は津田老人へ、あるボクサーの見たノックダウン中の幻視を語ります。『―あちら側へ』。
運河沿いの黒川健吉の住まいは斜ぐらい屋根裏部屋です。健吉は引きこもり、庇の奥々には蝙蝠が巣くっているようで、ふしぎと健吉と蝙蝠は「同居」しています。
訪ねて来た首猛夫に向かい、ここぞとばかり、黒川健吉は日ごろのうっ憤を晴らすように饒舌になります。『ちっぽけな計算尺たる人間自体の偉大なる質的変化は試みられていない』、『存在が存在たり得なくなった無限の涯ての地点』、『人間が人間を超克する必要』があるなど、酒の勢いさながら饒舌この上ありません。
いつにない黒川健吉のそんな様子を静聴していた首猛夫は、三輪与志と併せ『そんな君達を哀れな精神的兄弟』とシニカルに憐憫をこめて、Villon, our sad bad gland mad brothers name!と言い、曰く『死の社会学』と断じます。
第三章 屋根裏部屋
2014年12月5日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
この小説に登場する人物は傍から見ると、皆頭がおかしいです。しかし、本当にそうなのでしょうか。私たちは本当に物事を正しく見ることができているのでしょうか。私はできていないと思います。なぜなら、あまりに深淵に関わることは恐ろしすぎて人は見ることをしないからです。
ここに登場する人物は皆、深淵を見ようとする人ばかりです。当然、皆が恐ろしい深淵に見つめられているため、恐ろしい運命にまきこまれ、社会から疎外されます。
しかし、そのような不幸にあってもなお、運命に身を委ね、疎外を恐れず突き進む主人公たちに僕は大いなる魅力を感じました。
ここに登場する人物は皆、深淵を見ようとする人ばかりです。当然、皆が恐ろしい深淵に見つめられているため、恐ろしい運命にまきこまれ、社会から疎外されます。
しかし、そのような不幸にあってもなお、運命に身を委ね、疎外を恐れず突き進む主人公たちに僕は大いなる魅力を感じました。
2016年3月5日に日本でレビュー済み
この事に触れられている方が殆どまたは全くいないように思うので書きますが、初めこの本を読んだとき(ハードカバーの重い本で)おかしな感じがしたのですが物語の繋がりがおかしいというかそういうことを思ったのですがじつは連載時のほぼ一回分ほどがまるまるカットされている。図書館で読んだのですが死靈 1945~95 (埴谷雄高全集)のほうには載っていて矢場徹吾をさがしに三輪と黒川がサーカス団を訪ねるエピソードがまるまるカットされているために話の繋がりがよくわからなくなっている。たぶん表現というより内容が差別的内容に当たるということなのだろうがこれでは小説として理解しにくいのでカットされているならカットされているということをどこかに明記するべきだと思う。
2022年8月2日に日本でレビュー済み
埴谷雄高と同じくドストエフスキーの影響を受けているコーマック・マッカーシーはその作品において、叙事詩的な文体と会話文で、人間の暴力性、精神の深奥でたぎる激情を暗示している。
当のドストエフスキーは、論理的な文体と会話文で、高潔さと愚劣さを併呑する人間の精神の広大さを暗示している。
では埴谷雄高はどうかというと、困ったことに、暗示的な文体と会話文で暗示的なものを暗示しているとしか言いようのない。
一見、トートロジーで荒唐無稽で合間合間に挟まれる挿話はどこまでも実験的であり、総じて意味のない小説のようにも感じられてしまう向きもあろうが、そうではない。
その執拗なまでの暗示のトートロジーを用いることによってのみ示されているものがあるのだ。むしろ、ないものとしてあるというべきか。
それは、論理の幽霊ともいうべきもの、論理の匂いを感じさせながらも論理そのものではないもの、いわゆる論理の果てのような場所のさらにその向こう側、nowere,nobodyたる場所へ向かって存在を超えさせようとする不屈の意志であり、無謀ともいえる革命への果てなき挑戦である。
つまり前言したように、ないものとしてあることを目指し、それを示そうとしていると言える。空間にも時間にも自分自身にも捉われない、それでいてすべてでもあるような、はじまりでありおわりでもある『虚体』。それは暗示のトートロジーの網を張り巡らせることによって、ようやく形を朧げになし、その網の隙間からようやく一端を覗き見ることができるのだ。
よって完結して安易な結論が提示されるはずもなく、釈迦と大雄が議論を戦わすことなどあろうはずもなく、死霊が未完に終わったことさえ、否、まだ終わっていないことすらも、暗示の裡へと自ずと含まれて、それらもまた永遠に死霊として未来の読者へと暗示され続けていくのだ。
当のドストエフスキーは、論理的な文体と会話文で、高潔さと愚劣さを併呑する人間の精神の広大さを暗示している。
では埴谷雄高はどうかというと、困ったことに、暗示的な文体と会話文で暗示的なものを暗示しているとしか言いようのない。
一見、トートロジーで荒唐無稽で合間合間に挟まれる挿話はどこまでも実験的であり、総じて意味のない小説のようにも感じられてしまう向きもあろうが、そうではない。
その執拗なまでの暗示のトートロジーを用いることによってのみ示されているものがあるのだ。むしろ、ないものとしてあるというべきか。
それは、論理の幽霊ともいうべきもの、論理の匂いを感じさせながらも論理そのものではないもの、いわゆる論理の果てのような場所のさらにその向こう側、nowere,nobodyたる場所へ向かって存在を超えさせようとする不屈の意志であり、無謀ともいえる革命への果てなき挑戦である。
つまり前言したように、ないものとしてあることを目指し、それを示そうとしていると言える。空間にも時間にも自分自身にも捉われない、それでいてすべてでもあるような、はじまりでありおわりでもある『虚体』。それは暗示のトートロジーの網を張り巡らせることによって、ようやく形を朧げになし、その網の隙間からようやく一端を覗き見ることができるのだ。
よって完結して安易な結論が提示されるはずもなく、釈迦と大雄が議論を戦わすことなどあろうはずもなく、死霊が未完に終わったことさえ、否、まだ終わっていないことすらも、暗示の裡へと自ずと含まれて、それらもまた永遠に死霊として未来の読者へと暗示され続けていくのだ。