〇 収録された8篇の短篇のうち純粋な創作は4編で、あとの4編は私小説というか作者の回想記のようなもの。わたしの好みは断然創作の方。4作ともしみじみとした良さがある。
〇 旅先で死んだ行商人(仙酔島)も、空襲で焼かれた菊売り(残菊抄)も、亡き叔母の夫との交渉に思い悩む人やさしい女性(神田連雀町、佃島薄暮)も、いずれも特別にゆたかでも恵まれてもいないが、わたしの人生はこれなのだと受け入れて粛々と生きる潔さがある。作者はそうした人生を描くにふさわしいどこか温かみを感じる文章によって淡々と綴っている。
〇 淡々と、と言ったが作者の思いは深い。それはひとつひとつの言葉を見ればわかる。奇抜な言葉は論外だ、しかし月並みな表現は使いたくない、どうすれば強くちからのこもった表現になるだろうと考えながら時間をかけて書いているのを感じる。
〇 島村利正の作品は地味かもしれないが、端正でこれからもずっと慈しんでいきたいという気持ちにさせる。作者は小説家でもあり、勤勉なサラリーマンでもあった。ときに世間という枠から外れ、それをもって良しとする気分すら感じる筆一本の作家とはちがって、律儀で真面目で常識を見失わない健全さがどの作品にも滲んでいるような気がする。現代の文学がこのような作品を持ちえたことは読者にとって幸せなことだと思う。
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奈良登大路町・妙高の秋 (講談社文芸文庫) 文庫 – 2004/1/10
端正な文体で構成された抒情的世界の魅力。故郷への想いを謳った読売文学賞受賞作「妙高の秋」、奈良での若き美しき日々を綴る「奈良登大路町」など、寡作な作家の堅実で純度の高い珠玉の八作品を収録。
- 本の長さ240ページ
- 言語日本語
- 出版社講談社
- 発売日2004/1/10
- ISBN-104061983571
- ISBN-13978-4061983571
登録情報
- 出版社 : 講談社 (2004/1/10)
- 発売日 : 2004/1/10
- 言語 : 日本語
- 文庫 : 240ページ
- ISBN-10 : 4061983571
- ISBN-13 : 978-4061983571
- Amazon 売れ筋ランキング: - 796,993位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
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2023年9月13日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
2006年3月5日に日本でレビュー済み
「仙酔島」や「残菊抄」は、震災や戦争という“大きな物語”に一定の位置を与えつつも、市井の人々に軸を置き、当時の庶民生活や男女の機微といった“小さな物語”を丹念に描いた優れた“風俗小説”として評価できると思う。家業を途絶えさせないための養子縁組がごく普通のことで、自由恋愛が大手を振っていない時代、老境の女性が自らの結婚生活、人生を肯定的に述懐する「仙酔島」、近代の、文学的でない、まだ本能的な男女の情愛、情欲が素直に描かれている「残菊抄」、ともに味わい深い。
一方、たぶん島村利正としてはこっちが評価されているのだろう「奈良登大路町」や「焦土」「妙高の秋」は正直ついていけない部分がある。志賀さん(志賀直哉)や瀧井さん(瀧井孝作)が実名で登場し、自らは「私」だったり「杉村理一」といった仮名、無名の登場人物はM氏やE君といったイニシャル...このあからさまな序列!志賀さんに甲斐甲斐しく世話を焼く「私」のさまは、点数稼ぎ、媚にしか思えず、「どうしてこんなん書くんかなぁ」というのは、文学というクローズドな場所で生きている人たちにしか共有できない思考である。“有名性への欲望”がここまで顕著に見えちゃうとなぁ。こういう作品が一時、文学として成立していたという記録としては価値があるのかもしれない。いや、大方の文学、典型的な文学って、その形は変えても未だに「これ」なんですか?
一方、たぶん島村利正としてはこっちが評価されているのだろう「奈良登大路町」や「焦土」「妙高の秋」は正直ついていけない部分がある。志賀さん(志賀直哉)や瀧井さん(瀧井孝作)が実名で登場し、自らは「私」だったり「杉村理一」といった仮名、無名の登場人物はM氏やE君といったイニシャル...このあからさまな序列!志賀さんに甲斐甲斐しく世話を焼く「私」のさまは、点数稼ぎ、媚にしか思えず、「どうしてこんなん書くんかなぁ」というのは、文学というクローズドな場所で生きている人たちにしか共有できない思考である。“有名性への欲望”がここまで顕著に見えちゃうとなぁ。こういう作品が一時、文学として成立していたという記録としては価値があるのかもしれない。いや、大方の文学、典型的な文学って、その形は変えても未だに「これ」なんですか?