老子の言葉 有物混成 先天知生 寂兮寥兮
物あり混成し 天地に先立ちて生ず 寂たり寥たり
天地が生じる以前に、混沌として区別の出来ない物があり、それは寂寥としており、と続いていくそうです。
「どっちみち、どの人間も、他人には決してわからない、いや、自分自身でさえ不可解なものをもて余してたたずんでいるにすぎないと思うのであった。」と、あるとおり、「南極の氷山の割れ目を覗き込んでいるような寂寥感」を抱えながら、人間同士の営みを続けることは果たしてどこまで虚しいことであろうか、かたちもないところにこそ真実があるともいえる奥深い小説でありました。
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寂兮寥兮 (講談社文芸文庫) 文庫 – 2004/10/9
幼なじみの万有子と泊は、ごっこ遊びの延長の如き微妙な愛情関係にあったが、それぞれの夫と妻の裏切りの死を契機に……。ふたりを軸に三世代の織りなす人間模様は、過去と今、夢とうつつが混じり合い、愛も性もアモラルな自他の境なき幽明に帰してゆく。デビュー以来、西欧への違和を表現してきた著者が親炙する老子の思想に触発され、生と性の不可解さを前衛的手法で描いた谷崎賞受賞作。
- 本の長さ192ページ
- 言語日本語
- 出版社講談社
- 発売日2004/10/9
- ISBN-104061983830
- ISBN-13978-4061983830
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登録情報
- 出版社 : 講談社 (2004/10/9)
- 発売日 : 2004/10/9
- 言語 : 日本語
- 文庫 : 192ページ
- ISBN-10 : 4061983830
- ISBN-13 : 978-4061983830
- Amazon 売れ筋ランキング: - 1,231,040位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- カスタマーレビュー:
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sakutarou
1982年の作品ですが、この前後から広い意味での現代文学は病んで来たと言えると思います。そのひとつの例となる作品ではないかと思うのです、賞をというものの価値を認めるわけではありませんが、どうしてこれが谷崎潤一郎賞を獲得したのかもよくわかりません。単行本の帯についている河野多恵子の文芸時評もさっぱりわからない。この時代の文学者達の思い込みと、不毛な作品の時代であったことを伺わせます。内向の世代の作品などは、その典型ではないかと考えますが、これは自分の偏見でしょうか?
大庭みな子という作家は「三匹の蟹」の頃から、何を書きたいのかよく理解できない作家でしたが、この作品も一体何をテーマとしたいのか、そもそもテーマなどあるのかと疑ってしまいます。著者は風の吹くままに、気分と思いつきで文章を構成しているとしか思えませんし、人物の設定とその動向も、作者の気分次第の人形劇に付き合わされているようで、現実感と登場人物の人間としての存在の意義が認められないのです。即ち、人間の生活、人生が描けていません。(第一登場人物に妙な名前を付けているのは、大江健三郎の真似なのかと疑いたくなります。又、突然に古事記や神話の人物に言及するのも妙な行き当たりばったりの執筆態度の印象しか持てません。古典への深い学識から生まれた記述とは思えないのです。)
こういう作品を評価するということは、文学、小説というものが特殊な人達の思い込みの産物になってしまっているのではないかと考えます。どうしても自分にはこの種の小説が理解できませんし、認められないのですが、これは観賞力が狭いのでしょうか?
大庭みな子という作家は「三匹の蟹」の頃から、何を書きたいのかよく理解できない作家でしたが、この作品も一体何をテーマとしたいのか、そもそもテーマなどあるのかと疑ってしまいます。著者は風の吹くままに、気分と思いつきで文章を構成しているとしか思えませんし、人物の設定とその動向も、作者の気分次第の人形劇に付き合わされているようで、現実感と登場人物の人間としての存在の意義が認められないのです。即ち、人間の生活、人生が描けていません。(第一登場人物に妙な名前を付けているのは、大江健三郎の真似なのかと疑いたくなります。又、突然に古事記や神話の人物に言及するのも妙な行き当たりばったりの執筆態度の印象しか持てません。古典への深い学識から生まれた記述とは思えないのです。)
こういう作品を評価するということは、文学、小説というものが特殊な人達の思い込みの産物になってしまっているのではないかと考えます。どうしても自分にはこの種の小説が理解できませんし、認められないのですが、これは観賞力が狭いのでしょうか?