『長春五馬路(ウーマロ)』(木山捷平著、講談社文芸文庫)は、敗戦直後の満洲が舞台でありながら、何とも飄逸とした味わいの中篇小説です。
著者・木山捷平を思わせる主人公・木川正介は、敗戦により、満洲国の首都であった新京(長春)で難民生活を送っています。置かれた状況が凄惨、悲惨であるにも拘わらず、このような飄々とした作品が書けたということは、著者の性格によるところが大きいでしょう。しかし、日々の生活をどう遣り繰りするかに心を向け、その日、その日を淡々と生きることでしか、多くの日本人が次々に死んでいく時期を生き延びることができなかったという事情も影響しているに違いありません。
40歳過ぎの、ボロ(古着)屋稼業の主人公は、なぜか、「小父さん、小父さん」と女性たちから慕われます。中国人の妾となっている日本人女性、朝鮮人の日本人妻、列車で知り合った謎の中国人女性、女中を辞めて路上で商いをする中国人少女、白系部落の白系ロシア人少女など、彼が出会う女性たちは、いずれも逞しくおおらかで、細かいことに拘らない者ばかりです。主人公は彼女たちから、何もかも失ってしまっても、くよくよするな、それより、何とか生きていくことを考えるほうが先だと教えられたのです。
「正介は女の顔をつくづくと見た。背はそんなに高くないが、ふっくらした肉づきが魅力的だった。顔もぬけるように白かった。・・・『いやですよ、小父さん、そんなに穴があくほど私を見ては・・・。わたし何もかくしはしませんよ。どうせわたしは体のよごれた満人のお妾さんなんですもの』。女がまぶしそうに眼をほそめて言った。『お妾さんで結構じゃありませんか。誰もあんたに文句をつけられる日本人が一人でも満洲にいますか。いや、日本にいる日本人ぜんたいを含めても――』」。
「郁江がやおらフランネルの寝巻の襟に手をかけて、肩をはずした。半裸の肉体が、正介の三尺前にあらわれた。三十女の肉体は眼がさめるほど美しかった」。
「正介が蒲団を持ちあげると、その空間の中に永春がとびこんで、正介の体にかじりついた。永春はあたたかかった。彼女は深紅のやわらかい寝巻を着ていた。その寝巻から温かい彼女の体温が伝わって、彼女の四肢はゆたんぼのように思えた。正介は彼女の首を抱いてやった。彼女の顔は彼の胸の中にあった。・・・正介は抱いている手を彼女の首からはずした。手は静かん、彼女の寝巻の線をつたった。裾までおりた時、手がもう一度、寝巻の線をさかのぼった。彼の手が丘にふれた。彼は眼をつむって丘の広さを感じた。呉家の女中七家子が春まだ早い二月の若草山だとすれば、永春のそれは秋たけなわな十月の嵐山を思わせた」。
「七家子はその古材木の間に寝床をつくった。寝床の材料は穀物いれの麻袋のようであった。七家子はその上にズボンをぬいで横になった。上衣はぬがなかった。闇の中に七家子の白い上腿が浮びあがった。正介は七家子の細い腰をかたく抱きしめて、『お前は田舎ではいつもこのようにしていたのか』ときくと、『違う。田舎は藁だ』と七家子が言った。『田舎では何人した?』ときくと、『四人か五人だ』と七家子が言った。『お前の年はいくつか』ときくと、『十五だ。来年の正月がくれば十六だ』と七家子が言った」。
「少女はぱっと寝台にとび上った。とび上ったかと思うと、二本の足をばたばたさせて、パンティを上から下へずり落した。スカートを胸のところまでたくりあげた。彼女の上腿は、雪のように真白であった。一瞬、正介はわれとわが眼を疑った。彼女の上腿は春まだ早い二月の若草山のように萌えてはいなかった。ギリシア系だからかどうかはわからないが、それでいて余りに早熟なのに呆然としていると、『ダワイ』(早くよ)『ダワイ』(早くよ)と少女が黄色い声で叫んだ」。
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長春五馬路 (講談社文芸文庫) 文庫 – 2006/4/11
木山 捷平
(著)
敗戦直後の満州を舞台に飄々と描く男の悲哀めまぐるしく変る政治状況の中で毎日長春五馬路へ出かけボロ屋で生計を立てる主人公の日常。深い悲しみを底流に沈めて、ユーモラスに綴った著者最後の傑作中篇。
- 本の長さ259ページ
- 言語日本語
- 出版社講談社
- 発売日2006/4/11
- ISBN-104061984373
- ISBN-13978-4061984370
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商品の説明
出版社からのコメント
敗戦直後の満州を舞台に飄々と描く男の悲哀めまぐるしく変る政治状況の中で毎日長春五馬路へ出かけボロ屋で生計を立てる主人公の日常。深い悲しみを底流に沈めて、ユーモラスに綴った著者最後の傑作中篇。
登録情報
- 出版社 : 講談社 (2006/4/11)
- 発売日 : 2006/4/11
- 言語 : 日本語
- 文庫 : 259ページ
- ISBN-10 : 4061984373
- ISBN-13 : 978-4061984370
- Amazon 売れ筋ランキング: - 1,283,450位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- カスタマーレビュー:
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2017年2月9日に日本でレビュー済み
2009年9月11日に日本でレビュー済み
満州国新京(長春)で終戦を迎え、
その後1年、その地で難民生活を送った作者の
分身のような人物が主人公の中篇。
ボロ布を売って糊口をしのぐという底辺に近い生活の中で
そしてロシア軍・国民党軍・共産党軍に満州国残党までが
入り乱れて小競り合いを繰り返す混乱した治安状況の中で、
絶望することなく飄々と、しかし力強く行きぬく人々の姿が
特に女性たちの生活が生き生きと、そして淡々と描かれている。
声高に反戦を訴える小説も「正しい」のであろうが
時に反道徳的な手段で飄々と生き延びる強かさに
心のどこかが麻痺しなければやっていけない、
ひんやりとした怖さが垣間見える。
その後1年、その地で難民生活を送った作者の
分身のような人物が主人公の中篇。
ボロ布を売って糊口をしのぐという底辺に近い生活の中で
そしてロシア軍・国民党軍・共産党軍に満州国残党までが
入り乱れて小競り合いを繰り返す混乱した治安状況の中で、
絶望することなく飄々と、しかし力強く行きぬく人々の姿が
特に女性たちの生活が生き生きと、そして淡々と描かれている。
声高に反戦を訴える小説も「正しい」のであろうが
時に反道徳的な手段で飄々と生き延びる強かさに
心のどこかが麻痺しなければやっていけない、
ひんやりとした怖さが垣間見える。
2006年4月28日に日本でレビュー済み
あの戦争が終ったばかりの長春では、十万もの日本人が死んだというが、この作品に、それらは表だっては描かれない。日常、何が起きようが適応して生きてゆく人がいるし、適応できない人もいる。ボロ市のたつ五馬路を主な舞台に、主人公をめぐって展開する諸事、人々(特に女性)の姿や行動が、淡々と時にユーモラスに描かれる。最後の場面だけは、満州国に対する風刺か。
この小説を読んで、登場する人々がそれぞれ魅力というか個性をおびた生き方をしていると感ずる。あの戦争を思想的に支えた「日本浪漫派」に参加した作家の作品とは思えない。この作品は、著者の長春体験から20年余にわたって書き継がれ、没後間もなくにして発表された。長い間に木山の脳裏で析出し結晶したことが描かれていることになる。登場人物にも出来事にも、輝いているのはそれら結晶である。
この小説を読んで、登場する人々がそれぞれ魅力というか個性をおびた生き方をしていると感ずる。あの戦争を思想的に支えた「日本浪漫派」に参加した作家の作品とは思えない。この作品は、著者の長春体験から20年余にわたって書き継がれ、没後間もなくにして発表された。長い間に木山の脳裏で析出し結晶したことが描かれていることになる。登場人物にも出来事にも、輝いているのはそれら結晶である。