画商・兼・小説家の洲之内徹は「戦争とは端的には恐怖だ」と言っていたが、それを否応なく納得させられる一書だった。
任務を帯びて主人公が調達し、部隊に持っていく物資は①戦死者の骨を入れる白木の箱②慰安婦(これが当時には言われていただろう単語で端的に書かれている。この単語は水木しげるのマンガでも出てきた)。
各地の部隊で止まるごとに②を「提供」させられ、敵に襲撃され、回復の見込みがない重傷者は行軍の邪魔になり、兵士も慰安婦も関係なく「処理」して①に入れられる。または①に回収する余地もなければそのまま現場に放棄(「肉体の悪魔」「蝗」)
いつ死ぬか分からない。明日もない。「現在」しかない時、兵士が慰安婦、現地人女性に性的暴力を振るい「腰が軽くなった」と戦場に赴く。
戦争の暴虐というよりも、日本軍がどれほど異様な集団になっていたかという明確な記録である。
暴力的な資質で却って武勲を上げる戦友が、現地人女性を強姦したあと、戦友の精液の臭気もなまなましい女性を続いて自分も抱く描写など、自暴自棄と本能のタガが外れた恐怖と官能の精密な記録である。
内乱ではない。たとえばフランコと共和国軍のスペイン内乱と異なり、他国に上陸した軍隊である。
その軍隊が規律も展望も崩壊していては、現地の統治の見込みがない。
勝利の可能性もおぼつかない、暗澹たる未来図である。(こんな暴虐をしていては、戦争に勝利しても人望を得る余地がない)
しかしこの作品は素晴らしい。
若い男を隔離し、生存の見込みが立たない状況ではどれほど異様な状況になるか、ノンフィクション、ルポルタージュを越え、自分だったらどうするだろうと考えさせる「文学」に昇華していた。ある時期に大日本帝国に生まれた男性であれば、それなりの確率でその場に立たされていた可能性は高い。
敗戦後、日本に帰国できたとしても、戦後の日本社会は、戦争は早く忘れたい、失敗した悪夢であり、戦死は犬死であるかのように扱われ、復員兵たちの虚無感などは無視して日本社会は別の方向へ進み始めている。
それに反発し、あるいはその体験をバネに成功への道を歩んでも、戦時の非現実的状況から生まれた精神は生を破綻させたり、あるいはその支えとなったりする(「失われた男」「渇く日々」)或いは復員兵の肉体性に、売春婦となった少女が官能の開花をもたらす(「肉体の門」)など、戦争が兵士たちの精神にもたらしたダメージ、変形、刻印を描いて完膚ない。
田村泰次郎の文学的最盛期は短い。
この一書にある作品とはまったく違う作風の風俗小説を量産し、本人は経済的成功を収めたが、文学的達成は戦記文学の一連の作品に集約される。しかし、その声望は、昭和の終わる前にすでに忘れ去られていた。
それも、敗戦後の性風俗描写が語られ、思い出されるのが一般的理解であった…と思う。
山田風太郎「人間臨終図鑑」では、田村泰次郎は文学的隆盛が終わった後、新宿にビルを建て、没後、未亡人が「そのおかげで食べていけます」と語った記事を引用して終わらせている。これが20世紀末における田村泰次郎の文学に対する世評だろう。
だが、これほど精密に日本軍の現状と、その日常が精神に与えた非現実感覚を的確に指摘した小説は無いのではないか。ベトナム戦争の時の米兵と比較できるものではないだろうか。
筆者がここに放り込まれたら?
「いつでも死と言う休息に逃げ込めるのだ。なら今ではなく、先に取っておく」を繰り返してなんとか生き延びた、と独白する主人公のようになっただろうか。
それとも運不運であっけなく致命傷を負い「戦死した兵士の首を落として持ち帰られた」り「何もできずにそのまま投棄」されたり「退却の邪魔なのでその場で適切に処理」されたりしただろうか。(しかしこれって新選組と同じで、刀を抜いたら相手を殺さない限り切腹と同じ論理で、こんな頻度で使い捨てていたら勝てるわけがない、などとその場で冷静に論理的な事を言えるわけもないのであった)
しばらくまんじりとも出来なかった。
著者は早稲田大学でフランス文学者ポール・ヴァレリーを卒論にしている。しかし、彼はそれと全く違う戦場で、しかし、方法論としては、ヴァレリーのように精密な意識を以て、戦争体験を昇華した。
日本と言う個別の国家の過去を学び、未来を占うだけではなく、極限状況になったときの人間の記録として、この作品が末永く読まれることを望む。これは過去の日本だけの内容ではない。
兵士の物語として、これは得たくもないが、体験した以上は記録に値する記録である。再現を避けるためにも読まれることを強く望みたい。強く望みたい。
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肉体の悪魔・失われた男 (講談社文芸文庫) 文庫 – 2006/8/11
田村 泰次郎
(著)
肉体の解放と生命の尊厳を謳い、戦後を拓く6年におよぶ中国での一兵卒としての戦争体験は、観念や思想の無力を教え、厭戦的戦争文学と肉体文学の作家を誕生させた。戦後の一時代を画した田村文学の再発見
- 本の長さ319ページ
- 言語日本語
- 出版社講談社
- 発売日2006/8/11
- ISBN-104061984519
- ISBN-13978-4061984516
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商品の説明
著者について
田村泰次郎(1911・11・30~1983・11・2)小説家。三重県生まれ。早稲田大学文学部仏蘭西文学専攻卒業。大学在学中より、ジョイス、ヴァレリー等の知性派文学についての批評を発表し、注目される。1940年、応召、一兵卒として北中国を転戦し、46年、復員。この戦争体験が田村の戦後の作品を大きく規定することとなる。46年、「肉体の悪魔」を皮切りに数多くの戦争文学を発表するとともに、47年の「肉体の門」で肉体文学の作家として一躍流行作家となり、風俗小説も量産することとなった。主な著書に『春婦伝』『獣の日』『女体男体』『戦場の顔』『蝗』『密猟者』等。
登録情報
- 出版社 : 講談社 (2006/8/11)
- 発売日 : 2006/8/11
- 言語 : 日本語
- 文庫 : 319ページ
- ISBN-10 : 4061984519
- ISBN-13 : 978-4061984516
- Amazon 売れ筋ランキング: - 849,384位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- カスタマーレビュー:
著者について
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2007年6月11日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
田村泰次郎の名はその作品「肉体の門」と固く結びついている。それは1947年、著者が中国から復員して1年7ヶ月後に世に現れた。日本人は敗戦のショックに打ちのめされながらもまずは日々の食糧の確保に血眼だった。そこに現れた一つの現象は性を売り物にするいわゆる「カストリ雑誌」の盛行である。『肉体の門』は当時、そしておそらくはその後も、そのような時代風潮に迎合するものとして受け取られてきたのではないだろうか。この選集には「肉体の悪魔」「蝗」「渇く日々」「肉体の門」「霧」「失われた男」の6編が収録されている。そのうちの2編、中国戦線での慰安婦の輸送にかかわる「蝗」と最後の「失われた男」を除く残りはすべて1947年12月以前に書かれている。つまりここにあるのは著者の生々しい戦場体験、さらにはそれが血肉となった復員兵の心象、さらにはその目にうつる戦後の日本である。
すべての作品が戦場の記憶を映し出している。戦線の大局は掴みがたい。反面、描かれている多くの事件が著者の実体験を踏まえていることに疑いはない。「肉体の悪魔」は1942年の宣撫作戦に添っておりそこでは毛沢東を始めとする中共軍の幹部とともに「顎のところを弾丸がぬけたために」発音が明瞭でない'ケ小平が話題に上っている。しかし作品としておそらく最も完成度が高く、また「戦場で獣と化す」兵士を最も迫真的に描いているのは「失われた男」だろう。戦後19年目に初めて郷里を訪れた主人公はそこで往時の戦友であり相棒であった男の家を訪れる。野性化した犬の群れに囲まれ、今は生ける屍と化している友を彼は己の分身、己の「恥部」と意識して戦後を生きてきた。彼はその戦友の死を安堵の念をもって見守りながら自らの「存在の重み」が揺らぐのを実感する。「人間離れのした荒々しい肉欲と攻撃力」の最後の様相にはコンラッドの『闇の奥』の結末に通じるものがある。
すべての作品が戦場の記憶を映し出している。戦線の大局は掴みがたい。反面、描かれている多くの事件が著者の実体験を踏まえていることに疑いはない。「肉体の悪魔」は1942年の宣撫作戦に添っておりそこでは毛沢東を始めとする中共軍の幹部とともに「顎のところを弾丸がぬけたために」発音が明瞭でない'ケ小平が話題に上っている。しかし作品としておそらく最も完成度が高く、また「戦場で獣と化す」兵士を最も迫真的に描いているのは「失われた男」だろう。戦後19年目に初めて郷里を訪れた主人公はそこで往時の戦友であり相棒であった男の家を訪れる。野性化した犬の群れに囲まれ、今は生ける屍と化している友を彼は己の分身、己の「恥部」と意識して戦後を生きてきた。彼はその戦友の死を安堵の念をもって見守りながら自らの「存在の重み」が揺らぐのを実感する。「人間離れのした荒々しい肉欲と攻撃力」の最後の様相にはコンラッドの『闇の奥』の結末に通じるものがある。