竹田青嗣氏の著作は、どれも明快で読みやすい。フッサールの現象学をクリアカットした竹田現象学が成功しているからだと思う。そうした視点、幹になるべき芽とそれを覆う枝葉とを区別して見せたのが本書の位置づけだと考えている。
本書を読んで自分なりに感じたことがある。それは、哲学は何を目指していたのだろうか?という疑問に対する自分なりの解釈である。テーラワーダ仏教のスマナサーラ長老が哲学を重視しない理由を説明したかったこともある。
そうした問題意識に本書は様々な刺激を与えてくれた。数学は抽象的な対象の論理的な体系を解明し、物理学は具体的な対象の論理的な体系を解明する。同様に、「何々学」という名のつく学問は「何々」という具体的な対象の体系を解明する。そうした「何々学」の起源は哲学(智慧を愛すること)であり、未分化の対象に取り組む過程から具体的な対象を分化させ、その対象の体系づくりを目指して来たのかも知れない。
従って、哲学は現在でもなお未分化のままの対象から具体的な対象を抽出して、その体系化を目指す可能性がある。現在も未分化の対象とは何であろうか?それは人間の心ではないだろうか?心理学とか精神分析学とかはすでにあるが、それは力学や熱学が物理学の一分野であるように、人間の心の一部でしかないように思われる。ブッダが人間を「呼吸体=身体形成力、感情=心形成力、心、法(基本原理)」と分析・体系化したことを現代的な視点で解明する学問が哲学から派生すべき時代が到来しつつあるような気がする。
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人間的自由の条件 単行本 – 2004/12/8
竹田 青嗣
(著)
ヘーゲルを通し近代の可能性を問う力作評論ポストモダン的相対主義思想を超えて、根本的なヘーゲル理解を通じて「自由の相互承認」の原理に基づく「近代社会」の本質的な展開の可能性を提示する注目評論。
- 本の長さ474ページ
- 言語日本語
- 出版社講談社
- 発売日2004/12/8
- ISBN-104062126702
- ISBN-13978-4062126700
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登録情報
- 出版社 : 講談社 (2004/12/8)
- 発売日 : 2004/12/8
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 474ページ
- ISBN-10 : 4062126702
- ISBN-13 : 978-4062126700
- Amazon 売れ筋ランキング: - 581,469位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 247位西洋近現代思想
- - 522位ドイツ・オーストリアの思想
- - 1,029位西洋哲学入門
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2009年1月10日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
2012年2月13日に日本でレビュー済み
2004年の出版。以下は第二章の感想のみです。内容の評価は無理です。ヘーゲルの『精神現象学』を読んだことないのであしからず。
第二章:ヘーゲルの『精神現象学』の「事そのもの」への理解と相互承認という概念をめぐって、コジェーヴのヘーゲル解釈を手がかりにその解釈を超えようとしている。
「自己意識の自由」を「人生の意味」にまで重ねてしまいたくなるような包括的な内容だった。近代以前は、すでに生まれたときから共同体によって役割分担が決められている。農家に生まれた人は農家で一生懸命仕事することが人生の目的である。また、超越者によって人生の意味も与えられていた。神の栄光のためとか、永遠の命とか・・・・
ところが近代の市民社会においては、このような前提としての共同体や超越項がなくなり、市民は自由の意識において人生の意味をさがさなくてはならなくなった。自由といっても何か具体的な対象を目指して意味を探すのではない。自己意識の自由(人生の意味)は、他者によって自分の価値を認めてもらうという有用性の概念によって支えられている欲望ゲームである。[ このことは他者も同様であり、したがって相互承認というかたちでしか自己の価値が認められない。]
自己の価値を承認してもらうという自己中心的動機は、絶対的自由という理想社会を表象するが、社会という他者関連をともなう普遍性に対して一見して矛盾するようにも思える。実際、近代社会には戦争や貧困、格差などの様々は問題が生じてきた。近代の社会体制自体が批判されてきたのはそのためである(実証的社会科学、無政府主義、マルクス主義、回帰的保守主義、新民族主義、人種主義)。この相互承認はやがて社会的な自己と他者の連関の中で、行為・仕事、営為で共通項を目指すことによって各自が自分の生きる意味を見出さないとならなくなる。
人間は自由の意識を手にはしたのだが、人生の意味を得にくくなってきた。各人が自己意識の自由のもとに自分でそれぞれの目的を探すしかない。他者に自分の価値を承認してもらうことなど個人的営為においても仕事上においても希望は薄いにも関わらず・・・。
共同体的な目的や超越項を失った私たちにとって、また現世的な幸福と自由の理念の実現に挫折する功利主義のパターンは、再び近代精神の最終的地平としてカントの「道徳精神」として現れてくる。それは「自由の相互承認」によって「私」の精神・魂が最も「普遍的なほんとう」をめがけることができる」という道徳精神の自己了解のあり方である(181頁)。この道徳精神は必然的な最高善という理想理念を懐くことになるが、個人の内部における矛盾や個人と普遍性の矛盾よって挫折せざるを得ない。そして最終的に「良心」にたどり着く。
この良心は本質的な「自覚」の境位である。絶対本質=普遍的なものは超越的なものとして存在するのではなく、自己の生の「自由」の本質として存在し、したがって「普遍的なものへの意志」としてのすべての「他者」が同じく持っているものであるということを知っているのである。
以上をひとことでまとめると、「絶対的な社会を前提としないで、社会を修正可能なものとみなして、みんなが同一の真なる世界を目指しているという自覚をもち、みんなで相互に話あいながら、本当の善い社会を目指していこう」でしょうか?
第二章:ヘーゲルの『精神現象学』の「事そのもの」への理解と相互承認という概念をめぐって、コジェーヴのヘーゲル解釈を手がかりにその解釈を超えようとしている。
「自己意識の自由」を「人生の意味」にまで重ねてしまいたくなるような包括的な内容だった。近代以前は、すでに生まれたときから共同体によって役割分担が決められている。農家に生まれた人は農家で一生懸命仕事することが人生の目的である。また、超越者によって人生の意味も与えられていた。神の栄光のためとか、永遠の命とか・・・・
ところが近代の市民社会においては、このような前提としての共同体や超越項がなくなり、市民は自由の意識において人生の意味をさがさなくてはならなくなった。自由といっても何か具体的な対象を目指して意味を探すのではない。自己意識の自由(人生の意味)は、他者によって自分の価値を認めてもらうという有用性の概念によって支えられている欲望ゲームである。[ このことは他者も同様であり、したがって相互承認というかたちでしか自己の価値が認められない。]
自己の価値を承認してもらうという自己中心的動機は、絶対的自由という理想社会を表象するが、社会という他者関連をともなう普遍性に対して一見して矛盾するようにも思える。実際、近代社会には戦争や貧困、格差などの様々は問題が生じてきた。近代の社会体制自体が批判されてきたのはそのためである(実証的社会科学、無政府主義、マルクス主義、回帰的保守主義、新民族主義、人種主義)。この相互承認はやがて社会的な自己と他者の連関の中で、行為・仕事、営為で共通項を目指すことによって各自が自分の生きる意味を見出さないとならなくなる。
人間は自由の意識を手にはしたのだが、人生の意味を得にくくなってきた。各人が自己意識の自由のもとに自分でそれぞれの目的を探すしかない。他者に自分の価値を承認してもらうことなど個人的営為においても仕事上においても希望は薄いにも関わらず・・・。
共同体的な目的や超越項を失った私たちにとって、また現世的な幸福と自由の理念の実現に挫折する功利主義のパターンは、再び近代精神の最終的地平としてカントの「道徳精神」として現れてくる。それは「自由の相互承認」によって「私」の精神・魂が最も「普遍的なほんとう」をめがけることができる」という道徳精神の自己了解のあり方である(181頁)。この道徳精神は必然的な最高善という理想理念を懐くことになるが、個人の内部における矛盾や個人と普遍性の矛盾よって挫折せざるを得ない。そして最終的に「良心」にたどり着く。
この良心は本質的な「自覚」の境位である。絶対本質=普遍的なものは超越的なものとして存在するのではなく、自己の生の「自由」の本質として存在し、したがって「普遍的なものへの意志」としてのすべての「他者」が同じく持っているものであるということを知っているのである。
以上をひとことでまとめると、「絶対的な社会を前提としないで、社会を修正可能なものとみなして、みんなが同一の真なる世界を目指しているという自覚をもち、みんなで相互に話あいながら、本当の善い社会を目指していこう」でしょうか?
2009年12月12日に日本でレビュー済み
これまで著者はフッサールの現象学からのものが多かった。それが最近にいたってヘーゲルに鞍替えしたようである。しかし現象学とヘーゲルとの類似性はほとんど語られていない。ということはフッサールからヘーゲルへと内的な連関を示すこともなく変節したとも言われても仕方がない。
この著者のものには「何々入門」とつくものが多く、紀要には専門的なものがあるのかも知れないが、書物の形であらわれた限りでは表面的なものの多いのが氏の特徴である。これはわが国の伝統で文芸評論家の常套手段であるようだ。だから読者もそのつもりで読んでいるようだ。私はこのことをけなしているのではなく、ただそういうものとして読んでいるにすぎない。文芸評論家の見た哲学論の代表として氏のものに注目しているのだ。柄谷行人のような単なる評論家のエッセイならばわざわざ書評をしない。著者には氏に独特の見方があるからだ。
この書は「群像」に02,03,04年に発表された三つの論考からなっている。それらを貫くライトモチーフ(基本理念)は「自由の相互承認」である。氏はヘーゲルの「精神現象学」と「法の哲学」とを基礎にして他の思想を一つ一つ検討していく。だが、「自由の相互承認」は「精神現象学」の中の言葉のように思われるが、実は著者の造語なのだ。この造語について一言述べると、相互承認となっているところから見て、自由は普遍的な自由ではなく、個人的な自由である。これはフッサールの相互主観性(この論理はつきつめて言えば、社会契約説だ)を引き継いでいる概念のように思われる。だから自由の社会契約説と考えると理解しやすい。もちろんこれはヘーゲルやカントの自由とは違う。
ともあれ著者の構想する「自由の相互承認」を用いて柄谷の問題提起を批判することからはじめ、当然のこととしてカント、そしてマルクス主義が問題としてとり挙げられる。「『トランスクリティーク』のアポリア」という副題がつく。これが第一章で短い。
第二章はヘーゲルを中心に論じた章で、まずコジェーブ『ヘーゲル読解入門』の解説からはじめ、「行為する理性」や「精神」について論じる。ヘーゲルを無神論と呼ぶところにその特徴があり、それは「良心」論を「精神現象学」の白眉とすることにつながっていく。
しかし、なぜそれらが「自由の相互承認」かかわるのか。「『この自己意識』の認識の進展を支えるものは、一般に言われているような『概念の自己運動』といったものではない。それを推し進めるのはただ、つねに、自己意識が内面還帰的自己認識に挫折して、『自己価値』を社会的な承認関係(承認ゲーム)の中でつかみ直そうとする契機にほかならない。」(p.195)「自由な欲求の体系」にあって、「近代社会は、その競争的承認ゲームの枠組み自体の根拠としての本質的な公準をもっている。そしてそれが『自由の相互承認』である。」(p.196)
最後の章は「自由の相互承認」を用いた応用論の形になっている。マルクス、マンハイム、フーコー、アレント、あるいはさかのぼってフィヒテとめまぐるしい。「こうしてわれわれは、ヘーゲルの自由な『承認ゲーム』としての近代社会の思想と、アレントの『革命』の原義としての『自由』とこれへの対立項としての『暴力』の思想がちょうど交差するところに、近代の『自由』のアポリアの全体像がその焦点を結んでいることを理解するはずだ。」(p.434)と結んでいる。このことから著者のいう「自由の相互承認」は「承認ゲーム」でもあるのである。かくて自由は「ゲーム」なのだ。これをヘーゲルは何と批評するであろうか。
この著者のものには「何々入門」とつくものが多く、紀要には専門的なものがあるのかも知れないが、書物の形であらわれた限りでは表面的なものの多いのが氏の特徴である。これはわが国の伝統で文芸評論家の常套手段であるようだ。だから読者もそのつもりで読んでいるようだ。私はこのことをけなしているのではなく、ただそういうものとして読んでいるにすぎない。文芸評論家の見た哲学論の代表として氏のものに注目しているのだ。柄谷行人のような単なる評論家のエッセイならばわざわざ書評をしない。著者には氏に独特の見方があるからだ。
この書は「群像」に02,03,04年に発表された三つの論考からなっている。それらを貫くライトモチーフ(基本理念)は「自由の相互承認」である。氏はヘーゲルの「精神現象学」と「法の哲学」とを基礎にして他の思想を一つ一つ検討していく。だが、「自由の相互承認」は「精神現象学」の中の言葉のように思われるが、実は著者の造語なのだ。この造語について一言述べると、相互承認となっているところから見て、自由は普遍的な自由ではなく、個人的な自由である。これはフッサールの相互主観性(この論理はつきつめて言えば、社会契約説だ)を引き継いでいる概念のように思われる。だから自由の社会契約説と考えると理解しやすい。もちろんこれはヘーゲルやカントの自由とは違う。
ともあれ著者の構想する「自由の相互承認」を用いて柄谷の問題提起を批判することからはじめ、当然のこととしてカント、そしてマルクス主義が問題としてとり挙げられる。「『トランスクリティーク』のアポリア」という副題がつく。これが第一章で短い。
第二章はヘーゲルを中心に論じた章で、まずコジェーブ『ヘーゲル読解入門』の解説からはじめ、「行為する理性」や「精神」について論じる。ヘーゲルを無神論と呼ぶところにその特徴があり、それは「良心」論を「精神現象学」の白眉とすることにつながっていく。
しかし、なぜそれらが「自由の相互承認」かかわるのか。「『この自己意識』の認識の進展を支えるものは、一般に言われているような『概念の自己運動』といったものではない。それを推し進めるのはただ、つねに、自己意識が内面還帰的自己認識に挫折して、『自己価値』を社会的な承認関係(承認ゲーム)の中でつかみ直そうとする契機にほかならない。」(p.195)「自由な欲求の体系」にあって、「近代社会は、その競争的承認ゲームの枠組み自体の根拠としての本質的な公準をもっている。そしてそれが『自由の相互承認』である。」(p.196)
最後の章は「自由の相互承認」を用いた応用論の形になっている。マルクス、マンハイム、フーコー、アレント、あるいはさかのぼってフィヒテとめまぐるしい。「こうしてわれわれは、ヘーゲルの自由な『承認ゲーム』としての近代社会の思想と、アレントの『革命』の原義としての『自由』とこれへの対立項としての『暴力』の思想がちょうど交差するところに、近代の『自由』のアポリアの全体像がその焦点を結んでいることを理解するはずだ。」(p.434)と結んでいる。このことから著者のいう「自由の相互承認」は「承認ゲーム」でもあるのである。かくて自由は「ゲーム」なのだ。これをヘーゲルは何と批評するであろうか。
2005年2月5日に日本でレビュー済み
わたしはこの本を読んで、やっと21世紀に入れる気がしました。
マルクス主義思想は当てにならず、さりとて資本主義を万能の社会制度とし
て謳歌することもできない。まして、無限に相対化はするけれど次の一歩を
踏み出すわけでもないポスト・モダンに居場所を見出すこともできない。
仕方がないので、手ぶらでその都度、最善の判断を考えていくしかないと気
負いはするものの心もとない。そのうち、今がいつでどこに向かっているの
かという歴史感覚が無くなっている実感のさなかにあったのが、この本は、
そこに線を一本、ピンと張ってくれます。
ヘーゲルとマルクスの歩みを、二人を対立の関係ではなくて、ヘーゲルの次
の時代の思想的課題を本質的に背負った人としてマルクスを位置づける。す
ると、「近代社会」が連綿としてその延長に自分もいるという実感が湧き上
がってきます。
教科書ではたしか、「近代社会」は「現代社会」の前にあって、何か古めか
しい感じすらしていたのに、反抗期を経て大人になろうとした自分の個人史
も、「自由」の切符を手にして「共同体的役割」を解くというまさに近代社
会の生き方に他ならないことに気づかされました。
竹田は、そうしてヘーゲルという源泉から「自由の相互承認」という考え方
を導き出しています。「自由の相互承認」という考え方は、現在のアメリカ
一国支配に対してだけでなく、南北の貧富差という大きな課題から、わたし
たちの身過ぎ世過ぎの糧である企業組織のあり方という身近な課題にも、視
点をもたらしくれると思えます。
かつて、わたしたちの思想は、立ち位置のローカリズムと世界との偏差を課
題にしてきたように思いますが、この本は、世界という舞台そのものを扱っ
ている力強さを感じます。
わたし個人はこの本で、やっと21世紀に入って考えることができる気がし
ているのですが、この本自体は、世界思想の場で問われる価値があるのでは
ないでしょうか。お勧めです。
マルクス主義思想は当てにならず、さりとて資本主義を万能の社会制度とし
て謳歌することもできない。まして、無限に相対化はするけれど次の一歩を
踏み出すわけでもないポスト・モダンに居場所を見出すこともできない。
仕方がないので、手ぶらでその都度、最善の判断を考えていくしかないと気
負いはするものの心もとない。そのうち、今がいつでどこに向かっているの
かという歴史感覚が無くなっている実感のさなかにあったのが、この本は、
そこに線を一本、ピンと張ってくれます。
ヘーゲルとマルクスの歩みを、二人を対立の関係ではなくて、ヘーゲルの次
の時代の思想的課題を本質的に背負った人としてマルクスを位置づける。す
ると、「近代社会」が連綿としてその延長に自分もいるという実感が湧き上
がってきます。
教科書ではたしか、「近代社会」は「現代社会」の前にあって、何か古めか
しい感じすらしていたのに、反抗期を経て大人になろうとした自分の個人史
も、「自由」の切符を手にして「共同体的役割」を解くというまさに近代社
会の生き方に他ならないことに気づかされました。
竹田は、そうしてヘーゲルという源泉から「自由の相互承認」という考え方
を導き出しています。「自由の相互承認」という考え方は、現在のアメリカ
一国支配に対してだけでなく、南北の貧富差という大きな課題から、わたし
たちの身過ぎ世過ぎの糧である企業組織のあり方という身近な課題にも、視
点をもたらしくれると思えます。
かつて、わたしたちの思想は、立ち位置のローカリズムと世界との偏差を課
題にしてきたように思いますが、この本は、世界という舞台そのものを扱っ
ている力強さを感じます。
わたし個人はこの本で、やっと21世紀に入って考えることができる気がし
ているのですが、この本自体は、世界思想の場で問われる価値があるのでは
ないでしょうか。お勧めです。
2006年8月7日に日本でレビュー済み
21世紀、とうとう日本でも哲学が始まるんじゃないか?
翻訳ではない哲学なんて、日本では無理なんだと思っていた。
それに、西洋哲学が何を問題として、どんな風に展開してきたものなのか、
こんなにすっきりと分かった気にさせてくれるなんて、驚きだ。
竹田青嗣氏の著作は、ポストモダンと翻訳思想家?にドップリと浸かっていた
私のようなミーハーな人間の目を覚ましてくれる。
フーコー、さようなら。
ドゥルーズ、さようなら。
翻訳ではない哲学なんて、日本では無理なんだと思っていた。
それに、西洋哲学が何を問題として、どんな風に展開してきたものなのか、
こんなにすっきりと分かった気にさせてくれるなんて、驚きだ。
竹田青嗣氏の著作は、ポストモダンと翻訳思想家?にドップリと浸かっていた
私のようなミーハーな人間の目を覚ましてくれる。
フーコー、さようなら。
ドゥルーズ、さようなら。