中古品:
¥1 税込
配送料 ¥305 6月2日-4日にお届け
詳細を見る
コンディション: 中古商品: 良い
コメント: 【中古品】[発行年月日:2007年8月24日第5刷発行のものになります。]《帯有り。》中古商品のため若干の日焼けや傷、ページのスレ、折れ、汚れ・シミ、シールなどが貼付されている場合もございます。記載がない限り帯は付属しておりません。経年劣化のスレ・汚れなど状態を気にされる方はご購入をお控えください。【発送方法】日本郵便のゆうメール(※追跡機能なし※)またはクリックポストかレターパック(※追跡機能あり※)での発送となります。発送方法はお選びいただけません。発送日及び時間指定もできかねます。郵便局留めでの発送は可能です。(但し、ゆうメール発送規格を超える場合は、佐川宅配便にて発送となります。沖縄・離島については、レターパックやゆうパック等での発送となります。)商品を購入する場合、商品1点ごとに配送料がかかります。複数の商品をまとめて発送した場合も、商品1点ずつに配送料がかかりますので、あらかじめご了承ください。【休業日】土・日・祝『営業時間外のお問い合わせは翌営業日受付となります。』【お問い合わせ】Amazon経由のメールをご利用下さい。携帯電話スマートフォンをご利用の方や、メールが届かない方はアカウントサービスにある「出品者とEメール履歴を見る」からご連絡下さい。
Kindleアプリのロゴ画像

無料のKindleアプリをダウンロードして、スマートフォン、タブレット、またはコンピューターで今すぐKindle本を読むことができます。Kindleデバイスは必要ありません

ウェブ版Kindleなら、お使いのブラウザですぐにお読みいただけます。

携帯電話のカメラを使用する - 以下のコードをスキャンし、Kindleアプリをダウンロードしてください。

KindleアプリをダウンロードするためのQRコード

何か問題が発生しました。後で再度リクエストしてください。

アサッテの人 単行本 – 2007/7/21

3.6 5つ星のうち3.6 76個の評価

村上龍以来、約30年ぶりの快挙!
第50回群像新人賞、第137回芥川賞をダブル受賞した小説「アサッテの人」が刊行となりました。
群像新人賞では選考委員各氏が絶賛し、芥川賞では、小川洋子氏、川上弘美氏、黒井千次氏ほかの支持を得ての受賞となりました。
下記に各氏の選評を紹介します。

*一度読んで楽しむだけでなく、繰り返しめくれば、あちこちに新しい発見がある(中略)個々のエピソードが光っていて、音に身を寄せた精密な言葉送りに頭の中がからからと明るくなった。 <多和田葉子氏>

*文章や構成に緊張感がありとにかく面白く読める。 <藤野千夜氏>

*「アサッテ」的リズムが、なんともいえない滑稽さともの悲しさを醸し出している。 <堀江敏幸氏>

*ノンセンスの馬鹿馬鹿しさと高度に知的な設計とを破綻なく共存させた力業だ。 <松浦寿輝氏>

*きわめて意識的な言葉へのこだわりをもとに書かれている。そのこだわりには、一度身体ごとそれにもっていかれた人ならではの自然さがある。 <加藤典洋氏>


●本の内容
「ポンパ!」 突如失踪してしまった叔父が発する奇声!
アパートに残された、叔父の荷物を引き取りに行った主人公は、そこで叔父の残した日記を見つける。
現代において小説を書く試みとは何なのか? その創作の根源にある問いに、自身の言葉を武器に格闘し、練り上げられていく言葉の運動。精緻にはり巡らされた構造と、小説としての言葉の手触りを同居させた、著者の大胆な試み。
読書家としても知られる各氏をうならせた、驚異の才能のデビュー作!
続きを読む もっと少なく読む

商品の説明

著者について

諏訪 哲史
(すわ・てつし)。
1969年10月26日、名古屋市生まれ。國學院大学文学部哲学科卒業。名古屋市在住。

登録情報

  • 出版社 ‏ : ‎ 講談社 (2007/7/21)
  • 発売日 ‏ : ‎ 2007/7/21
  • 言語 ‏ : ‎ 日本語
  • 単行本 ‏ : ‎ 202ページ
  • ISBN-10 ‏ : ‎ 4062142147
  • ISBN-13 ‏ : ‎ 978-4062142144
  • カスタマーレビュー:
    3.6 5つ星のうち3.6 76個の評価

著者について

著者をフォローして、新作のアップデートや改善されたおすすめを入手してください。
諏訪 哲史
Brief content visible, double tap to read full content.
Full content visible, double tap to read brief content.

著者の本をもっと発見したり、よく似た著者を見つけたり、著者のブログを読んだりしましょう

カスタマーレビュー

星5つ中3.6つ
5つのうち3.6つ
76グローバルレーティング

この商品をレビュー

他のお客様にも意見を伝えましょう

上位レビュー、対象国: 日本

2016年5月15日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
 第137回芥川賞作品。人間の「実存」を「言葉の〈音〉と〈意味〉」に絡めて問うている。
 「私」は、失踪した叔父(明)の奇妙な言葉を発するふるまいの理由を掘り下げていきたい、
と考えている。例えば、「ポンパッ」「チリバッハ」「ホエミャウ」など。そして、叔父のこ
とを書こうとした「アサッテの人」の意味も追い求める。なぜ、叔父が奇妙な言葉を発し続け
るのか。「私」が読者に協力を求めながら資料を読み解き分析していこうとした作品である。
小説を編んでいく材料は、叔父をモデルにした小説原稿、個人的な記憶、叔父の日記、日記と
いうより手記などである。六年前に書いた原稿は、叔父の妻朋子さんの「家庭スケッチ・1、2
、3」が中心であり、結婚後の叔父の奇行が描写されている。「私」の描写は時系列ではないの
で、叔父の人生を「四期」に分類してみると理解しやすいし、様々な疑問もわいてくると思う。
 
 第一期は、「吃音時」、吃音に悩まされていた期間である。「叔父の一冊目の日記より(吃
音の思い出)(厭世思想の頃)(好きな言葉)」から抜粋されている。言語障害をもち「世界か
ら疎外されている」という意識、「ショウペンハウアー風な世界に囚われている」(自分の意志
で生きているように見せかけられているだけ)という意識を強くもっていた。「円環は巨大な弧
を描いて目の当たりに閉じられていた」という。「円環」とは言葉の連鎖もあるだろうが、生き
ることのエネルギーが発揮できない、という意味だろう。すなわち、存在感のない「一個のとる
に足りない矛盾の礫(つぶて)」だったのだろう。ただ、わたしと叔父は幼少の頃から祖父の読
経に興味をもっていた。「お経」は「音」であり、「宇宙原理」が内包され、「曼陀羅的な平面
世界」を感じていた。
 
 第二期は、「吃音消滅時」以降で結婚までの期間である。「叔父の一冊目の日記より(吃音の
消滅)(嫌いな言葉)(エルレの思い出)(名前について)(チューリップ男)」が対象であろ
う。吃音は大学時代二十歳で突然消滅した。原因は「赤いポスト」にあった。「なんの変哲もな
い郵便ポストが違って見えた」という件(くだり)は、サルトルの『嘔吐』を思い起こさせる。
主人公ロカンタンが、公園でマロニエの根を見て「実存」を感じ、「言葉の消失」を体験した箇
所である。叔父は、吃音が消滅し、「自分の生が澱みなく円環で保護され流れていくだろう」と
期待していた。しかし、正当な言語感覚が「異族の言葉」に思え、ある種の文法にほかならなか
った。言葉のつながりが「律」のように思え、その中に緊縛され閉じ込められるように感じたの
である。吃音は消えたが、言語活動の「狭隘な領域を無意識裡に選びながら流れて」いかざるを
得ない窮屈さを感じる。また、「嫌いな言葉」は、テレビから流れだす祝祭的な「凡庸きわまり
ない」言葉である。そして、八年前に見舞った親戚で社会学者の幸彦さんが発した言葉「エルレ
」。これは単に「音の集合」であり、彼の周りには「抜け殻と化した数々の言葉が塵」のように
舞っていた。モンゴル人の「名前について」は、深層意識からでると思える「音」の集合体に聞
こえる。「チューリップ男」の話は、叔父の職場での様子がうかがえる部分で、「アサッテ」を
具体的に表現している。平凡なサラリーマンが日常から翻り「エレベーター」という閉鎖空間で
自己を放出している。いわゆる「アサッテ」の方角に身をかわそうとしている。叔父はこの第二
期で、「言葉の消失」(吃音が消滅したことの反動)、凡庸な言葉への嫌悪、音に関わる言葉、
「アサッテ」について語っている。
 
 第三期は、叔父が朋子さんと結婚し、朋子さんのスケッチを私が聞き書きした。「第一稿より
(朋子の家庭スケッチ・1、2、3)」。朋子さんの視点で結婚生活における叔父の奇妙な言葉が
飛び出す情景が詳細に語られている。「ポンパッ」「チリバッハ」「ホエミャウ」など。また、
叔父の「習作詩(妻もの二種)」が掲載されている。「読者への息抜きとして掲載した」と「私」
は書いているが、読者には抽象的で理解に苦しむ内容であろう。朋子さんは夫の言葉を検証する
ため「言葉の発音、発声されるシツウェイション」を収集しようとするが、一元描写になり限界
があった。不思議なことに、この期は叔父の手記が見当たらない。結婚後四年、朋子さんが死ぬ
までの期間、手記が存在しなかった理由はなんだろうか。朋子さんがいうように「(アサッテ)
の言葉が彼の意思に関係なくやって来た」ので生の覚醒が順調で生の円環がまわっていたこと、
朋子さんが夫の「アサッテ」の良き理解者であったこと、人間存在を規定する《自己/他者》の相
互性によりアイデンティティが維持されていたこと、などが考えられるだろう。
 
 第四期は、朋子さんが死に(事故とあるが、おそらく自殺ではないか)、再び独身になり失踪
するまでの期間である。叔父の二冊目、三冊目の手記が登場する。日常の凡庸な「生活スケッチ
」や「光景」が描写される。例えば、児童公園での日常的な光景や、朋子さんの幻想を掻き立て
る豆腐屋の喇叭の音、駅からの帰り道風景など。これら「凡庸な」情景や心象を「自動機械のよ
うに定型化」し、「アサッテ」に変換していく隙間のないサイクルが、快楽であり生の覚醒のエ
ネルギー源であったが、その行為がストレスになり強迫観念になってくる。『嘔吐』のロカンタ
ンが公園を巡り「根」を探し回るようなものであろう。そして「この世界のすべてが、もう既に
書かれてしまったもので、できるのはそれを読むことだけだ」と言葉の消失を感じる。従って、
朋子さんの死後、存在感を見失った叔父は狂気に近づいていったのではなかろうか。

 「叔父の三冊目の日記より(鏡について)」は、二階部屋に貼られた朋子さんのピンアップと
ともに叔父の自己同一を思い返す「鏡像」ではなかったか。ソファに座り二人で姿を映し合った
鏡である。「追記」と「巻末付録」も「鏡像」の続きである。大きな便箋の裏に書かれた「朝の
日課」は、「ポンパッ」を唱え、絨毯の「ひし形とつるくさ」模様を交互に踏んでいく「行」で
はないか。絨毯は「宇宙原理の見取り図」であり「曼陀羅的な平面世界」でもあった。「紙片右
半分に文章」は、無意識のマグマから掬い上げる言葉になる前の言葉、まるで幼少期に聞き覚え
た「お経」のようである。縦横十六歩(横辺が短い理由は絨毯のひし形とつるくさの間隔が短い
ため?)の「ポンパッカポンパ・・・・」は鏡で朋子さんと「会話」をしていたのであろう。「猫足
さすり」で歩く絨毯の四辺は、大きな「円環」であり、朋子さんとすむ「彼方」の世界だろう。

 言葉には「音」と「意味」がある。例えば、「夏」という言葉。「意味」では、「初夏」「お
盆」「プール」「夏休み」などイメージの連鎖で言葉がつながる「意識」の世界である。「音」
ではどうか。「ナッツ」「ナットウ(納豆)」「ナットク(納得)」「ナツイン(捺印)」など
「無意識」の世界から浮かびあがる言葉で、互いに関係性はない。叔父が発した奇妙な言葉は、
意味の規制がない(規制を叔父は嫌ったかもしれない)自由な戯れから出てくるもので意識にの
ぼる前の言葉、無意識閾からの噴出だったのだろう。また、「アサッテ」の説明は随所に散見さ
れる。無意味な言葉の総称、非日常的な外の世界、転身本能など。
 
 読者を悩ませるのは、「吃音時」と「吃音消滅後」の論点の違いがよくわからないことである。
どちらの場合も、「言葉」に関する周辺で「疎外」されていること。自由に言葉が発声できるよ
うになったのになぜ言葉の行使に悩むのか、「円環」が順調にまわるはずなのになぜ悩むのか。
言葉の窮屈な「律」が、「吃音消滅後」強く自覚されてきたことなのか。「吃音時」は全くその
「律」を認識していなかったのだろうか。読者を戸惑わせる「作為」の賜物かもしれない。叔父
の言葉分析の不透明さは、「私」の「姑息な分析眼」と「その場その場で次元を後ずさりする客
観視の手管」が原因か、「私」(評者)の読解不足のせいなのか、おそらく後者であろう。

 「私」が書いているように、「全体は矛盾だらけ」で「草稿と日記をコラージュ」した本書が、
果たして完成品なのか、草稿なのか、と悩んでいる「著者」がいるのがせめてもの慰めである。

 
9人のお客様がこれが役に立ったと考えています
レポート
2018年2月25日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
物語は、ある種の奇声を上げる叔父について、の僕なりの考察、と言ったところか。
それを僕なりの考察と、叔父自身が綴った日記を痕跡に語られる。
ああだ、こうだ、と考察する物語だ。
とくべつ起承転結、なにか起こってどうなる、という一般的な物語ではない。

その文章は饒舌で、滑らか、読んでいても飽きさせない。
寧ろ私はこの文章のおかげでスラスラと読み進めていけた。

さて物語は、奇声を上げる叔父の謎がどこまで解明されるかだが、読み始めて早々にこの手の物語はミステリーとは違い、明らかな解答がないまま終わるだろうという私の予想は、当たっていた。
まあそれはどうでもいいことであり、この物語もまた、叔父とは何か、なぜ奇声を上げるのか、その奇声にはどんな意味があるのか、といったようなことを解明、説明する物語ではないということだ。
じゃあ何かと問われると、なかなか難しいところがある。
私もその点において、私は一体何を求めてこの物語を読んでいるのか、つくづく己に問いかけながら読んだ次第。

そして私はそれがわからないまま読み終わってしまった。
しかし決して読み進めることに苦労は感じない小説だった。
それはご多分に漏れず文章が素晴らしかったからだ。
私はこの本をきっかけに、彼の小説をもっと読んでみたいと思うようになった。
2人のお客様がこれが役に立ったと考えています
レポート
2023年5月23日に日本でレビュー済み
ネタバレを含みます。

 吃音という障害を持った叔父が、大人になった時、ある日急に治ってしまっている自分に気づいて喜ぶ反面戸惑う。

 言語で意思疎通する人間関係の枠に納得がいかなくて、叔父が開発したのがアサッテの世界、その言語。突如、ポンパ、とか、タポンテュー、とか、チリパッハ、とかいう意味を持たない言葉を家族の会話中にも、知人を招いたときにも出してしまう。

 これは、この気持ちは分かります。

 例えば冠婚葬祭の儀式のときには、決められた言葉だけで進行していく場面がある。そういう時、何の脈絡もない言葉を言ってみたくなる。漫画家の蛭子ヨシカズさんも、テレビ番組で同じ意味のことを言われていたことがありました。

 そして、この物語は、叔父の日記を本文に挟んで掲載していくことで成り立っている訳ですが(叔父の日記を作者が散文として読めるように改訂はしている)、吃音もなくなって、アサッテの世界を妻と愉しんでいた叔父でしたが、その妻が、病で亡くなってしまう。

 その後の叔父の日記の脈絡のなさ、それは、叔父の発狂しそうになる喪失感と虚脱感を表しているのだと思います。

 諏訪さん、なるほど、そう来たか、と思いました。(小説の手法として変わっていた)

 叔父は、現在は行方不明になっています。叔父の現在を明かにしないことが、悲劇性やリアリティーを与えるのだと思います。

 読み方不足で、ストーリーの説明に誤りがありました。

 主人公の叔父の妻が亡くなったのは、病気ではありません。確か、増水した川に呑まれて、だったと思われます。詳しくは、作品をお読みください。
2020年9月23日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
面白かった。と言うのはこの小説を読む体験を終え、既に別次元に戻ってきた後の私としての一言である。面白いという感覚がこの本を読む体験の中にあったことを意味するわけでは決してない。

まず、この本を読み進める中で最初に強く心が動いたのは「ポンパ」への共感である。そしてそれと同時にアサッテ的でない共感性という邪魔者を序盤から携えてこの本と向き合わねばならなくなったことへの失望である。これほどまでに日常で語り得ぬ、異常な希求の形態に共感できるという、客観的な喜びとともに、事実としてのその共感の内容がそれ自身を正に語り合おうとするそのときには手に取りようがない。そしてその高揚とともに私がこの本を放り出し「ポンパ」を探すために周囲を見計らっていることに気づく。
意識と無意識、絶対と相対、メタとメタが渦巻き見測り、逸脱する。その意識の経過の後には更にその上に座るより無い。いやそれさえも…。

はじまりのことは異常なまでの表現者なのだ。
そしてそのことに表現するという凡庸な作為が違反するのだ。
つまり、作為から逃れるという達成はその達成を覆い隠さねば成されない。
そしてこの小説自身を物語というよりもむしろ一種の行為のようなものとすることによって、何とか小説として表現するという事実が「アサッテの人」の本質に与える致命傷を何とか回避したのだ。いや、本当に回避したのかは分からない。そうであって欲しいと私は願う。

これは一般的な小説がそれを小説たらしめている要素と一切関係しない。
表現者があらゆる表現の不可能性を脱ぎ捨てた後の行為の一端なのだ。
繰り返すが物語を綴っているわけでは決してない。
本来ならばこの本を出版するということ自体に彼は抵抗があったに違いない。
本作はギリギリまでやったと思う。
これ以上やれば、「それ」は我々の目には決して届かない形態を取るだろう。

(追記)
私の感想は「アサッテの人」の渦の一巻き分を切り取ったような表面的な説明であり、説明という形態がそもそも克服しようのない「行為」としての側面がこの本を可能たらしめていることを記しておく。
4人のお客様がこれが役に立ったと考えています
レポート
2021年5月6日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
吃音への悩みは理解できますし、言葉への感覚というのは面白かったのですが、
繰り返し語られる世の中の輪郭と浮いた自分の対比やら、
ショウペンハウワーやらの哲学者の引用も、型通りすぎて残念。

要は悩みや思考の構造が説明されすぎてしまっていて、展開がない。

個人的には小説としてはあまり評価できるものではありませんでした。
散文的物語。
5人のお客様がこれが役に立ったと考えています
レポート
2014年2月23日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
非常に斬新な小説であった。自らの叔父の哲学的奇行を、小説で表そうとする主人公の物語。
途中で完全についていけなくなってしまい、流すように読んだが、小説の内容というより手段として小説を選んだアートのような作品であった。
5人のお客様がこれが役に立ったと考えています
レポート
2018年8月10日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
 芥川賞受賞作ということで、読書感想文のネタにでもしようと思って読むのは間違い。きっと面食らう。
 2007年という時代の『群像』新人賞受賞作として読むと、納得する。エッジの効いた、文学エリート向けの、現代アートのような説明不足さで、読む者の人生経験や想像力・理解しようとする意思を要求するのが本作だ。
 エンタメ小説と思って読んではいけない。読むには覚悟がいります、いい意味で。著者は間違いなく天才。村上龍以来のダブル受賞というだけある。天才のつむぎだした作品を鑑賞するには、文学的経験値がある程度ないと難しいと思うのです。
 暇を持て余した文学青年気取りの大学生が、カフェの窓際や夏の図書館で読むのがふさわしい。私がそうだったように。
6人のお客様がこれが役に立ったと考えています
レポート
2007年7月27日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
「ポンパ」と叫ぶ失踪してしまった叔父。
しかし、「ポンパ」だけではなく、
他にも奇妙な言葉を口にする叔父の失踪を
小説にしようと試みる主人公。
しかし、なかなかうまくいかない、その様を
文章化したような感じ。

実話?フィクション?ドキュメンタリー?
虚像とリアルが一緒くたになった、そんな感じがする作品でした。
しかし、彼がこの作品で
何を言わんとしていたのか、
凡人の僕には到底理解できないところなのです。
4人のお客様がこれが役に立ったと考えています
レポート