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水死 (100周年書き下ろし) 単行本 – 2009/12/15
大江 健三郎
(著)
「父」の死の真相と自らの暗部に迫る話題作
母が保管していたトランクを開ける時がきた。そこには父の秘密が隠されている-。父の死の真相とは?小説家の精神の暗い源流とは?そして予想を覆す最終章!
【講談社100周年書き下ろし作品】
母が保管していたトランクを開ける時がきた。そこには父の秘密が隠されている-。父の死の真相とは?小説家の精神の暗い源流とは?そして予想を覆す最終章!
【講談社100周年書き下ろし作品】
- ISBN-104062154609
- ISBN-13978-4062154604
- 出版社講談社
- 発売日2009/12/15
- 言語日本語
- 寸法14 x 2.5 x 19.5 cm
- 本の長さ435ページ
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登録情報
- 出版社 : 講談社 (2009/12/15)
- 発売日 : 2009/12/15
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 435ページ
- ISBN-10 : 4062154609
- ISBN-13 : 978-4062154604
- 寸法 : 14 x 2.5 x 19.5 cm
- Amazon 売れ筋ランキング: - 380,280位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 9,084位日本文学
- カスタマーレビュー:
著者について
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1935年愛媛県生まれ。東京大学仏文科卒。大学在学中の58年、「飼育」で芥川賞受賞。以降、現在まで常に現代文学をリードし続け、『万延元年のフット ボール』(谷崎潤一郎賞)、『洪水はわが魂に及び』(野間文芸賞)、『「雨の木」を聴く女たち』(読売文学賞)、『新しい人よ眼ざめよ』(大佛次郎賞)な ど数多くの賞を受賞、94年にノーベル文学賞を受賞(「BOOK著者紹介情報」より:本データは『 「伝える言葉」プラス (ISBN-13: 978-4022616708 )』が刊行された当時に掲載されていたものです)
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2010年3月27日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
まず、ちゃんと理解したつもりで読んだということを断っておく。内容(ストーリ)そのものは決して難しいものではない日常の物語。しかし、その作者の周辺もしくはご自身の話として書かれてあるもので、大江先生は果たして何を読者に伝えようとしたのか?前半の内容ではなかなか浮き彫りになっていないと思ったが、後半に近づくに連れどんどんみえてくる。「明治の精神」、「平成の精神」に対する作者の考えと、お父さんの死の意味、国家とレイプされる少女、全体を通して伝えようとするテーマは私のような普通の読者には難しいが、先並べた個々の素材がこの小説でどうして出てくるのかを大江先生が一生書いてこられたある一貫的な小説の流れで読み取ることができる。実は日本という国はこうなんだという、日本が近代国家になっていく歴史から始まっていく大江先生の省察と警鐘は、家族と祖先がいる日本を愛するからこそ恐らく大江先生が感じられてこられた生涯の問題意識はこの作品でわかりやすく現れていた。因みに私は日本国籍ではないが、この作品こそ海外に発信すべき価値のある日本の文学作品だと思う。世界で共有できますよ大江先生。
2011年4月18日に日本でレビュー済み
作者のこれまでの作と比べれば読みやすくはある。だがそれでいて、なにか平らすぎてとっかかりがない分だけいろんな解釈を生みそうな作品だ。
大江氏の作品の面白いところは、他の日本の小説に比べると、思い入れがしにくいというか、読者のイメージを砕いてしまうようなところなのか。あるいは抽象的というか。「今ここ」でない、遠く離れた世界でも似たような語りがあるのではないかと思わせる。
もっとも、偏屈な面もたしかにあると思うが。
感想はいろいろだが、三島由紀夫よりは大江健三郎の方が好みだ。
大江氏の作品の面白いところは、他の日本の小説に比べると、思い入れがしにくいというか、読者のイメージを砕いてしまうようなところなのか。あるいは抽象的というか。「今ここ」でない、遠く離れた世界でも似たような語りがあるのではないかと思わせる。
もっとも、偏屈な面もたしかにあると思うが。
感想はいろいろだが、三島由紀夫よりは大江健三郎の方が好みだ。
2010年1月5日に日本でレビュー済み
「水死小説」という小説が書けない『水死』という小説、父親関係の資料が詰まっていなかった「赤革のトランク」、漱石の『こころ』の「明治の精神」、あるいは自分の体現してきた「戦後の精神」・・・・・・。
あんがい息子との関係に危機もあるし、周囲の動勢にいちいち動じてもいる(かなり正直に書いているのではないか)。たぶんいろんな人がいろいろなことを書くだろう。
だけどぼくが読んでみたいのは、ときどき垣間見える鮮烈なイメージ。
死にゆく父親の短艇に乗っていった自分の分身。かつて子供のとき川でイワナを見たが、あのとき死んでいたらイワナになって、大人になっている自分を見つめるだろう。自分の分身(の魂?)が空を昇っていって森に戻ってくる・・・・・・。
神話ともつかないこういうイメージが、オーケンの「晩年の仕事」を動かしている、たいせつな部分なんじゃないだろうか。
こんどは「木」が三つの「森」と、「水」が三つの「(びょう)」(漢字が出ない)とで、「水」のイメージも広がっていく。
たったいま気付いたが本の装丁そのものが、「赤革のトランク」になっているのもナイスだ。
かなり堪能した!
追記:
司馬遼太郎は『坂の上の雲』『竜馬がゆく』で、功成り名遂げた四国の偉人たちを描いた。
大江が描くのは同じ四国でも、農民一揆・元気な女性たちの、ありえたかもしれない、もうひとつの歴史。
だとすると大江をアンチ司馬として読めることに気がついた。
あんがい息子との関係に危機もあるし、周囲の動勢にいちいち動じてもいる(かなり正直に書いているのではないか)。たぶんいろんな人がいろいろなことを書くだろう。
だけどぼくが読んでみたいのは、ときどき垣間見える鮮烈なイメージ。
死にゆく父親の短艇に乗っていった自分の分身。かつて子供のとき川でイワナを見たが、あのとき死んでいたらイワナになって、大人になっている自分を見つめるだろう。自分の分身(の魂?)が空を昇っていって森に戻ってくる・・・・・・。
神話ともつかないこういうイメージが、オーケンの「晩年の仕事」を動かしている、たいせつな部分なんじゃないだろうか。
こんどは「木」が三つの「森」と、「水」が三つの「(びょう)」(漢字が出ない)とで、「水」のイメージも広がっていく。
たったいま気付いたが本の装丁そのものが、「赤革のトランク」になっているのもナイスだ。
かなり堪能した!
追記:
司馬遼太郎は『坂の上の雲』『竜馬がゆく』で、功成り名遂げた四国の偉人たちを描いた。
大江が描くのは同じ四国でも、農民一揆・元気な女性たちの、ありえたかもしれない、もうひとつの歴史。
だとすると大江をアンチ司馬として読めることに気がついた。
2023年2月1日に日本でレビュー済み
夏目漱石先生が、こころというタイトルに結構悩んで心にしたと。そうかもしれない、性別抜きにして、時折自分の姿を見る他人の目が、私にはこころだか、相手はきっと心で見てるんだと思う時がある。嫉妬心と性的欲望、あわよくば油断するとめんどくさい暴力になるような。この本の主人公はある意味、何とか生き延びるためにた私が殺した、水死した私なのであり、人間のもってる暴力性に無頓着で純粋なまま生きてる、それがどんな結果を生んでも、生きていけるこの主人公はいつもどこか、死と隣合わせなのだろうと思う。ものすごく私的な感想だけど。この年までなんとか生き延びて、逃げ切れてよかったとは思えないけど、水死したもうひとりの私に弔いの気持ちを込めて。おやすみなさい。また、あちらに戻る日まで。
2010年5月26日に日本でレビュー済み
より具象の森へわけいる大江健三郎の小説は
眩暈とも目まぐるしいとも実に圧巻であった。
眩暈とも目まぐるしいとも実に圧巻であった。
2011年8月1日に日本でレビュー済み
例の「超私小説」の手法で、あらゆるぺーじにおいてあらゆる登場人物はあらゆる発言をもって主人公=「分身かされた大江健三郎」にかんしてしか関心をもっていないみたい。つまり「大江健三郎」とかかる小説しか存在しないような世界があいかわらず描かれているのは(いかに欺瞞的なエゴ露出であろうと)まだいいが、いままでエッセイにだけあって小説には(すくなくともそのままの形で)露出してなかった例の政治的言説が、今度の作品をしかも異常に露骨なやり方で満たしているのに反吐がでるほど失望した。
(自分としてはほぼ同じ政治的立場でいるつもりであろうとも)
ご自分の極端なまでに単純化された政治的ヴィジョンを(自己)主張するために、氏はもはや手段を選ばないということか。
(漫画的な)政治的悪党どもを打ち負かすためにそれらの強姦の《被害者》までを平気に動員して、かかる「モラール」とは、「男は強姦する、国家は強姦する」、と。
氏の60年間通して主張して来た政治思想はつまり、この程度のものか。
これほどやすっぽいかつ逆効果的な隠喩にこそ反吐がでる。
「私は民主主義者です」と最後まで「言い張る」ためにだけこの稚拙な政治劇を書いた作者へ、
ちがう、「君は、馬鹿だ」としか答えようがない。
(自分としてはほぼ同じ政治的立場でいるつもりであろうとも)
ご自分の極端なまでに単純化された政治的ヴィジョンを(自己)主張するために、氏はもはや手段を選ばないということか。
(漫画的な)政治的悪党どもを打ち負かすためにそれらの強姦の《被害者》までを平気に動員して、かかる「モラール」とは、「男は強姦する、国家は強姦する」、と。
氏の60年間通して主張して来た政治思想はつまり、この程度のものか。
これほどやすっぽいかつ逆効果的な隠喩にこそ反吐がでる。
「私は民主主義者です」と最後まで「言い張る」ためにだけこの稚拙な政治劇を書いた作者へ、
ちがう、「君は、馬鹿だ」としか答えようがない。
2012年4月4日に日本でレビュー済み
「『赤革のトランク』の材料で『水死小説』の続きを書けるかもしれない」――
母の死から10年、「『赤革のトランク』を兄さんに渡す約束の年」、小説家・長江古義人は
自身の「晩年の仕事」と位置づける「水死小説」に挑むべく、郷里の「森の家」を訪ねる。
「水死小説」、すなわち「戦争にこの国が敗れる夏の、森に嵐が吹き荒れて川が増水した、
ついには洪水になった夜に、……短艇で乗り出して水死してしまった」父をめぐる最後の記憶。
その舞台化を企てる劇団「穴居人the cave man」とともに、その構想を固めるべく、
長江はひたすらに彼らとの共同生活と対話に臨むこととなる。
「水死小説」ってつまり天皇制と戦争責任をめぐる寓意でしょ? なんて読者のツッコミを
待つまでもなく、あまつさえ「日本軍中枢を相手にした叛乱の一味どころか、自分の計画が
恐くなって逃げ出した田舎オヤジですよ」とまで宣う傍ら、「自分もついて来て舵をとれと
いわれたのにノロノロして」結果として生き延びた自己批判も籠めてみせる。
とりわけ前半は、インタヴューを主軸に、過去作を振り返るとの構成を取っているため、
物語の組み立て方なども含めて、ある面では大江健三郎の簡潔な自作解説としての性質を
もった作品となっている。
天皇と国民、父と古義人、古義人と息子――そんな幾重にも織り込まれたパターナリズム
表現が巧みに構成されていることは明らか。
その上で、私が生理的に合わなかったのは、『 食堂かたつむり 』的な無菌空間として
作品世界が貫かれてしまっている点。思想的に相容れない人々が、もはやご都合主義とすら
呼べないほどに、支離滅裂で悪質なキャラクターとしてのみ描き出され、実のところ、
向き合うべき他者を欠いたセカイ、向き合うにも値しない他者を外に置いたセカイとしてしか
全体が機能していない。
無論、知的障害を抱えた息子・アカリという絶対的な他者といかにして交わるか、というのが
主題のひとつでもあるわけだが、思わず口走ったたかが「きみは、バカだ」程度の一言が、
両者の決裂の契機となってしまうような親子関係に何らのリアリティをも見出せないのは、
私のこころが荒んでいるからなのだろうか。
私には民主主義の比喩としか見えない「死んだ犬を投げる」芝居というギミックが終始、
肯定的に語られる点も疑問。
論理は絶えず数の前に敗れ去る。無名、無数の思考を欠いた群衆による祝祭空間としての
この世界を見事に告発してみせた世紀の傑作『 万延元年のフットボール 』の作者が、
大衆の暴力性の発露としての「死んだ犬を投げる」行為を賛美してしまうのか、と
私としてはただただ愕然とさせられるばかり。
クライマックスにしてもフィクショナルに過ぎて、まるで完結していないとの
印象が否めない。
大江自身の手による小説の形を借りた創作ノートとして読めば、かなりの収穫が
期待できるだろう一冊。
ただし、歴史的名小説家の「晩年の仕事late work」としては、氏へのリスペクトが
あればこそ、残念と評する他ない出来。
母の死から10年、「『赤革のトランク』を兄さんに渡す約束の年」、小説家・長江古義人は
自身の「晩年の仕事」と位置づける「水死小説」に挑むべく、郷里の「森の家」を訪ねる。
「水死小説」、すなわち「戦争にこの国が敗れる夏の、森に嵐が吹き荒れて川が増水した、
ついには洪水になった夜に、……短艇で乗り出して水死してしまった」父をめぐる最後の記憶。
その舞台化を企てる劇団「穴居人the cave man」とともに、その構想を固めるべく、
長江はひたすらに彼らとの共同生活と対話に臨むこととなる。
「水死小説」ってつまり天皇制と戦争責任をめぐる寓意でしょ? なんて読者のツッコミを
待つまでもなく、あまつさえ「日本軍中枢を相手にした叛乱の一味どころか、自分の計画が
恐くなって逃げ出した田舎オヤジですよ」とまで宣う傍ら、「自分もついて来て舵をとれと
いわれたのにノロノロして」結果として生き延びた自己批判も籠めてみせる。
とりわけ前半は、インタヴューを主軸に、過去作を振り返るとの構成を取っているため、
物語の組み立て方なども含めて、ある面では大江健三郎の簡潔な自作解説としての性質を
もった作品となっている。
天皇と国民、父と古義人、古義人と息子――そんな幾重にも織り込まれたパターナリズム
表現が巧みに構成されていることは明らか。
その上で、私が生理的に合わなかったのは、『 食堂かたつむり 』的な無菌空間として
作品世界が貫かれてしまっている点。思想的に相容れない人々が、もはやご都合主義とすら
呼べないほどに、支離滅裂で悪質なキャラクターとしてのみ描き出され、実のところ、
向き合うべき他者を欠いたセカイ、向き合うにも値しない他者を外に置いたセカイとしてしか
全体が機能していない。
無論、知的障害を抱えた息子・アカリという絶対的な他者といかにして交わるか、というのが
主題のひとつでもあるわけだが、思わず口走ったたかが「きみは、バカだ」程度の一言が、
両者の決裂の契機となってしまうような親子関係に何らのリアリティをも見出せないのは、
私のこころが荒んでいるからなのだろうか。
私には民主主義の比喩としか見えない「死んだ犬を投げる」芝居というギミックが終始、
肯定的に語られる点も疑問。
論理は絶えず数の前に敗れ去る。無名、無数の思考を欠いた群衆による祝祭空間としての
この世界を見事に告発してみせた世紀の傑作『 万延元年のフットボール 』の作者が、
大衆の暴力性の発露としての「死んだ犬を投げる」行為を賛美してしまうのか、と
私としてはただただ愕然とさせられるばかり。
クライマックスにしてもフィクショナルに過ぎて、まるで完結していないとの
印象が否めない。
大江自身の手による小説の形を借りた創作ノートとして読めば、かなりの収穫が
期待できるだろう一冊。
ただし、歴史的名小説家の「晩年の仕事late work」としては、氏へのリスペクトが
あればこそ、残念と評する他ない出来。
2010年5月9日に日本でレビュー済み
近年の流行作家ばかりでなく、本格的な、日本を代表する作家の作品を読んでみよう!と意気込んで、初の大江健三郎さんでした。
が、正直とてもとても難しかったです。結果から言えば、読み解けなかったです。そして読み疲れてしまいました。
完敗です。←我ながら意味不明…。
そこに並べられている言葉は日本語で、難解な語彙も特にない。文章の意味もわかる。登場人物もわかる。起きている出来事もわかる。
それなのに自分の中でうまく繋がらなくて、それでも読み進んでゆく物語に巻き込まれ、最後の強烈な結末。
もつれた糸が最後までほどけなかった感じです。
が、正直とてもとても難しかったです。結果から言えば、読み解けなかったです。そして読み疲れてしまいました。
完敗です。←我ながら意味不明…。
そこに並べられている言葉は日本語で、難解な語彙も特にない。文章の意味もわかる。登場人物もわかる。起きている出来事もわかる。
それなのに自分の中でうまく繋がらなくて、それでも読み進んでゆく物語に巻き込まれ、最後の強烈な結末。
もつれた糸が最後までほどけなかった感じです。