以前単行本を読んで、面白かったので読み返したくなり、文庫本で注文しました。
以前読んで印象深かったところはやはり面白かったです。以前もそうでしたが、最初から順を追って読むというより、パラパラっと開いて、興味が引かれたところを読んでいます。大好きな漫画の「鉄コン筋クリート」への評はとてもうれしかったですね。
再び読みたかった本が読めて嬉しいですね。
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マンガは哲学する (講談社+アルファ文庫 F 42-1) 文庫 – 2004/8/1
永井 均
(著)
名作マンガを哲学する!!人間を鋭く考察!
名作マンガ、45の作品を題材に、面白い哲学の第一人者が解説する会心作!!マンガの大狂気に「魂」を感じる!
私がマンガに求めるもの、それはある種の狂気である。現実を支配している約束事をまったく無視しているのに、内部にリアリティと整合性を保ち、それゆえこの現実を包み込んで、むしろその狂気こそがほんとうの現実ではないかと思わせる力があるような大狂気。そういう大狂気がなくては、私は生きていけない。その狂気がそのままその作者の現実なのだと感じたとき、私は魂の交流を感じる。それゆえ、私がマンガに求めているものは、哲学なのである。——(本文より)
名作マンガ、45の作品を題材に、面白い哲学の第一人者が解説する会心作!!マンガの大狂気に「魂」を感じる!
私がマンガに求めるもの、それはある種の狂気である。現実を支配している約束事をまったく無視しているのに、内部にリアリティと整合性を保ち、それゆえこの現実を包み込んで、むしろその狂気こそがほんとうの現実ではないかと思わせる力があるような大狂気。そういう大狂気がなくては、私は生きていけない。その狂気がそのままその作者の現実なのだと感じたとき、私は魂の交流を感じる。それゆえ、私がマンガに求めているものは、哲学なのである。——(本文より)
- 本の長さ257ページ
- 言語日本語
- 出版社講談社
- 発売日2004/8/1
- ISBN-104062568721
- ISBN-13978-4062568722
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登録情報
- 出版社 : 講談社 (2004/8/1)
- 発売日 : 2004/8/1
- 言語 : 日本語
- 文庫 : 257ページ
- ISBN-10 : 4062568721
- ISBN-13 : 978-4062568722
- Amazon 売れ筋ランキング: - 1,388,548位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 1,608位コミック・アニメ研究
- - 1,760位講談社+α文庫
- - 1,926位講談社漫画文庫
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2021年9月27日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
2014年9月15日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
講義の教科書として購入したが、文章が面白く書かれており読んでいて楽しかった。たまに筆者の考えがわけがわからなかったが、まあそれはそれでいいとおもった。
2017年5月13日に日本でレビュー済み
これまで永井氏の著書は『〈子ども〉のための哲学』→『ウィトゲンシュタイン入門』→『〈私〉の存在の比類なさ』→『翔太と猫のインサイトの夏休み』→『今・私・そして神』→『〈私〉のメタフィジックス』→『哲おじさんと学くん』→『哲学の密かな闘い』と読んできたが、初期の〈私〉や〈子ども〉など〈 〉、中期以降の「神」や「第~次内包」というジャーゴンの使用に閉口し、その問題提起の鋭さや根源性は評価しながらも、ウィトゲンシュタイン風の思わせぶりな記述スタイルや、反論や疑問に対し「なぜか理解できない人達がいる」とバカ扱いするような閉鎖性には賛同しかねていた。
そこで永井哲学前期から中期への転機になったと自らが評する本書。元々、小学生の時は一時期自分でも漫画家を目指した程であったが、最近はあまり漫画も読んで居なかったので、取り上げられている作品のうち既読のものは『漂流教室』『わたしは真吾』『自虐の詩』「無能の人」『天才バカボン』『リュウの道』『デビルマン』で全体の5分の1位で、タイトルすら知らないマンガも多く、正直あまり期待せずに読み始めたら、なんとなんと、漫画のコマの引用と永井氏によるストーリー説明が巧みで、読んでいないマンガでも十分その哲学的要点は把握できたと感じ、非常に楽しい読書となった。何より良かったのは、『自虐の詩』を「手放しでは賞賛できない」、『リュウの道』を「思想的にはつまらない」、「『寄生獣』には『デビルマン』には欠けている何かが確実にある」とマイナス評価が述べてあり、その理由も頷けるものであった事だ。
マンガ愛好家より哲学(的思考)愛好家向けの本である。
そこで永井哲学前期から中期への転機になったと自らが評する本書。元々、小学生の時は一時期自分でも漫画家を目指した程であったが、最近はあまり漫画も読んで居なかったので、取り上げられている作品のうち既読のものは『漂流教室』『わたしは真吾』『自虐の詩』「無能の人」『天才バカボン』『リュウの道』『デビルマン』で全体の5分の1位で、タイトルすら知らないマンガも多く、正直あまり期待せずに読み始めたら、なんとなんと、漫画のコマの引用と永井氏によるストーリー説明が巧みで、読んでいないマンガでも十分その哲学的要点は把握できたと感じ、非常に楽しい読書となった。何より良かったのは、『自虐の詩』を「手放しでは賞賛できない」、『リュウの道』を「思想的にはつまらない」、「『寄生獣』には『デビルマン』には欠けている何かが確実にある」とマイナス評価が述べてあり、その理由も頷けるものであった事だ。
マンガ愛好家より哲学(的思考)愛好家向けの本である。
2010年5月22日に日本でレビュー済み
この本の目的を、著者はこう記す。
この本は二兎を追っている。マンガ愛好者には、マンガによる哲
学入門書として役立つと同時に、哲学愛好者には、哲学によるマ
ンガ入門書に役立つ、という二兎である。マンガ好きの方々には
君たちはそれとは知らずにじつは哲学に興味を持っていたのだよ
とぜひとも言ってみたかったし、哲学好きの方々には、その問題
ははるかにポピュラーな形でもうマンガに表現されているのだよ
と言ってみたかった。(P3)
私は、前者の側として読んだ。読んだことのある「伝染るんです。」
「ソムリエ」「クマのプー太郎」「ブラックジャック」「カイジ」等
が題材として、とりあげられていたからだ。
結果として、自分に馴染みのあるマンガから引き出された哲学は、そ
れでもなんとか理解ができた。しかし、読んだことのないマンガにつ
いては簡単ではない。やはり後者の側の人のための本のような気がし
た。私向きではないという個人的な理由で★3つ。
この本は二兎を追っている。マンガ愛好者には、マンガによる哲
学入門書として役立つと同時に、哲学愛好者には、哲学によるマ
ンガ入門書に役立つ、という二兎である。マンガ好きの方々には
君たちはそれとは知らずにじつは哲学に興味を持っていたのだよ
とぜひとも言ってみたかったし、哲学好きの方々には、その問題
ははるかにポピュラーな形でもうマンガに表現されているのだよ
と言ってみたかった。(P3)
私は、前者の側として読んだ。読んだことのある「伝染るんです。」
「ソムリエ」「クマのプー太郎」「ブラックジャック」「カイジ」等
が題材として、とりあげられていたからだ。
結果として、自分に馴染みのあるマンガから引き出された哲学は、そ
れでもなんとか理解ができた。しかし、読んだことのないマンガにつ
いては簡単ではない。やはり後者の側の人のための本のような気がし
た。私向きではないという個人的な理由で★3つ。
2009年5月7日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
これほど楽しい哲学入門書はない。
数あるマンガ作品の中から哲学的なテーマを扱っていると思われるものをピックアップし、哲学者永井均がその解説をしてくれる。対象となるのは藤子・F・不二雄から吉田戦車まで多種多彩であり、若い読者には少々古く思われるのかも知れないが、いずれもスタンダードな作品ばかりである。それぞれの作品のコマが引用されているので、未読でもその雰囲気を感じることができるし、マンガの入門書(ガイドブック)として読むことももちろん可能である。
マンガは小説などよりも哲学的であるという永井の見解には全く同感であるし、その理由として「マンガは子どもが読むもの」という社会通念が破天荒な発想を許しているのではないかという指摘にもうなずける。しかし本書の発売当時(オリジナルは講談社SOPHIA BOOKS)一番驚いたのは、アカデミズムの世界で生きている哲学者永井がこのような本を出したという事実であった。破天荒な哲学者永井らしいと言ってしまえばそれまでだが、大学教授がこのような本を出すのにはかなりの勇気と決断が要ったはずである。読者サイドとしても、買うのに躊躇したおカタい哲学ファンも中にはいたのではないだろうか。
そういった意味でも今回の岩波現代文庫への移籍には価値がある。あのおカタい岩波書店でさえも一見ユルそうに見える本書の哲学的意義を認めざるを得なかったのだろうと思うと痛快である。最近岩波書店からの発売が多いようであるが、願わくば自由奔放な永井哲学が岩波書店というよくもあしくも硬派な鎧を着せられて縮こまらないことを。
数あるマンガ作品の中から哲学的なテーマを扱っていると思われるものをピックアップし、哲学者永井均がその解説をしてくれる。対象となるのは藤子・F・不二雄から吉田戦車まで多種多彩であり、若い読者には少々古く思われるのかも知れないが、いずれもスタンダードな作品ばかりである。それぞれの作品のコマが引用されているので、未読でもその雰囲気を感じることができるし、マンガの入門書(ガイドブック)として読むことももちろん可能である。
マンガは小説などよりも哲学的であるという永井の見解には全く同感であるし、その理由として「マンガは子どもが読むもの」という社会通念が破天荒な発想を許しているのではないかという指摘にもうなずける。しかし本書の発売当時(オリジナルは講談社SOPHIA BOOKS)一番驚いたのは、アカデミズムの世界で生きている哲学者永井がこのような本を出したという事実であった。破天荒な哲学者永井らしいと言ってしまえばそれまでだが、大学教授がこのような本を出すのにはかなりの勇気と決断が要ったはずである。読者サイドとしても、買うのに躊躇したおカタい哲学ファンも中にはいたのではないだろうか。
そういった意味でも今回の岩波現代文庫への移籍には価値がある。あのおカタい岩波書店でさえも一見ユルそうに見える本書の哲学的意義を認めざるを得なかったのだろうと思うと痛快である。最近岩波書店からの発売が多いようであるが、願わくば自由奔放な永井哲学が岩波書店というよくもあしくも硬派な鎧を着せられて縮こまらないことを。
2014年10月26日に日本でレビュー済み
はじめに言っておきたいが、私は哲学というものに何の有用性も感じないし、もちろんこの作者のファンでもありません。しかし本書はSFマンガガイド、及びSFマンガ読み方指南書としては極めて濃厚かつ質の高いものになっています。
倫理的正しさとは?論理的正しさとは?どこまでが自己でどこからが他人か?生きる意味とは何か?といった疑問を読者に問いかけるマンガが多く紹介されています。SFだけでなく、一見してただのギャグマンガや日常マンガにも哲学的メッセージが深読みできることが興味深いです。
以下に特に印象に残ったマンガを列挙します。これによって本書の傾向がわかると思います。
藤子・F・不二雄「気楽に殺ろうよ」「流血鬼」「サンプルAとB」「ドラえもん」
手塚治虫「火の鳥」
吉田戦車「伝染るんです。」
諸星大二郎「感情のある風景」「夢みる機械」「子供の遊び」
萩尾望都「半神」
高橋葉介「夢」
佐々木淳子「赤い壁」「Who!」「リディアの住む時に」
楳図かずお「洗礼」
業田良家「自虐の詩」
岩明均「寄生獣」
星野之宣「スターダストメモリーズ」
倫理的正しさとは?論理的正しさとは?どこまでが自己でどこからが他人か?生きる意味とは何か?といった疑問を読者に問いかけるマンガが多く紹介されています。SFだけでなく、一見してただのギャグマンガや日常マンガにも哲学的メッセージが深読みできることが興味深いです。
以下に特に印象に残ったマンガを列挙します。これによって本書の傾向がわかると思います。
藤子・F・不二雄「気楽に殺ろうよ」「流血鬼」「サンプルAとB」「ドラえもん」
手塚治虫「火の鳥」
吉田戦車「伝染るんです。」
諸星大二郎「感情のある風景」「夢みる機械」「子供の遊び」
萩尾望都「半神」
高橋葉介「夢」
佐々木淳子「赤い壁」「Who!」「リディアの住む時に」
楳図かずお「洗礼」
業田良家「自虐の詩」
岩明均「寄生獣」
星野之宣「スターダストメモリーズ」
2018年3月11日に日本でレビュー済み
下手に哲学史などを読むと哲学ではなく思想にハマって何も問えなくなることがあるので、この本の様に純粋に問いを考察した後にこんなことを考えた人も過去に居た程度で紹介する本の方が哲学の入門書に向いているかもしれない。
2014年11月15日に日本でレビュー済み
2004年の本。著者は哲学者であるが、本書によって「飛躍した」と述べている。さまざまなマンガに表されている哲学的問題を解説しつつ、マンガも紹介する、という内容である。永井さんは吉田戦車の哲学的感度を「ウィトゲンシュタイン級」と絶賛している。
曰く・・・
セワシくんは、のび太の悪い運命を変えるためにドラえもんを派遣する。しかし、ドラえもんが使命を果たすと、ドラえもんを送り込む理由が消滅する。ドラえもんとは、いま自分がそこに存在している原因とその存在理由そのものを消し去るために存在しているという不思議な存在。ただし、ドラえもんはまったく能天気でのび太ほどの思索力もないので実存の不安に悩んだりしない。ドラえもんはもしかしたら不可能な存在なのかもしれない。ドラえもんの世界は、ドラえもんの援助を受けるのび太と受けないのび太、借金で首がまわらないセワシくんと借金のないセワシくんという矛盾がある。この解決方法は、ドラえもんの実在を否定する(たとえば、のび太の夢にすぎなかった)、借金で首がまわらないセワシくんの実在を否定する。あるいは、ドラえもんが活動した結果、すでに存在していた過去が全面的に変化してしまう、のいずれか。しかし、過去が「変わる」とは、変わる前の過去があったことが前提されており、となるとそれはあったということになり、となると我々は「過去を変える」という意味を本質的に理解できない。大借金をかかえるセワシくんがドラえもんの大活躍で大成功するご先祖(のび太)の記録や記憶をいまから捏造してみたところで、自分の境遇を変えることもできない。過去を変えるとは、現在において過去を証拠だてるものすべてを変えることになるが、現に大借金を抱えていることも過去を証拠立てるもののひとつだということになる。最後の可能性は大借金のセワシくんと借金のないセワシくんに別世界に枝分かれしたというものだが、そうなるとセワシくんは二人になり、貧乏だったもとのセワシくんの境遇は変わらない。
過去や未来の自分は一種の他人でる。将来の自分のためにいまの自分の利益を犠牲にするのは一種の利他主義ではないか。長期的な利己的配慮は、それを要求する(未来の)自分が他者としていまここに実在してしまえばもうすでに利他主義であり、道徳に転化する。真の利己主義は利「今」主義を含むはず。己は今を含む。しかし、完璧に利今主義的な利己主義者は少ない。なぜか、多少とも、将来の自分のためにいまの自分を犠牲にする。なぜだかわからないが、もし、すべての人が利今主義的な利己主義者だったら、道徳や法律は機能しなくなるにちがいない。道徳や法律は要するに他人の利害を将来の自分の利害に換算するシステムなのではないか。他人に害を与えれば、それが将来の自分に害を与えることになるようにつくられた社会システムなのだろう。道徳は、そんなことをすると結局は(将来の)自分のためにならないと説教し、法律は未来の当人を処罰する。
芸術の鑑賞とは、他者の狂気に触れる喜びなのではないか。
禅のもつ力の源は憎悪(ルサンチマン)にあるのではないか。持て余した余剰エネルギーを無化する方法であるから、そんなエネルギーのない者には無縁である。禅はいろいろなものの捨て方を教えてくれるが、それは、捨てるべき何か巨大なものの処理に困っている人にしか役に立たないだろう。これは仏教そのものの本質かもしれない。はじめから何もないということを力に変える方法でないことは確か。
哲学は、他に誰もその存在を感知しない新たな問題をひとりで感知し、誰も知らない対立の一方の側にひとりで立ってひとりで闘うことである。
などなど。
曰く・・・
セワシくんは、のび太の悪い運命を変えるためにドラえもんを派遣する。しかし、ドラえもんが使命を果たすと、ドラえもんを送り込む理由が消滅する。ドラえもんとは、いま自分がそこに存在している原因とその存在理由そのものを消し去るために存在しているという不思議な存在。ただし、ドラえもんはまったく能天気でのび太ほどの思索力もないので実存の不安に悩んだりしない。ドラえもんはもしかしたら不可能な存在なのかもしれない。ドラえもんの世界は、ドラえもんの援助を受けるのび太と受けないのび太、借金で首がまわらないセワシくんと借金のないセワシくんという矛盾がある。この解決方法は、ドラえもんの実在を否定する(たとえば、のび太の夢にすぎなかった)、借金で首がまわらないセワシくんの実在を否定する。あるいは、ドラえもんが活動した結果、すでに存在していた過去が全面的に変化してしまう、のいずれか。しかし、過去が「変わる」とは、変わる前の過去があったことが前提されており、となるとそれはあったということになり、となると我々は「過去を変える」という意味を本質的に理解できない。大借金をかかえるセワシくんがドラえもんの大活躍で大成功するご先祖(のび太)の記録や記憶をいまから捏造してみたところで、自分の境遇を変えることもできない。過去を変えるとは、現在において過去を証拠だてるものすべてを変えることになるが、現に大借金を抱えていることも過去を証拠立てるもののひとつだということになる。最後の可能性は大借金のセワシくんと借金のないセワシくんに別世界に枝分かれしたというものだが、そうなるとセワシくんは二人になり、貧乏だったもとのセワシくんの境遇は変わらない。
過去や未来の自分は一種の他人でる。将来の自分のためにいまの自分の利益を犠牲にするのは一種の利他主義ではないか。長期的な利己的配慮は、それを要求する(未来の)自分が他者としていまここに実在してしまえばもうすでに利他主義であり、道徳に転化する。真の利己主義は利「今」主義を含むはず。己は今を含む。しかし、完璧に利今主義的な利己主義者は少ない。なぜか、多少とも、将来の自分のためにいまの自分を犠牲にする。なぜだかわからないが、もし、すべての人が利今主義的な利己主義者だったら、道徳や法律は機能しなくなるにちがいない。道徳や法律は要するに他人の利害を将来の自分の利害に換算するシステムなのではないか。他人に害を与えれば、それが将来の自分に害を与えることになるようにつくられた社会システムなのだろう。道徳は、そんなことをすると結局は(将来の)自分のためにならないと説教し、法律は未来の当人を処罰する。
芸術の鑑賞とは、他者の狂気に触れる喜びなのではないか。
禅のもつ力の源は憎悪(ルサンチマン)にあるのではないか。持て余した余剰エネルギーを無化する方法であるから、そんなエネルギーのない者には無縁である。禅はいろいろなものの捨て方を教えてくれるが、それは、捨てるべき何か巨大なものの処理に困っている人にしか役に立たないだろう。これは仏教そのものの本質かもしれない。はじめから何もないということを力に変える方法でないことは確か。
哲学は、他に誰もその存在を感知しない新たな問題をひとりで感知し、誰も知らない対立の一方の側にひとりで立ってひとりで闘うことである。
などなど。