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熊から王へ カイエ・ソバージュ(2) (講談社選書メチエ) 単行本(ソフトカバー) – 2002/6/10
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「国家=野蛮なるもの」はいかに誕生したか?
熊をカミとする狩猟民たちの「対称性の思考」とは?
「哲学」と「権力」が共存する冬の祭りの秘密とは?
王を戴く国家が「無法の野蛮」と結びつく根源へと遡行する。
- 本の長さ256ページ
- 言語日本語
- 出版社講談社
- 発売日2002/6/10
- 寸法13 x 1.6 x 18.9 cm
- ISBN-104062582392
- ISBN-13978-4062582391
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商品の説明
商品説明
本書は「超越的なもの」について、太古から人類が巡らせてきた思索を追うシリーズの第2巻。原初の共同体が崩壊し、王と国が生まれるまでを考察する。
著者はアムール川流域やサハリン、北米、南米などに伝わる数多くの神話を分析、自然と人間が互いに尊重し、交流していた社会の姿を探り出してゆく。ここでは、人と動物が単なる狩り狩られる関係ではなく、人間も毛皮をまとえば獣となり、雌とつがって子を産ませるというような伝承が生じる。また、無差別に動物を殺戮することなどありえず、生きるために殺しはしても、骨や毛皮は敬意をもって扱われた。人と自然が相互に往き来できる世界、いわば「対称性の社会」なのだ。こうした世界では、「権力」は本来、自然が持つものであり、社会の外にあった。人間のリーダーである「首長」は、交渉や調停といった「文化」の原理で集団を導く者だったのだ。だが、この「権力」が共同体内部に持ち込まれたとき、人間と自然は隔絶し、首長は王となって、国が生まれた。「権力」を取り込むことで成立した「国」は、人や自然を一方的に支配しようとする宿命を持つ。ゆえに国家というものは本質的に野蛮をはらんでいるのだ、と著者は言う。
本書のもとになった講義は、同時多発テロの直後に開始された。その影響は色濃く、本文のなかでも、文化とは何か、野蛮とは何かという問いかけがしばしばなされている。著者は国家という野蛮に抗しうる思想として、仏教の可能性を考察する。ブッダの生家は共同体に近いような小邑の首長であり、この出自が仏教の性格に影響を及ぼしているという。とすれば、原初の精神が21世紀の混迷を照らすということになるだろう。きわめてダイナミックな構図だが、こうした示唆こそ神話を学ぶ意味なのかもしれない。(大滝浩太郎)
内容(「MARC」データベースより)
著者について
1950年、山梨県生まれ。東京大学大学院人文科学研究科修士課程修了。現在、中央大学教授。宗教学者、思想家。著書に、『人類最古の哲学 カイエ・ソバージュ(1)』(講談社選書メチエ)、『チベットのモーツァルト』(せりか書房、サントリー学芸賞)、『森のバロック』(せりか書房、読売文学賞)、『哲学の東北』(青土社、斉藤緑雨賞)、『フィロソフィア・ヤポニカ』(集英社、伊藤整文学賞)、『緑の資本論』(集英社)など多数ある。
登録情報
- 出版社 : 講談社 (2002/6/10)
- 発売日 : 2002/6/10
- 言語 : 日本語
- 単行本(ソフトカバー) : 256ページ
- ISBN-10 : 4062582392
- ISBN-13 : 978-4062582391
- 寸法 : 13 x 1.6 x 18.9 cm
- Amazon 売れ筋ランキング: - 395,501位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- カスタマーレビュー:
著者について
1950年生まれ。東京大学大学院人文科学研究科修士課程修了。現在、多摩美術大学芸術人類学研究所所長。思想家。著書に『チベットのモーツァルト』(サ ントリー学芸賞)、『森のバロック』(読売文学賞)、『哲学の東北』(斎藤緑雨賞)、『フィロソフィア・ヤポニカ』(伊藤整文学賞)など多数ある(「BOOK著者紹介情報」より:本データは『カイエ・ソバージュ』(ISBN-10:4062159104)が刊行された当時に掲載されていたものです)
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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「知恵の実を食べた人類が辿る、贖罪の進化。神話から離脱する社会がもたらす、秩序とはなにか」
【サノーさんおすすめ度★★★★★】
・ウノーさん一言コメント
「人間と動物、自然と社会が対等だった頃、人は人以外の存在を知り、万物への畏敬の念をもつ生き物でした」
【ウノーさんおすすめ度★★★★★】
・サノーさん、ウノーさん読書会
サノーさん(以下サ):『カイエ・ソバージュ』シリーズの第2巻、神話における哲学との親和性から、「社会」と「国家」が成立するまでの、過程を追う物語だ。
ウノーさん(以下ウ):詩情に富んだ語りと、豊かな見識からの引用で、読む手が止まりませんでした。
サ:この巻の軸は「熊」だな。
ウ:世界には熊さんを巡る伝承が、こんなにもあるんですね。
サ:その共通項、背景にある思想と変遷を辿ることにより、人類がどう世界に分布していったのか、確認することができる。
ウ:「テディベア」や「プーさん」も「熊」で、現代におけるシンボルだというのは、気が付きませんでした。
サ:確かに、神話の世界では、動物と人間の垣根はなかった。エジプトでは、猫もハヤブサも普通に神だし、この本で紹介されているインディアンやイヌイットの伝承では、現代においても人間と動物に対しての「対称性」が保たれている。
ウ:「熊」が「神」だという古代信仰も納得できます。なにしろ人間より大きいし、力は強いし「人喰い」だってできますもの。
サ:その熊を喰らい、人を喰らい、「無法の野蛮」を体現する人間の出現により、非対称の世界が生まれたわけだ。
ウ:シャーマンと首長の誕生、そこから王への変遷は、人類が歩んだ「社会」の成り立ちを知る要素となります。
サ:人間が他の生き物、他の存在との「対称性」を見失っていく過程だな。
ウ:まさに「文明」と「野蛮」が枝分かれしていく過程です。
サ:枝分かれして成立したばずの「国家」が「無法の野蛮」だった、というのは、なかなかの皮肉だな。
ウ:「野蛮」が劣っているという感覚なら、そうかもしれません。ただ「仏教」の「無」の哲学に至るとき、生物本来の「野生」の思考が生じて、直線だった時間と空間が「円環」へと還元するのです。
サ:はいはい、考えすぎ、考えすぎ。
それにしても、レヴィ・ストロースのひらめき、発想と着眼点は凄いな。
ウ:折口信夫先生も負けてないですよ。熊楠の発想を、民俗学の見地から立証されていると思います。
サ:それがわかるのは、この本の著者が、凄いからなんだろうな。ちょうどいいエッセンスだけを抽出して、興味を引き出すようにアレンジしているから。
ウ:次の巻も楽しみです。
【了】
「神話的思考」が生きている「対称性社会」と、現代の「非対称性社会」の違いについて述べられる。
「対称性社会」では文化的世界のリーダーである首長や「人食い」は分けられている。しかし、人間社会の内部に、自然のものであった力を持ち込み、自分のものとする王が出現し作られたものが国家である。
というような事が解りやすく書かれている。
熊とわたし(人)がハイキングにいくというシーンがでて来ました。
熊が川で魚をとってくれ、お土産までくれて二人はその日楽しかったと言って別れます。
ここに出てくる熊は人並みかそれ以上によくできた熊です。
そしてこの二人、ただの友達なのか、恋愛対象なのかわからない不思議な関係。
けれど、人と熊といったら全く違う種族なのにもしかしたらと思わされてしまう。
何だか分からない居心地のよさがこの作品にはありました。
数年後にこの本『熊から王へ』に出逢って、『神様』のなかにみた熊と人との不思議な関係は神話にあったのだと気づかされました。
私にとってこの二つの作品は心の奥底にあるやわらかい部分をいつでもつつんでくれる大事な作品となりました。
曰く・・・
熊が生息しているところではどこでも、熊は森の動物達の首長だと考えられていた。熊は人間と同じ道をたどって移動し、同じ渓流で鮭をとる。人間は熊を狩猟するし、熊もやむをえず人間を襲う。人間と熊はお互いを尊敬しあって共生関係を築いていた。熊を重要な登場人物とする神話は多い。
ネアンデルタール人は比喩の能力が発達していなかったと考えられる。異質な脳領域の間を自由に動き回る「流動的知性」の発生によって、人間はものごとを「記号」ではなく「意味」として理解できるようなった。言語を可能にする比喩能力こそ人間のしるし。
「ふゆ」という言葉は「ものがふえる」という意味をあらわしている。ふゆにタマ(霊魂)が増える。冬は霊力が増殖するための特別な期間である(折口信夫)。実証はできないが、折口信夫はこの考え方に自信をもっていた。
熊の威力は人間を凌駕する。だから、熊は自然の奥に潜んでいる力能の象徴として扱われた。熊は、人間にもっとも親しい自然界の友人であるとともに、恐ろしい人食いの神でもある。人間の力を超越したものは「人食い」の概念として表現された。「人食い」は具象的な形態をもっているものを呑み込んで破壊し、抽象的な流動体に変えてしまう働きをもつものを表現する概念。流動的知性に注目した思考はやがてそこになにか超越的存在を直観する。最初に、象徴表現を組み合わせて思考する「野生の思考」が生まれ(神話や儀礼?)、やがて「超越的存在」への注目から「宗教的思考」が生まれる。
戦争のリーダーは、戦争という特別な時間と空間においてだけ権力を与えられる。シャーマンの超能力も首長の理性の管理下にある。やがて自然そのものであった権力(権能)がある特別な人間に属すると主張される。人喰いと首長が合体し「王」が生まれる。スサノオは、大蛇を倒して、その体内から草薙の剣を手に入れ、生贄になりそうだったイナダヒメ(首長の娘)を手に入れる。大蛇という自然の人喰いを倒すことでスサノオは人喰いの特性を手に入れ、首長の娘を性的に食べることで二重の意味で王の特質を獲得している。また、草薙の剣は社会の内部に持ち込まれた自然の権力をあらわす。
カースト制度は、観念性や抽象性ということに優位を与える思想。大地(具象性の世界)から離れれば離れるほど、その人は清らかになり、階層も高くなる。
みたいな話。
個人的には民俗学が好きな小生としては「東北」=>ベーリング海峡=>北米へと繋がっていた「神話的思考」という 大きな「わしづかみ」に まず興奮を覚えた。我々は すっかり国境という枠に絡め取られて 物事を考えるにおいても 「国境」にとらわれがちである反面、このような地球儀を斜め上方から見下ろすかのような視点は 「虚を突かれる」思いがする。
そうして そこでの「神話的思考」に見られる「人間と自然との調和」の持っていた 驚くべき「豊かさ」が 9.11に代表される「人間と人間との非調和」に対し 大きな処方箋となるべきであるというメッセージは 心に響くものがある。中沢がアジテーターに見えないのは 語り口がソフトであるからだけであり 本質的には そうなのだとちょっと思った。
中沢氏は自然との「対称性の思考」を持ったネアンデータル人の調和社会から、自然と「非対称性」を持つように変化した新石器時代の「国家」の成立への変遷を環太平洋のさまざまな神話を鍵に読み解く。自然との「対称性の思考」を持った古代人は動物とヒトとの平等性(友愛)の感情を持っていた。動物は狩りをする対象であるとともに仲間である。このため、動物からの肉や毛皮の贈り物に対して、動物の解体は丁寧に取り扱い、敬意を込めた儀式によって、魂は自然に返すという行動によって、動物に対する一方的な優位を否定した。このような社会では首長は権力を持たず、武力ももたず、もめごとには平和的解決の調停を行っていた。
時を経て、首長がまとめていた社会に、冬の祭りの時期だけ、秘密結社やシャーマンや戦士などのリーダーが自然の力=権力の源泉を象徴した精霊の仮面をかぶって「人食い」を演じるようになる。これが国家発生の臨界状態となる。そして新石器時代になると、異変が起こり、首長と「人食い」が合体して、「王」が誕生し、「国家」が誕生する。そこでは自然との「対称性の思考」は崩壊し、かつては自然がもっていた「権力」を王が手にする事になり、この時点から「野蛮」が発生する。
古代の祭・儀礼をいわゆるアニミズムに留まらない深遠な思考に深海を覗き込むような感慨をうけた。
彼の出世作である『チベットのモーツァルト』以来彼は、チベット仏教を愛してやまないが、そうした仏教と彼が愛してやまないレヴィ=ストロースの『野生の思考』が、ぶつかる瞬間は、知的にものすごく興奮させられた。考えてみれば、中沢先生は、もともとクリスチャンの家に生まれているんですよね。それが、どうしてチベット仏教徒になったのか?(笑)
グローバル資本主義が全地球上を覆いつつあるいま、『国家』を作り出す能力と条件を備えながら、自然との対称性を考えて、倫理的に国家を拒否した、ユーラシア大陸からアメリカ大陸まで広がるからモンゴロイドの文化を、『神話』という軸で、描いた著作です。文化人類学が好きな人には、たまらなく刺激的でしょう。しかしそれよりも、僕としては現代のネイションステイツに対する根本的な批判を含んでいる講義に感じました。
とりわけ、日常(首長)と非日常(シャーマン)の両領域で絶対権力を持つ『王』を生み出す条件を備えながら、倫理的意識的にそれを拒否する文化があった!という主張には、唸らせられました。
でも、これを読むと人類ってどこでつながっているかわからないですよね。太平洋を囲むサークルの文化的基盤が、ほぼ同型だといわれると、なんとなく民族とかで争っている我々がバカみたいな気がしますね。