私たちが見る「自然」と西欧自然科学が解明を目論む「nature」のちがいを構造主義の立場から比較し、異文化として西欧自然科学を捉えることに注力した本。
学校で「必ずそうなる」と教わり、実際にそうだと思い込んでいた科学的事実の中に根付くキリスト教的観念の数々に改めて気づかされると同時に、今なお私たちの根底にある日本古来の自然観を再認識できる。
個人的にはこれらを理科教育に持ち込んではという著者の試みに賛同。「文系だから」と最初から理科から背を向ける子供対して、その宗教的、社会的背景から入るのは実に有用だと思う。今の教育現場がそれを許してくれればのことだがを
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神と自然の科学史 (講談社選書メチエ) 単行本(ソフトカバー) – 2005/11/11
川崎 謙
(著)
「自然」と“nature”はどう違うか? 比較科学論への招待。先人が工業化のために受け入れた西欧自然科学は、私たちが母語で思考する力を奪ってしまった? 西欧の“nature”と私たちの「自然」。彼我の自然観を互いに相対化することで初めて見えてくる、本当の「科学」の歴史。(講談社選書メチエ)
- ISBN-104062583453
- ISBN-13978-4062583459
- 出版社講談社
- 発売日2005/11/11
- 言語日本語
- 本の長さ228ページ
登録情報
- 出版社 : 講談社 (2005/11/11)
- 発売日 : 2005/11/11
- 言語 : 日本語
- 単行本(ソフトカバー) : 228ページ
- ISBN-10 : 4062583453
- ISBN-13 : 978-4062583459
- Amazon 売れ筋ランキング: - 464,450位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- カスタマーレビュー:
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上位レビュー、対象国: 日本
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2020年6月25日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
近代科学について大きく考えさせられました。
また、この本に出会ったことを幸福に思います。
強引に端折りますと、
近代工業から生まれた近代性と近代科学の思想は
どのように捉えられ、そして受け入れられているか。
一貫して近代科学の思想とは、論理的な積み重ねの思考に捉えられがちだが、最終的なひらめきや発想は、超自然的(言い換えると神)存在によって、上から降りてくるものだというキリスト教を母体をした思想である。
日本語を母国語にし、仏教徒が多い日本人にとってどこまで考える事が可能なのか。
さらに、どこが考えに至らない思想なのかを、宗教的な倫理観などを多く踏まえて説明しています。
また、この本に出会ったことを幸福に思います。
強引に端折りますと、
近代工業から生まれた近代性と近代科学の思想は
どのように捉えられ、そして受け入れられているか。
一貫して近代科学の思想とは、論理的な積み重ねの思考に捉えられがちだが、最終的なひらめきや発想は、超自然的(言い換えると神)存在によって、上から降りてくるものだというキリスト教を母体をした思想である。
日本語を母国語にし、仏教徒が多い日本人にとってどこまで考える事が可能なのか。
さらに、どこが考えに至らない思想なのかを、宗教的な倫理観などを多く踏まえて説明しています。
2013年5月1日に日本でレビュー済み
内容から一部抜粋。
<同じではない「自然」と”nature”>
本書は、「自分が『自然』を見ている見方」と、「その見方は『西欧人が”nature”を見る見方』とどのように違うのか」ということに興味のある人々を読者として想定しています。これらの「見方」の違いを見つけるためには、まず「二つの見方は同じではない」という立場に立つ必要があります。その上でこれらを比べれば、私たちの「自然」の見方に気付くと同時に、西欧人の”nature”の見方も知ることができます。「西欧人が”nature”を見る見方」に従って、西欧自然科学は育まれ発展してきましたから、この比較は西欧自然科学をより深く理解することでもあります。本書では、これから考察する二つの見方を混同しないために、西欧自然科学の文脈に現れる「自然」を”nature”と表記しています。
このようにして行われる比較の精神は、「外国語を知らない人は母語をも知らない」というゲーテの言葉と同じです。外国語は、いわば「母語を映す鏡」として働き、それまでは当たり前のように使っていた母語を意識させるものなのです。これと同じように”nature”の見方は私たちの「自然」の見方を映し出す鏡として働くはずで、この働きは「自然」の見方と”nature”の見方は異なっているという立場においてのみ可能になります。ただしこの鏡は、全体像をそのまま映す普通の鏡ではありません。相違を際立たせて映し出す機能を持っている鏡です。
自分の見方を西欧自然科学という鏡に映し出すには、「西欧自然科学は唯一の正しい世界の見方である」という西欧自然科学に対する見方(=西欧自然科学観)を前もって取り除いておく必要があります。なぜなら、この西欧自然科学観をそのままにしておけば、西欧自然科学観は見習うべきお手本としてのみ働いてしまうからです。その結果、たとえ鏡に相違が映し出されたとしても、それは「”nature”を見る見方を習得するために、解消すべき事柄」としてのみ理解されてしまいます。西欧自然科学の普遍性を受け入れる知性には、自己を映す鏡として働かないのです。
抜粋終わり。
<感想>
技術は普遍的だが、科学は普遍的ではない。西欧自然科学は認識の内の1つ。本来意味のない世界に関しての認識・解釈に優劣は無い。
自分は、科学技術は普遍的なもので、正しい物なんだと漠然と思っていたのですが、それは少し違うのではないかと改めて考えさせられました。
<同じではない「自然」と”nature”>
本書は、「自分が『自然』を見ている見方」と、「その見方は『西欧人が”nature”を見る見方』とどのように違うのか」ということに興味のある人々を読者として想定しています。これらの「見方」の違いを見つけるためには、まず「二つの見方は同じではない」という立場に立つ必要があります。その上でこれらを比べれば、私たちの「自然」の見方に気付くと同時に、西欧人の”nature”の見方も知ることができます。「西欧人が”nature”を見る見方」に従って、西欧自然科学は育まれ発展してきましたから、この比較は西欧自然科学をより深く理解することでもあります。本書では、これから考察する二つの見方を混同しないために、西欧自然科学の文脈に現れる「自然」を”nature”と表記しています。
このようにして行われる比較の精神は、「外国語を知らない人は母語をも知らない」というゲーテの言葉と同じです。外国語は、いわば「母語を映す鏡」として働き、それまでは当たり前のように使っていた母語を意識させるものなのです。これと同じように”nature”の見方は私たちの「自然」の見方を映し出す鏡として働くはずで、この働きは「自然」の見方と”nature”の見方は異なっているという立場においてのみ可能になります。ただしこの鏡は、全体像をそのまま映す普通の鏡ではありません。相違を際立たせて映し出す機能を持っている鏡です。
自分の見方を西欧自然科学という鏡に映し出すには、「西欧自然科学は唯一の正しい世界の見方である」という西欧自然科学に対する見方(=西欧自然科学観)を前もって取り除いておく必要があります。なぜなら、この西欧自然科学観をそのままにしておけば、西欧自然科学観は見習うべきお手本としてのみ働いてしまうからです。その結果、たとえ鏡に相違が映し出されたとしても、それは「”nature”を見る見方を習得するために、解消すべき事柄」としてのみ理解されてしまいます。西欧自然科学の普遍性を受け入れる知性には、自己を映す鏡として働かないのです。
抜粋終わり。
<感想>
技術は普遍的だが、科学は普遍的ではない。西欧自然科学は認識の内の1つ。本来意味のない世界に関しての認識・解釈に優劣は無い。
自分は、科学技術は普遍的なもので、正しい物なんだと漠然と思っていたのですが、それは少し違うのではないかと改めて考えさせられました。
2011年11月15日に日本でレビュー済み
神と自然の科学史
面白かったです、「行き過ぎた相対主義」の発想がどうであるかがわかります。
基本的には「行き過ぎた相対主義」の科学哲学で書いてある西洋自然科科学に対する見方の説明でしょう。「科学史」とありますが科学史の話ではありません(この題で科学史と思う人はいないか)。
私は、この方面の専門家ではないので、科学哲学で著者の考えがどの程度正統的かよくわからないので以下この本の話になります。
著者の事実に対する一面的な見方と思い込みをベースに論を進めています。まあ、まったく間違いとはいえない見方なので「こういう見方もある」ということで参考になります。見方の話なのでいろいろ楽しませてもらいました。
自然科学は西洋の自然の見方を始まりのひとつにして発展してきたものだと思いますが、著者の見方は17,18世紀の自然科学にはあてはまる見方なのかもしれませんね、例もそうだし。
ある意味、それ以降の進歩は無視して、現代にあてはめている。対する日本も中世思想だけど。
一面的な見方の例として
著者は「西洋自然科学」といえば数学と物理学しかないと考えているようです。
「数学的表現ができることが理解したこと」云々との表現があるように数学的表現ができないものは著者の言う「西洋自然科学」ではないようです(化学、生物学等は範疇外)。
まあ、ガリレオ時代はそうかも。
この考え方も一面的で、
「数学的表現」と「わかること」が違うのは工学で実験式があることから明確でしょう。
また、著者はどうも科学の言葉(用語)が
「西欧自然科学は、私たちが母語で思考する力を奪ってしまった?」でもわかるように、
言葉が思考を完全に制限するという見方が過ぎており(その面もありますが)、著者は価値(見方)、と事実をごっちゃにして考えているようです。
本書にある「アヒル−ウサギ図」を使えば著者はその図を「アヒル、ウサギ」として見ているが科学では「紙上の絵」と見るのですがそこまでは考えられないようです。
時間、時代の観念もないように思えます、紀元前2世紀の淮南子の思想と17世紀のガリレオの思想を対比して議論していますから。著者の話はギリシャ思想と日本の中世思想の対比のみ(それはそれで面白いですが)それをそのまま現代に持っていますので今は何世紀かと突込みが・・・。
著者は「言葉を使って事実を認識している」しか見えていないで、「事実により言葉が変わっている」という認識が皆無のようです。
まとめると
時代認識がなされていない、事実認識が偏狭である、言葉にとらわれすぎている、その範囲では面白い見方です。
面白かったです、「行き過ぎた相対主義」の発想がどうであるかがわかります。
基本的には「行き過ぎた相対主義」の科学哲学で書いてある西洋自然科科学に対する見方の説明でしょう。「科学史」とありますが科学史の話ではありません(この題で科学史と思う人はいないか)。
私は、この方面の専門家ではないので、科学哲学で著者の考えがどの程度正統的かよくわからないので以下この本の話になります。
著者の事実に対する一面的な見方と思い込みをベースに論を進めています。まあ、まったく間違いとはいえない見方なので「こういう見方もある」ということで参考になります。見方の話なのでいろいろ楽しませてもらいました。
自然科学は西洋の自然の見方を始まりのひとつにして発展してきたものだと思いますが、著者の見方は17,18世紀の自然科学にはあてはまる見方なのかもしれませんね、例もそうだし。
ある意味、それ以降の進歩は無視して、現代にあてはめている。対する日本も中世思想だけど。
一面的な見方の例として
著者は「西洋自然科学」といえば数学と物理学しかないと考えているようです。
「数学的表現ができることが理解したこと」云々との表現があるように数学的表現ができないものは著者の言う「西洋自然科学」ではないようです(化学、生物学等は範疇外)。
まあ、ガリレオ時代はそうかも。
この考え方も一面的で、
「数学的表現」と「わかること」が違うのは工学で実験式があることから明確でしょう。
また、著者はどうも科学の言葉(用語)が
「西欧自然科学は、私たちが母語で思考する力を奪ってしまった?」でもわかるように、
言葉が思考を完全に制限するという見方が過ぎており(その面もありますが)、著者は価値(見方)、と事実をごっちゃにして考えているようです。
本書にある「アヒル−ウサギ図」を使えば著者はその図を「アヒル、ウサギ」として見ているが科学では「紙上の絵」と見るのですがそこまでは考えられないようです。
時間、時代の観念もないように思えます、紀元前2世紀の淮南子の思想と17世紀のガリレオの思想を対比して議論していますから。著者の話はギリシャ思想と日本の中世思想の対比のみ(それはそれで面白いですが)それをそのまま現代に持っていますので今は何世紀かと突込みが・・・。
著者は「言葉を使って事実を認識している」しか見えていないで、「事実により言葉が変わっている」という認識が皆無のようです。
まとめると
時代認識がなされていない、事実認識が偏狭である、言葉にとらわれすぎている、その範囲では面白い見方です。