戦前日本の右翼思想を扱った研究書である。日露戦争後、明治国家体制が弛緩し、伝統的価値が崩れるなか、保守的右翼と違って変革志向の強い「超国家主義」が登場した。しかし超国家主義は、変革のシンボルと仰ぐ天皇が同時に現体制の中心でもあるため、変革の思想としては腰砕けになった、と著者は言う。変革が腰砕けになると、現状をそのまま正当化するイデオロギーが必要となり、「教養主義的」右翼思想や、ありのままの現在への没入を説く独特の時間論が登場する。さらに、現状に満足し、考えることがなくなると、右翼思想は身体論という形をとったという。本書は以上のような見取り図に従って、戦前期右翼思想のたどった「ライフサイクル」を通観したものである。
過剰な専門化で全体像が見えない研究書が多い中で、著者が大きな見取り図を提供しようとしたことは評価できる。しかし、本書の議論はあまり説得的とはいえない。それはなぜか。第一に、様々な思想潮流を大きな見取り図にはめ込んで解釈しようとする結果、テキストの分析よりも解釈が先走り、個々の思想の解釈に無理が感じられる箇所が多々ある。特に右翼と時間論、右翼と身体論の箇所は牽強付会の議論も多く、眉唾ものだ。
第二に、本書の解釈図式にも無理がある。超国家主義は天皇解釈をめぐって躓き、「変革」思想として機能しなかったと著者は言う。しかし本当にそうか。新体制運動に結集した国家社会主義者は、地主や株主の権利を制限し、官僚主導型の体制を築く一方、国際的にも現状打破を掲げて枢軸国と連携した。これは大きな「変革」ではないか。著者が主に論じている国粋主義者たちも、その好悪は別として、日本の思想的空気を変革し、自由主義や社会主義を追放することに成功した。急進的超国家主義が「成功」している以上、変革の挫折に始まる右翼思想のライフサイクル論もやや疑問に思える。
そもそも、近代日本の右翼思想を、世界史的脈絡を無視して、自己完結した過程として論じることには無理がある。ドイツやイタリアを見てもわかるが、戦間期の急進右翼勃興の一つの原因は自由主義の危機、いま一つは共産主義の勃興に対する危機意識であり、この点は日本でも同じだろう。日本の研究は日本を見ていれば出来るというものではない。外の世界に目を向けなければ自国も本当には見えてこない。
著者は音楽評論も手掛ける間口の広い研究者で、その博識の一端は本書でもうかがえる。しかし、本書を読む限り、著者の近代日本史理解は図式的で平板な印象を受ける。少なくとも、本書は近代日本の外交史や政治史を深く勉強した人の書いた文章ではない。最近の日本映画やドラマで、旧帝国軍人がリアルに描かれているのを見ることは稀だが、本書から受ける印象もそれに似ている。無意識のうちに戦後的解釈が入りすぎて、時代の真実に迫り得ていない、そんな印象なのだ。
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近代日本の右翼思想 (講談社選書メチエ) 単行本 – 2007/9/11
片山 杜秀
(著)
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躓きの石としての天皇 超克されざる「近代」
――近代日本のパラドクス
革命への赤き心は、なにゆえ脱臼され、無限の現状肯定へと転化されなければならないのか。躓きの石としての天皇、超克されざる「近代」――北一輝から蓑田胸喜まで、西田幾多郎から長谷川如是閑まで、大正・昭和前期の思想家たちを巻き込み、総無責任化、無思想化へと雪崩を打って向かってゆく、近代日本思想極北への歩みを描く。
[本書の内容]
●「超―国家主義」と「超国家―主義」
●万世一系と「永遠の今」
●動と静の逆ユートピア
●「口舌の徒」安岡正篤
●西田幾多郎の「慰安の途」
●アンポンタン・ポカン君の思想
●現人神
――近代日本のパラドクス
革命への赤き心は、なにゆえ脱臼され、無限の現状肯定へと転化されなければならないのか。躓きの石としての天皇、超克されざる「近代」――北一輝から蓑田胸喜まで、西田幾多郎から長谷川如是閑まで、大正・昭和前期の思想家たちを巻き込み、総無責任化、無思想化へと雪崩を打って向かってゆく、近代日本思想極北への歩みを描く。
[本書の内容]
●「超―国家主義」と「超国家―主義」
●万世一系と「永遠の今」
●動と静の逆ユートピア
●「口舌の徒」安岡正篤
●西田幾多郎の「慰安の途」
●アンポンタン・ポカン君の思想
●現人神
- 本の長さ252ページ
- 言語日本語
- 出版社講談社
- 発売日2007/9/11
- 寸法13 x 1.5 x 18.8 cm
- ISBN-104062583968
- ISBN-13978-4062583961
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登録情報
- 出版社 : 講談社 (2007/9/11)
- 発売日 : 2007/9/11
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 252ページ
- ISBN-10 : 4062583968
- ISBN-13 : 978-4062583961
- 寸法 : 13 x 1.5 x 18.8 cm
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上位レビュー、対象国: 日本
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2010年4月8日に日本でレビュー済み
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2021年7月16日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
「ひとは、死が既定であると観念するとき、美しく死ぬことばかりを考えて生きようとする。かくして、日本ロマン派の『死んでもよい』という『散華の美学』の命題のもとに、無数の若ものたちがその生を埋めていったのである」(松本健一『日本の失敗』)。美しく死ぬことを煽ったのは日本ロマン派と決まっている。
だがロマン派だけとは決まってない。軍事的合理を突き詰めた中柴末純が、持たざる国日本が持てる国アメリカに勝つ為には敢えて玉砕戦をとり、敵兵を怖気づかせ、その戦意を挫くのだと主張した(『未完のファシズム』)。これも散華の美学を煽った一つといえよう。
これに加えて筆者片山杜秀は、さらに"健康本"もその一翼を担ったと解いてみせるのだ。
筆者は《おわりに》で次のように纏めている。
「今の日本は気に入らないから変えてしまいたいと思い、正しく変える力は天皇に代表される日本の伝統にあると思い、その天皇は今まさにこの国に現前しているのだからじつはすでに立派な美しい国ではないかと思い、それなら変えようなどと余計なことは考えないほうがいいのではないかと思い、考えないなら脳は要らないから見てくれだけ美しくしようと思い、それで様を美しくしても死ぬときは死ぬのだと思い、それならば美しい様の国を守るために潔く死のうと思う」。
国を良くしたいとの思いが、なぜ潔く死のう、という話になるのか?
北一輝の頃は、天皇を道具として担いで日本の現状を革命しようとした。しかし、二・二六事件が、若殿に兜取られて負け戦、となり出来ないと分かった。そこで例えば安岡正篤のように、現状は革命しなければならないほどの悪しき段階ではない、なぜなら天皇がしっかり治めているのだから、とリクツを捏ねて現状肯定する者が現れる。さらに、思考停止する者に脳みそ不要、だから身体だけはカッコ良く生きよう、その為よい姿勢、よい呼吸法を実践して健康になろうと主張する田中や鈴木なども現れた。
ところが、何のために健康になろうとするのか?
疑問が生じる。長生きしたいからか? そうではない、長生きは老残の身を晒すことであり、病気で痩せさらばえることにもなる。カッコ悪く死ぬことになる。そうならぬための、カッコ良く死ぬための健康本なのだ。ジムで運動したり、毛生え薬や皮膚の弛みを隠すクリーム塗ったり、サプリ飲んだりしてピンピンコロリを期する現代人にはグッと来る。そうか、フィットネス通っているのは、ビンコロのため、寝たきり点滴オムツ暮らししないためだったのだ。でも死ぬの怖いよね。
いやいや死ぬことは怖くない、死とはやむなく受け入れる宿命でなく、積極的に主体性を発揮した結果に出来ると発想の転換。例えば高僧の大往生、あるいは勇士の潔き最後は、悟りを得て死ぬことに繋がり、それは人間の積極的な生き方なのだという。
では、ピンコロはカッコ良い死に繋がるのか? カッコ良く死ねば、それで人生良しと出来るのか? そうともいえない。では、美しい心を、逞しい身体で、からくも支えられる、その日のために、健康を増進するのか? そうかも知れない、が、個々人で違う、美しい心であっては、純正なカッコ良い死とはならない。間違いなくカッコ良い死を求めるなら、天皇を守り国を守るため積極的に死ぬこと、これがベスト。天皇のお陰でカッコ良い国に生きている我々は、この素晴らしい国を守るための死を積極的に選ぶ、それが最もカッコ良い生であるからだ。
かくして神風特別攻撃隊も一億玉砕も、まことによい死に様である、となる。美しく死ぬとはこれである、となる。
国全体が右翼思想に染め上げられているとき
濃淡や距離感の違いはあれども、
大抵のものが右翼的になるようだ。
今、五輪開催に反対する世論が日本を覆っている。にもかかわらず政府は強行しようとしている。反対派はプラカードを掲げ声を上げる以外、拱手傍観するしか、合法的な手段を持たない。天皇を担いで革命するわけにもいかない。もし五輪が強行され、コロナ感染死、重症化が爆発し東京が絶滅することにならなければ、気抜けし政府には逆らっても仕方ない、むしろ黙って従っていたほうがストレス少なくて良い、へと落ちるかも知れない。そうなれば、今以上に健康本やサプリが売れ、しかし何のために若々しい老人になるのか、それはサッパリ知ろうともしない、脳みそ無し身体だけの日本人が溢れるのだろうか?
だがロマン派だけとは決まってない。軍事的合理を突き詰めた中柴末純が、持たざる国日本が持てる国アメリカに勝つ為には敢えて玉砕戦をとり、敵兵を怖気づかせ、その戦意を挫くのだと主張した(『未完のファシズム』)。これも散華の美学を煽った一つといえよう。
これに加えて筆者片山杜秀は、さらに"健康本"もその一翼を担ったと解いてみせるのだ。
筆者は《おわりに》で次のように纏めている。
「今の日本は気に入らないから変えてしまいたいと思い、正しく変える力は天皇に代表される日本の伝統にあると思い、その天皇は今まさにこの国に現前しているのだからじつはすでに立派な美しい国ではないかと思い、それなら変えようなどと余計なことは考えないほうがいいのではないかと思い、考えないなら脳は要らないから見てくれだけ美しくしようと思い、それで様を美しくしても死ぬときは死ぬのだと思い、それならば美しい様の国を守るために潔く死のうと思う」。
国を良くしたいとの思いが、なぜ潔く死のう、という話になるのか?
北一輝の頃は、天皇を道具として担いで日本の現状を革命しようとした。しかし、二・二六事件が、若殿に兜取られて負け戦、となり出来ないと分かった。そこで例えば安岡正篤のように、現状は革命しなければならないほどの悪しき段階ではない、なぜなら天皇がしっかり治めているのだから、とリクツを捏ねて現状肯定する者が現れる。さらに、思考停止する者に脳みそ不要、だから身体だけはカッコ良く生きよう、その為よい姿勢、よい呼吸法を実践して健康になろうと主張する田中や鈴木なども現れた。
ところが、何のために健康になろうとするのか?
疑問が生じる。長生きしたいからか? そうではない、長生きは老残の身を晒すことであり、病気で痩せさらばえることにもなる。カッコ悪く死ぬことになる。そうならぬための、カッコ良く死ぬための健康本なのだ。ジムで運動したり、毛生え薬や皮膚の弛みを隠すクリーム塗ったり、サプリ飲んだりしてピンピンコロリを期する現代人にはグッと来る。そうか、フィットネス通っているのは、ビンコロのため、寝たきり点滴オムツ暮らししないためだったのだ。でも死ぬの怖いよね。
いやいや死ぬことは怖くない、死とはやむなく受け入れる宿命でなく、積極的に主体性を発揮した結果に出来ると発想の転換。例えば高僧の大往生、あるいは勇士の潔き最後は、悟りを得て死ぬことに繋がり、それは人間の積極的な生き方なのだという。
では、ピンコロはカッコ良い死に繋がるのか? カッコ良く死ねば、それで人生良しと出来るのか? そうともいえない。では、美しい心を、逞しい身体で、からくも支えられる、その日のために、健康を増進するのか? そうかも知れない、が、個々人で違う、美しい心であっては、純正なカッコ良い死とはならない。間違いなくカッコ良い死を求めるなら、天皇を守り国を守るため積極的に死ぬこと、これがベスト。天皇のお陰でカッコ良い国に生きている我々は、この素晴らしい国を守るための死を積極的に選ぶ、それが最もカッコ良い生であるからだ。
かくして神風特別攻撃隊も一億玉砕も、まことによい死に様である、となる。美しく死ぬとはこれである、となる。
国全体が右翼思想に染め上げられているとき
濃淡や距離感の違いはあれども、
大抵のものが右翼的になるようだ。
今、五輪開催に反対する世論が日本を覆っている。にもかかわらず政府は強行しようとしている。反対派はプラカードを掲げ声を上げる以外、拱手傍観するしか、合法的な手段を持たない。天皇を担いで革命するわけにもいかない。もし五輪が強行され、コロナ感染死、重症化が爆発し東京が絶滅することにならなければ、気抜けし政府には逆らっても仕方ない、むしろ黙って従っていたほうがストレス少なくて良い、へと落ちるかも知れない。そうなれば、今以上に健康本やサプリが売れ、しかし何のために若々しい老人になるのか、それはサッパリ知ろうともしない、脳みそ無し身体だけの日本人が溢れるのだろうか?
2007年11月13日に日本でレビュー済み
日本が大東亜戦争と名づけて敗北し、米軍の占領下におかれてから以後の、右翼思想分析は、GHQが暗黙のうちに推奨し奨励した丸山真男などの見方とそのエピゴーネンに共通しているものがある。国際性に満ちたとする左翼と異なり右翼はアプリオリに内向き思想との臆断である。そこから解析に無理が生じてくる。
この本は最近やたらと書きまくる佐藤優が文藝春秋11月号の書評欄で取上げていたので、興味をもった。そして、松本健一などと同系統に結局は属するとがっかりした。安岡が戦前にボースや朱経古との交遊、戦後、主権回復後の中国系の知識人との交遊の可能であった背景は、この著を読んでもわからない。東洋世界との一体感である。
次に、佐藤も取上げている安岡の本意についての片山の推測(天皇の師)は、あまりに皮相である。それは、安岡が楠の一統に連なるところから来る敬虔な姿勢に少し感情移入すればわかるところだ。そこから、終戦の詔勅への刪修の仕方も出てくるが、こうした見地は片山にも佐藤にもわからないであろう。
だが、片山のこれまでの偏見を捨ててわがこととして追求する態度には共感した。
この本は最近やたらと書きまくる佐藤優が文藝春秋11月号の書評欄で取上げていたので、興味をもった。そして、松本健一などと同系統に結局は属するとがっかりした。安岡が戦前にボースや朱経古との交遊、戦後、主権回復後の中国系の知識人との交遊の可能であった背景は、この著を読んでもわからない。東洋世界との一体感である。
次に、佐藤も取上げている安岡の本意についての片山の推測(天皇の師)は、あまりに皮相である。それは、安岡が楠の一統に連なるところから来る敬虔な姿勢に少し感情移入すればわかるところだ。そこから、終戦の詔勅への刪修の仕方も出てくるが、こうした見地は片山にも佐藤にもわからないであろう。
だが、片山のこれまでの偏見を捨ててわがこととして追求する態度には共感した。
2008年6月28日に日本でレビュー済み
いろいろ新しい発見はあろう。ウヨクがサヨク同様にだらしない現代ニッポンにおいては、それもまたさもありなん。葦津珍彦とか、福田恒存とか、下っては赤尾敏、野村秋介も鬼籍に入ってしまった今となっては。行動も理念もダメになったのだろう。ウヨクには現在見るべき思想的展開など皆無である。面白いと思えるものさえない。
したがって、ウヨク思想にアクチュアルだとかそんな聞いた風な語呂合わせをしてみても仕方ない。ウヨクはアクチュアルでないことがその存立基盤であり、絶対条件である。ことに戦後日本のウヨクにおいては。
だから、最後に自らの身体をのみ感じることになる。これをマッチョと言う。身体の不確かさを問うてみても、ご本人はアクチュアルだというのだからウヨクの御仁とは平行線を辿るだけだ。身体的修練が絶対視される。それが精神だとも言う。
デカルト主義でも学んだほうがよかろう。ウヨク的身体論には、自己所有の概念とか、自己決定権の論理は全く通用しないのである。
だから、著者はウヨクが「好き」などとのたまうのである。これを反知性と言う。社会性を欠くといってもほぼ同義だ。「僕はサヨクが好き」などという気持ち悪い物言いは、少なくともポーズだけであったとしても、サヨクは決して言うまい。間違っていても理念を問うだろう。
そういえば、三島由紀夫は森田必勝に「本など読むな」と言ったそうではないか。中村彰彦の森田を描いたノンフィクションにそうあった。
素朴、単純、イノセントに嫌韓流や嫌中国を叫ぶ人のなかには、ウヨクっぽいのが好きでそんなことを言う人が多いようにも思われる。
著者片山の音楽評論は随分と評判が高いが、評者には吉田秀和長老が絶賛するほどよいものとは思えない。特にその第2弾は、著者のマッチョな体質が全開していて、吉田がこれをも褒めることはないだろう。しかも、これは評者の偏見だが、ウヨクの癖に慎みがないのが、さすが新人類と呼ばれた世代だけのことはある(評者も同世代である)。
ウヨクを標榜する佐藤優は随分と戦略的だが、片山は戦略なんぞ歯牙にもかけていない。
何せ好きなんだから。論理もクソもないし、彼自身のオタッキーな興味の赴くままウヨクも音楽も批評してますってところだろう。評者は別にウヨクとオタクに親和性があるといっているのではない。
☆2つにしたのは、「よく調べました」と労に報いる気持ちの分だ。
したがって、ウヨク思想にアクチュアルだとかそんな聞いた風な語呂合わせをしてみても仕方ない。ウヨクはアクチュアルでないことがその存立基盤であり、絶対条件である。ことに戦後日本のウヨクにおいては。
だから、最後に自らの身体をのみ感じることになる。これをマッチョと言う。身体の不確かさを問うてみても、ご本人はアクチュアルだというのだからウヨクの御仁とは平行線を辿るだけだ。身体的修練が絶対視される。それが精神だとも言う。
デカルト主義でも学んだほうがよかろう。ウヨク的身体論には、自己所有の概念とか、自己決定権の論理は全く通用しないのである。
だから、著者はウヨクが「好き」などとのたまうのである。これを反知性と言う。社会性を欠くといってもほぼ同義だ。「僕はサヨクが好き」などという気持ち悪い物言いは、少なくともポーズだけであったとしても、サヨクは決して言うまい。間違っていても理念を問うだろう。
そういえば、三島由紀夫は森田必勝に「本など読むな」と言ったそうではないか。中村彰彦の森田を描いたノンフィクションにそうあった。
素朴、単純、イノセントに嫌韓流や嫌中国を叫ぶ人のなかには、ウヨクっぽいのが好きでそんなことを言う人が多いようにも思われる。
著者片山の音楽評論は随分と評判が高いが、評者には吉田秀和長老が絶賛するほどよいものとは思えない。特にその第2弾は、著者のマッチョな体質が全開していて、吉田がこれをも褒めることはないだろう。しかも、これは評者の偏見だが、ウヨクの癖に慎みがないのが、さすが新人類と呼ばれた世代だけのことはある(評者も同世代である)。
ウヨクを標榜する佐藤優は随分と戦略的だが、片山は戦略なんぞ歯牙にもかけていない。
何せ好きなんだから。論理もクソもないし、彼自身のオタッキーな興味の赴くままウヨクも音楽も批評してますってところだろう。評者は別にウヨクとオタクに親和性があるといっているのではない。
☆2つにしたのは、「よく調べました」と労に報いる気持ちの分だ。