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文明と教養の〈政治〉 近代デモクラシー以前の政治思想 (講談社選書メチエ) 単行本(ソフトカバー) – 2013/10/11
木村 俊道
(著)
宮廷社会や文明社会を舞台としたヨーロッパの初期近代では、19世紀以降とは異なる、人文主義的な政治が展開されていた。そこでは、マナーや教養、レトリック、シヴィリティ(文明)が重要視され、ギリシャ哲学からも多くの影響を受けている。
しかしフランス革命と産業化の19世紀を迎えてのち、デモクラシーの浸透とともに、人文主義的な政治マナーは衰退してしまう。
政治状況が閉塞するいま、デモクラシーを問い直して新しい政治のあり方を模索するためにも、デモクラシー以前の政治思想の歴史を学び直す必要がある。
アダム・スミス、ベイコン、ヒューム、ハーバーマスなどの論考を参照しつつ、実践知の政治学に光をあてる試み。
しかしフランス革命と産業化の19世紀を迎えてのち、デモクラシーの浸透とともに、人文主義的な政治マナーは衰退してしまう。
政治状況が閉塞するいま、デモクラシーを問い直して新しい政治のあり方を模索するためにも、デモクラシー以前の政治思想の歴史を学び直す必要がある。
アダム・スミス、ベイコン、ヒューム、ハーバーマスなどの論考を参照しつつ、実践知の政治学に光をあてる試み。
- 本の長さ260ページ
- 言語日本語
- 出版社講談社
- 発売日2013/10/11
- ISBN-104062585642
- ISBN-13978-4062585644
商品の説明
著者について
木村 俊道
1970年埼玉県に生まれる。東京都立大学法学部、同大学院社会科学研究科政治学専攻、同法学部助手を経て、九州大学大学院法学研究院教授。著書に)、『顧問官の政治学―フランシス・ベイコンとルネサンス期イングランド』(木鐸社)、『文明の作法―初期近代イングランドにおける政治と社交 』(ミネルヴァ書房)など。
1970年埼玉県に生まれる。東京都立大学法学部、同大学院社会科学研究科政治学専攻、同法学部助手を経て、九州大学大学院法学研究院教授。著書に)、『顧問官の政治学―フランシス・ベイコンとルネサンス期イングランド』(木鐸社)、『文明の作法―初期近代イングランドにおける政治と社交 』(ミネルヴァ書房)など。
登録情報
- 出版社 : 講談社 (2013/10/11)
- 発売日 : 2013/10/11
- 言語 : 日本語
- 単行本(ソフトカバー) : 260ページ
- ISBN-10 : 4062585642
- ISBN-13 : 978-4062585644
- Amazon 売れ筋ランキング: - 1,112,258位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 1,172位講談社選書メチエ
- カスタマーレビュー:
著者について
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2023年5月25日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
本書に引用されている古典の多くは,日本では殆ど知られていないものばかりであり,本書を一読しただけでも著者である木村俊道教授の学識の深さが窺えます。同著者の『文明の作法』も本書も,政治学に興味・関心を有する全ての方に読んでいただきたい名著です。特に,「政治哲学・思想」と「政治史」を学修したいと思われている方々がお読みになると,良い刺激となるでしょう。
2014年2月17日に日本でレビュー済み
政治思想学者の著者は、前近代の社交とマナーに基づく政治のあり方を再考する。
エリアス「文明化の過程」の政治学版のように楽しい一冊。
近代の延長にある今日、「忘れられた」とも形容できる時代の風景が再現される。
社交、マナー、形式、レトリック。そしてそれらと政治の関わり。
18世紀までは、「そんなのどうだっていい」という時代ではなかったと著者はいう。
しかも、これらを磨いてこそ、よりよい政治が行えるし、他者への配慮と異質なものとの共存も可能になる。
本書の全篇に散りばめられているのが「舞台」「劇場」「仮面」「演技/演劇」というキーワード。
「この世は舞台」というシェイクスピア「お気に召すまま」をしばしば引用しつつ、著者は前近代における政治と政治家の規範を再構成してゆく。
評者としては、著者も序論で1回だけ言及する山崎正和「社交する人間」や、これまた終盤で言及するホイジンガ「ホモ・ルーデンス」、あるいはバフチンや山口昌男などを念頭に置きながら楽しく読めた。
ただ、難点もある。第一に、直接の引用があまりに多すぎる。
ここは言い換えとかパラフレーズのほうがいいのでは、と思う箇所もわざわざ引用する著者。
全ページに渡ってカギカッコのオンパレードである。
博引傍証、先達の成果や思考への敬意としての引用といえば聞こえはいい。
が「私はこんなことも知ってる、こうした資料も読んでる」とのアピールにしか思えないこともしばしば。
読者の読書スピードや通読性を損なうことはたしかと思われる。
メチエのシリーズは純たる学術書の類いではない。
のち学術文庫などに落ちる際は、改稿を願いたい。
第二に、第一にも関連するが、とくに第2・3章は、章内・章間において同じことをくり返し読まされている感が強い。
Aという人がいっていることをBも、Cもいっている……ということが何度もくり返される。
「もうお腹いっぱい」と感じられる。もっともっとスッキリできたはずである。
第三に、政治学の研究的意義が終章までしばしば言及されるが、読者としてはそれよりも、今日の政治社会を考える上での示唆をもっと読みたかった。
終章は、日本近代の「マナー」も捨てたもんではなかった、と触れられるが、それよりも今日、本書から導けるメッセージをもっとしっかり書いてほしかった。
とまれ、ややもすると近代的思考の延長にある今日、本書の投げかけるメッセージは(おそらく)大きい。
それを明示的に示しきってくれない著者はやっぱり心憎い。
が、open endingとして、あとは読者の我々が引き受けて考えるべきなのだろう。
次作にも期待。
エリアス「文明化の過程」の政治学版のように楽しい一冊。
近代の延長にある今日、「忘れられた」とも形容できる時代の風景が再現される。
社交、マナー、形式、レトリック。そしてそれらと政治の関わり。
18世紀までは、「そんなのどうだっていい」という時代ではなかったと著者はいう。
しかも、これらを磨いてこそ、よりよい政治が行えるし、他者への配慮と異質なものとの共存も可能になる。
本書の全篇に散りばめられているのが「舞台」「劇場」「仮面」「演技/演劇」というキーワード。
「この世は舞台」というシェイクスピア「お気に召すまま」をしばしば引用しつつ、著者は前近代における政治と政治家の規範を再構成してゆく。
評者としては、著者も序論で1回だけ言及する山崎正和「社交する人間」や、これまた終盤で言及するホイジンガ「ホモ・ルーデンス」、あるいはバフチンや山口昌男などを念頭に置きながら楽しく読めた。
ただ、難点もある。第一に、直接の引用があまりに多すぎる。
ここは言い換えとかパラフレーズのほうがいいのでは、と思う箇所もわざわざ引用する著者。
全ページに渡ってカギカッコのオンパレードである。
博引傍証、先達の成果や思考への敬意としての引用といえば聞こえはいい。
が「私はこんなことも知ってる、こうした資料も読んでる」とのアピールにしか思えないこともしばしば。
読者の読書スピードや通読性を損なうことはたしかと思われる。
メチエのシリーズは純たる学術書の類いではない。
のち学術文庫などに落ちる際は、改稿を願いたい。
第二に、第一にも関連するが、とくに第2・3章は、章内・章間において同じことをくり返し読まされている感が強い。
Aという人がいっていることをBも、Cもいっている……ということが何度もくり返される。
「もうお腹いっぱい」と感じられる。もっともっとスッキリできたはずである。
第三に、政治学の研究的意義が終章までしばしば言及されるが、読者としてはそれよりも、今日の政治社会を考える上での示唆をもっと読みたかった。
終章は、日本近代の「マナー」も捨てたもんではなかった、と触れられるが、それよりも今日、本書から導けるメッセージをもっとしっかり書いてほしかった。
とまれ、ややもすると近代的思考の延長にある今日、本書の投げかけるメッセージは(おそらく)大きい。
それを明示的に示しきってくれない著者はやっぱり心憎い。
が、open endingとして、あとは読者の我々が引き受けて考えるべきなのだろう。
次作にも期待。
2013年10月25日に日本でレビュー済み
様々な点で挑発的な書物だと思う。
まず政治思想史研究として、独自の方法論による貴重な仕事である。
文学的人文主義でもなく「政治的人文主義」でもない、
「政治思想」としての人文主義に新鮮な知的興奮を覚えた。
さらなる展開に期待したい。
しかし、例えば次のような著者の議論には多くの疑問が浮かんでくる。
「文明(civilization)の使命を掲げて非西洋世界の植民地化を進めた
19世紀以降のヨーロッパとアメリカの思想と行動はむしろ、それまでの
文明(civility)を忘却することによって可能になったのではないか。
そして、このことは同時にまた、他者との共存を可能にする政治の作法の
喪失をも意味していたのではないか」(167-8頁)
デモクラシーを否定しないとも明言している以上、著者は復古的な保守主義を
唱えたいわけではないのだろう。しかし初期近代に成立していた政治の作法と
それを破壊したデモクラシーが両立できるのか、何も語らないのは物足りない。
そもそも初期近代における他者との共存なるものは、現代リベラリズムに照らして
あまりにも素朴であり、望ましいものとは思えない。宗教戦争よりは階層秩序の
下の寛容のほうがマシかもしれないが、それは他者を理解することとは程遠いだろう。
本書が政治思想史の研究書であることを越えて(越えなくても全く構わないのだが)
警世の書たることを意図している以上は、初期近代の政治の作法のなかで
現代的意義を持つものと持たないものとを腑分けした上で自らの立場を明確にして欲しい。
まず政治思想史研究として、独自の方法論による貴重な仕事である。
文学的人文主義でもなく「政治的人文主義」でもない、
「政治思想」としての人文主義に新鮮な知的興奮を覚えた。
さらなる展開に期待したい。
しかし、例えば次のような著者の議論には多くの疑問が浮かんでくる。
「文明(civilization)の使命を掲げて非西洋世界の植民地化を進めた
19世紀以降のヨーロッパとアメリカの思想と行動はむしろ、それまでの
文明(civility)を忘却することによって可能になったのではないか。
そして、このことは同時にまた、他者との共存を可能にする政治の作法の
喪失をも意味していたのではないか」(167-8頁)
デモクラシーを否定しないとも明言している以上、著者は復古的な保守主義を
唱えたいわけではないのだろう。しかし初期近代に成立していた政治の作法と
それを破壊したデモクラシーが両立できるのか、何も語らないのは物足りない。
そもそも初期近代における他者との共存なるものは、現代リベラリズムに照らして
あまりにも素朴であり、望ましいものとは思えない。宗教戦争よりは階層秩序の
下の寛容のほうがマシかもしれないが、それは他者を理解することとは程遠いだろう。
本書が政治思想史の研究書であることを越えて(越えなくても全く構わないのだが)
警世の書たることを意図している以上は、初期近代の政治の作法のなかで
現代的意義を持つものと持たないものとを腑分けした上で自らの立場を明確にして欲しい。
2013年11月29日に日本でレビュー済み
政治思想というと、抽象的な「人権」や「民主主義」を巡って構築されてきたように考えることが多い。
しかし、そうした政治思想が生まれたのは実は近代以降の話である。
本書は、近代以降で忘れられていった「文明の作法」の再発見を主張する本である。
筆者は「人文主義的な政治」を擁護する。
そこでは、教養を持ち作法を守ることが重視されていた。
また、政治というものは、解を一意に与える「科学」のようなものではなく、一人一人が体得していく「実践術」と見られていた。
こうした作法はしかし、近代以降で忘れ去られてしまう。
政治思想に詳しい人なら、「オークショットの実践知の擁護」と言えば、本書の内容をおおよそ理解してもらえると思う。
本文中ではそのようには全く書かれていないが、しかし本書の立場は極めて正当な「保守思想」の立場である。
保守思想は、人間の理性の過信に警鐘を鳴らし、歴史の英知が眠る慣習や伝統の尊重をうたうが、これはまさに本書の立場である。
実際、本書で言及される思想家は、バーク、ヒューム、バジョット、トクヴィル、ホイジンガ、オルテガ、オークショットという保守思想家たちばかりである。
日本では保守思想の紹介は少ないのでこうした本は意義はあるが、しかしそうだと思うと記述はやや冗長で繰り返しの部分が多いように感じた。
しかし、そうした政治思想が生まれたのは実は近代以降の話である。
本書は、近代以降で忘れられていった「文明の作法」の再発見を主張する本である。
筆者は「人文主義的な政治」を擁護する。
そこでは、教養を持ち作法を守ることが重視されていた。
また、政治というものは、解を一意に与える「科学」のようなものではなく、一人一人が体得していく「実践術」と見られていた。
こうした作法はしかし、近代以降で忘れ去られてしまう。
政治思想に詳しい人なら、「オークショットの実践知の擁護」と言えば、本書の内容をおおよそ理解してもらえると思う。
本文中ではそのようには全く書かれていないが、しかし本書の立場は極めて正当な「保守思想」の立場である。
保守思想は、人間の理性の過信に警鐘を鳴らし、歴史の英知が眠る慣習や伝統の尊重をうたうが、これはまさに本書の立場である。
実際、本書で言及される思想家は、バーク、ヒューム、バジョット、トクヴィル、ホイジンガ、オルテガ、オークショットという保守思想家たちばかりである。
日本では保守思想の紹介は少ないのでこうした本は意義はあるが、しかしそうだと思うと記述はやや冗長で繰り返しの部分が多いように感じた。