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町村合併から生まれた日本近代 明治の経験 (講談社選書メチエ) 単行本(ソフトカバー) – 2013/11/12
松沢 裕作
(著)
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明治七年の町村七万八〇〇〇、明治二二年の町村一万六〇〇〇弱。明治の大合併、それは新たな境界線を社会に引く試みだった。あいつぐ町村からの異議申し立て、合併後も紛争を抱える自治体……。近世の地縁的・身分的共同体というモザイク状の世界から、近代の大字-市町村-府県-国家という同心円状の世界へ。府藩県三治制、大区小区制、そして明治二二年の大合併にいたる「地方制度」の変遷をたどりながら、近代社会を問い直す。
明治七年の町村七万八〇〇〇、明治二二年の町村一万六〇〇〇弱。
明治の大合併、それは新たな境界線を社会に引く試みだった。
あいつぐ町村からの異議申し立て、合併後も紛争を抱える自治体……。
近世の地縁的・身分的共同体というモザイク状の世界から、近代の大字-市町村-府県-国家という同心円状の世界へ。
府藩県三治制、大区小区制、そして明治二二年の大合併にいたる「地方制度」の変遷をたどりながら、近代社会を問い直す。
明治七年の町村七万八〇〇〇、明治二二年の町村一万六〇〇〇弱。
明治の大合併、それは新たな境界線を社会に引く試みだった。
あいつぐ町村からの異議申し立て、合併後も紛争を抱える自治体……。
近世の地縁的・身分的共同体というモザイク状の世界から、近代の大字-市町村-府県-国家という同心円状の世界へ。
府藩県三治制、大区小区制、そして明治二二年の大合併にいたる「地方制度」の変遷をたどりながら、近代社会を問い直す。
- 本の長さ224ページ
- 言語日本語
- 出版社講談社
- 発売日2013/11/12
- 寸法13 x 1.4 x 18.9 cm
- ISBN-104062585669
- ISBN-13978-4062585668
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登録情報
- 出版社 : 講談社 (2013/11/12)
- 発売日 : 2013/11/12
- 言語 : 日本語
- 単行本(ソフトカバー) : 224ページ
- ISBN-10 : 4062585669
- ISBN-13 : 978-4062585668
- 寸法 : 13 x 1.4 x 18.9 cm
- Amazon 売れ筋ランキング: - 284,639位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- カスタマーレビュー:
著者について
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1976年東京都生まれ。1999年東京大学文学部卒業。2002年東京大学大学院人文社会系研究科博士課程中途退学。東京大学史料編纂所助手・助教(担当は『大日本古文書 幕末外国関係文書』の編纂)、専修大学経済学部准教授(日本経済史)を経て、2014年から慶應義塾大学経済学部准教授(社会史)。専門は近世・近代日本社会史。
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2021年7月7日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
同じく歴史を扱う学問といっても、「考古学」の対象は「もの」=発掘された遺跡・遺物、「民俗学」は伝承、伝説、「歴史学」は「文」=古文書、と言われている。この本はその定石に則り、幕末から明治期の主に関東地方の古文書の解析を通して近世幕藩体制から明治政府による「近代化」が実際にどのような変化を社会にもたらしたか、を社会の最も小さな単位とされる「ムラ」に焦点を絞って分析したものである。
そのような説明をすると、多くの人は極めて「狭い世界」の「ささやかな変化」、つまり「ローカルなもののミニマムな変化」が書かれているのだろうと思うが、それは半分当たっているが半分は外れており、しかも大きく外れている。筆者の言いたいこと、というより、筆者がこの「ムラの変化」の中で見出しているのは、「近代国民国家」とはいったいなんであるのか、それはそれ以前の時代の何をどのように変えることによって成立したのか、という問題である。それは「日本」という名で呼ばれる我々の生きているこの「国家」=近代国民国家の成り立ちを説いている意味において「ローカル」ではなく「ナショナル」であり、その成立そのものが「西欧近代国家」の「地方制度」をモデルにしているという意味では「グローバル」でさえある。
「ムラ」から始まり、「町」「市」「県」そして「国」というものを筆者は「境界性暴力」と呼ぶ。そしてそれと対比しつつ「市場」という「無境界的暴力」の存在を指摘する。そして後者の力によって近代以前の「地縁的職能的共同体」としての「ムラ」が解体され、そこに住む人間にとって「切実な意味を持たない境界」としての「村」や「町」が作られる。そしてその新しい「境界」を前提にした「府県」という地方が作られていく。このような「地方の形成」が図られる時、人々はそれ以前の「ムラ」(あるいはやはり職能的に割り振られた近世の「町」)での「切実な利害関係」から切り離された「一個人」として振る舞うことを求められる。そしてその関係は「村」を起点として「国」にまで及ぶ。その時人は、「職能的地域的に結びついた共同体」としての「ムラ」の利害、あるいは「ムラ」の立場の代弁者たることから「解放され」た「国民」という視点を求められる、という。このことをフランス法学における「国民主権」と「人民主権」の違いに触れつつ語っていくくだりは、この本の最も注目すべきところだと思われる。「国民」とは一体何か「国民国家の構成員」であるということ、どういう政治的態度を指すことなのか、をこのような視点で書いた本に筆者は出会ったことがなかった。
そのような説明をすると、多くの人は極めて「狭い世界」の「ささやかな変化」、つまり「ローカルなもののミニマムな変化」が書かれているのだろうと思うが、それは半分当たっているが半分は外れており、しかも大きく外れている。筆者の言いたいこと、というより、筆者がこの「ムラの変化」の中で見出しているのは、「近代国民国家」とはいったいなんであるのか、それはそれ以前の時代の何をどのように変えることによって成立したのか、という問題である。それは「日本」という名で呼ばれる我々の生きているこの「国家」=近代国民国家の成り立ちを説いている意味において「ローカル」ではなく「ナショナル」であり、その成立そのものが「西欧近代国家」の「地方制度」をモデルにしているという意味では「グローバル」でさえある。
「ムラ」から始まり、「町」「市」「県」そして「国」というものを筆者は「境界性暴力」と呼ぶ。そしてそれと対比しつつ「市場」という「無境界的暴力」の存在を指摘する。そして後者の力によって近代以前の「地縁的職能的共同体」としての「ムラ」が解体され、そこに住む人間にとって「切実な意味を持たない境界」としての「村」や「町」が作られる。そしてその新しい「境界」を前提にした「府県」という地方が作られていく。このような「地方の形成」が図られる時、人々はそれ以前の「ムラ」(あるいはやはり職能的に割り振られた近世の「町」)での「切実な利害関係」から切り離された「一個人」として振る舞うことを求められる。そしてその関係は「村」を起点として「国」にまで及ぶ。その時人は、「職能的地域的に結びついた共同体」としての「ムラ」の利害、あるいは「ムラ」の立場の代弁者たることから「解放され」た「国民」という視点を求められる、という。このことをフランス法学における「国民主権」と「人民主権」の違いに触れつつ語っていくくだりは、この本の最も注目すべきところだと思われる。「国民」とは一体何か「国民国家の構成員」であるということ、どういう政治的態度を指すことなのか、をこのような視点で書いた本に筆者は出会ったことがなかった。
2016年9月20日に日本でレビュー済み
著者は1976年生れ、日本近代史を専門とする歴史研究者である。本書は、現在では当たり前になってしまった都道府県制度の前段階としての、明治期における町村合併の過程を詳しく追ったものである。江戸期の幕藩体制は一種の連邦制度のようなもので、幕府の権力は圧倒的に強いものの、各藩にも国家としての徴税権や司法権などが与えられていた。維新直後に明治政府が直面したのは、いかにして速やかに日本を中央集権的な近代国家(ネーション国家)に衣替えするかであった。町村合併は「効率化」と「均質化」、つまり中央政府の威令を国家の末端にまで隈なく速やかに浸透させるための重要ステップであった。
本書によれば、維新直後の日本の国土は、藩領、幕領、寺社領が各地で入り混じり、場所によっては集落単位で支配者が異なっていたという。これらの集落には、集落単位で年貢が割り当てられ、名主が各戸に年貢を割り当てる制度であったために、経済的にも精神的にも、共同体的な色彩が強かったという。しかし、明治政府はこのような国土のあり様が近代国家には程遠いことを早くから認識して、地理的に近い集落や町を新たな行政単位としての町村に糾合し、その最上位行政単位である府県に再配置させるための町村合併に着手した。
この町村合併や府県整備の過程は一本道ではなく、明治期における数回の法整備(およびそれに対する抵抗と改善の試行錯誤)を経て、ようやく現在の形に近い府県制度となった。その過程で、1874年(明治8年)に78280あった町村は、1889年(明治22年)には15859にまで激減した。これが「明治の大合併」である。ちなみに、「昭和の大合併」(1985年=昭和60年)では、戦後10520あった市町村が3253に減少し、最近の「平成の大合併」(2013年=平成25年)では、さらに1719にまで減少している(はじめに)。現在の市町村数は、明治初期の町村数の2.2%という凄まじさである。逆に言えば、町村という、住民同士の多くが顔なじみであった生活エリアの単位は、明治初期に較べると約45倍に拡がったということを意味する。このような「均質化」「効率化」「生活域の拡大」が、「ネーション国家」の一側面と言える。
このような「ネーション国家」なしでは、産業資本の拡大も、国民教育も、そして戦争も不可能だったのだ。本書は、従来の歴史書では手薄だった「ネーション国家」成立過程を明らかにしたものとして興味深い。柄谷行人氏は近代国家の本質が「資本=ネーション=国家」の三位一体構造にあるとして、著書『トランスクリーティク』でその起源を詳細に明らかにした。本書の論旨に沿えば、明治の農村不況で大量の労働者が放出され、産業資本や軍隊に吸収されることで、「資本=ネーション=国家」構造が完成するのである。したがって「資本=ネーション=国家」構造は、明治期の町村合併を分析するための重要な視点と言える。
なお、現代の国家の本質を「資本=ネーション=国家」の三位一体構造として捉え、この強固な軛からの脱却を論じたのは上述のように柄谷行人氏である。本書では、柄谷氏も引用しているカール・ポランニーについては言及しているものの、柄谷氏の業績には全く言及がない。あまりフェアとは言えないのではないだろうか。
本書によれば、維新直後の日本の国土は、藩領、幕領、寺社領が各地で入り混じり、場所によっては集落単位で支配者が異なっていたという。これらの集落には、集落単位で年貢が割り当てられ、名主が各戸に年貢を割り当てる制度であったために、経済的にも精神的にも、共同体的な色彩が強かったという。しかし、明治政府はこのような国土のあり様が近代国家には程遠いことを早くから認識して、地理的に近い集落や町を新たな行政単位としての町村に糾合し、その最上位行政単位である府県に再配置させるための町村合併に着手した。
この町村合併や府県整備の過程は一本道ではなく、明治期における数回の法整備(およびそれに対する抵抗と改善の試行錯誤)を経て、ようやく現在の形に近い府県制度となった。その過程で、1874年(明治8年)に78280あった町村は、1889年(明治22年)には15859にまで激減した。これが「明治の大合併」である。ちなみに、「昭和の大合併」(1985年=昭和60年)では、戦後10520あった市町村が3253に減少し、最近の「平成の大合併」(2013年=平成25年)では、さらに1719にまで減少している(はじめに)。現在の市町村数は、明治初期の町村数の2.2%という凄まじさである。逆に言えば、町村という、住民同士の多くが顔なじみであった生活エリアの単位は、明治初期に較べると約45倍に拡がったということを意味する。このような「均質化」「効率化」「生活域の拡大」が、「ネーション国家」の一側面と言える。
このような「ネーション国家」なしでは、産業資本の拡大も、国民教育も、そして戦争も不可能だったのだ。本書は、従来の歴史書では手薄だった「ネーション国家」成立過程を明らかにしたものとして興味深い。柄谷行人氏は近代国家の本質が「資本=ネーション=国家」の三位一体構造にあるとして、著書『トランスクリーティク』でその起源を詳細に明らかにした。本書の論旨に沿えば、明治の農村不況で大量の労働者が放出され、産業資本や軍隊に吸収されることで、「資本=ネーション=国家」構造が完成するのである。したがって「資本=ネーション=国家」構造は、明治期の町村合併を分析するための重要な視点と言える。
なお、現代の国家の本質を「資本=ネーション=国家」の三位一体構造として捉え、この強固な軛からの脱却を論じたのは上述のように柄谷行人氏である。本書では、柄谷氏も引用しているカール・ポランニーについては言及しているものの、柄谷氏の業績には全く言及がない。あまりフェアとは言えないのではないだろうか。
2014年1月16日に日本でレビュー済み
正直言って難解。何故かと言えば、筆者の目指す概念が結論に至っても抽象的だからだ。曰く「グローバリゼーションと国民国家が、無境界的暴力と境界的暴力が相互に依存し合いながらわたしたちの暮らしに大きな暴力をふるい続けている」のが危険、というのがその言説。要は地縁的な世界から、他の世界の一部分になった相剋を語りたいらしいのだが、為政者側の法制論を後付けしているだけでは目線が下がらない。典型的な事例を追跡して見せた方が同じテーマを書くにも分かり易かったと。ちょっとテーマを精選して具体例➡︎抽象化、というステップを。
2016年1月16日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
今まで、明治初期の自治体について、読んだことがなかったので、興味深く読んだ
2014年6月8日に日本でレビュー済み
幕府の世界から明治政府の世界へ。
日本の支配体制が徐々に塗り替わっていく様子が具体的に分かって面白かった。
江戸時代の村にとって支配者とは、その時々でコロコロ変わるもの。
しかも同じ支配者の領地がトビトビで「隣村とウチ、同じお代官様」とは限らず、近隣の村どおしの被支配的な連帯感は意外となかったようです(それでも目前の懸案事項には当事者たる村どおし「組合村」を組織して、治水など事業にあたっていた)。
それを徐々に同じ条件をそろえた自治体の連続に、日本を組み替えてゆく。
まず新政府軍に投降(!)した代官の領地(村いくつか分)は、とりあえずそのまま新政府領地となり、代官もそのまま知事になる、というところから始まって・・・って想像も付かない混乱があったように思うのですが。
最初20年くらいの試行錯誤を経て制度面は整い、しかしその後、明治いっぱいくらいはゴチャゴチャしていた感じ。
でも思ったよりちゃんと調整している、というか融通が利くというか、徐々に固めて行った印象でした。
江戸時代の利害関係を共にした地縁的な町村を、明治政府は機械的に再編成し人々の関係を断ち切った的な説がある一方で、村を守る責任を負わされていた名主・庄屋たちをストレスから解放したとする説もあることが分かって面白かった。
ちなみに、強いフレーズがいくつかあって、気に入りました。例えば・・・
・「誰か特定の人の利益ではない」ということは、結局、「誰の利益でもない」ということと表裏一体である。
・明確な境界線は、意味がないからこそ明確に引くことができるのだ。
日本の支配体制が徐々に塗り替わっていく様子が具体的に分かって面白かった。
江戸時代の村にとって支配者とは、その時々でコロコロ変わるもの。
しかも同じ支配者の領地がトビトビで「隣村とウチ、同じお代官様」とは限らず、近隣の村どおしの被支配的な連帯感は意外となかったようです(それでも目前の懸案事項には当事者たる村どおし「組合村」を組織して、治水など事業にあたっていた)。
それを徐々に同じ条件をそろえた自治体の連続に、日本を組み替えてゆく。
まず新政府軍に投降(!)した代官の領地(村いくつか分)は、とりあえずそのまま新政府領地となり、代官もそのまま知事になる、というところから始まって・・・って想像も付かない混乱があったように思うのですが。
最初20年くらいの試行錯誤を経て制度面は整い、しかしその後、明治いっぱいくらいはゴチャゴチャしていた感じ。
でも思ったよりちゃんと調整している、というか融通が利くというか、徐々に固めて行った印象でした。
江戸時代の利害関係を共にした地縁的な町村を、明治政府は機械的に再編成し人々の関係を断ち切った的な説がある一方で、村を守る責任を負わされていた名主・庄屋たちをストレスから解放したとする説もあることが分かって面白かった。
ちなみに、強いフレーズがいくつかあって、気に入りました。例えば・・・
・「誰か特定の人の利益ではない」ということは、結局、「誰の利益でもない」ということと表裏一体である。
・明確な境界線は、意味がないからこそ明確に引くことができるのだ。
2013年12月22日に日本でレビュー済み
江戸時代、日本の地方は今のように自治体の境界が明確ではありませんでした。うちの村はある殿様に年貢を納めているけれど、隣村は全然別の殿様のご配下にあるといった具合で、封建的な領国支配が錯綜しモザイク状になっていたのです。
大藩は自ら官僚組織を有して国を治めますが、小藩、あるいは禄を支給されるだけの侍は、自分の領地を治めることができず、個々の村々はまさしく「自治」されていました。その中核となるのは貢納の責任を村が請け負う年貢の村請制度。ただたんに徴税事務を行うだけでなく、不足分は持てる家から融通したりして、自らファイナンスを行うだけの財政能力を持った行政法人だったのです。また同じ山の水を田んぼに使っているという場合は、御領主様がだれであろうと関係なく、近隣の村々同士が互いにルールを決め、共同で水の管理を組合を作ったりしていた。幕藩体制はこのような自然発生的な住民同士の社会契約の上に成り立っていたのです。
明治時代になると、この組織が一変する。版籍奉還で行政権を一手に集めた明治政府は地方を県に再編していく。それは中央集権的な国家制度の確立という点で近代的である半面、古代の律令制に復古するという原則がはたらいていたようで、明治初年代に地方制度や県の区割りは政治的な思惑で二転三転する。かつての封建的な領地支配を一切断ち切り、それぞれ生業条件が異なる村々を、ただ隣接しているからという理由で同一の財政主体にまとめようとすると、各集落の損得が分れて、村レベルでも紛糾する。
しかし地租改正で、納税の責任が個人に分割して課せられるようになると、村請制度を基盤としていた自治体は存在意義を失います。加えて近代的な市場経済が浸透してくると、かつては様々な自然的地理的条件ごとに調整されていた村同士の取り決めはどうでもいいものになって、やがて住民たちは中央官僚の恣意的な自治体の区割りを受け入れます。それは国民がそれぞれが暮らす個々の環境に生きる具体性を失い、天皇を中心とした同心円状の抽象的な国家秩序に組み込まれていくということを意味していました。
明治10年代までの近代史は混沌としていて、今日の近代社会のイメージからは捕えがたいのですが、著者は地方の史料を丹念に掘り起こし、厳密な批判と解釈を加えて、日本人が忘れかけていた近代初期の姿を私たちに教えてくれます。その考証は、個々の事例を一概に敷衍することもなく、じつに手堅い。地味だけれど見事な研究だと思います。
しかし結論部分は少々いただけない。最近はやりのアンダーソン流の国民国家論をもってきて無理やり接合しようとする。国民国家論が無効だとはいいませんが、本書の研究の具体性にくらべると、ありきたりで抽象的に過ぎるように思えます。厳しいようですが、そのことについて減点1。著者のテーマはいわば宝の山なのだから、そんな「大きな物語」に色目を使わず、地道に自分のテーマが必要とすることを順繰りにこなしていけば、いずれは大研究になると思います。
大藩は自ら官僚組織を有して国を治めますが、小藩、あるいは禄を支給されるだけの侍は、自分の領地を治めることができず、個々の村々はまさしく「自治」されていました。その中核となるのは貢納の責任を村が請け負う年貢の村請制度。ただたんに徴税事務を行うだけでなく、不足分は持てる家から融通したりして、自らファイナンスを行うだけの財政能力を持った行政法人だったのです。また同じ山の水を田んぼに使っているという場合は、御領主様がだれであろうと関係なく、近隣の村々同士が互いにルールを決め、共同で水の管理を組合を作ったりしていた。幕藩体制はこのような自然発生的な住民同士の社会契約の上に成り立っていたのです。
明治時代になると、この組織が一変する。版籍奉還で行政権を一手に集めた明治政府は地方を県に再編していく。それは中央集権的な国家制度の確立という点で近代的である半面、古代の律令制に復古するという原則がはたらいていたようで、明治初年代に地方制度や県の区割りは政治的な思惑で二転三転する。かつての封建的な領地支配を一切断ち切り、それぞれ生業条件が異なる村々を、ただ隣接しているからという理由で同一の財政主体にまとめようとすると、各集落の損得が分れて、村レベルでも紛糾する。
しかし地租改正で、納税の責任が個人に分割して課せられるようになると、村請制度を基盤としていた自治体は存在意義を失います。加えて近代的な市場経済が浸透してくると、かつては様々な自然的地理的条件ごとに調整されていた村同士の取り決めはどうでもいいものになって、やがて住民たちは中央官僚の恣意的な自治体の区割りを受け入れます。それは国民がそれぞれが暮らす個々の環境に生きる具体性を失い、天皇を中心とした同心円状の抽象的な国家秩序に組み込まれていくということを意味していました。
明治10年代までの近代史は混沌としていて、今日の近代社会のイメージからは捕えがたいのですが、著者は地方の史料を丹念に掘り起こし、厳密な批判と解釈を加えて、日本人が忘れかけていた近代初期の姿を私たちに教えてくれます。その考証は、個々の事例を一概に敷衍することもなく、じつに手堅い。地味だけれど見事な研究だと思います。
しかし結論部分は少々いただけない。最近はやりのアンダーソン流の国民国家論をもってきて無理やり接合しようとする。国民国家論が無効だとはいいませんが、本書の研究の具体性にくらべると、ありきたりで抽象的に過ぎるように思えます。厳しいようですが、そのことについて減点1。著者のテーマはいわば宝の山なのだから、そんな「大きな物語」に色目を使わず、地道に自分のテーマが必要とすることを順繰りにこなしていけば、いずれは大研究になると思います。