長らく手に入りにくい状態だった本書、新装改訂版は本当にうれしい、感謝です。
20世紀に読んで衝撃的だった本書だが、20年以上も経つと内容もほとんど覚えていないため再読したかった本のひとつでした。
これから、また読めるかと思うとわくわくします。
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夏と冬の奏鳴曲 (講談社文庫 ま 32-2) 文庫 – 1998/8/1
麻耶 雄嵩
(著)
首なし死体が発見されたのは、雪が降り積もった夏の朝だった!20年前に死んだはずの美少女、和音(かずね)の影がすべてを支配する不思議な和音島。なにもかもがミステリアスな孤島で起きた惨劇の真相とは?メルカトル鮎の一言がすべてを解決する。新本格長編ミステリーの世界に、またひとつ驚愕の名作が誕生!
- 本の長さ717ページ
- 言語日本語
- 出版社講談社
- 発売日1998/8/1
- ISBN-104062638916
- ISBN-13978-4062638913
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商品の説明
著者について
1969年、三重県生まれ。京都大学工学部卒。在学中は綾辻行人氏らを輩出した推理小説研究会に所属する。’91年『翼ある闇──メルカトル鮎最後の事件』でデビュー。新本格長編ミステリー第2世代の旗手として注目される。著書の長編ミステリーには『痾』『あいにくの雨で』(いずれも講談社)など。
登録情報
- 出版社 : 講談社 (1998/8/1)
- 発売日 : 1998/8/1
- 言語 : 日本語
- 文庫 : 717ページ
- ISBN-10 : 4062638916
- ISBN-13 : 978-4062638913
- Amazon 売れ筋ランキング: - 555,526位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 7,806位講談社文庫
- - 12,809位日本文学
- - 50,041位エンターテイメント (本)
- カスタマーレビュー:
著者について
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2023年6月26日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
内容は申し分なく、面白いが、理解するには大層長い時間を要する作品と思う。
その理解に必要な時間が作品を、より面白くすると思う。ぜひ読んでみてください。
その理解に必要な時間が作品を、より面白くすると思う。ぜひ読んでみてください。
2022年1月25日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
ミステリーとしてはああ、そういうことか!とはおもうんですけど。その他の要素が必要だったのかがわからないので読む人を選ぶお話だと思いました。
2016年9月9日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
先日、三度目再読。
友達に紹介する本ではないと思いつつ、10人位に紹介して読んでもらった。
めちゃくちゃ罵倒する人、大絶賛する人、賛否両論毀誉褒貶激しい本だとあらためておもった。
でも、どちらかと言うと面白くなかったという人が多かったかなという印象だ。
いろいろ話をした所、面白くないという人の意見もわからなくもないが、新本格ミステリを語る上では避けて通ることのできない本であることは間違いないと思う。
麻耶氏の出版されている書籍はすべて読んでいるが、一番とっつきにくいかもしれない、死人が出るのは中盤を過ぎてから、もちろん謎はあるが、それまで何百ページもの冗長と言われても仕方がない薀蓄と会話が続く。ミステリとは思えない密室トリック、実現不可能な謎。
だが、最後のカタストロフィーは、他のミステリがすべて陳腐に見える程の衝撃を受けた。
詳しい内容は読んでのお楽しみだが、アンチミステリでありながら本格ミステリであり、自分の存在自体が不確かになるほどのめまいを感じる。ドグラ・マグラに取って代わる奇書ぶりである。(もちろんドグラ・マグラも大好きだ)
私はこの書を戦後三大奇書(カテゴリーを勝手に作った)にしてもいいかと思う。
いろんな解説サイトを見ていると、最後の謎についていろいろな解釈がなされているが、私はあまり納得できていない。この本に関しては、謎は謎のまま残しておいたほうが良いのではないか。そう思うと、次作の痾は必要だったのかなと疑問に思う。
夏と冬の奏鳴曲の続編を出すのは著者の勝手だが、痾が存在することにより夏と冬の奏鳴曲の神秘性が一部薄れる結果となっているのではないか。
友達に紹介する本ではないと思いつつ、10人位に紹介して読んでもらった。
めちゃくちゃ罵倒する人、大絶賛する人、賛否両論毀誉褒貶激しい本だとあらためておもった。
でも、どちらかと言うと面白くなかったという人が多かったかなという印象だ。
いろいろ話をした所、面白くないという人の意見もわからなくもないが、新本格ミステリを語る上では避けて通ることのできない本であることは間違いないと思う。
麻耶氏の出版されている書籍はすべて読んでいるが、一番とっつきにくいかもしれない、死人が出るのは中盤を過ぎてから、もちろん謎はあるが、それまで何百ページもの冗長と言われても仕方がない薀蓄と会話が続く。ミステリとは思えない密室トリック、実現不可能な謎。
だが、最後のカタストロフィーは、他のミステリがすべて陳腐に見える程の衝撃を受けた。
詳しい内容は読んでのお楽しみだが、アンチミステリでありながら本格ミステリであり、自分の存在自体が不確かになるほどのめまいを感じる。ドグラ・マグラに取って代わる奇書ぶりである。(もちろんドグラ・マグラも大好きだ)
私はこの書を戦後三大奇書(カテゴリーを勝手に作った)にしてもいいかと思う。
いろんな解説サイトを見ていると、最後の謎についていろいろな解釈がなされているが、私はあまり納得できていない。この本に関しては、謎は謎のまま残しておいたほうが良いのではないか。そう思うと、次作の痾は必要だったのかなと疑問に思う。
夏と冬の奏鳴曲の続編を出すのは著者の勝手だが、痾が存在することにより夏と冬の奏鳴曲の神秘性が一部薄れる結果となっているのではないか。
2021年11月5日に日本でレビュー済み
私がこの作品に出会ったのは15年前、高校生の時でした。当時ミステリにどっぷり浸かるとともに、難解な小説、古典、演劇、映画などを読み解くのに夢中になっていた私にとって、この作品は大好物でした。ですが、理解するまでに15年かかった作品は、これだけです。
今回、新装改訂版が出るにあたって、久しぶりに最初から一字一句飛ばさずに読みましたが、本当に無駄なシーンが一つもない。前半、殺人が起きる前を冗長に感じるかもしれませんが、烏有がほぼすべてのページで心の中で突っ込んでいる「こいつら何かおかしい」と思うことは、すべて最終的には解決され、理解して読むと、「そういうことか…!」と1シーン、1シーン、噛みしめながら楽しめ、序盤から何度もさむけを味わいました。アンチミステリである本書も、正しく、ミステリ的な楽しみ方ができる本であることを再確認しました。
何度も読み返していたので、キュビズムの論理、立体派の内奥、密室の持つ意味、春と秋の奏鳴曲、黙示録、武藤の目的、密室や雪のもつ意味、物議を醸した最後のアレ、烏有の選択の持つ意味、メルカトルの一言…すべてその意味を理解していたつもりでした。
ですが、自分にとってこの15年、最大の謎は、「なぜ麻耶雄嵩はデビュー2作目でコレを書いたのか」でした。
どんなに一作目「翼ある闇」が破格の高評価を受けたとしても、ミステリ作家として生きていけると決まったわけじゃない。有栖川有栖だって、「誰しもミステリを一作は書けるかもしれない。だが、二作目を書けるかどうかが、作家として大事だ」という内容のことを書いており、その有栖川有栖の二作目は正統派中の正統派、孤島パズル。それに対して、麻耶雄嵩は「夏と冬の奏鳴曲」…。控えめに言って頭がおかしい。こういうのはもう読者の評価とか気にしなくなったデビュー何十年の重鎮が戯れに書くような作品であって、デビュー2作目なら、普通は「鴉」のようなまっとうなミステリを書くものかと思います。でも、麻耶雄嵩は敢えてこれを書いた…それが、この15年、自分にとって最大の謎でした。
今回読み返して、その最大の謎がようやく解けて、本当にスッキリしたので、以下にそれを書きたいと思います。
作品自体のネタバレはなく、基本的にはキュビズム関連のところを面倒くさくなった読者に対するレビューです。そのため、ゆっくり年単位の時間をかけて、自分で本書を読み解きたい方は読まないでください。
それでは…
簡潔に言うと、「立体派の内奥は、後期クイーン的問題だった」ということかと思います。
キュビズムにおける展開…対象を相対化し、対象物の本質に迫るという行為は、ミステリにおける「作品の中のすべての事象を、探偵が自分の物差しで理解し、意味づけし、絶対的な真実に迫る、推理という行為」に極めて構造が類似しています。隻眼の少女的に言えば、「右目で見る」という行為であり、痾においてメルカトルが烏有に能を見せた理由でもあります。
そして、その中で「どんなに展開を続けても、キャンバス上に空虚な空間ができてしまう」ように、ミステリにおいても「どんなに推理を続けても、絶対に正しいと最後まで詰め切ることができない」という後期クイーン的問題が存在しています。
つまり、麻耶雄嵩は、キュビズムの論理とその失敗に、ミステリにおけるロジックの限界を重ね合わせて、この作品を書いたのではないでしょうか。
そう理解すると、「最後のアレ」は、もちろんキュビズム的に理解(絶対が××により相対化される)も可能なのですが、ミステリ的に言えば「延々と精緻なロジックを突き詰め続けて真実にたどり着いたと思ったのに、最後の最後で正しい推理が二つ産まれてしまった」状態と考えられます。
そこで、それに対して何をしたか?
それが、異物です。
キュビズムであればパピエコレ、神父や武藤にとっては奇蹟であったように、ミステリであればそれは何か?
麻耶雄嵩は、どこまでいっても絶対に絶対化できない推理を絶対化するために、己の作品にぶち込んだ、本来ミステリには存在しなかった異物。それがメルカトルや鈴木、みかげといった麻耶雄嵩の描きたかった探偵像なのだろう、と。
正統派に、与えられた情報の中でしか推理できない「名探偵」の木更津を後目に、メルカトルは自分で証拠を持ってきたり、能動的に相手に証拠を出させたり、本当にやりたい放題します。鈴木については語るまでもないでしょう。みかげに至っては圧倒的なまでの作りこみにより、不可能と言われた壁の正面突破を試みた。だからこそ、彼らは後期クイーン問題を超えていける。
麻耶雄嵩が探偵に求めたのは、「推理を絶対に正しいとは詰め切れないときに、そこを超えていける力」なのではないでしょうか。だからこそ、最後で「あの決断」をすることができた烏有だからこそ、メルカトルから「優秀な探偵の才能がある」と言われるのです。
そう考えると、本作「夏と冬の奏鳴曲」は、2作目でありながら、その後の麻耶雄嵩の作家人生30年分を予言していた、まさに黙示録とも呼べる作品なのではないでしょうか。
今回、新装改訂版が出るにあたって、久しぶりに最初から一字一句飛ばさずに読みましたが、本当に無駄なシーンが一つもない。前半、殺人が起きる前を冗長に感じるかもしれませんが、烏有がほぼすべてのページで心の中で突っ込んでいる「こいつら何かおかしい」と思うことは、すべて最終的には解決され、理解して読むと、「そういうことか…!」と1シーン、1シーン、噛みしめながら楽しめ、序盤から何度もさむけを味わいました。アンチミステリである本書も、正しく、ミステリ的な楽しみ方ができる本であることを再確認しました。
何度も読み返していたので、キュビズムの論理、立体派の内奥、密室の持つ意味、春と秋の奏鳴曲、黙示録、武藤の目的、密室や雪のもつ意味、物議を醸した最後のアレ、烏有の選択の持つ意味、メルカトルの一言…すべてその意味を理解していたつもりでした。
ですが、自分にとってこの15年、最大の謎は、「なぜ麻耶雄嵩はデビュー2作目でコレを書いたのか」でした。
どんなに一作目「翼ある闇」が破格の高評価を受けたとしても、ミステリ作家として生きていけると決まったわけじゃない。有栖川有栖だって、「誰しもミステリを一作は書けるかもしれない。だが、二作目を書けるかどうかが、作家として大事だ」という内容のことを書いており、その有栖川有栖の二作目は正統派中の正統派、孤島パズル。それに対して、麻耶雄嵩は「夏と冬の奏鳴曲」…。控えめに言って頭がおかしい。こういうのはもう読者の評価とか気にしなくなったデビュー何十年の重鎮が戯れに書くような作品であって、デビュー2作目なら、普通は「鴉」のようなまっとうなミステリを書くものかと思います。でも、麻耶雄嵩は敢えてこれを書いた…それが、この15年、自分にとって最大の謎でした。
今回読み返して、その最大の謎がようやく解けて、本当にスッキリしたので、以下にそれを書きたいと思います。
作品自体のネタバレはなく、基本的にはキュビズム関連のところを面倒くさくなった読者に対するレビューです。そのため、ゆっくり年単位の時間をかけて、自分で本書を読み解きたい方は読まないでください。
それでは…
簡潔に言うと、「立体派の内奥は、後期クイーン的問題だった」ということかと思います。
キュビズムにおける展開…対象を相対化し、対象物の本質に迫るという行為は、ミステリにおける「作品の中のすべての事象を、探偵が自分の物差しで理解し、意味づけし、絶対的な真実に迫る、推理という行為」に極めて構造が類似しています。隻眼の少女的に言えば、「右目で見る」という行為であり、痾においてメルカトルが烏有に能を見せた理由でもあります。
そして、その中で「どんなに展開を続けても、キャンバス上に空虚な空間ができてしまう」ように、ミステリにおいても「どんなに推理を続けても、絶対に正しいと最後まで詰め切ることができない」という後期クイーン的問題が存在しています。
つまり、麻耶雄嵩は、キュビズムの論理とその失敗に、ミステリにおけるロジックの限界を重ね合わせて、この作品を書いたのではないでしょうか。
そう理解すると、「最後のアレ」は、もちろんキュビズム的に理解(絶対が××により相対化される)も可能なのですが、ミステリ的に言えば「延々と精緻なロジックを突き詰め続けて真実にたどり着いたと思ったのに、最後の最後で正しい推理が二つ産まれてしまった」状態と考えられます。
そこで、それに対して何をしたか?
それが、異物です。
キュビズムであればパピエコレ、神父や武藤にとっては奇蹟であったように、ミステリであればそれは何か?
麻耶雄嵩は、どこまでいっても絶対に絶対化できない推理を絶対化するために、己の作品にぶち込んだ、本来ミステリには存在しなかった異物。それがメルカトルや鈴木、みかげといった麻耶雄嵩の描きたかった探偵像なのだろう、と。
正統派に、与えられた情報の中でしか推理できない「名探偵」の木更津を後目に、メルカトルは自分で証拠を持ってきたり、能動的に相手に証拠を出させたり、本当にやりたい放題します。鈴木については語るまでもないでしょう。みかげに至っては圧倒的なまでの作りこみにより、不可能と言われた壁の正面突破を試みた。だからこそ、彼らは後期クイーン問題を超えていける。
麻耶雄嵩が探偵に求めたのは、「推理を絶対に正しいとは詰め切れないときに、そこを超えていける力」なのではないでしょうか。だからこそ、最後で「あの決断」をすることができた烏有だからこそ、メルカトルから「優秀な探偵の才能がある」と言われるのです。
そう考えると、本作「夏と冬の奏鳴曲」は、2作目でありながら、その後の麻耶雄嵩の作家人生30年分を予言していた、まさに黙示録とも呼べる作品なのではないでしょうか。
2013年3月12日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
本格推理小説ファンの自分にとってはストーリーにちょっと無理があると思う。とくに雪密室のトリックは反則と思う。