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大王から天皇へ (日本の歴史) 単行本 – 2000/12/26
天下を治める「大王」たちの朝鮮半島と大陸への貪欲なかかわり。王権の試練のなか、支配体制はいかに強化され、独自の「日本」が形成されたのか。王から神への飛躍はいかになされたか。
- 本の長さ376ページ
- 言語日本語
- 出版社講談社
- 発売日2000/12/26
- ISBN-104062689030
- ISBN-13978-4062689038
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商品の説明
商品説明
カラは朝鮮半島の慶尚道に栄えた「加耶諸国」のことだが、「列島社会」は外国という意味をこめて「カラ」と呼んでいたという。しかし、カラは「天気がよければ対馬の北西端の千俵蒔山から遠望することができる」のだから、カラと九州は言語と信仰を共有する同一文化圏だった可能性もある。現に古代朝鮮語学者の朴炳植(パク・ビョンシク)は著書『日本原記』(情報センタ-出版局刊)で、九州を支配圏に収めたカラが東進して畿内に初期ヤマト王権を築いたという仮説を立てている。これとは逆に、ヤマト勢力が畿内から西進して「カラと出会った」という本書の仮説に従うにしても、ヤマトがカラの前に出会った九州はなぜ「外国」ではなかったのか。ナイーブにすぎるかもしれないが、「ヤマトとカラの出会い」をヤマト王権の原点とする本書の前提に、まずそんな疑問を抱いてしまうのである。
また本書は、『日本書紀』が使う「任那(みまな)」という呼称は、ヤマト王権の「独尊的立場」が産出した「政治臭がプンプンすることば」だから使いたくないと言うが、ならば「新羅(シ-ラ)」を「シラギ」と読ませ、「百済(ペクチェ)」を「クダラ」と読ませた書紀編纂者の意図についても、説明してほしいのである。
ヤマト王権は「乙巳のク-デタ-(大化の改新)」「壬申の乱」などの政変と内戦を経験し、「天武」において初めて「天皇」という権力理念を確立する。その天武については、天智の弟とする説と兄とする説があるが、本書は「弟」説を取っている。そして、乙巳のク-デタ-で蘇我入鹿惨殺の現場を目撃した古人大兄皇子の「韓人(カラヒト)、鞍作りを殺しつ」という証言を「謎めいたことば」とするのだが、さきの朴は日本書紀を古代朝鮮語で読むことによって、謎解きを試みている。もちろん、それも仮説である。古代史には「邪馬台国」論争に見られるようにあまたの仮説がある。本書はいくつかの仮説を(ときには「俗説」として)排除しているが、そうした学術論争のラチ外にいる一般読者は、どの仮説を採ったらいいのか、非常に迷うのである。(伊藤延司)
著者について
登録情報
- 出版社 : 講談社 (2000/12/26)
- 発売日 : 2000/12/26
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 376ページ
- ISBN-10 : 4062689030
- ISBN-13 : 978-4062689038
- Amazon 売れ筋ランキング: - 488,196位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 6,624位日本史一般の本
- カスタマーレビュー:
著者について
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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古代であるいわゆる古墳時代における大王は絶対的な存在ではなく、
王中の王に過ぎなかった。
天皇号は日本という国号ともセットにして考えるべき
重要なテーマであるが、
それを明確に確認させる、換言すれば「天皇」を
歴史的存在として把握できる端緒になろう。
これだけの本は他にはなかなか無いだろう。
しかし、残念なのは商品説明にもあるように、著者による「カラ」の解釈に疑問が残るという点である。
「任那」に関しては確実な史料を見ればわかるように、実在したのは間違いないと言っていいだろう。
膨大な史料をもとに書かれた本書文中でもその事実からは逃れられるわけもなく、「任那」の登場を避けられないという矛盾が生じている。
だが、著者の熊谷公男氏が「政治臭のプンプンすることばなのである」とし、「『任那』という用語は、使いたくないし、使うべきでもない」との田中俊明氏の主張に「同感である」と言っているのは、福井県出身で朝鮮主義の田中俊明氏の意志を考慮し、強いてはその全体の半島民族主義者たちをも考慮した発言なのかもしれない。
なぜなら、偏った民族主義者こそこのような良本を読み、正確な歴史認識を持つべきであると熊谷公男氏が考えたからではないだろうか。
この本は、問題の「広開土王碑文」に関しても諸説を紹介し、それらをふまえた上で「(実はスパイ)、酒匂景信」としながらも、多角的視点から「広開土王碑文」の正確な分析がなされていると思う。
好太王の「戦闘の戦績」を称える碑文に「倭」が主語になっている「辛卯年条」があることがおかしいという向きがあるようだが、好太王がその「戦闘」のために出兵をせざるをえない状況を作ったのが「倭」だというのだから仕方がないことであろう。
強国に囲まれた無防備な半島とは違い、倭国(ヤマト王権)は国力を蓄えやすく、倭国(ヤマト王権)もまた強かであったことがうかがえる記述であるといえる。
この後、低い官爵も冊封も必要がないとし、倭国(ヤマト王権)は「隋」に対して倭王を「日出る処の天子」として対等外交を行うのだが、これらもやはり地理的優位性があったからこそだったのではないだろうか。
現代の韓国人の中には「百済」が「倭国(ヤマト王権)」の宗主国であったという歴史認識をもっている人がいるようであるが、そういった歴史認識をもった方たちにも本書を一読して頂きたいと思う。
また、忠清南道あたりに住んでいるというだけで、自分の先祖が百済人であると思い込んでいる人がいるようだが、「旧唐書東夷伝」には「百済之種遂絶」とあり、「百済」の血族や文化は約1300年前に既に失われてしまっている事がわかる。
もし、このような誤った論法で歴史認識をしていけば、「任那日本府」があったという慶尚南道あたりに住んでいる人間は日本人であるという事になりかねないであろう。
古代日本の正しい歴史を客観的視点から認識したいという方には、おすすめの本である。
国籍不明の作家が書く珍説本とは一線を画する本であるということは間違いない。
このしゅの本が出てほしい。
もちろん、そのような考え方はあってよいし、出版するのも自由である。ただ本書は、「(百済の古記録)その利用には十分な配慮が必要なのである」「(『書紀』)そのまま 信用することはできない」「(広開土王碑)文字通りに受け取ることは躊躇される」「(宋書)簡単に鵜呑みにできない」「(半島で発見された前方後円墳)だからといって彼らが栄山江流域の支配者であったわけではない」といった調子で、何を根拠に歴史を語っているのだろう。百歩譲ってそれも自由だが、ポジショントークがあまりにも頻出しすぎで、とても読みづらい。売文の徒としていかがなものか。
先頃『ユダヤ人の起源』なる本を読んだ。発見された遺物が聖書のテクストどおりでなく矛盾が現れると、シオニズムの学者たちが「説明のつかない遺跡をして思い通りに好きなことを語らせ、それを聖書の記述に合致させ、調和のとれた信頼性を与える」やり方に冷ややかな目を向けていた。本書は冒頭で、古代史学界が近年不振な一方、考古学界は「研究者の増加とも相まって、研究が格段に進展している」と嘆いている。その原因が奈辺にあるか、よく考えて見たほうがよいであろう。