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政党政治と天皇 (日本の歴史) 単行本 – 2002/9/9
伊藤 之雄
(著)
理想と危うさ、昭和天皇の政治関与
明治・大正・昭和の天皇は、政治にどう関与したのか?昭和天皇はなぜ、田中義一首相を問責したのか?東アジアの国際環境のうねりの中で、変容していく日本の君主制。明治天皇の死から5・15事件による政党政治の崩壊までを、日英比較を交え、さまざまな人々の生き様を通して描く。「倉富勇三郎日記」『牧野伸顕日記』「大正天皇実録」などから隠された事実を読み込み、新史料を駆使した意欲作。
明治・大正・昭和の天皇は、政治にどう関与したのか?昭和天皇はなぜ、田中義一首相を問責したのか?東アジアの国際環境のうねりの中で、変容していく日本の君主制。明治天皇の死から5・15事件による政党政治の崩壊までを、日英比較を交え、さまざまな人々の生き様を通して描く。「倉富勇三郎日記」『牧野伸顕日記』「大正天皇実録」などから隠された事実を読み込み、新史料を駆使した意欲作。
- ISBN-104062689227
- ISBN-13978-4062689229
- 出版社講談社
- 発売日2002/9/9
- 言語日本語
- 本の長さ400ページ
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商品の説明
著者について
■伊藤之雄(いとうゆきお)
1952年生まれ。京都大学文学部史学科卒業、同大学大学院文学研究科修了、博士(文学)。名古屋大学文学部助教授等を経て、現在、京都大学大学院法学研究科教授。京都市市政史編纂委員会代表。1995年~97年、ハーヴァード大学イェンチン研究所・同ライシャワー日本研究所で研究。専攻は近・現代日本政治外交史。主な著書に『大正デモクラシーと政党政治』(山川出版社)、『立憲国家の確立と伊藤博文』(吉川弘文館)、『立憲国家と日露戦争』(木鐔社)、『環太平洋の国際秩序の模索と日本』(山川出版社、共編著)、『二〇世紀日米関係と東アジア』(風媒社、共編著)等がある。
1952年生まれ。京都大学文学部史学科卒業、同大学大学院文学研究科修了、博士(文学)。名古屋大学文学部助教授等を経て、現在、京都大学大学院法学研究科教授。京都市市政史編纂委員会代表。1995年~97年、ハーヴァード大学イェンチン研究所・同ライシャワー日本研究所で研究。専攻は近・現代日本政治外交史。主な著書に『大正デモクラシーと政党政治』(山川出版社)、『立憲国家の確立と伊藤博文』(吉川弘文館)、『立憲国家と日露戦争』(木鐔社)、『環太平洋の国際秩序の模索と日本』(山川出版社、共編著)、『二〇世紀日米関係と東アジア』(風媒社、共編著)等がある。
登録情報
- 出版社 : 講談社 (2002/9/9)
- 発売日 : 2002/9/9
- 言語 : 日本語
- 単行本 : 400ページ
- ISBN-10 : 4062689227
- ISBN-13 : 978-4062689229
- Amazon 売れ筋ランキング: - 784,779位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- カスタマーレビュー:
著者について
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2013年4月5日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
「第1章 大正政変」から書き起こし、「第8章 世界恐慌と立憲君主制の危機」「終章 庶民文化と天皇」で締めくくられている。著者は、近・現代日本政治外交史がご専門のようであるが、ベルリン・オリンピックで金メダリストになった天才スウィマー前畑秀子の逸話で筆を起こし、終章でその後日譚を語る手法は鮮やかである。昭和期のいわゆる国威発揚の熱気ないしは熱狂を前畑秀子をめぐるエピソードで象徴させているのである。日本近代史の秀作として広く推奨したい。
2022年8月10日に日本でレビュー済み
本書は、講談社の「日本の歴史」シリーズの一冊として出たもので、大正~昭和(5・15事件まで)を扱っている。
次巻の『帝国の昭和』の内容とは時間的にある程度重なりがある。
通史はどうしても教科書らしくなりがちであるが、本書は筆者の色が割と出ていることもあり、物語としてなかなか勢いがあって読ませるものに仕上がっている。
タイトルの『政党政治と天皇』というのは普通のタイトルに見えるが、読み終わってみるとこのタイトルが本書の中身を非常によく表していることを感じる。
本書の一つのテーマは政党の在り方で、政党政治を実現させようとする原敬や加藤高明の苦闘が描かれている。一方で党利のためにとかく相手党を誹謗し合う醜い姿(朴烈事件や統帥権干犯問題など)、官庁や地方自治体に党の系列の人間を送り込んで選挙を有利にしようという動きなど、国民を政党政治から見放させる動きも描き出され、政党政治定着に失敗した流れを考えさせてくれる。
もう一つのテーマは天皇の関与の仕方である。筆者は 明治天皇 や 昭和天皇 の評伝、また 元老 などの著作をすでに記しており、天皇の政治へのかかわり方については深い考察を行っている。特に筆者は、明治天皇は政治に関わりすぎずうまく調停するすべを身に着けた一方、昭和天皇は祖父のそれを学ぶ機会がなく、過度の干渉と逆に調停の躊躇をしてしまったと見ている。
政党・議会と天皇の間の微妙なバランスが本書を貫く中心問題であり、イギリスの立憲君主制の話などにまで言及しつつ、混迷の歴史が描き出されている。
一見地味だがなかなかよく書けている通史で、この辺りの時代を知りたいのなら是非読みたい一冊である。
次巻の『帝国の昭和』の内容とは時間的にある程度重なりがある。
通史はどうしても教科書らしくなりがちであるが、本書は筆者の色が割と出ていることもあり、物語としてなかなか勢いがあって読ませるものに仕上がっている。
タイトルの『政党政治と天皇』というのは普通のタイトルに見えるが、読み終わってみるとこのタイトルが本書の中身を非常によく表していることを感じる。
本書の一つのテーマは政党の在り方で、政党政治を実現させようとする原敬や加藤高明の苦闘が描かれている。一方で党利のためにとかく相手党を誹謗し合う醜い姿(朴烈事件や統帥権干犯問題など)、官庁や地方自治体に党の系列の人間を送り込んで選挙を有利にしようという動きなど、国民を政党政治から見放させる動きも描き出され、政党政治定着に失敗した流れを考えさせてくれる。
もう一つのテーマは天皇の関与の仕方である。筆者は 明治天皇 や 昭和天皇 の評伝、また 元老 などの著作をすでに記しており、天皇の政治へのかかわり方については深い考察を行っている。特に筆者は、明治天皇は政治に関わりすぎずうまく調停するすべを身に着けた一方、昭和天皇は祖父のそれを学ぶ機会がなく、過度の干渉と逆に調停の躊躇をしてしまったと見ている。
政党・議会と天皇の間の微妙なバランスが本書を貫く中心問題であり、イギリスの立憲君主制の話などにまで言及しつつ、混迷の歴史が描き出されている。
一見地味だがなかなかよく書けている通史で、この辺りの時代を知りたいのなら是非読みたい一冊である。
2010年10月28日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
もとはハードカヴァーで出版されていた、全26巻の講談社版〈日本の歴史〉が文庫化されたうちの一冊。原著の刊行は2002年。
明治憲法の下で立憲君主制の道を歩んでいたわが国において、なぜ政党政治は崩壊してしまったのか。著者はこの問題を「天皇の政治関与」という視点から考察しています。
「大帝」とも称される明治天皇は、イメージされるような専制君主ではなく、その役割は内閣の意向と議会の輿論を尊重し、必要なときに最小限度の調停を行うことであったと著者は述べています。
しかし、明治帝の没後、健康に問題のあった大正天皇はその役割を果たせず、若くして父大正帝の摂政となった昭和天皇も、明治帝の政治手腕を学ぶことができなかったといいます。加えて、先帝の側近も、最後の元老・西園寺公望を除いては明治帝の実際の憲法運用に疎く、「親政する君主」という理想の、そして架空の明治帝のイメージに支配されていたとしています。その象徴的な出来事として、著者は張作霖爆殺事件において天皇が首相(政友会の田中義一)を問責し、内閣総辞職に追い込んだ1926年6月の政変を取り上げています。
著者も触れていたいくつかのif。もし原敬が暗殺されなかったら、もし先帝がロンドン条約批准の際に浜口内閣と海軍を調停していたら、もし満州事変の際に先帝と西園寺らの宮中重臣が若槻内閣を見捨てず政党を団結させていたら。そして、もし日本にもう少し時間があったのなら、立憲君主制は成熟しただろうか。この本を読み、私はいろいろと思いを巡らせることができました。
近代日本の政治状況は、現在のそれと似たところも多く、参考になります。本書を読み、抱く思いは人それぞれでしょうが、是非デモクラシーの確立と維持に汗を流した先人の労苦を思い、大切な我々の権利と義務を尊ぶべきではないかと私は思うのです。
明治憲法の下で立憲君主制の道を歩んでいたわが国において、なぜ政党政治は崩壊してしまったのか。著者はこの問題を「天皇の政治関与」という視点から考察しています。
「大帝」とも称される明治天皇は、イメージされるような専制君主ではなく、その役割は内閣の意向と議会の輿論を尊重し、必要なときに最小限度の調停を行うことであったと著者は述べています。
しかし、明治帝の没後、健康に問題のあった大正天皇はその役割を果たせず、若くして父大正帝の摂政となった昭和天皇も、明治帝の政治手腕を学ぶことができなかったといいます。加えて、先帝の側近も、最後の元老・西園寺公望を除いては明治帝の実際の憲法運用に疎く、「親政する君主」という理想の、そして架空の明治帝のイメージに支配されていたとしています。その象徴的な出来事として、著者は張作霖爆殺事件において天皇が首相(政友会の田中義一)を問責し、内閣総辞職に追い込んだ1926年6月の政変を取り上げています。
著者も触れていたいくつかのif。もし原敬が暗殺されなかったら、もし先帝がロンドン条約批准の際に浜口内閣と海軍を調停していたら、もし満州事変の際に先帝と西園寺らの宮中重臣が若槻内閣を見捨てず政党を団結させていたら。そして、もし日本にもう少し時間があったのなら、立憲君主制は成熟しただろうか。この本を読み、私はいろいろと思いを巡らせることができました。
近代日本の政治状況は、現在のそれと似たところも多く、参考になります。本書を読み、抱く思いは人それぞれでしょうが、是非デモクラシーの確立と維持に汗を流した先人の労苦を思い、大切な我々の権利と義務を尊ぶべきではないかと私は思うのです。
2022年9月18日に日本でレビュー済み
同じ著者の「伊藤博文」を読んだことがあるが、いきなり博文礼賛の記述が出るなど少し、抵抗感があった
それでも大半は丁寧な検証に基づく、記載であった
本書は通史で、歴史に関心を持つ一般人を対象としていると言えるが、歴史に関心を持つ者には現代社会を見るツールとして歴史書を読む者もおり、私はこの立場である
この場合記述が正しいかどうかはもちろん大事だが、その背景を理解することがより重要である
ところが本書では背景を理解するために必要な資料への言及が限定的であり、著者の研究成果を背景にズバッと言い切る文章が多い
この点が本書の評価の分かれ目だと思われる
私はこの点で評価を☆3とした
小説の如く読まれる方には☆5つとなるであろう
それでも大半は丁寧な検証に基づく、記載であった
本書は通史で、歴史に関心を持つ一般人を対象としていると言えるが、歴史に関心を持つ者には現代社会を見るツールとして歴史書を読む者もおり、私はこの立場である
この場合記述が正しいかどうかはもちろん大事だが、その背景を理解することがより重要である
ところが本書では背景を理解するために必要な資料への言及が限定的であり、著者の研究成果を背景にズバッと言い切る文章が多い
この点が本書の評価の分かれ目だと思われる
私はこの点で評価を☆3とした
小説の如く読まれる方には☆5つとなるであろう
2015年11月16日に日本でレビュー済み
講談社版「日本の歴史」の第20巻『維新の構想と展開 明治時代前期』(鈴木淳)や第21巻『明治人の力量 明治時代後期』
(佐々木隆)に比べて、本書は読みやすく、理解しやすく、興味深く読めました。前2巻とどこがどう違うか良く分かりませんが、
時代の流れもつかみやすく、昭和初期までの昭和天皇についても、結構詳しい知識が得られました。大正天皇についてや
「宮中某重大事件」についても詳しく分かりました。「宮中某重大事件」について、特別の興味はありませんでしたが、何かの
折に、たまに、記載がありましたので、気にはなっていましたが。
いくつかの内容について、引用とコメントで紹介します。
大正天皇について、詳しい記述がありますので、そこの部分を引用します。大正天皇については、原武史が本を出しています
(未読)が、本書の著者は、原武史をあまり評価していません。以下に引用する文章にも含まれていますが、
「しかし、皇太子(大正天皇のこと 書評者注)の状態について、良いという建前で報じざるをえない新聞記事を主要
史料として、どれほど例を挙げても、本当の論証にはならない(なお、原氏の著書が多くの事実誤認に基づいている
ことについては、『日本歴史』第641号、2001年10月の私の書評を参照されたい)。」
と言って、厳しく批判しています。原武史の本は『レッドアローとスターハウス もうひとつの戦後思想史(新潮文庫)』や
『<出雲>という思想 (講談社学術文庫)』の2冊しか読んでいません。「レッドアロー」のほうについては、Amazonの書評でも誰
かが書いていましたが、小学校時代(?)の学校生活のいじめ等のトラウマを引きずっているような感じが濃厚で、動機に若干
不純なものを感じました。
引用します。
「新天皇に即位した嘉仁(よしひと)は、1879年(明治12年)8月31日、明治天皇の第3皇子として、柳原前光(公卿)
の妹愛子(なるこ)を生母として生まれた。柳原家は愛子が明治天皇の側室として最初の子(皇女)を懐妊した
1874年11月には、駐清公使(現在の中国大使)であった。のち華族制度の発足によって伯爵となり、枢密顧問官など
を歴任した。嘉仁は、幼時に脳膜炎・百日咳、13歳の頃に重症のチフス、16歳の頃には流行性感冒から結核性肋膜炎・
肺炎などに罹り、幼年の頃より知識・言語・歩行などに少し支障をきたしたため、成年の頃になっても学業が遅れて
いた。
1898年2月の伊藤博文首相の明治天皇への上奏書などにより、皇太子嘉仁は、まずは健康の回復を図ることを重視し、
その一方で学問や政治または陸海軍事を簡単な方法で学ぶという方針で教育を受けるようになった。この結果、健康
も一時的に回復したようである(三上参次「昭和2年3月7日進講案、大正天皇の御教育に関しての明治天皇の宸憂」、
「牧野伸顕文書」国立こ国会図書館憲政資料室所蔵)。1900年5月10日に、皇太子は九条道孝の第4女節子(さだこ)
と結婚した。九条家は母の柳原家と異なり、古代の藤原摂関家の子孫であり、道孝は維新前に左大臣を努めていた。
ドイツ人医師ベルツ(元東大医科教授)は、日本政府から求められて嘉仁を診療のため、1908年に再来日した。3月
30日の診察によると、「おおむね健康体」とみられた。しかし、深呼吸をすると、とくに横臥の状態では、左第4肋間
に乾いたラッセル音がかすかに聞こえた。これは、この12年間ずっと消えたことがなく、炎症などを併発すると強く
なるのが常であった。右後方の胸底部にわずかに呼吸の乱れと弱まりが認められた。どの所見も、さしあたり全く
心配はないが、引き続き警戒が必要なものであった(池上弘子訳『ベルツ日本再訪』)。原武氏は、1900年5月から
12年間の間に行われた巡啓の様子を詳細に述べて、皇太子の健康は回復したと(『大正天皇』)、ベルツ以上の評価
をしている。しかし、皇太子の状態について、良いという建前で報じざるをえない新聞記事を主要史料として、どれ
ほど例を挙げても、本当の論証にはならない(なお、原氏の著書が多くの事実誤認に基づいていることについては、
『日本歴史』第641号、2001年10月の私の書評を参照されたい)。
再来日したベルツが皇太子を診察する4日前、土砂降りの雨の中を元老の伊藤博文(韓国統監)は朝鮮に赴任する前の
慌ただしい日程を縫って、ホテルに滞在するベルツを訪ねてきた。そのときの伊藤についてベルツは、「皇太子の心理
状態についてきわめて率直に話した。自分の深刻な懸念は、天皇にも伝えてあるという。よくよくの決断だったに
相違ない。」と、述べている。伊藤は元老中の最有力者で、明治天皇の信頼も厚く、宮中関係の情報を数多く入手し、
また自らも皇太子に自由に接することができる立場にあった。
しかし、ベルツは、洋風好みの皇太子の生活を見て、次のように好感を持った。
「こんな気持ちのよい、あたたかな家庭は、日本広しといえどもかつて見たことがない。しかも、ヨーロッパ
人の感覚に照らしてもそうなのだ。ご一家は洋服を着て、椅子に座り、さっそうと歩く生活を送っておられる。
(中略)皇太子は明るく、華があり、魅力的なご様子。グレーの毛織りの服に白いブラウスとボレロ風の上着
をお召しになった、優美なお姿。(中略)
妃は私に3人の皇子[のちの昭和天皇・秩父宮・高松宮]を誇らしげに引き合わされた。お三方そろって発育が
よく、元気で快活な少年。セーラー服を着ておられる。6歳と4歳、そして3歳。3人とも母君が20歳になられる
前のお生まれだ!女官たちも洋装。若い女官たちは上流貴族の出身である。ただ一人、年かさの女官だけが
古い日本の宮廷衣装であらわれた。」
あまり知られていないことだであるが、皇太子の結婚の前後より、渡欧が教育の責任者たちの間で話題になり、皇太子
も希望した。しかし、明治天皇は皇太子が西欧のことを尊び、日本のことを野蛮視するようになることを心配し、皇太
子が日本の学業すら不十分なこともあって、洋行には消極的で、結局実現しなかった(前掲、三上参次「昭和2年3月7日
進講案」)。
つまり、明治天皇の晩年には、まだ症状は残るものの、皇太子嘉仁の健康はかなり回復し、服装や家具のみならず、
夫婦や親子関係においても、当時の日本よりも感情を自由に表現する欧米風の生活を、幸福に送っていた。生活スタ
イルの面で、保守性が残る明治天皇とはしっくりいかない面もあるが、それは深刻な問題ではなかった。
問題は、将来、皇太子から天皇になると、近世まで続いた天皇家の多くの儀式を主宰し、近代になって新たに加わった
議会の開院式への出席や、陸海軍の大演習の統監、外国の大使・公使の信任状の捧呈式等々の多数の儀式を遂行しな
ければならないことである。これらは時間の長短はあるが、いずれも手順や方法が定まっており、緊張を強いられる
ことであった。さらに大変なことは、明治憲法が、最終的な判断者として天皇の役割を期待する形になっていること
である。このため、政治危機に際し、政府内部(藩閥内部)の意見が一致しない場合、明治天皇が行なってきたような、
時代の流れや微妙な権力のバランスを考慮した調停を行うことが必要となる。
伊藤は長年の政治経験から、皇太子がこのようなストレスに精神的に耐えられないだろうと判断したのである。
おそらく明治天皇も、そう感じていただろう。約10年後、天皇となっていた嘉仁(大正天皇)の心身の状況が、1916年、
17年頃より悪化する。その際に、元老山県有朋配下の宮内次官石原健三は、葉山や日光の御用邸滞在中は状況が好転
すると、山県に密かに書状で報じている。伊藤の判断は正しかったのである。
よく知られているように、皇太子嘉仁は和歌に長じているなどの文才があり、華族の子弟として生まれるか、皇族で
あっても兄が生きていれば即位せずともよく、一人の宮として病弱ながら幸せな一生を送ることができたはずである。
明治天皇の3男に生まれながら、生存している唯一の男子として、コントロールのむずかしい大日本帝国の天皇になる
ことを運命づけられたところに、本書でも述べる悲劇があったのである。」(P.30~P.34)
全ては神様の思し召し、運命ですね。「歴史に if はない」ですから。当時の労働者や農民が良い暮らしが出来ていたわけ
でもないでしょう。
この本の筆者は、原敬を非常に買っています。確かに、今の自民・公明党の政府・官僚を見ていて、本書に出てくる原敬を見ると
その違いに、唖然としてしまいます。彼は「大人」ですね。
「第1次世界大戦は、はじめての世界大戦であり、前線での戦いのみならず、銃後(戦場の後方)での武器・弾薬・食料
など、物資の生産と前線への補給が戦いの方向を決する、本格的な総力戦となった。すでに述べたように、日本は戦争
による被害をほとんど受けず、好景気と経済の急速な成長を享受することができた。しかし、山県有朋のような一部の
指導者たちは、第1次世界大戦後に、欧米列強が一丸となって日本を圧迫しようとする人種戦争が起きるのではないかと、
恐れていた。山県ら陸軍をはじめとする山県系官僚閥が1916年(大正5)に事実上の日露軍事同盟(第4次協約)を結ん
だのは、こうした状況に対する意味があった。しかしロシア革命でその構想は崩れ、山県の苦悩は深まった。
それに対し原敬ら政友会の指導者は、第1次世界大戦による変化を、山県らよりも余裕をもって眺めていた。すでに原
は、1908年8月から翌年2月までの半年間の欧米周遊で、アメリカ合衆国を、「真の活動の国にして」、「将来此国は
世界に対し如何なるものかは常に注目すべき」と、その台頭に注目していた。第1次世界大戦中、原や政友会は、大戦
後に予想される列強との競争激化やアメリカ合衆国の台頭に備えるため、政友会の伝統的な政策、すなわち鉄道や港湾
の修築など社会資本の整備を積極的に進め、日本の国力の範囲で国防を充実することを主要な柱として主張した。
この主張は、国防のみを重視する山県らと、着想の根本が異なっていた。また、シベリア出兵問題における対応にみら
れたように、原は強大化したアメリカ合衆国を中心とする、連合国側との強調を重んじた。また、むやみな大陸への
出兵や進出には反対であった。このように、原や政友会の政策の特色は、外交で冒険をせず、連合国(列強)との強調
を維持し、内政改革によって国力を強化して、日本の影響力を増し、その結果自然に大陸へ進出することであった。
それは、伊藤博文を総裁として1900年(明治33)9月に政友会が創立されて以来の、伝統的な路線であった。」
(P.110~P.111)
「高等教育の充実計画としては、1918年12月6日に大学令を公布し、官立単科大学、公立大学、私立大学の設置を認めた
ように、新たな法的枠組みを作った。その下で原首相は、第41議会に官立の高等教育機関の充実計画案を提出した。
これは、1919年度から24年度にわたる6ヶ年計画で、帝国大学4学部、医科大学5校(新潟医大・岡山医大・千葉医大・
金沢医大・長崎医大)、商科大学1校(東京商科大[のちの一橋大学])、高等学校10校(弘前・松江・東京・大阪
など)、実業専門学校17校(横浜高等工業・広島高等工業・金沢高等工業など)、専門学校2校(富山薬専・大阪外語)
を創設し、帝国大学6学部、実業専門学校2校を拡張する内容であった。
また一方で、それまで専門学校であった慶應義塾大学・早稲田大学・明治大学・法政大学・中央大学・日本大学・
国学院大学・同志社大学の大学昇格を積極的に認めていった。これらは、この時期の日本の高等教育を飛躍的に充実
させたのみならず、新潟大学と新潟高校・長岡高等工業が、第2次世界大戦後に新潟大学を設立する中核となったように、
第2次大戦後の高等教育の土台をも作った。」(P.112)
やはり、政治家としての器が違うような気がします。文化系学部が、当面、金が儲からないと言って、その関係学部を潰しに
かかったり、大学の授業内容を、会社に入って即戦力になるようにと、実業系がかった内容に改変しようとしたり、目先の金儲け
しか目に入らないような人々に、「100年の計としての教育」ができるはずがありません。今のノーベル賞の量産体制も、起源を
たどれば、上記の原敬らの政策に行き着くのかもしれません。後、20~30年先以降は、日本にとって、ノーベル賞などはどこか
遠くの世界のことになっているかもしれませんね。弱ったものです。
原敬に関する文章をもう一箇所引用します。原敬は、1921年(大正10)11月4日に東京駅で中岡艮一(18歳)に刺殺されました。
「原の死は、一人の明治人の死にとどまらず、日本国家の行く末に大きな影響を及ぼした。なぜなら、政党出身の首相が
衆議院の支持を背景に、宮中や陸・海軍までにも影響力を及ぼし、責任をもって政治を主導する、イギリスにかなり
類似した立憲君主制が原のもとで日本に形成されたからである。おそらく原は、個人的政治力をもって形成したこの
制度を慣行とし、さらには憲法以外の法令を改正することで、日本に定着させていこうとしたのであろう。これは、
伊藤博文がめざした方向であった。
また、原は、いずれ政友会総裁を引退すれば、元老や内大臣の有力候補になったことは、間違いない。昭和初期に、
もし原が元老兼内務大臣として、即位間もない若い昭和天皇を支えていたら、冒頭で述べた昭和天皇による張作霖
爆破事件への過剰な政治関与や、後述するような、ロンドン条約問題での調停への過度の自重という、不適切な行動も
起きなかったであろう。そうすれば、公平な調停者としての昭和天皇のイメージは陸海軍に浸透し、満州事変が起きても、
陸軍をコントロールして拡大を阻止できた可能性がある。原の暗殺は、満州事変から日中戦争・太平洋戦争への道を
変え得た、一つの可能性を摘み取った。
普通選挙問題についても、すでに見たように、原首相は1919年に改正した選挙法の下で、1920年総選挙を行なって
行き掛かりはなくなった。したがって、原が世の動きへの鋭敏な感性を持っていたことを考慮すると、1922年から普選
運動が再び高まることに対応して、自らが中心となって普選への選挙法改正を行った可能性が高い。これから述べる
ように、政友会の普選への転換は、後の政友本党へいくような、床次竹二郎ら党内保守派の存在でうまくいかなかった。
この点も実力者の原の下では、様相がまったく変わったはずである。分別のない一青年の行動は、種々の可能性を
持った巨星を落とした。」(P.163~P.164)
大正デモクラシー、普通選挙法、治安維持法についての文章を引用します。藤田省三は、大正デモクラシーについて、その制約
的性格から、ほとんど評価していなかったように思いましたが、この本によると様々な面での進展はあったようです。
「従来から、この第2次護憲運動よりも、11年前の第1次護憲運動を、政党側が藩閥官僚勢力に対抗し、積極的に民衆と
結んで政治改革をめざしたと、高く評価する見方がある。しかし、第1次護憲運動は、基本的には都市部の運動に
過ぎないが、第2次護憲運動は農村部のすみずみにまで広がった点で、その変革エネルギーはもっと高く評価される
べきであろう。なぜなら、第1次の運動は桂内閣を倒し、元老制度や山県系官僚閥にある程度の打撃を与えはしたが、
農村部における名望家支配など、地方の政治はほとんど変えることができなかった。それに対し第2次の運動は、後述
するように、清浦内閣を倒し、護憲三派内閣を実現させ、男子の普選法を実現させたのみならず、運動の中核と
なった中間層以下の青年たちが、数年のうちに県会・町村会など地方政界に進出しはじめ、普選の導入と合わせて、
政治の基盤をかなり大衆化したからである。」(P.246~P.247)
「(普通選挙法の 書評者注)主な内容は、男子の納税資格を撤廃し、25歳以上に選挙権を、30歳以上に被選挙権を
与えることと、選挙区を小選挙区制(市部を除いて一区一人が当選、市部は2~3人当選)から、中選挙区制(一選挙
区3~5人当選)に変えたことである。中選挙区制への転換に関しては、従来からあまり議論がなく、ともかく普選と
いうことで決められた。おそらく、小会派の革新倶楽部に配慮したのであろう。この選挙制度は、第2次世界大戦後
の一時的中断をはさんで、1990年代の半ばまで、70年近く日本の衆議院議員の選挙制度として続くことになる。
新選挙法には婦人参政権が含まれていないが、普選運動に参加した人々の多くを満足させた。日本より200年も前
から議会制度を発達させてきたイギリスですら、男子の普選が達成されたのは1918年であった(21歳以上の男子。
30歳以上に限り、女子にもはじめて選挙権)。イギリスで男女平等の選挙権(21歳以上)が実現するのは1928年で
ある。また日本は男子に限定しながらも、アジアではじめての普通選挙を実現したことは言うまでもない。この
意味で、日本は異例の早さで、欧米の立憲政治を習得したといえよう。なおこの1925年選挙法改正によって、
有権者の数が、1924年総選挙時の328万8千人から、28年総選挙時の1240万9千人へと、約4倍に増加した(子供も
含めた総人口の約20%)。
普選法が通過した同じ議会で、3月19日、治安維持法も成立した。この法は、「国体」の変革や私有財産制度の
否認を目的とする結社や運動を禁止する規定を含んだ、新しい治安立法であった。また、取り締まり対象の定義
があいまいであったため、拡大適用が可能な法でもあった。加藤内閣は、同内閣が実現させた日本と社会主義国
ソ連の国交樹立に伴い予想される、社会主義思想の流入の拡大にも、この法で対応しようとしていた。これは、
1900年に制定された治安警察法を中心とする、従来の集会・結社・言論の自由などへの制限では十分でないと
見たからである。政府は、第1次世界大戦後に社会主義思想が日本に広まってきたことへの危機感から、治安警察
法に加えて、社会主義運動や労働・農民運動への取り締まりを強化したのであった。」(P.249~P.250)
90年代に、あのお殿様・細川護煕が首相の時に、小選挙区制に改悪した公職選挙法は、戦前への回帰だったのですね。
確かに、男子への普通選挙法の適用が、イギリスとあまり違わないような感じに見えます。戦後でもそうですが、日本人は
形を真似るのは結構得意ですが、その精神がなかなか学べていないような気がします。今のあの安倍晋三首相の言動・行動を
見れば、あの御仁が、民主主義や基本的人権等を理解しているとは、到底思えません。首相の「言論の自由」を叫ぶような
人ですから。早ければ良いとは必ずしも言えないのではないでしょうか。普通選挙法が施行されても結局、アジア・太平洋
戦争へ突っ込んで行ってしまいましたし、今でも反省しないで紛争の種をバラ撒き散らしているのですから。
最後に、表題に採用させてもらった文で終わる文章を引用して、終わりにします。
「ところで、昭和天皇の大礼の後、12月15日に、13年前(1915年11月10日の大正天皇の即位の大礼 書評者注)とは
異なった形のハプニングが起こった。それは、東京府主催による二重橋前で行われた東京・千葉・埼玉・山梨・
神奈川の1府4県8万人の男子学生と在郷軍人会の分列式と、女子学生の奉祝歌奉唱においてであった。当時侍従の
一人であった木下道雄の回想(『宮中見聞記』)によると、この行事の許可を求められた際、昭和天皇は、雨天の
時には青年たちに遠慮なく雨具を着用させること、自らの立つ場所にはどのように雨がふろうとも天幕は張っては
ならないことの二つを指示した。
当日は、あいにく朝から12月の身を切るような北西風が吹きすさび、冷たい大雨が降っていた。天皇は青年たちが
雨に濡れて待っていることを気遣い、担当者が天皇の体を心配して張った天幕をはずすように命じた。このため、
分列式の前の1時頃、木下の指導で天幕は除去された。それを知った陸軍の「世話本部」は、命令を伝達する数名
の騎乗兵を出し、雨中で分列式を待つ青年たちに、そのことを伝えると、青年たちは雨の中でいっせいにオーバー
を脱いだ。式に参加した実科高女の一人の生徒も、前方から響いた「傘を取って下さい」という声に、女学生たち
は次々に傘をたたみ、凍るような雨に打たれたことを回想している。
1時間後の午後2時、玉座に到着した天皇は、野口侍従から渡された防水マントを後ろに脱ぎ捨て、1時間20分、
高い台の上で、雨に打たれながら、通過する各集団の敬礼に挙手を行なって微動だにしなかった。木下侍従はこの
出来事を、寒い雨風の中で連鎖反応的に起こったもので、「何という心あたたかい上下の感応であろうか」と
回想している。しかし、ここにも、大正天皇の即位の大礼の際の、伸びやかなお祭り騒ぎの熱狂とは異なった、
過度の精神主義とやせ我慢の窮屈な相互連鎖がみられた。建前にがんじがらめにされた息苦しい昭和は、こうして
始まった。」(P.299~P.300)
(佐々木隆)に比べて、本書は読みやすく、理解しやすく、興味深く読めました。前2巻とどこがどう違うか良く分かりませんが、
時代の流れもつかみやすく、昭和初期までの昭和天皇についても、結構詳しい知識が得られました。大正天皇についてや
「宮中某重大事件」についても詳しく分かりました。「宮中某重大事件」について、特別の興味はありませんでしたが、何かの
折に、たまに、記載がありましたので、気にはなっていましたが。
いくつかの内容について、引用とコメントで紹介します。
大正天皇について、詳しい記述がありますので、そこの部分を引用します。大正天皇については、原武史が本を出しています
(未読)が、本書の著者は、原武史をあまり評価していません。以下に引用する文章にも含まれていますが、
「しかし、皇太子(大正天皇のこと 書評者注)の状態について、良いという建前で報じざるをえない新聞記事を主要
史料として、どれほど例を挙げても、本当の論証にはならない(なお、原氏の著書が多くの事実誤認に基づいている
ことについては、『日本歴史』第641号、2001年10月の私の書評を参照されたい)。」
と言って、厳しく批判しています。原武史の本は『レッドアローとスターハウス もうひとつの戦後思想史(新潮文庫)』や
『<出雲>という思想 (講談社学術文庫)』の2冊しか読んでいません。「レッドアロー」のほうについては、Amazonの書評でも誰
かが書いていましたが、小学校時代(?)の学校生活のいじめ等のトラウマを引きずっているような感じが濃厚で、動機に若干
不純なものを感じました。
引用します。
「新天皇に即位した嘉仁(よしひと)は、1879年(明治12年)8月31日、明治天皇の第3皇子として、柳原前光(公卿)
の妹愛子(なるこ)を生母として生まれた。柳原家は愛子が明治天皇の側室として最初の子(皇女)を懐妊した
1874年11月には、駐清公使(現在の中国大使)であった。のち華族制度の発足によって伯爵となり、枢密顧問官など
を歴任した。嘉仁は、幼時に脳膜炎・百日咳、13歳の頃に重症のチフス、16歳の頃には流行性感冒から結核性肋膜炎・
肺炎などに罹り、幼年の頃より知識・言語・歩行などに少し支障をきたしたため、成年の頃になっても学業が遅れて
いた。
1898年2月の伊藤博文首相の明治天皇への上奏書などにより、皇太子嘉仁は、まずは健康の回復を図ることを重視し、
その一方で学問や政治または陸海軍事を簡単な方法で学ぶという方針で教育を受けるようになった。この結果、健康
も一時的に回復したようである(三上参次「昭和2年3月7日進講案、大正天皇の御教育に関しての明治天皇の宸憂」、
「牧野伸顕文書」国立こ国会図書館憲政資料室所蔵)。1900年5月10日に、皇太子は九条道孝の第4女節子(さだこ)
と結婚した。九条家は母の柳原家と異なり、古代の藤原摂関家の子孫であり、道孝は維新前に左大臣を努めていた。
ドイツ人医師ベルツ(元東大医科教授)は、日本政府から求められて嘉仁を診療のため、1908年に再来日した。3月
30日の診察によると、「おおむね健康体」とみられた。しかし、深呼吸をすると、とくに横臥の状態では、左第4肋間
に乾いたラッセル音がかすかに聞こえた。これは、この12年間ずっと消えたことがなく、炎症などを併発すると強く
なるのが常であった。右後方の胸底部にわずかに呼吸の乱れと弱まりが認められた。どの所見も、さしあたり全く
心配はないが、引き続き警戒が必要なものであった(池上弘子訳『ベルツ日本再訪』)。原武氏は、1900年5月から
12年間の間に行われた巡啓の様子を詳細に述べて、皇太子の健康は回復したと(『大正天皇』)、ベルツ以上の評価
をしている。しかし、皇太子の状態について、良いという建前で報じざるをえない新聞記事を主要史料として、どれ
ほど例を挙げても、本当の論証にはならない(なお、原氏の著書が多くの事実誤認に基づいていることについては、
『日本歴史』第641号、2001年10月の私の書評を参照されたい)。
再来日したベルツが皇太子を診察する4日前、土砂降りの雨の中を元老の伊藤博文(韓国統監)は朝鮮に赴任する前の
慌ただしい日程を縫って、ホテルに滞在するベルツを訪ねてきた。そのときの伊藤についてベルツは、「皇太子の心理
状態についてきわめて率直に話した。自分の深刻な懸念は、天皇にも伝えてあるという。よくよくの決断だったに
相違ない。」と、述べている。伊藤は元老中の最有力者で、明治天皇の信頼も厚く、宮中関係の情報を数多く入手し、
また自らも皇太子に自由に接することができる立場にあった。
しかし、ベルツは、洋風好みの皇太子の生活を見て、次のように好感を持った。
「こんな気持ちのよい、あたたかな家庭は、日本広しといえどもかつて見たことがない。しかも、ヨーロッパ
人の感覚に照らしてもそうなのだ。ご一家は洋服を着て、椅子に座り、さっそうと歩く生活を送っておられる。
(中略)皇太子は明るく、華があり、魅力的なご様子。グレーの毛織りの服に白いブラウスとボレロ風の上着
をお召しになった、優美なお姿。(中略)
妃は私に3人の皇子[のちの昭和天皇・秩父宮・高松宮]を誇らしげに引き合わされた。お三方そろって発育が
よく、元気で快活な少年。セーラー服を着ておられる。6歳と4歳、そして3歳。3人とも母君が20歳になられる
前のお生まれだ!女官たちも洋装。若い女官たちは上流貴族の出身である。ただ一人、年かさの女官だけが
古い日本の宮廷衣装であらわれた。」
あまり知られていないことだであるが、皇太子の結婚の前後より、渡欧が教育の責任者たちの間で話題になり、皇太子
も希望した。しかし、明治天皇は皇太子が西欧のことを尊び、日本のことを野蛮視するようになることを心配し、皇太
子が日本の学業すら不十分なこともあって、洋行には消極的で、結局実現しなかった(前掲、三上参次「昭和2年3月7日
進講案」)。
つまり、明治天皇の晩年には、まだ症状は残るものの、皇太子嘉仁の健康はかなり回復し、服装や家具のみならず、
夫婦や親子関係においても、当時の日本よりも感情を自由に表現する欧米風の生活を、幸福に送っていた。生活スタ
イルの面で、保守性が残る明治天皇とはしっくりいかない面もあるが、それは深刻な問題ではなかった。
問題は、将来、皇太子から天皇になると、近世まで続いた天皇家の多くの儀式を主宰し、近代になって新たに加わった
議会の開院式への出席や、陸海軍の大演習の統監、外国の大使・公使の信任状の捧呈式等々の多数の儀式を遂行しな
ければならないことである。これらは時間の長短はあるが、いずれも手順や方法が定まっており、緊張を強いられる
ことであった。さらに大変なことは、明治憲法が、最終的な判断者として天皇の役割を期待する形になっていること
である。このため、政治危機に際し、政府内部(藩閥内部)の意見が一致しない場合、明治天皇が行なってきたような、
時代の流れや微妙な権力のバランスを考慮した調停を行うことが必要となる。
伊藤は長年の政治経験から、皇太子がこのようなストレスに精神的に耐えられないだろうと判断したのである。
おそらく明治天皇も、そう感じていただろう。約10年後、天皇となっていた嘉仁(大正天皇)の心身の状況が、1916年、
17年頃より悪化する。その際に、元老山県有朋配下の宮内次官石原健三は、葉山や日光の御用邸滞在中は状況が好転
すると、山県に密かに書状で報じている。伊藤の判断は正しかったのである。
よく知られているように、皇太子嘉仁は和歌に長じているなどの文才があり、華族の子弟として生まれるか、皇族で
あっても兄が生きていれば即位せずともよく、一人の宮として病弱ながら幸せな一生を送ることができたはずである。
明治天皇の3男に生まれながら、生存している唯一の男子として、コントロールのむずかしい大日本帝国の天皇になる
ことを運命づけられたところに、本書でも述べる悲劇があったのである。」(P.30~P.34)
全ては神様の思し召し、運命ですね。「歴史に if はない」ですから。当時の労働者や農民が良い暮らしが出来ていたわけ
でもないでしょう。
この本の筆者は、原敬を非常に買っています。確かに、今の自民・公明党の政府・官僚を見ていて、本書に出てくる原敬を見ると
その違いに、唖然としてしまいます。彼は「大人」ですね。
「第1次世界大戦は、はじめての世界大戦であり、前線での戦いのみならず、銃後(戦場の後方)での武器・弾薬・食料
など、物資の生産と前線への補給が戦いの方向を決する、本格的な総力戦となった。すでに述べたように、日本は戦争
による被害をほとんど受けず、好景気と経済の急速な成長を享受することができた。しかし、山県有朋のような一部の
指導者たちは、第1次世界大戦後に、欧米列強が一丸となって日本を圧迫しようとする人種戦争が起きるのではないかと、
恐れていた。山県ら陸軍をはじめとする山県系官僚閥が1916年(大正5)に事実上の日露軍事同盟(第4次協約)を結ん
だのは、こうした状況に対する意味があった。しかしロシア革命でその構想は崩れ、山県の苦悩は深まった。
それに対し原敬ら政友会の指導者は、第1次世界大戦による変化を、山県らよりも余裕をもって眺めていた。すでに原
は、1908年8月から翌年2月までの半年間の欧米周遊で、アメリカ合衆国を、「真の活動の国にして」、「将来此国は
世界に対し如何なるものかは常に注目すべき」と、その台頭に注目していた。第1次世界大戦中、原や政友会は、大戦
後に予想される列強との競争激化やアメリカ合衆国の台頭に備えるため、政友会の伝統的な政策、すなわち鉄道や港湾
の修築など社会資本の整備を積極的に進め、日本の国力の範囲で国防を充実することを主要な柱として主張した。
この主張は、国防のみを重視する山県らと、着想の根本が異なっていた。また、シベリア出兵問題における対応にみら
れたように、原は強大化したアメリカ合衆国を中心とする、連合国側との強調を重んじた。また、むやみな大陸への
出兵や進出には反対であった。このように、原や政友会の政策の特色は、外交で冒険をせず、連合国(列強)との強調
を維持し、内政改革によって国力を強化して、日本の影響力を増し、その結果自然に大陸へ進出することであった。
それは、伊藤博文を総裁として1900年(明治33)9月に政友会が創立されて以来の、伝統的な路線であった。」
(P.110~P.111)
「高等教育の充実計画としては、1918年12月6日に大学令を公布し、官立単科大学、公立大学、私立大学の設置を認めた
ように、新たな法的枠組みを作った。その下で原首相は、第41議会に官立の高等教育機関の充実計画案を提出した。
これは、1919年度から24年度にわたる6ヶ年計画で、帝国大学4学部、医科大学5校(新潟医大・岡山医大・千葉医大・
金沢医大・長崎医大)、商科大学1校(東京商科大[のちの一橋大学])、高等学校10校(弘前・松江・東京・大阪
など)、実業専門学校17校(横浜高等工業・広島高等工業・金沢高等工業など)、専門学校2校(富山薬専・大阪外語)
を創設し、帝国大学6学部、実業専門学校2校を拡張する内容であった。
また一方で、それまで専門学校であった慶應義塾大学・早稲田大学・明治大学・法政大学・中央大学・日本大学・
国学院大学・同志社大学の大学昇格を積極的に認めていった。これらは、この時期の日本の高等教育を飛躍的に充実
させたのみならず、新潟大学と新潟高校・長岡高等工業が、第2次世界大戦後に新潟大学を設立する中核となったように、
第2次大戦後の高等教育の土台をも作った。」(P.112)
やはり、政治家としての器が違うような気がします。文化系学部が、当面、金が儲からないと言って、その関係学部を潰しに
かかったり、大学の授業内容を、会社に入って即戦力になるようにと、実業系がかった内容に改変しようとしたり、目先の金儲け
しか目に入らないような人々に、「100年の計としての教育」ができるはずがありません。今のノーベル賞の量産体制も、起源を
たどれば、上記の原敬らの政策に行き着くのかもしれません。後、20~30年先以降は、日本にとって、ノーベル賞などはどこか
遠くの世界のことになっているかもしれませんね。弱ったものです。
原敬に関する文章をもう一箇所引用します。原敬は、1921年(大正10)11月4日に東京駅で中岡艮一(18歳)に刺殺されました。
「原の死は、一人の明治人の死にとどまらず、日本国家の行く末に大きな影響を及ぼした。なぜなら、政党出身の首相が
衆議院の支持を背景に、宮中や陸・海軍までにも影響力を及ぼし、責任をもって政治を主導する、イギリスにかなり
類似した立憲君主制が原のもとで日本に形成されたからである。おそらく原は、個人的政治力をもって形成したこの
制度を慣行とし、さらには憲法以外の法令を改正することで、日本に定着させていこうとしたのであろう。これは、
伊藤博文がめざした方向であった。
また、原は、いずれ政友会総裁を引退すれば、元老や内大臣の有力候補になったことは、間違いない。昭和初期に、
もし原が元老兼内務大臣として、即位間もない若い昭和天皇を支えていたら、冒頭で述べた昭和天皇による張作霖
爆破事件への過剰な政治関与や、後述するような、ロンドン条約問題での調停への過度の自重という、不適切な行動も
起きなかったであろう。そうすれば、公平な調停者としての昭和天皇のイメージは陸海軍に浸透し、満州事変が起きても、
陸軍をコントロールして拡大を阻止できた可能性がある。原の暗殺は、満州事変から日中戦争・太平洋戦争への道を
変え得た、一つの可能性を摘み取った。
普通選挙問題についても、すでに見たように、原首相は1919年に改正した選挙法の下で、1920年総選挙を行なって
行き掛かりはなくなった。したがって、原が世の動きへの鋭敏な感性を持っていたことを考慮すると、1922年から普選
運動が再び高まることに対応して、自らが中心となって普選への選挙法改正を行った可能性が高い。これから述べる
ように、政友会の普選への転換は、後の政友本党へいくような、床次竹二郎ら党内保守派の存在でうまくいかなかった。
この点も実力者の原の下では、様相がまったく変わったはずである。分別のない一青年の行動は、種々の可能性を
持った巨星を落とした。」(P.163~P.164)
大正デモクラシー、普通選挙法、治安維持法についての文章を引用します。藤田省三は、大正デモクラシーについて、その制約
的性格から、ほとんど評価していなかったように思いましたが、この本によると様々な面での進展はあったようです。
「従来から、この第2次護憲運動よりも、11年前の第1次護憲運動を、政党側が藩閥官僚勢力に対抗し、積極的に民衆と
結んで政治改革をめざしたと、高く評価する見方がある。しかし、第1次護憲運動は、基本的には都市部の運動に
過ぎないが、第2次護憲運動は農村部のすみずみにまで広がった点で、その変革エネルギーはもっと高く評価される
べきであろう。なぜなら、第1次の運動は桂内閣を倒し、元老制度や山県系官僚閥にある程度の打撃を与えはしたが、
農村部における名望家支配など、地方の政治はほとんど変えることができなかった。それに対し第2次の運動は、後述
するように、清浦内閣を倒し、護憲三派内閣を実現させ、男子の普選法を実現させたのみならず、運動の中核と
なった中間層以下の青年たちが、数年のうちに県会・町村会など地方政界に進出しはじめ、普選の導入と合わせて、
政治の基盤をかなり大衆化したからである。」(P.246~P.247)
「(普通選挙法の 書評者注)主な内容は、男子の納税資格を撤廃し、25歳以上に選挙権を、30歳以上に被選挙権を
与えることと、選挙区を小選挙区制(市部を除いて一区一人が当選、市部は2~3人当選)から、中選挙区制(一選挙
区3~5人当選)に変えたことである。中選挙区制への転換に関しては、従来からあまり議論がなく、ともかく普選と
いうことで決められた。おそらく、小会派の革新倶楽部に配慮したのであろう。この選挙制度は、第2次世界大戦後
の一時的中断をはさんで、1990年代の半ばまで、70年近く日本の衆議院議員の選挙制度として続くことになる。
新選挙法には婦人参政権が含まれていないが、普選運動に参加した人々の多くを満足させた。日本より200年も前
から議会制度を発達させてきたイギリスですら、男子の普選が達成されたのは1918年であった(21歳以上の男子。
30歳以上に限り、女子にもはじめて選挙権)。イギリスで男女平等の選挙権(21歳以上)が実現するのは1928年で
ある。また日本は男子に限定しながらも、アジアではじめての普通選挙を実現したことは言うまでもない。この
意味で、日本は異例の早さで、欧米の立憲政治を習得したといえよう。なおこの1925年選挙法改正によって、
有権者の数が、1924年総選挙時の328万8千人から、28年総選挙時の1240万9千人へと、約4倍に増加した(子供も
含めた総人口の約20%)。
普選法が通過した同じ議会で、3月19日、治安維持法も成立した。この法は、「国体」の変革や私有財産制度の
否認を目的とする結社や運動を禁止する規定を含んだ、新しい治安立法であった。また、取り締まり対象の定義
があいまいであったため、拡大適用が可能な法でもあった。加藤内閣は、同内閣が実現させた日本と社会主義国
ソ連の国交樹立に伴い予想される、社会主義思想の流入の拡大にも、この法で対応しようとしていた。これは、
1900年に制定された治安警察法を中心とする、従来の集会・結社・言論の自由などへの制限では十分でないと
見たからである。政府は、第1次世界大戦後に社会主義思想が日本に広まってきたことへの危機感から、治安警察
法に加えて、社会主義運動や労働・農民運動への取り締まりを強化したのであった。」(P.249~P.250)
90年代に、あのお殿様・細川護煕が首相の時に、小選挙区制に改悪した公職選挙法は、戦前への回帰だったのですね。
確かに、男子への普通選挙法の適用が、イギリスとあまり違わないような感じに見えます。戦後でもそうですが、日本人は
形を真似るのは結構得意ですが、その精神がなかなか学べていないような気がします。今のあの安倍晋三首相の言動・行動を
見れば、あの御仁が、民主主義や基本的人権等を理解しているとは、到底思えません。首相の「言論の自由」を叫ぶような
人ですから。早ければ良いとは必ずしも言えないのではないでしょうか。普通選挙法が施行されても結局、アジア・太平洋
戦争へ突っ込んで行ってしまいましたし、今でも反省しないで紛争の種をバラ撒き散らしているのですから。
最後に、表題に採用させてもらった文で終わる文章を引用して、終わりにします。
「ところで、昭和天皇の大礼の後、12月15日に、13年前(1915年11月10日の大正天皇の即位の大礼 書評者注)とは
異なった形のハプニングが起こった。それは、東京府主催による二重橋前で行われた東京・千葉・埼玉・山梨・
神奈川の1府4県8万人の男子学生と在郷軍人会の分列式と、女子学生の奉祝歌奉唱においてであった。当時侍従の
一人であった木下道雄の回想(『宮中見聞記』)によると、この行事の許可を求められた際、昭和天皇は、雨天の
時には青年たちに遠慮なく雨具を着用させること、自らの立つ場所にはどのように雨がふろうとも天幕は張っては
ならないことの二つを指示した。
当日は、あいにく朝から12月の身を切るような北西風が吹きすさび、冷たい大雨が降っていた。天皇は青年たちが
雨に濡れて待っていることを気遣い、担当者が天皇の体を心配して張った天幕をはずすように命じた。このため、
分列式の前の1時頃、木下の指導で天幕は除去された。それを知った陸軍の「世話本部」は、命令を伝達する数名
の騎乗兵を出し、雨中で分列式を待つ青年たちに、そのことを伝えると、青年たちは雨の中でいっせいにオーバー
を脱いだ。式に参加した実科高女の一人の生徒も、前方から響いた「傘を取って下さい」という声に、女学生たち
は次々に傘をたたみ、凍るような雨に打たれたことを回想している。
1時間後の午後2時、玉座に到着した天皇は、野口侍従から渡された防水マントを後ろに脱ぎ捨て、1時間20分、
高い台の上で、雨に打たれながら、通過する各集団の敬礼に挙手を行なって微動だにしなかった。木下侍従はこの
出来事を、寒い雨風の中で連鎖反応的に起こったもので、「何という心あたたかい上下の感応であろうか」と
回想している。しかし、ここにも、大正天皇の即位の大礼の際の、伸びやかなお祭り騒ぎの熱狂とは異なった、
過度の精神主義とやせ我慢の窮屈な相互連鎖がみられた。建前にがんじがらめにされた息苦しい昭和は、こうして
始まった。」(P.299~P.300)
2009年6月15日に日本でレビュー済み
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読みやすい記述のよい本だと思います。 ためになったこと:1)このころになると明治天皇のリーダーシップが過度に理想化され、昭和天皇へのご進講にも反映なされたため、昭和天皇が治世初期に過度に政治関与されてしまった。2)明治天皇が理想化されていったため、逆に昭和天皇への軍部や国民からの信頼感を弱めてしまった。3)大企業の福利厚生整備が労働争議を抑えるため、この頃はじまった。 一方、通史としてはちょっと不満なのがロンドン軍縮会議後の統帥権干犯問題と浜口首相狙撃事件に全く触れていないことです。