本書は、「デリダのすべてが分かったつもりになるための本ではない」。むしろ、著者が押さえておくべきと考える、デリダの「哲学的」モチーフを明らかにするものである。「脱構築」とは「言語」と「法」を2つの焦点として展開される「他者との関係としての正義論」とする著者の主張は、本書を通じて説得的であり、理解できる。この点において、デリダの「哲学的」モチーフを明らかにするという本書の目的は果たされているだろう。
第1章「砂漠の中の砂漠」では、デリダの経歴について述べる。
第2章「形而上学とは何か」は、初期デリダの「形而上学の脱構築」に関して、彼のプラトン論「プラトンのバルマアケイアー」を中心に述べる。
第3章「言語・暴力・反復」では、デリダの言語論について述べる。
第4章「法・暴力・正義」と第5章「メシア的なものと責任の思考」では、80年代以降のデリダに関して、法、政治、倫理、宗教などのテーマについて述べる。
以下、私自身の感想を簡単にまとめる。
1) 本書は確かに読みやすいものではない。しかし、それはデリダの難解さに起因するものだろう。むしろ著者は、デリダの思想を損なうことなく、できる限り平易に解説しようとしている。それゆえ、ある程度の哲学の素養があれば、全体的に理解することが可能である。
2) デリダの仕事の多様性を再現することよりも、彼の思想の一貫性を主張することに主眼を置いたため、彼の思想の影響の広がりについて考察されていない。
3) 「決定不可能性の中での決定」を我々はどのようにして決定することができるのだろうか。主体は決定することができないという。規則の適用や前例の模倣は決定とはいえないという。アポリアを意識することが重要だという。「決定の瞬間は一種の狂気である」ならば、我々は正常ではいられない。しかし、正常/異常という二分法こそがここで問題にされている。この点で、フーコーとの親和性が垣間見え、興味深い。
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デリダ: 脱構築 (現代思想の冒険者たちSelect) 単行本(ソフトカバー) – 2003/7/1
高橋 哲哉
(著)
他者排除の欲望を暴き他者に応える思想とはロゴス中心主義の哲学が他者を排除してきた歴史を指摘したデリダ。アルジェリア生まれのユダヤ人は脱構築のの問いかけでどのように思想的反響を呼び起こしたのか
- 本の長さ329ページ
- 言語日本語
- 出版社講談社
- 発売日2003/7/1
- ISBN-10406274354X
- ISBN-13978-4062743549
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商品の説明
内容(「MARC」データベースより)
他者排除の欲望を暴き他者に応える思想とは…。ロゴス中心主義の哲学が他者を排除してきた歴史を指摘したデリダは脱構築の問いかけでどのように思想的反響を呼び起こしたか。98年刊「現代思想の冒険者たち 28」の新装版。
登録情報
- 出版社 : 講談社 (2003/7/1)
- 発売日 : 2003/7/1
- 言語 : 日本語
- 単行本(ソフトカバー) : 329ページ
- ISBN-10 : 406274354X
- ISBN-13 : 978-4062743549
- Amazon 売れ筋ランキング: - 561,083位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 405位フランス・オランダの思想
- カスタマーレビュー:
著者について
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上位レビュー、対象国: 日本
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2011年6月23日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
2011年11月10日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
ここのレビューを拝見してから購入したので相当難しいモノを想像しつつ読んでいたのですが、実際はそれほどではありませんでした。よくよくレビューを吟味してみると、知識のひけらかしだったり全く関係のないことが書かれていたりしました。「専門書だと思ったら入門書だったのでガッカリした」とかなら分かるけど、レビューなんだから本の内容を記述してほしいところです。
もちろん簡単と思うか難しいと思うかは人それぞれなので説明はしにくいですが5章に区分けされているうち、第2章は明らかにちくま新書や講談社新書の哲学関連の入門書と同レベルぐらいだと思ってもらって構いません(第1章は評伝なので省略)。ヘーゲルでもハイデガーでも誰でもいいですが哲学者の名前を題した新書が読める人ならこの本の2章もスイスイ読めると思います。主にプラトンを中心に語られれていますが、プラトンの本の内容を知らなくても私は読めました。
問題は3〜5章ですが少し難易度が高まりますが説明が悪いわけではなくて、デリダの思想の問題だと思います。フッサール、キルケゴール、レヴィナスなどの名前が主に出てきますがそこらへんの前提知識自体そのものより、時間と努力と電子辞書?さえあれば普通に読み込むことが可能です。抽象度の高い話が多いですが極めて明晰な説明だと思います。どうしても分からない場合は現象学と構造主義の入門書から読み直すという手が一番いいかもしれません。
もちろん簡単と思うか難しいと思うかは人それぞれなので説明はしにくいですが5章に区分けされているうち、第2章は明らかにちくま新書や講談社新書の哲学関連の入門書と同レベルぐらいだと思ってもらって構いません(第1章は評伝なので省略)。ヘーゲルでもハイデガーでも誰でもいいですが哲学者の名前を題した新書が読める人ならこの本の2章もスイスイ読めると思います。主にプラトンを中心に語られれていますが、プラトンの本の内容を知らなくても私は読めました。
問題は3〜5章ですが少し難易度が高まりますが説明が悪いわけではなくて、デリダの思想の問題だと思います。フッサール、キルケゴール、レヴィナスなどの名前が主に出てきますがそこらへんの前提知識自体そのものより、時間と努力と電子辞書?さえあれば普通に読み込むことが可能です。抽象度の高い話が多いですが極めて明晰な説明だと思います。どうしても分からない場合は現象学と構造主義の入門書から読み直すという手が一番いいかもしれません。
2006年5月6日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
大した苦労もなく理解できるものだけが入門書ではない。とりわけ哲学書では、そこに記されている論点を、立ち止まってじっくり考える努力を求められる。そうした努力をまったく要請しないまま、「分かったつもり」にさせるようなものは、入門書としては価値が低い。
著者のこの本は、その点で立派に入門書としての役割を果たしている。デリダ哲学の主要な論点を整理し、素人でも理解できるような形で提示している(その意味では、「分かりやすい」といえるかもしれない)。あとは、読者の姿勢や努力次第だ。多少ページを繰るのに時間がかかろうとも、理解しようという姿勢で臨めば、ここに書かれていることも十分飲み込めるはずだ。
ただ、これが「高橋的デリダ」であることは、お忘れなきよう。
著者のこの本は、その点で立派に入門書としての役割を果たしている。デリダ哲学の主要な論点を整理し、素人でも理解できるような形で提示している(その意味では、「分かりやすい」といえるかもしれない)。あとは、読者の姿勢や努力次第だ。多少ページを繰るのに時間がかかろうとも、理解しようという姿勢で臨めば、ここに書かれていることも十分飲み込めるはずだ。
ただ、これが「高橋的デリダ」であることは、お忘れなきよう。
2007年8月5日に日本でレビュー済み
大した苦労もなく理解できるものだけが入門書ではない。とりわけ哲学書では、そこに記されている論点を、立ち止まってじっくり考える努力を求められる。そうした努力をまったく要請しないまま、「分かったつもり」にさせるようなものは、入門書としては価値が低い。
著者のこの本は、その点で立派に入門書としての役割を果たしている。デリダ哲学の主要な論点を整理し、素人でも理解できるような形で提示している(その意味では、「分かりやすい」といえるかもしれない)。あとは、読者の姿勢や努力次第だ。多少ページを繰るのに時間がかかろうとも、理解しようという姿勢で臨めば、ここに書かれていることも十分飲み込めるはずだ。
ただ、これが「高橋的デリダ」であることは、お忘れなきよう。
著者のこの本は、その点で立派に入門書としての役割を果たしている。デリダ哲学の主要な論点を整理し、素人でも理解できるような形で提示している(その意味では、「分かりやすい」といえるかもしれない)。あとは、読者の姿勢や努力次第だ。多少ページを繰るのに時間がかかろうとも、理解しようという姿勢で臨めば、ここに書かれていることも十分飲み込めるはずだ。
ただ、これが「高橋的デリダ」であることは、お忘れなきよう。
2005年9月2日に日本でレビュー済み
わたくしが高橋哲哉の悪口を執拗に書くのは(笑)彼が今や良心的知識人なるものの代表として広く認知されているからである。別のところでも書いたが、彼の知識人、あるいは哲学者としての致命的な欠点は「立場を同じくしない人間への配慮、他者への理解、そして説得の技術の欠如」である。そして、それがある意味最悪のかたちであらわれたのが本書である。
入門書というのは、はじめてその事柄に触れるひとに対して、どうしたらある事象、概念になじんでもらうのか、考えながら書かれるものではないか。ある程度の予備知識のある人間に、斬新な見方、さらに突っ込んだ見解を披露することはある意味簡単だ。そうではなく、入門書には、ほんとうにはじめての人間、つまりこの場合は脱構築から「疎外」されていた人間を、暖かくその世界に取り込む努力が求められる。
そういった「自分と異なる人間」への理解が決定的に欠如している人間(しかも哲学者だという!)の書いた書物がどのようなものであるかはもはや想像がつくだろう。結果として、デリダという難解な思想家に対する反感のみを醸成する書物となってしまっているようにわたくしには思える。この本以来、わたくしは脱構築がすっかり嫌いになってしまった(スピヴァクまでとばっちりを受けてしまっている)。
星一つでも多すぎるくらい。
保守派論客と議論や対話のできる左翼系知識人を待望。
入門書というのは、はじめてその事柄に触れるひとに対して、どうしたらある事象、概念になじんでもらうのか、考えながら書かれるものではないか。ある程度の予備知識のある人間に、斬新な見方、さらに突っ込んだ見解を披露することはある意味簡単だ。そうではなく、入門書には、ほんとうにはじめての人間、つまりこの場合は脱構築から「疎外」されていた人間を、暖かくその世界に取り込む努力が求められる。
そういった「自分と異なる人間」への理解が決定的に欠如している人間(しかも哲学者だという!)の書いた書物がどのようなものであるかはもはや想像がつくだろう。結果として、デリダという難解な思想家に対する反感のみを醸成する書物となってしまっているようにわたくしには思える。この本以来、わたくしは脱構築がすっかり嫌いになってしまった(スピヴァクまでとばっちりを受けてしまっている)。
星一つでも多すぎるくらい。
保守派論客と議論や対話のできる左翼系知識人を待望。
2004年11月23日に日本でレビュー済み
このシリーズはなかなか面白かったが、「デリダ」に関してはいかがなものか、と思った。デリダの入門書など、果たして可能なのだろうか。
デリダといえば「脱構築」という術語で有名であるが、果たしてそれを定義付けることなどできるのであろうか。デリダが亡くなったあと、あるテレヴィ番組で名だたるフランスの哲学者がデリダに関する発言を求められていた。しかしながら「脱構築とは何か」という問いに対し、哲学者たちは納得のできる回答を提出できなかった。アラン・フィンケルクロートに至っては会場の失笑すら買っていた。やはりある種の困難がそこにあるのである。
ただこの本を評価するとしたら、デリダの文学理論に留まらず、簡単ではあるが政治、倫理、宗教について記述していた点であろう。未だ邦訳が出ていない『信と知』にも言及していた。しかし、もう少しレヴィナスとの関係について語っていれば、それなりの内容になったのではないか、と思っている。ハバーマスが指摘している通り、ある意味レヴィナスはデリダの「師」であった。
また、ここで言うべきことではないだろうが、何ゆえデリダの『撒種』『プシケー』が未だ未訳なのであろうか。
デリダといえば「脱構築」という術語で有名であるが、果たしてそれを定義付けることなどできるのであろうか。デリダが亡くなったあと、あるテレヴィ番組で名だたるフランスの哲学者がデリダに関する発言を求められていた。しかしながら「脱構築とは何か」という問いに対し、哲学者たちは納得のできる回答を提出できなかった。アラン・フィンケルクロートに至っては会場の失笑すら買っていた。やはりある種の困難がそこにあるのである。
ただこの本を評価するとしたら、デリダの文学理論に留まらず、簡単ではあるが政治、倫理、宗教について記述していた点であろう。未だ邦訳が出ていない『信と知』にも言及していた。しかし、もう少しレヴィナスとの関係について語っていれば、それなりの内容になったのではないか、と思っている。ハバーマスが指摘している通り、ある意味レヴィナスはデリダの「師」であった。
また、ここで言うべきことではないだろうが、何ゆえデリダの『撒種』『プシケー』が未だ未訳なのであろうか。
2005年10月25日に日本でレビュー済み
厳しいめの評価が多かったので、あえて肯定的評価を。
じゅうぶんに分かりやすい本です。特に初期(プラトン論)と後期(宗教、政治、法の問題)のデリダの仕事に重点が置かれています。「プラトンのパルマケイア」は基礎的論文ですが、いまだにアクセスしやすい翻訳がないので貴重だと思います。
「靖国問題」もそうですが、高橋氏の著述は明快です。勿論異論のある人も
あるでしょう。でも高橋氏の文章を読むことで、自らの異論のスタンス自体
が明確になるはずではないでしょうか。
感情的な好悪は意味がなく、必要なのは議論でしょう。
じゅうぶんに分かりやすい本です。特に初期(プラトン論)と後期(宗教、政治、法の問題)のデリダの仕事に重点が置かれています。「プラトンのパルマケイア」は基礎的論文ですが、いまだにアクセスしやすい翻訳がないので貴重だと思います。
「靖国問題」もそうですが、高橋氏の著述は明快です。勿論異論のある人も
あるでしょう。でも高橋氏の文章を読むことで、自らの異論のスタンス自体
が明確になるはずではないでしょうか。
感情的な好悪は意味がなく、必要なのは議論でしょう。
2004年6月22日に日本でレビュー済み
早い段階でデリダは政治的なテキストを書いている。私は高校生のときレヴィナス論を読んで感心したものだが、その後しばらく日本ではデリダの政治性を扱ったテキストには不思議なほどなかなかお目にかかることはなかった。むしろデリダといえばバルト同様、「テキストの戯れ」の人だということになっていた。しかし、今から思えば、これはデリダの政治性の意図的な隠蔽に他ならない。「政治性の隠蔽」、その政治的効果を考察しなければならない。言葉遊びを多用する難解なテキストを書けばデリダ的ということになる穏やかな時代がかつてこの国にあったのだ。レヴィナス論に感銘を受けた私にとってデリダの政治性は明らかであったが、周囲はそのような反応を理解してくれなかった。私は奇妙に孤立していた。しかも、私は当時法学部に籍を置いていた。法学部にいながらデリダを読もうとしていた私はほとんど珍種の動物のような扱いであった(まもなくデリダ自身の口から「脱構築を行うのにふさわしいのは法学部である」という発言があるのだった)。そのような立場におかれた私がレヴィナスの方に向かっていったのは自然だっただろう。しかし、まもなくレヴィナスに導かれるようにして私はイスラエルを旅行して、そこにパレスティナを見出したのだった。
最近になってやたらデリダの政治性を強調する人たちがいるが、彼らにはデリダのような危険さはない。彼らの主張は「こういっておけば日本の文脈において進歩的知識人が気取れるであろう」という予測のつく範囲でのみデリダを利用しているに過ぎない。ヨーロッパの文脈においてハイデガーを擁護するような危険な賭けを、彼らはけっして行おうとはしないのだ。福田和也の批評活動の「内的真理と偉大さ」を感じずにはいられない。
最近になってやたらデリダの政治性を強調する人たちがいるが、彼らにはデリダのような危険さはない。彼らの主張は「こういっておけば日本の文脈において進歩的知識人が気取れるであろう」という予測のつく範囲でのみデリダを利用しているに過ぎない。ヨーロッパの文脈においてハイデガーを擁護するような危険な賭けを、彼らはけっして行おうとはしないのだ。福田和也の批評活動の「内的真理と偉大さ」を感じずにはいられない。