プライム無料体験をお試しいただけます
プライム無料体験で、この注文から無料配送特典をご利用いただけます。
非会員 | プライム会員 | |
---|---|---|
通常配送 | ¥410 - ¥450* | 無料 |
お急ぎ便 | ¥510 - ¥550 | |
お届け日時指定便 | ¥510 - ¥650 |
*Amazon.co.jp発送商品の注文額 ¥3,500以上は非会員も無料
無料体験はいつでもキャンセルできます。30日のプライム無料体験をぜひお試しください。
無料のKindleアプリをダウンロードして、スマートフォン、タブレット、またはコンピューターで今すぐKindle本を読むことができます。Kindleデバイスは必要ありません。
ウェブ版Kindleなら、お使いのブラウザですぐにお読みいただけます。
携帯電話のカメラを使用する - 以下のコードをスキャンし、Kindleアプリをダウンロードしてください。
1973年のピンボール (講談社文庫 む 6-28) 文庫 – 2004/11/16
購入オプションとあわせ買い
雨の匂い、古いスタン・ゲッツ、そしてピンボール……。青春の彷徨は、いま、終わりの時を迎える
さようなら、3(スリー)フリッパーのスペースシップ。さようなら、ジェイズ・バー。双子の姉妹との<僕>の日々。女の温もりに沈む<鼠>の渇き。やがて来る1つの季節の終り――デビュー作『風の歌を聴け』で爽やかに80年代の文学を拓いた旗手が、ほろ苦い青春を描く3部作のうち、大いなる予感に満ちた第2弾。
- ISBN-104062749114
- ISBN-13978-4062749114
- 出版社講談社
- 発売日2004/11/16
- 言語日本語
- 寸法10.8 x 0.8 x 14.8 cm
- 本の長さ192ページ
よく一緒に購入されている商品
この商品をチェックした人はこんな商品もチェックしています
登録情報
- 出版社 : 講談社 (2004/11/16)
- 発売日 : 2004/11/16
- 言語 : 日本語
- 文庫 : 192ページ
- ISBN-10 : 4062749114
- ISBN-13 : 978-4062749114
- 寸法 : 10.8 x 0.8 x 14.8 cm
- Amazon 売れ筋ランキング: - 38,835位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- カスタマーレビュー:
著者について
1949(昭和24)年、京都府生れ。早稲田大学文学部卒業。
1979年、『風の歌を聴け』でデビュー、群像新人文学賞受賞。主著に『羊をめぐる冒険』(野間文芸新人賞)、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』(谷崎潤一郎賞受賞)、『ねじまき鳥クロニクル』(読売文学賞)、『ノルウェイの森』、『アンダーグラウンド』、『スプートニクの恋人』、『神の子どもたちはみな踊る』、『海辺のカフカ』、『アフターダーク』など。『レイモンド・カーヴァー全集』、『心臓を貫かれて』、『キャッチャー・イン・ザ・ライ』、『ロング・グッドバイ』など訳書も多数。
カスタマーレビュー
私たちの目標は、すべてのレビューを信頼性の高い、有益なものにすることです。だからこそ、私たちはテクノロジーと人間の調査員の両方を活用して、お客様が偽のレビューを見る前にブロックしています。 詳細はこちら
コミュニティガイドラインに違反するAmazonアカウントはブロックされます。また、レビューを購入した出品者をブロックし、そのようなレビューを投稿した当事者に対して法的措置を取ります。 報告方法について学ぶ
イメージ付きのレビュー
-
トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
レビューのフィルタリング中に問題が発生しました。後でもう一度試してください。
表現するものの中身は難解だが、心に響く作品
読み始めていますが、
ちょっとヨゴレや、使用感が目立つ、
「非常に良い」ではなく、「良い」レベル感かなと。
双子がビートルズのアルバム「ラバーソウル」を主人公に内緒で買ってきて、レコードにかけて流した時に、なぜ主人公は黙ってしまったのか・・・本作ではその明確な理由は書かれてないが、この伏線は作品を越えて回収される。
ビートルズの楽曲「ノルウェイの森」は「ラバーソウル」に収録されているからだと思う(現在は複数のアルバムに収録されているだろうが、当時は初出と思われる)。
小説「ノルウェイの森」の中で、ヒロインの直子が大好きだった楽曲。
(同アルバム収録の「インマイライフ」を聴いても、歌詞的に直子を思い出しそうだけど。)
出版された順番は違うけど、物語内の時系列は1968-69「ノルウェイの森」→1970夏「風の歌を聴け」(処女作)→1973秋「1973年のピンボール」なので、本作の前に「ノルウェイの森」を読んでいると、ピンボールに込められた想いや嵌った理由がだいぶ理解できると思う(本書にも、喪失した恋人として直子が出てくるので、小説同士に何らかの繋がりがあると見ていい。若干矛盾が生じる箇所もあるが、そこはパラレルワールドってことで笑)。
あと幾つか思うところを書くと、個人的には本作自体が「ピンボールというゲーム機器本体」に見立てられてるのでは、と思った。
~虚無的に感じられる部分は「死んだ時間を提供するだけのピンボール(=今の生き方)をいいかげんやめたい、でもやめられない、変わりたい、変われない」という日々の堕落と呪術性(中毒・依存)を表す~
↑煙草・酒・ゲーム・パチンコ・スロット・スマホなど何でもいいけど、何かに嵌り過ぎてダメ人間になった経験がある人はこの感覚がわかると思う。
~配電盤を捨ててみたり養鶏場の冷凍倉庫に行ったり(主人公)、ジェイに町を出ることをなかなか告げられず何度もバーに通ったり(鼠)~
↑人間は本当にやめたい何かを卒業する時、時間を無駄にして決意と挫折を繰り返したり、誰にも秘密の個人的葬式儀式を何度も繰り返した果てに、ある日ようやくやめることができるものだと思う。
『依存した何かを喪失した恋人に見立てる自己正当化(=擬人化)、堕落と中毒の繰り返しの果ての卒業・旅立ち』・・・これらも人間の持つ普遍性であり、これが本作のテーマ(=寓意・アレゴリー)の1つではないかと思った。人類普遍のと言った大きなものではなく、地べたに這いつくばるような個人のちっぽけな日常的テーマではあるけど。
それを読者に感じさせるためには、読み進めるのが退屈と思われたとしても、変わらないダラダラとした虚無の日々や何度も行う卒業的儀式の描写は必要だし、その果てにようやくピンボールを卒業できる(本作を読了する)というカタルシスを味わえる構成になってるんだと思う。
大体、作者が読者に対して「ハヴ・ア・ナイス・ゲーム」とか「もしあなたが(本作=ピンボールを通して)自己表現やエゴの拡大や分析を目指せば、あなたは反則ランプによって容赦なき報復を受けるだろう」とか皮肉的なこと言っちゃってるし。他にも「リプレイ、リプレイ、リプレイ」とか、「繰り返しだ」というフレーズも多いし。だから虚無の日々や葬式的儀式が何度もリプレイされているのだろう。
本作自体をピンボール機器に見立てる(=読者に虚無と中毒を体感させた果てに卒業させる)という実験的試みがわかりづらくて人によっては退屈なのが、本作が初期3作の間に挟まっていまいち人気がないと言われることもある理由ではないだろうか。あるいは現実逃避したくて読書しようと本書を手にしたのに、現実の自分と同じ様に何かに依存して、虚無の日々を送る主人公達をまざまざと見せつけられたら、この作品を読むのは苦痛に感じ、好きになれないかもしれない。
あと、「主人公と鼠」は直喩やメタファー・キーワード的単語を入れ換えても文脈が通じるものが多いので、2人1役と思って問題ないと思う。それを狙ってわざと共通する言葉を使ってると思うし、直接的絡みはないけど、2人は無意識下で今もつながってるという設定かと。たとえば、鼠が「いったいどれだけの水を飲めば足りるのか」と思ったら、主人公が双子に「バケツ一杯分もの水を飲まされ」ますよね(私も3.11の時は被災者じゃないのになぜか異様に水が飲みたくなった)。
そして、何かの中毒になってる人間は誰かの助けなしには脱出しづらいもの・・・救いの存在の象徴として双子が現れ、癒され、卒業儀式を行うことを啓示され、まだ引きずる時もあるだろうけど一応は卒業できたから、双子は去っていったんだと思う。だから本作ラストで、トラウマでもある「ラバーソウル(ノルウェイの森)」を聴くことができたのだと思う(小説「ノルウェイの森」の冒頭では、1986年37歳になっても飛行機内で流れた「ノルウェイの森」に心を乱されるから、完全にトラウマを無くすことは不可能みたいだが)。
~~~~~
(追記)
処女作の「風の歌を聴け」の24章に、主人公・僕と鼠のこんな思わせぶりなやり取りがある。
「ねえ、女って一体何を食って生きてるんだと思う?」
「靴の底。」
「まさか。」と鼠が言った。
靴の底から連想するのは、ラバーソール(ex.ジョージ〇ックスとか)。
直子がラバーソールばかり食べて(聴いて)生きながらえていた、とでも言いたいのだろうか。
まあビートルズのアルバムは「Rubber Soul(ラバー・ソウル)」であって、
ゴム製の靴底を意味する「Rubber sole(ラバー・ソウル)」ではないけど。
思うに、「風の歌を聴け」を書いた時点で、ハルキはエピソード0とも言える
「ノルウェイの森」の原型をすでに書いたことがあったのではないだろうか。
だから処女作で「靴の底」という単語が出てくるのではないだろうか。
デレク・ハートフィールドというのは、デビュー前のハルキのメタファー...という説は
どこかで見た覚えがある(Wミーニング以上のメタファーがあるはずだけど)。
改めて、2つの物語の重なり合い、探し物系サスペンス風展開、裏/表・陰/陽などのスタイルはここから始まったんだなあと思う。
「僕」の全て諦めてしまったかのような(、そして爺臭い)明るさと、鼠の何かに縋りつくような(、そして夢見るような)暗さ。
どちらがどちらというわけでもなく、どちらもどちらということでもなく。
抜け出そうとして抜け出せない/抜け出したくない、そんなあの頃の感覚をふたつに分けてからひとつに混ぜようと思ったら、こういう形で表すしかなかったのかな。
養鶏場のシーンは何度読んでもドキドキする。
リアルタイムで本を読むということはあまりしないので、時代と自分ということを考えてしまう数少ない作品。
批評家たちは、デタッチメントを強調するけど、そしてそれはかつてのバブル期の消費される時代へのアンチテーゼなのだろうけど、そんな小難しいことを抜きにしても、単純に物語として面白い。
何も入っていないような気がして、しかし見えないように大切なものが詰まっている、そんな感じがする。
しかし、村上春樹文学の普遍性(脱・土着性)はどのように生み出されるのだろうか、いつも不思議だ。