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輝く日の宮 (講談社文庫) 文庫 – 2006/6/15
丸谷 才一
(著)
女性国文学者・杉安佐子は『源氏物語』には「輝く日の宮」という巻があったと考えていた。水を扱う会社に勤める長良との恋に悩みながら、安佐子は幻の一帖の謎を追い、研究者としても成長していく。文芸批評や翻訳など丸谷文学のエッセンスが注ぎ込まれ、章ごとに変わる文章のスタイルでも話題を呼んだ、傑作長編小説。(講談社文庫)
女ざかりの研究者が追う『源氏物語』幻の一帖。
女性国文学者・杉安佐子は『源氏物語』には「輝く日の宮」という巻があったと考えていた。水を扱う会社に勤める長良との恋に悩みながら、安佐子は幻の一帖の謎を追い、研究者としても成長していく。文芸批評や翻訳など丸谷文学のエッセンスが注ぎ込まれ、章ごとに変わる文章のスタイルでも話題を呼んだ、傑作長編小説。
女ざかりの研究者が追う『源氏物語』幻の一帖。
女性国文学者・杉安佐子は『源氏物語』には「輝く日の宮」という巻があったと考えていた。水を扱う会社に勤める長良との恋に悩みながら、安佐子は幻の一帖の謎を追い、研究者としても成長していく。文芸批評や翻訳など丸谷文学のエッセンスが注ぎ込まれ、章ごとに変わる文章のスタイルでも話題を呼んだ、傑作長編小説。
- 本の長さ479ページ
- 言語日本語
- 出版社講談社
- 発売日2006/6/15
- ISBN-104062754347
- ISBN-13978-4062754347
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商品の説明
著者について
1925年山形県鶴岡市生まれ。東京大学英文科卒。作家。'68年『年の残り』で芥川賞受賞。『たった一人の反乱』で谷崎賞、『忠臣蔵とは何か』で野間文芸賞、『樹影譚』で川端賞、『横しぐれ』英訳で英紙インデペンデント外国小説賞特別賞、『新々百人一首』で大佛次郎賞、本作品で朝日賞、泉鏡花賞など受賞多数。
登録情報
- 出版社 : 講談社 (2006/6/15)
- 発売日 : 2006/6/15
- 言語 : 日本語
- 文庫 : 479ページ
- ISBN-10 : 4062754347
- ISBN-13 : 978-4062754347
- Amazon 売れ筋ランキング: - 125,188位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 1,852位講談社文庫
- - 3,284位日本文学
- - 28,340位ノンフィクション (本)
- カスタマーレビュー:
著者について
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1925(大正14)年、山形県鶴岡市生れ。東京大学英文科卒。1957年『笹まくら』で河出文化賞、1968年「年の残り」で芥川賞受賞。その後、小説、評論、エッセイ、翻訳と幅広い文筆活動を展開。『たった一人の反乱』(谷崎潤一郎賞)『裏声で歌へ君が代』『後鳥羽院』(読売文学賞評論・伝記部門) 『忠臣藏とは何か』(野間文芸賞)「樹影譚」(川端康成賞)『輝く日の宮』(泉鏡花文学賞、朝日賞)等、多くの著作がある。(「BOOK著者紹介情報」より:本データは『 人間的なアルファベット (ISBN-13: 978-4062160995)』が刊行された当時に掲載されていたものです)
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2022年11月2日に日本でレビュー済み
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思い立って読んでみようと本屋を探したら絶版してました。作者がなくなって数年で絶版するとは全く予想してませんでしたが見つかってよかったです。とてもきれいな状態の本が届き満足しています。ありがとうございました。
2021年2月24日に日本でレビュー済み
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徳島県下で最古の半世紀以上の歴史を誇る、阿南市の桑野読書会が、今も月1回の読書会をしています。その課題図書である本書を買いました。自分の本なら、書き込みができるからです。
2009年2月26日に日本でレビュー済み
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源氏物語には「かかやくひのみや」という幻の章があり、紫式部のパトロン兼情夫であった藤原道長が源氏をより面白くするためにわざと省いた、という仮説を小説にしたもの。
女子大で近代国文学の助教授をしている杉安佐子は、国文学会のシンポジウムで源氏物語の幻の章「輝く日の宮」について語り、想像して復元した章を雑誌に発表することになる。小説は、「輝く日の宮」の成立を源氏物語の構成の分析作業を縦糸に、安佐子の家族や交際関係を横糸に進んでいく。
源氏物語の分析についての評価は私の出る幕はないのだが、30代バツ1の女性が交際している
男に、「ご覧になって」という言葉遣いをするか、など細かいところが気になる。こうした敬語が自然にわざとらしくなく使えるのは、いまや60〜80代の東京山の手生まれの女性ではないか。また、終わりの方では安佐子の元の教え子がある告白をするのだが、こんな20代女子もいない気がする。
著者の評論やエッセイは非常に興味深く、小説も構成やテーマが明確なのだが、描く女性像はどうもしっくりこない。映画にもなった同じ作者の「女ざかり」にもそういう評価があった。星のマイナス分はそこら辺の個人的違和感のため。
女子大で近代国文学の助教授をしている杉安佐子は、国文学会のシンポジウムで源氏物語の幻の章「輝く日の宮」について語り、想像して復元した章を雑誌に発表することになる。小説は、「輝く日の宮」の成立を源氏物語の構成の分析作業を縦糸に、安佐子の家族や交際関係を横糸に進んでいく。
源氏物語の分析についての評価は私の出る幕はないのだが、30代バツ1の女性が交際している
男に、「ご覧になって」という言葉遣いをするか、など細かいところが気になる。こうした敬語が自然にわざとらしくなく使えるのは、いまや60〜80代の東京山の手生まれの女性ではないか。また、終わりの方では安佐子の元の教え子がある告白をするのだが、こんな20代女子もいない気がする。
著者の評論やエッセイは非常に興味深く、小説も構成やテーマが明確なのだが、描く女性像はどうもしっくりこない。映画にもなった同じ作者の「女ざかり」にもそういう評価があった。星のマイナス分はそこら辺の個人的違和感のため。
2022年12月22日に日本でレビュー済み
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ジョイスの影響を受けた作者ならではの技巧を凝らした快作。
源氏物語の”失われた”一丁を巡るサスペンサブルな物語。
主人公がたどり着いた驚きの結末には忘我の境地。
作者の持論をノベライズした作品であるが、その創造力にはまたしても脱帽。
やられました。
源氏物語の”失われた”一丁を巡るサスペンサブルな物語。
主人公がたどり着いた驚きの結末には忘我の境地。
作者の持論をノベライズした作品であるが、その創造力にはまたしても脱帽。
やられました。
2020年7月26日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
源氏物語の読後に読みました。丸谷才一のファンです。あらためて源氏物語の構成が考えられ、実に素敵な小説でした。丸谷氏が亡くなって、新作が読めないことが残念です
2020年2月24日に日本でレビュー済み
『源氏物語』の「桐壺」の次に「輝く日の宮」という巻があったのではないか、あったのなら、なぜ現存していないのか、いや、そんなものは存在しなかった――と、議論が囂(かまびす)しい。『輝く日の宮』(丸谷才一著、講談社文庫)では、丸谷才一が小説の形を借りて、この謎に果敢に挑戦している。
本作品は、いかにも丸谷らしい、よく練られた小説であるが、私の関心は、①丸谷は「輝く日の宮」という巻が存在したと考えているのか否か、②存在したと考えているなら、我々がそれを目にすることができないのはなぜか、③もし、その巻が存在したのなら、それにはどういうことが書かれていたのか――の3点である。
①については、紫式部は確かに「輝く日の宮」の巻を書いたというのが、丸谷の見解である。
②については、時の最高権力者であり、紫式部の雇用主であり、性的パートナー(愛人)であり、かつ、『源氏物語』執筆の支援者・協力者でもある藤原道長が、明確な意図を持って「輝く日の宮」の巻を『源氏物語』から外したと、丸谷は推考している。
③については、丸谷作の「輝く日の宮」の巻の全文が巻末に提示されている。
「紫式部の作風には『蜻蛉日記』の影響が大きいのではないかといふのだ。第一の巻『桐壺』の書き方は童話かロマンスのやうで、写実的な人物描写とは言ひにくい。ところが『帚木』からは調子が変つて、風俗と人情を重んずる近代ふうの本格的な小説に近づく。あるいはその手の小説そのものになる。『源氏』以前にはああいふ書き方はなくて、『竹取物語』だつて『伊勢物語』だつてずつと素朴だから、あの変化は何のせいだらうとかねがね疑問に思つてゐたけれど、さつき、ふと、闇のなかで男の寝息を聞きながら、『蜻蛉日記』の一場面を思ひ出した」。本小説の主人公である日本文学者・杉安佐子が「輝く日の宮」の巻の謎を解こうと、頭を絞っているのである。丸谷は、『蜻蛉日記』を紫式部に貸したのは道長であり、紫式部は『蜻蛉日記』から写実的な人間の捉え方を学んだと考えているのだ。
「(道長は)一つには、懐妊した娘(中宮・彰子)の周囲を自分の勢力下の者で固めたい、そのためにはしつかり者の女中に手をつけて置くに限る、といふ策略があつた。それにもう一つ、評判の物語の作者は道長の召人(めしうど。妻妾に準ずる同居者)だとしきりに取り沙汰されてゐる様子なのに何もしないのでは男の沽券にかかはる、といふ気持もあつた。そんなあれやこれやでかういふことになつたと思ふ」。紫式部は、こういう肉体関係になったことを嫌がるどころか、むしろ誇らしく思っていたというのだ。
「(紫式部は)翌日の夜、今度は戸を開けて(道長を)招じ入れる。寝物語になつて、しばらくしてから女は言つた。『巻が一つ除いた形で出まはつてをりますので、びつくりしました』と。抗議とか不満とかぢやなく(そんなこと口にできる立場ぢやない)、ごくあつさりと。男は笑つて、『あのほうがいいと思つてね。どうでした?』なんて訊ねる。何しろ著作権などといふ概念はない時代だから、平気である。そこで女はつぶやく。『花落林間枝漸空、多看漠々灑舟紅。季節はづれですけれど』と。上機嫌で笑ふ男の体の動きが女の裸身にいちいち伝はる。これは彼が二年前に作つた漢詩の出だしの所。・・・『輝く日の宮』が削られたせいでまるで桃の花が散つたみたいに枝(物語それ自体)が寂しくなりましたが、でも紅い花(『輝く日の宮』の巻)がちらちらと舟に降りそそぐやうで、これはこれで風情がございます、と引用によつて述べた。相手の作つた詩を暗誦して答へるのはもちろん社交的礼節。・・・若い娘とのこともよいが年増との共寝はいつそう楽しい味のものなどとお世辞を言ひ、女が笑つて受け流すと、一転して少年のころの思ひ出話をはじめた。・・・添臥してゐる三十女は権力者の回想を、テープ・レコーダーのやうになつて聞いてゐた」。
「紫式部が『つまりあの巻が出来が悪いのでございますね』と言ふと、道長はそれにはすぐに答へずに、『たとへば最初の巻などは、まだ筆が伸びてゐなくて拙と言へば拙だが、しかし巧拙を超えたおもしろさがあつて、それが別種の、何となくお伽話めいた効果をあげてゐた。そのことはおわかりでせう。でも、次の巻は、さういふ特殊なよさもわりあひ薄いやうな気がする。あそこは瑕瑾だな。抜いたほうがいいと思って、さうした』などと説明する。さらには、『おや、伝へてなかつたか』などととぼけたりして。道長はさらに、除くことによつてかへつて余情が出る、余韻が生ずると教へた。絵でも詩でも、名手はこの手をじつに巧みに用ゐる。それをもう一つ派手に仕掛けるだけのことさ、などと。・・・『輝く日の宮』を書き直させないで湮滅するといふ手を思ひついたのは、いかにも彼らしい。ずるくて、しやあしやあとしてゐて、後くされがない。紫式部もかなり感心したのぢやないか。ほじめは呆気に取られてゐたが、『帚木』を書き、『空蝉』『夕顔』と進んでゆくと、だんだん気持が変つて、すごい解決策だと思ふやうになつた。現実処理の能力といふか、工夫の才に舌を巻く思ひだつた」。
丸谷の小説『輝く日の宮』は、傑作と言えるだろう。また、紫式部が道長の召人であったことは確かだろう。しかしながら、『源氏物語』の「輝く日の宮」の巻はそもそも最初から存在しなかったと、私は考えている。その理由は、3つある。第1は、「桐壺」の巻で藤壺の宮は「輝く日の宮」と呼ばれているが、『源氏物語』の巻名はいずれも漢字1~3文字であり、「輝く日の宮」といった冗長な巻名を紫式部が付けるはずがないと思われること。第2は、「桐壺」から「帚木」の間に「輝く日の宮」の巻がなくとも、ストーリー展開に問題が生じていないこと。第3は、「若紫」の巻で、源氏が里帰り中の藤壺の宮を訪ね、無理やり一夜を共にし、これが藤壺の宮の懐妊をもたらしたことが書かれているので、「輝く日の宮」の巻がなくとも、読者は密通というただならぬ二人の秘密を知ることができるからである。なお、藤壺の宮は、過去の一夜の源氏との密会に罪悪感を抱いているのに、女房に手引きさせて寝所に入り込んできた源氏と、またこういうことになってしまったのである。
本作品は、いかにも丸谷らしい、よく練られた小説であるが、私の関心は、①丸谷は「輝く日の宮」という巻が存在したと考えているのか否か、②存在したと考えているなら、我々がそれを目にすることができないのはなぜか、③もし、その巻が存在したのなら、それにはどういうことが書かれていたのか――の3点である。
①については、紫式部は確かに「輝く日の宮」の巻を書いたというのが、丸谷の見解である。
②については、時の最高権力者であり、紫式部の雇用主であり、性的パートナー(愛人)であり、かつ、『源氏物語』執筆の支援者・協力者でもある藤原道長が、明確な意図を持って「輝く日の宮」の巻を『源氏物語』から外したと、丸谷は推考している。
③については、丸谷作の「輝く日の宮」の巻の全文が巻末に提示されている。
「紫式部の作風には『蜻蛉日記』の影響が大きいのではないかといふのだ。第一の巻『桐壺』の書き方は童話かロマンスのやうで、写実的な人物描写とは言ひにくい。ところが『帚木』からは調子が変つて、風俗と人情を重んずる近代ふうの本格的な小説に近づく。あるいはその手の小説そのものになる。『源氏』以前にはああいふ書き方はなくて、『竹取物語』だつて『伊勢物語』だつてずつと素朴だから、あの変化は何のせいだらうとかねがね疑問に思つてゐたけれど、さつき、ふと、闇のなかで男の寝息を聞きながら、『蜻蛉日記』の一場面を思ひ出した」。本小説の主人公である日本文学者・杉安佐子が「輝く日の宮」の巻の謎を解こうと、頭を絞っているのである。丸谷は、『蜻蛉日記』を紫式部に貸したのは道長であり、紫式部は『蜻蛉日記』から写実的な人間の捉え方を学んだと考えているのだ。
「(道長は)一つには、懐妊した娘(中宮・彰子)の周囲を自分の勢力下の者で固めたい、そのためにはしつかり者の女中に手をつけて置くに限る、といふ策略があつた。それにもう一つ、評判の物語の作者は道長の召人(めしうど。妻妾に準ずる同居者)だとしきりに取り沙汰されてゐる様子なのに何もしないのでは男の沽券にかかはる、といふ気持もあつた。そんなあれやこれやでかういふことになつたと思ふ」。紫式部は、こういう肉体関係になったことを嫌がるどころか、むしろ誇らしく思っていたというのだ。
「(紫式部は)翌日の夜、今度は戸を開けて(道長を)招じ入れる。寝物語になつて、しばらくしてから女は言つた。『巻が一つ除いた形で出まはつてをりますので、びつくりしました』と。抗議とか不満とかぢやなく(そんなこと口にできる立場ぢやない)、ごくあつさりと。男は笑つて、『あのほうがいいと思つてね。どうでした?』なんて訊ねる。何しろ著作権などといふ概念はない時代だから、平気である。そこで女はつぶやく。『花落林間枝漸空、多看漠々灑舟紅。季節はづれですけれど』と。上機嫌で笑ふ男の体の動きが女の裸身にいちいち伝はる。これは彼が二年前に作つた漢詩の出だしの所。・・・『輝く日の宮』が削られたせいでまるで桃の花が散つたみたいに枝(物語それ自体)が寂しくなりましたが、でも紅い花(『輝く日の宮』の巻)がちらちらと舟に降りそそぐやうで、これはこれで風情がございます、と引用によつて述べた。相手の作つた詩を暗誦して答へるのはもちろん社交的礼節。・・・若い娘とのこともよいが年増との共寝はいつそう楽しい味のものなどとお世辞を言ひ、女が笑つて受け流すと、一転して少年のころの思ひ出話をはじめた。・・・添臥してゐる三十女は権力者の回想を、テープ・レコーダーのやうになつて聞いてゐた」。
「紫式部が『つまりあの巻が出来が悪いのでございますね』と言ふと、道長はそれにはすぐに答へずに、『たとへば最初の巻などは、まだ筆が伸びてゐなくて拙と言へば拙だが、しかし巧拙を超えたおもしろさがあつて、それが別種の、何となくお伽話めいた効果をあげてゐた。そのことはおわかりでせう。でも、次の巻は、さういふ特殊なよさもわりあひ薄いやうな気がする。あそこは瑕瑾だな。抜いたほうがいいと思って、さうした』などと説明する。さらには、『おや、伝へてなかつたか』などととぼけたりして。道長はさらに、除くことによつてかへつて余情が出る、余韻が生ずると教へた。絵でも詩でも、名手はこの手をじつに巧みに用ゐる。それをもう一つ派手に仕掛けるだけのことさ、などと。・・・『輝く日の宮』を書き直させないで湮滅するといふ手を思ひついたのは、いかにも彼らしい。ずるくて、しやあしやあとしてゐて、後くされがない。紫式部もかなり感心したのぢやないか。ほじめは呆気に取られてゐたが、『帚木』を書き、『空蝉』『夕顔』と進んでゆくと、だんだん気持が変つて、すごい解決策だと思ふやうになつた。現実処理の能力といふか、工夫の才に舌を巻く思ひだつた」。
丸谷の小説『輝く日の宮』は、傑作と言えるだろう。また、紫式部が道長の召人であったことは確かだろう。しかしながら、『源氏物語』の「輝く日の宮」の巻はそもそも最初から存在しなかったと、私は考えている。その理由は、3つある。第1は、「桐壺」の巻で藤壺の宮は「輝く日の宮」と呼ばれているが、『源氏物語』の巻名はいずれも漢字1~3文字であり、「輝く日の宮」といった冗長な巻名を紫式部が付けるはずがないと思われること。第2は、「桐壺」から「帚木」の間に「輝く日の宮」の巻がなくとも、ストーリー展開に問題が生じていないこと。第3は、「若紫」の巻で、源氏が里帰り中の藤壺の宮を訪ね、無理やり一夜を共にし、これが藤壺の宮の懐妊をもたらしたことが書かれているので、「輝く日の宮」の巻がなくとも、読者は密通というただならぬ二人の秘密を知ることができるからである。なお、藤壺の宮は、過去の一夜の源氏との密会に罪悪感を抱いているのに、女房に手引きさせて寝所に入り込んできた源氏と、またこういうことになってしまったのである。
2016年7月4日に日本でレビュー済み
読書人にとって、私もこの作家の高名さは知っているが、私の好むミステリとは縁遠かったので、その著作を読む事はなかった。本書もミステリではないので買うのを躊躇ったが、「源氏物語」について独自の切り口を以って活写しているとの書評を読み、ここで「源氏物語」の内奥を知っておくのも、強ち無駄な遠回りではないと思い、ページを開いた。
しかし本書は、「源氏物語」だけではなく、泉鏡花、松尾芭蕉、田山花袋、為永春水、徳田秋声、吉川英治――と百花繚乱の賑わいなので、少なからず日本文学(古典)に興味を持つものとしては、その知的好奇心をくすぐること数多あり、これは非常に楽しめた。
余談になるが、「源氏物語」は、四百字詰原稿用紙になおすと、1,800枚になるという。当時は一枚に200字書いているので、何と紫式部は3,600枚書いた事になる。凄い。
しかし本書は、「源氏物語」だけではなく、泉鏡花、松尾芭蕉、田山花袋、為永春水、徳田秋声、吉川英治――と百花繚乱の賑わいなので、少なからず日本文学(古典)に興味を持つものとしては、その知的好奇心をくすぐること数多あり、これは非常に楽しめた。
余談になるが、「源氏物語」は、四百字詰原稿用紙になおすと、1,800枚になるという。当時は一枚に200字書いているので、何と紫式部は3,600枚書いた事になる。凄い。
2003年6月17日に日本でレビュー済み
ほぼ10年ごとに発表される丸谷才一氏の小説。今回も、読者は10年間辛抱強く待ってきた。私も愛読者の1人として、渇いた者が一気に水を飲むように本書を読み終えた。だから「面白かった」というのが率直な読後感だ。しかし一方、「これは小説なのか、一体何なのだ、得体のしれない作品が生まれてしまった」という感想も持つ。
本作品は全編、文学の議論で埋め尽くされている。「芭蕉はなぜ東北へ行ったのか」「『源氏物語』に『輝く日の宮』という巻はあったか。あったとすればなぜ失われたのか」などについて、登場人物たち――というよりは作者丸谷才一自身――が、想像力を縦横に駆使して独創的な論を展開する。それは、登場人物の源氏学者たちが色をなして反対するていの説であって、いわゆる「実!証的な学問」ではない。それは作者も先刻承知だ。「大胆に仮説を立てる所が独特の魅力」(p.265)の小説である。
このような丸谷氏の手法は、一作ごとに顕著になってきたもので、本作品『輝く日の宮』で極みに達したともいえる。『裏声で歌へ君が代』のころは、物語50パーセント、議論50パーセントといった感じだった。ところが、本作品では物語10パーセント、議論90パーセントぐらいになっているのではないか。小説にストーリーを求める読者にとっては、苦痛な作品であるかもしれない。逆に、純粋に実証的な論文を求める読者にとっては、荒唐無稽の作品であるかもしれない。そうすると、一体この作品が多くの読者を得られるのかどうか心配になる。議論の真偽に拘泥せず、作者の自由な空想力を余裕を持って楽しむ!ことができる者のみが本作品を堪能できるだろう。
惜しむらくは、登場人物たちが狂言回し・解説者としての役割に力をそそぐあまり、作中で自分たちの人生を十分に生きていないように思われる。登場人物にリアリティが薄いのは本作品の瑕瑾ではないか。
本作品は全編、文学の議論で埋め尽くされている。「芭蕉はなぜ東北へ行ったのか」「『源氏物語』に『輝く日の宮』という巻はあったか。あったとすればなぜ失われたのか」などについて、登場人物たち――というよりは作者丸谷才一自身――が、想像力を縦横に駆使して独創的な論を展開する。それは、登場人物の源氏学者たちが色をなして反対するていの説であって、いわゆる「実!証的な学問」ではない。それは作者も先刻承知だ。「大胆に仮説を立てる所が独特の魅力」(p.265)の小説である。
このような丸谷氏の手法は、一作ごとに顕著になってきたもので、本作品『輝く日の宮』で極みに達したともいえる。『裏声で歌へ君が代』のころは、物語50パーセント、議論50パーセントといった感じだった。ところが、本作品では物語10パーセント、議論90パーセントぐらいになっているのではないか。小説にストーリーを求める読者にとっては、苦痛な作品であるかもしれない。逆に、純粋に実証的な論文を求める読者にとっては、荒唐無稽の作品であるかもしれない。そうすると、一体この作品が多くの読者を得られるのかどうか心配になる。議論の真偽に拘泥せず、作者の自由な空想力を余裕を持って楽しむ!ことができる者のみが本作品を堪能できるだろう。
惜しむらくは、登場人物たちが狂言回し・解説者としての役割に力をそそぐあまり、作中で自分たちの人生を十分に生きていないように思われる。登場人物にリアリティが薄いのは本作品の瑕瑾ではないか。