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はじめての言語ゲーム (講談社現代新書) 新書 – 2009/7/17
橋爪 大三郎
(著)
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もっともわかりやすいヴィトゲンシュタイン入門書。世界のあらゆるふるまいを説明しつくそうとしたヴィトゲンシュタインの言語ゲーム論はいかに生まれ、どんな思想か? 『はじめての構造主義』著者による、きわめて平易な哲学入門です。(講談社現代新書)
もっともわかりやすいヴィトゲンシュタイン入門書。
世界のあらゆるふるまいを説明しつくそうとしたヴィトゲンシュタインの言語ゲーム論はいかに生まれ、どんな思想か?
18万部を超える『はじめての構造主義』著者による、きわめて平易な哲学入門です。
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世界のあらゆるふるまいを説明しつくそうとしたヴィトゲンシュタインの言語ゲーム論はいかに生まれ、どんな思想か?
18万部を超える『はじめての構造主義』著者による、きわめて平易な哲学入門です。
- 本の長さ272ページ
- 言語日本語
- 出版社講談社
- 発売日2009/7/17
- 寸法10.6 x 1.3 x 17.4 cm
- ISBN-104062880040
- ISBN-13978-4062880046
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登録情報
- 出版社 : 講談社 (2009/7/17)
- 発売日 : 2009/7/17
- 言語 : 日本語
- 新書 : 272ページ
- ISBN-10 : 4062880040
- ISBN-13 : 978-4062880046
- 寸法 : 10.6 x 1.3 x 17.4 cm
- Amazon 売れ筋ランキング: - 144,575位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
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上位レビュー、対象国: 日本
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2024年5月13日に日本でレビュー済み
戦争の時代。人が若くして死ぬ事を身近に感じたヴィトゲンシュタインが何を考え、それをどう語ったか。沈黙後に自分の考えをひっくり返すという展開も刺激的で本書全体も彼の生き方の激しさが伝わるものとなっている。
2017年7月4日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
ウィトゲンシュタインの入門書としては、飛び抜けて明快、執筆まで20年を要したと、ただし第六章の言語ゲームまでで、第七章以降は、橋爪氏の解釈と理論、初期仏教教団や本居宣長論への適用、言語ゲームを社会理論あるいは社会思想への構築に主眼、いわゆる言語ゲーム一元論であって、「語り得ぬもの」への言及は少ない、その点、永井均『入門』との対極、思想と哲学の相違というところか。両者、意味と価値は「語り得ぬもの」へ範疇として位置づける点で同じ。率直に言って、ほかの入門書概説書は、予備知識がなくては読めない。
2021年9月9日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
ウィトゲンシュタインの思考の変遷、どのようにして言語ゲームの考え方に到達したのかが良く分かりました。また、仏教や本居宣長を言語ゲームの切り口で解説してくれており、大変良く理解出来ました。分かり易いので是非一読をお勧めします。
2009年8月21日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
珍しい横書き。しかし、数式の表記や原文からの引用もあるので、読みやすさという点でこの体裁は悪くない。著者の代表作「はじめての構造主義」にも似た軽妙な筆致でウィトゲンシュタインの生涯とその思想の変遷をざっくりと記述しながら、いかに言語ゲームが生まれたかを説明し、後半にその「言語ゲーム論」を応用した数例の分析と展望を述べるという構成。ウィトゲンシュタインについて知識のない読者であっても読み物としてなかなか面白いと思えるのではないだろうか。
ただし、面白さ(とっつきやすさ)を追求するあまりか筆が走り過ぎ、ウィトゲンシュタインが憑依していると理解しなければ合理的な説明が付かないような箇所があったりするのが少々難である。また、これは本書を読む前に是非知っておいて欲しいのだが、そもそも言語ゲームとはウィトゲンシュタインが言語現象全体への展望を与えるために用いた「比喩」であって、それが後期ウィトゲンシュタインの哲学そのものを指したり、言語理論の基礎を与える概念ととらえたりすることは、誤解だという所見もある(例えば飯田隆)。したがって、ウィトゲンシュタインを俯瞰的に理解するには、本書は面白いけれど少々役不足であることは否めない。また、後半に提起される「言語ゲーム論」は、ウィトゲンシュタインのそれだけではなく、それを裏書きしてるのではないかと橋爪氏が推測するハートの法理論とを合体させた「橋爪流言語ゲーム論」であることにも留意が必要である。
しかしである。言語ゲームを拝借して何かを述べるという態度は何も橋爪氏に限った話ではない。言語ゲームというアイデアは「比喩」だけに留めておくのはおしい。それだけ抗しがたい何かがあるというべきだろう。
実は本書のコアとなる「橋爪流言語ゲーム論」は、最新の知見ではない。85年の 言語ゲームと社会理論―ヴィトゲンシュタイン ハート・ルーマン で既に本書よりも詳しく検討されており、本書はそのダイジェストという位置づけも可能である。 また、社会学者である著者のたくらみは、ウィトゲンシュタインのバイオグラフィー記述にあるわけではなく、哲学系の高度なクリティークを行いたいわけでもないだろう(だからといって適当で良いというわけでもない。この辺が減点対象。)。端的にいえばそれは橋爪オリジナルの「言語ゲーム論」というモデルの有効性の明示や承認獲得の拡大にあるはずだ。社会学の目的は、問題を提起し、それを研究する枠組みとモデルを構築することにあるとすれば、この「橋爪流言語ゲーム論」というモデルはその意味でどの程度妥当性があるのかを評価すべきで、もはやウィトゲンシュタインから離れていってしまうのだ。したがって本書はウィトゲンシュタイン入門という形を取りながら、実は「橋爪流言語ゲーム論」入門になってしまっているのである。
つまり、ウィトゲンシュタイン入門だと考えると低い評価になり、橋爪流言語ゲーム論入門だと思えば評価が分かれることになるのである。
ただし、面白さ(とっつきやすさ)を追求するあまりか筆が走り過ぎ、ウィトゲンシュタインが憑依していると理解しなければ合理的な説明が付かないような箇所があったりするのが少々難である。また、これは本書を読む前に是非知っておいて欲しいのだが、そもそも言語ゲームとはウィトゲンシュタインが言語現象全体への展望を与えるために用いた「比喩」であって、それが後期ウィトゲンシュタインの哲学そのものを指したり、言語理論の基礎を与える概念ととらえたりすることは、誤解だという所見もある(例えば飯田隆)。したがって、ウィトゲンシュタインを俯瞰的に理解するには、本書は面白いけれど少々役不足であることは否めない。また、後半に提起される「言語ゲーム論」は、ウィトゲンシュタインのそれだけではなく、それを裏書きしてるのではないかと橋爪氏が推測するハートの法理論とを合体させた「橋爪流言語ゲーム論」であることにも留意が必要である。
しかしである。言語ゲームを拝借して何かを述べるという態度は何も橋爪氏に限った話ではない。言語ゲームというアイデアは「比喩」だけに留めておくのはおしい。それだけ抗しがたい何かがあるというべきだろう。
実は本書のコアとなる「橋爪流言語ゲーム論」は、最新の知見ではない。85年の 言語ゲームと社会理論―ヴィトゲンシュタイン ハート・ルーマン で既に本書よりも詳しく検討されており、本書はそのダイジェストという位置づけも可能である。 また、社会学者である著者のたくらみは、ウィトゲンシュタインのバイオグラフィー記述にあるわけではなく、哲学系の高度なクリティークを行いたいわけでもないだろう(だからといって適当で良いというわけでもない。この辺が減点対象。)。端的にいえばそれは橋爪オリジナルの「言語ゲーム論」というモデルの有効性の明示や承認獲得の拡大にあるはずだ。社会学の目的は、問題を提起し、それを研究する枠組みとモデルを構築することにあるとすれば、この「橋爪流言語ゲーム論」というモデルはその意味でどの程度妥当性があるのかを評価すべきで、もはやウィトゲンシュタインから離れていってしまうのだ。したがって本書はウィトゲンシュタイン入門という形を取りながら、実は「橋爪流言語ゲーム論」入門になってしまっているのである。
つまり、ウィトゲンシュタイン入門だと考えると低い評価になり、橋爪流言語ゲーム論入門だと思えば評価が分かれることになるのである。
2020年10月26日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
小室直樹博士の薫陶を受けた全知を思わせる橋爪大三郎氏の著作。初期の『はじめての構造主義』を思わせる筆致で難解なヴィトゲンシュタイン哲学に切り込んでいる。ただ、背景説明などの余談が非常に多く本題の言語ゲームに費やすページ数は多くない。
言語ゲームについて自分なりに整理してみると、『論考』においてヴィトゲンシュタインは世界と言語は忠実に対応するものだと説き(写像理論)、その中でも語り得ぬものについては沈黙しなくてはならないとした。だが人は語り得ぬものがあるとき、ただ語りたいという欲求を抑えて、沈黙し続けるということが必ずしもできない。「王さまの耳はロバの耳」と叫びだしたくなることもあるだろう。しかし、叫びだしてしまえば、沈黙しなくてはならないというルールに反してしまう。ルールに反せずに語りたいという欲求を満たす方法はなにか?その答えが『言語ゲーム』なのであっる。
言語ゲームにおいて言語のやり取りは行われる。ただ、その言語的主題として表現されているものと発話者の内面においてイメージされているものは異なる。つまり発話者の内面として語り得ぬものがイメージされており、その語り得ぬものについてやり取りしたいと考えるとき、語り得ぬものに言語表現上沈黙(ノータッチ)を保ちながら、実質やり取りをする方法を言うのである。
本書の中に出てくるものであれば石工職人の例がある。この例はヴィトゲンシュタインが出したものであるが、橋爪氏の著作に『フリーメイソン』を主題としたものがあるので橋爪氏の著書の中で引き合いに出されると、石工(mason)という言葉を使用することは、ヴィトゲンシュタインがフリーメイソンの会員ではなかったかという根拠のない語り得ぬものについてリーチすることになる(これは本当に根拠のない話だが言語ゲームの例に出すために沈黙せず書くことを容赦してほしい)。
このような感じで、文章表現上は一切出てこないがメタな表現上まで含めると出てくる普段は言い難い語り得ぬものについて実質的に語る裏技が言語ゲームなのだ。
そういう見方で本書を読み直すと、主題としては取り上げられていないが奇妙な伏線みたいなものが様々散りばめられている。
それらを繋ぎ合わせる、もしくは取捨選択すればヴィトゲンシュタインの語り得ぬ実像が浮かび上がるのかもしれない(この本だけでは無理だが)。
個人的には姉のマルガレーテを描いたクリムトの絵の意味が知りたかった。
国学者の本居宣長についても触れられており大政奉還に至るロジックを古事記の言語ゲーム分析を通じて構築したという説明は目から鱗だった。明治維新の立役者は本居宣長だったのだ。
言語ゲームについて自分なりに整理してみると、『論考』においてヴィトゲンシュタインは世界と言語は忠実に対応するものだと説き(写像理論)、その中でも語り得ぬものについては沈黙しなくてはならないとした。だが人は語り得ぬものがあるとき、ただ語りたいという欲求を抑えて、沈黙し続けるということが必ずしもできない。「王さまの耳はロバの耳」と叫びだしたくなることもあるだろう。しかし、叫びだしてしまえば、沈黙しなくてはならないというルールに反してしまう。ルールに反せずに語りたいという欲求を満たす方法はなにか?その答えが『言語ゲーム』なのであっる。
言語ゲームにおいて言語のやり取りは行われる。ただ、その言語的主題として表現されているものと発話者の内面においてイメージされているものは異なる。つまり発話者の内面として語り得ぬものがイメージされており、その語り得ぬものについてやり取りしたいと考えるとき、語り得ぬものに言語表現上沈黙(ノータッチ)を保ちながら、実質やり取りをする方法を言うのである。
本書の中に出てくるものであれば石工職人の例がある。この例はヴィトゲンシュタインが出したものであるが、橋爪氏の著作に『フリーメイソン』を主題としたものがあるので橋爪氏の著書の中で引き合いに出されると、石工(mason)という言葉を使用することは、ヴィトゲンシュタインがフリーメイソンの会員ではなかったかという根拠のない語り得ぬものについてリーチすることになる(これは本当に根拠のない話だが言語ゲームの例に出すために沈黙せず書くことを容赦してほしい)。
このような感じで、文章表現上は一切出てこないがメタな表現上まで含めると出てくる普段は言い難い語り得ぬものについて実質的に語る裏技が言語ゲームなのだ。
そういう見方で本書を読み直すと、主題としては取り上げられていないが奇妙な伏線みたいなものが様々散りばめられている。
それらを繋ぎ合わせる、もしくは取捨選択すればヴィトゲンシュタインの語り得ぬ実像が浮かび上がるのかもしれない(この本だけでは無理だが)。
個人的には姉のマルガレーテを描いたクリムトの絵の意味が知りたかった。
国学者の本居宣長についても触れられており大政奉還に至るロジックを古事記の言語ゲーム分析を通じて構築したという説明は目から鱗だった。明治維新の立役者は本居宣長だったのだ。
2017年3月27日に日本でレビュー済み
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さて、なぜこんな題名をつけたのか、というのが最初に疑問に思うと思いますが、この本を一読して理解して言語ゲームの本質はこういうこと、と理解しました。
論考においては、意味は問うてはいけないが結論だったが、言語ゲームにおいては、意味とは人々の「ふるまいの一致」においてそこから推測する意味が生じる。と理解した。読んでない人向けに私の例として上げると、要はお金と同じです。
みなさん、1万円札を持っているときに、これは物理的には紙切れだと知っています、しかし、同時にこれに経済的には「1万円という量の」価値があると知っています。これは、そのように社会が法律で決めたから、そうなります。こんなのは当たり前ですね。
しかし、言語ゲームによると、どうやらお金だけでなくすべての物事が本質的にこれと一緒だということです。あなたの宝が宝物であるのは、それを多くの人(すくなくとも、あなた自身とその周囲)がそれを価値あるものだと扱っているから、その価値が生じている。価値があるから宝物なのではない、ということ。だから、それは他の人にとっては、石ころ程度の存在かもしれません。実際、財産、名誉、地位、家族、恋愛、どれを重視するかというのは人によって違います。それはその人の振る舞いからわかります。個人レベルでも文明レベルでもの、価値の由来はこのようにおこる、しかも、これらの場合はお金と違って、別に法律や国家がそのように決めたわけではないです(地位や名誉はある部分ではそうですが)
こういったものの価値の由来は明示化されていませんが、それらを明示化することで比較改善ができるようになったのがこの本での言語ゲームに対する結びです。
ここまで書くと、多少私がこの題名をつけた理由はわかってもらえるでしょうか?つまり、価値とは客観的・物質的存在でなく、人々がそう「信じて」振る舞う限り(正確には明示的に”信じる”必要はないのですが、結局振る舞いからある意味そのように信じていることがわかります、これを本書では内在的視点、外在的視点と分けていますが、詳しくは読んでください)、その価値があります。つまり、イワシの頭でも信じている人にとってご利益があるという、上の言葉はある意味言語ゲームの本質を表しています。しかし、言語ゲームによって、明示して、他の規則と比較すれば、イワシの頭よりはもうちょいましなのがみんなで信じられるようになる、が先に書いたこの本の結論のようです。
さて、ここまでは内容の私釈で、ここからは完全に感想です。この内容を理解すると、私は本当にウィトゲンシュタインは満足して死んでいったのだろうか?という疑問がわきました。本の伝記によると、ウィトゲンシュタインは人生の意味や価値を求めて哲学の世界を始めた模様です。で、その結論が、論考では意味や価値を問うてはいけない、言語ゲームでは、意味や価値は人々の振る舞いから生じるんだ、だから、規則を理解して改善すれば、みんなでもっと良い価値のものを信じれるようになれる。 つまり、人生の意味や価値を求めてたどり着いたのが、「人生には意味や価値があるよ、あなたがそう信じるかぎりは」です。そもそも、それを信じれるんならば、最初から、意味や価値を求めて哲学をしなかったのではないか?ウィトゲンシュタインは自分の仕事の結果に対する満足と人生そのものの意義や価値をイコールで結びました。彼の仕事は素晴らしい、でも彼のような仕事をできる人類はごく僅かです。いやもちろん仕事の価値を測るのはナンセンスかもしれません。でも、彼が本当に満足した人生だったというのならば、彼の結論は、ある意味で「人生とは良い仕事をするために生まれてきたのだ」になるんですが、それでよかったのか?少なくとも、同じ理由で哲学に興味を持った人にこの結論で納得できる人はいるのだろうか?少なくとも個人的には、期待していたものではないな、になると思います。だから、かれがもう少し本当に満足したというのならば、他の何かがあったのではないかと期待してします。
ウィトゲンシュタインの仕事と言語ゲームのすばらしさはわかったが、しかしなにか物足りなさを感じる。そういう意味では、言語ゲーム入門、いやウィトゲンシュタイン入門としてはとても良い本だった。
最後に、おのおのの言語ゲームのルールを明らかにして、より改善できるようになった、というが、比較はできるようになったが、その価値を測るのは大体無理でしょう。誰だって自分が信じるものが一番に決まっている、と大体のものにおいて信じている。それを明らかにしたから、では明日からそちらに変えますは、非現実的でしょう、実際において、他人を変えるくらいならば、自分を変えたほうが早いです、良しにつけ悪しにつけ。論理的結論から、ゆったくらいで人が変わるならば、教育は難問題じゃないよね。ルールを明らかにすることには価値があると思うが。
論考においては、意味は問うてはいけないが結論だったが、言語ゲームにおいては、意味とは人々の「ふるまいの一致」においてそこから推測する意味が生じる。と理解した。読んでない人向けに私の例として上げると、要はお金と同じです。
みなさん、1万円札を持っているときに、これは物理的には紙切れだと知っています、しかし、同時にこれに経済的には「1万円という量の」価値があると知っています。これは、そのように社会が法律で決めたから、そうなります。こんなのは当たり前ですね。
しかし、言語ゲームによると、どうやらお金だけでなくすべての物事が本質的にこれと一緒だということです。あなたの宝が宝物であるのは、それを多くの人(すくなくとも、あなた自身とその周囲)がそれを価値あるものだと扱っているから、その価値が生じている。価値があるから宝物なのではない、ということ。だから、それは他の人にとっては、石ころ程度の存在かもしれません。実際、財産、名誉、地位、家族、恋愛、どれを重視するかというのは人によって違います。それはその人の振る舞いからわかります。個人レベルでも文明レベルでもの、価値の由来はこのようにおこる、しかも、これらの場合はお金と違って、別に法律や国家がそのように決めたわけではないです(地位や名誉はある部分ではそうですが)
こういったものの価値の由来は明示化されていませんが、それらを明示化することで比較改善ができるようになったのがこの本での言語ゲームに対する結びです。
ここまで書くと、多少私がこの題名をつけた理由はわかってもらえるでしょうか?つまり、価値とは客観的・物質的存在でなく、人々がそう「信じて」振る舞う限り(正確には明示的に”信じる”必要はないのですが、結局振る舞いからある意味そのように信じていることがわかります、これを本書では内在的視点、外在的視点と分けていますが、詳しくは読んでください)、その価値があります。つまり、イワシの頭でも信じている人にとってご利益があるという、上の言葉はある意味言語ゲームの本質を表しています。しかし、言語ゲームによって、明示して、他の規則と比較すれば、イワシの頭よりはもうちょいましなのがみんなで信じられるようになる、が先に書いたこの本の結論のようです。
さて、ここまでは内容の私釈で、ここからは完全に感想です。この内容を理解すると、私は本当にウィトゲンシュタインは満足して死んでいったのだろうか?という疑問がわきました。本の伝記によると、ウィトゲンシュタインは人生の意味や価値を求めて哲学の世界を始めた模様です。で、その結論が、論考では意味や価値を問うてはいけない、言語ゲームでは、意味や価値は人々の振る舞いから生じるんだ、だから、規則を理解して改善すれば、みんなでもっと良い価値のものを信じれるようになれる。 つまり、人生の意味や価値を求めてたどり着いたのが、「人生には意味や価値があるよ、あなたがそう信じるかぎりは」です。そもそも、それを信じれるんならば、最初から、意味や価値を求めて哲学をしなかったのではないか?ウィトゲンシュタインは自分の仕事の結果に対する満足と人生そのものの意義や価値をイコールで結びました。彼の仕事は素晴らしい、でも彼のような仕事をできる人類はごく僅かです。いやもちろん仕事の価値を測るのはナンセンスかもしれません。でも、彼が本当に満足した人生だったというのならば、彼の結論は、ある意味で「人生とは良い仕事をするために生まれてきたのだ」になるんですが、それでよかったのか?少なくとも、同じ理由で哲学に興味を持った人にこの結論で納得できる人はいるのだろうか?少なくとも個人的には、期待していたものではないな、になると思います。だから、かれがもう少し本当に満足したというのならば、他の何かがあったのではないかと期待してします。
ウィトゲンシュタインの仕事と言語ゲームのすばらしさはわかったが、しかしなにか物足りなさを感じる。そういう意味では、言語ゲーム入門、いやウィトゲンシュタイン入門としてはとても良い本だった。
最後に、おのおのの言語ゲームのルールを明らかにして、より改善できるようになった、というが、比較はできるようになったが、その価値を測るのは大体無理でしょう。誰だって自分が信じるものが一番に決まっている、と大体のものにおいて信じている。それを明らかにしたから、では明日からそちらに変えますは、非現実的でしょう、実際において、他人を変えるくらいならば、自分を変えたほうが早いです、良しにつけ悪しにつけ。論理的結論から、ゆったくらいで人が変わるならば、教育は難問題じゃないよね。ルールを明らかにすることには価値があると思うが。