第二章の技術論は、プレゼンや講演でも応用できそう。
テンポ、リズムのある文章を書くのに落語が効果的だと推奨する人がいる。
堀井さんのように実践した人は強い。
新品:
¥792¥792 税込
お届け日 (配送料: ¥460
):
4月2日 - 3日
発送元: 金沢ビーンズ 明文堂書店金沢県庁前本店 販売者: 金沢ビーンズ 明文堂書店金沢県庁前本店
新品:
¥792¥792 税込
お届け日 (配送料: ¥460
):
4月2日 - 3日
発送元: 金沢ビーンズ 明文堂書店金沢県庁前本店
販売者: 金沢ビーンズ 明文堂書店金沢県庁前本店
中古品: ¥43
中古品:
¥43

無料のKindleアプリをダウンロードして、スマートフォン、タブレット、またはコンピューターで今すぐKindle本を読むことができます。Kindleデバイスは必要ありません。
ウェブ版Kindleなら、お使いのブラウザですぐにお読みいただけます。
携帯電話のカメラを使用する - 以下のコードをスキャンし、Kindleアプリをダウンロードしてください。
落語論 (講談社現代新書) 新書 – 2009/7/17
堀井 憲一郎
(著)
{"desktop_buybox_group_1":[{"displayPrice":"¥792","priceAmount":792.00,"currencySymbol":"¥","integerValue":"792","decimalSeparator":null,"fractionalValue":null,"symbolPosition":"left","hasSpace":false,"showFractionalPartIfEmpty":true,"offerListingId":"szasNBgpe2C0d6wV8eKtxQJNeiYqnuI3rM%2F%2BCCpQniB%2BzgJCsgYhlGDNeTsjq9krENoNVIGgkYQzF%2BEdnMILBtTbqm5BOWZQmC6I3I26x7iyZGRREWp6SWVLvEDQtHV2MOSH3fIqzJ42gcPO4Z5PoV44VBamg0BGC9S9icK9r%2B27vMdq9XVAh5sq5lMtk%2BUm","locale":"ja-JP","buyingOptionType":"NEW","aapiBuyingOptionIndex":0}, {"displayPrice":"¥43","priceAmount":43.00,"currencySymbol":"¥","integerValue":"43","decimalSeparator":null,"fractionalValue":null,"symbolPosition":"left","hasSpace":false,"showFractionalPartIfEmpty":true,"offerListingId":"szasNBgpe2C0d6wV8eKtxQJNeiYqnuI3wBQwOFrdmRE2ZjEBUoIKqflQpq7bje1EsukUsuOFFqBBy8b7grcRpQxPn9%2Bd3ZUg1P0BKoroiS7zKTCBgYr5sU65J%2BUil0fmYXFKQEXlgxmUQHIQNdBpeoLBlxkkOk9OEEhR7OT84wSYZv4SDLYEwg%3D%3D","locale":"ja-JP","buyingOptionType":"USED","aapiBuyingOptionIndex":1}]}
購入オプションとあわせ買い
ファン待望、ホリイの落語入門がついにお目見え! なぜ同じ噺を繰り返し聞いても飽きないのか。うまい噺家はどこがどうすごいのか。当代一、落語会・寄席に通い、噺家すら恐れる著者だから書けた渾身の落語論。(講談社現代新書)
ファン待望、ホリイの落語入門がついにお目見え!なぜ同じ噺を繰り返し聞いても飽きないのか。うまい噺家はどこがどうすごいのか。当代一、落語会・寄席に通い、噺家すら恐れる著者だから書けた渾身の落語論。
ファン待望、ホリイの落語入門がついにお目見え!なぜ同じ噺を繰り返し聞いても飽きないのか。うまい噺家はどこがどうすごいのか。当代一、落語会・寄席に通い、噺家すら恐れる著者だから書けた渾身の落語論。
- 本の長さ224ページ
- 言語日本語
- 出版社講談社
- 発売日2009/7/17
- 寸法10.6 x 1.1 x 17.4 cm
- ISBN-104062880075
- ISBN-13978-4062880077
よく一緒に購入されている商品

対象商品: 落語論 (講談社現代新書)
¥792¥792
4月 2 - 3 日にお届け
残り1点 ご注文はお早めに
¥935¥935
最短で3月31日 日曜日のお届け予定です
残り6点(入荷予定あり)
総額:
当社の価格を見るには、これら商品をカートに追加してください。
ポイントの合計:
pt
もう一度お試しください
追加されました
一緒に購入する商品を選択してください。
この著者の人気タイトル
ページ 1 以下のうち 1 最初から観るページ 1 以下のうち 1
商品の説明
著者について
堀井 憲一郎
1958年生まれ。京都市出身。コラムニスト。週刊文春にて「ホリイのずんずん調査」を連載中。著書に『若者殺しの時代』『落語の国からのぞいてみれば』(ともに講談社現代新書)、『青い空、白い雲、しゅーっという落語』『ホリイの調査』『馬 鹿が止まらない』(以上、双葉社)、『東京ディズニーリゾート便利帖』(新潮社) などがある。
1958年生まれ。京都市出身。コラムニスト。週刊文春にて「ホリイのずんずん調査」を連載中。著書に『若者殺しの時代』『落語の国からのぞいてみれば』(ともに講談社現代新書)、『青い空、白い雲、しゅーっという落語』『ホリイの調査』『馬 鹿が止まらない』(以上、双葉社)、『東京ディズニーリゾート便利帖』(新潮社) などがある。
登録情報
- 出版社 : 講談社 (2009/7/17)
- 発売日 : 2009/7/17
- 言語 : 日本語
- 新書 : 224ページ
- ISBN-10 : 4062880075
- ISBN-13 : 978-4062880077
- 寸法 : 10.6 x 1.1 x 17.4 cm
- Amazon 売れ筋ランキング: - 643,808位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 855位落語・寄席・演芸 (本)
- - 2,059位講談社現代新書
- - 4,314位ステージ・ダンス (本)
- カスタマーレビュー:
著者について
著者をフォローして、新作のアップデートや改善されたおすすめを入手してください。

著者の本をもっと発見したり、よく似た著者を見つけたり、著者のブログを読んだりしましょう
-
トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
レビューのフィルタリング中に問題が発生しました。後でもう一度試してください。
2009年7月26日に日本でレビュー済み
著者は、年間400席も落語を聴くという、落語のプロの「観客」(そのような存在があればですが)です。
落語は「ライブとしてのみ存在し」、「きわめて個人的にしか体験できない芸能」だと著者は言います。したがって、「落語論」などはまさに野暮!の極致なのでしょうが、それを十分承知した上で、「本質論」「技術論」「観客論」を展開してくれています。
私は、著者の「落語の国からのぞいてみれば」で落語の世界の奥深さに目を開かれ、著者の示唆の通りに独演会に足を運び(寄席は遠いので)始めた新参者です。本書の「技術論」で書かれていることは、まだまだへぇ〜なのですが、よい観客になるべく「観客論」を読んでいる日々です。
落語は、「場」「客」「演者」で成り立つということですから。
落語は「ライブとしてのみ存在し」、「きわめて個人的にしか体験できない芸能」だと著者は言います。したがって、「落語論」などはまさに野暮!の極致なのでしょうが、それを十分承知した上で、「本質論」「技術論」「観客論」を展開してくれています。
私は、著者の「落語の国からのぞいてみれば」で落語の世界の奥深さに目を開かれ、著者の示唆の通りに独演会に足を運び(寄席は遠いので)始めた新参者です。本書の「技術論」で書かれていることは、まだまだへぇ〜なのですが、よい観客になるべく「観客論」を読んでいる日々です。
落語は、「場」「客」「演者」で成り立つということですから。
2012年10月12日に日本でレビュー済み
「落語とは、ライブのものである」(p.6)。「落語はライブにしか存在しない」(p.13)。「落語にはタイトルがなかった」(p.15)。「落語にはキャラクターが存在しなし」(p.26)。「落語の本筋は、ストーリーにはない」(p.37)。「落語はペテンである」(p.44)。「演者は、客との融和を常にめざしている。客との和をもって貴しとなす」(p.66)。「落語は繰り返しきくものである」(p.79)。「落語は歌である」(p.86)。こういった調子で、落語論が展開されている。
要するに、落語は言葉で理解するものではなく、体感するものであり、閉ざされた空間のなかで演者と観客とが癒合し、一体となって醸し出す空気のなかに立ち上がる芸ということらしい。だから、頭で理解したり、筋をおって納得したり、サゲのいろいろを分類して解析したり、テキストを読み込んで予習したり復習したりしてはいけない。まして、落語を聴きながらメモなどしてはいけないということである。
しかし、著者は仕事でメモをとって分析していて、これについては何遍も「すみません」と謝っている。著者の結論、「落語とは集団共有幻想遊戯の道具である」(p.221)。
要するに、落語は言葉で理解するものではなく、体感するものであり、閉ざされた空間のなかで演者と観客とが癒合し、一体となって醸し出す空気のなかに立ち上がる芸ということらしい。だから、頭で理解したり、筋をおって納得したり、サゲのいろいろを分類して解析したり、テキストを読み込んで予習したり復習したりしてはいけない。まして、落語を聴きながらメモなどしてはいけないということである。
しかし、著者は仕事でメモをとって分析していて、これについては何遍も「すみません」と謝っている。著者の結論、「落語とは集団共有幻想遊戯の道具である」(p.221)。
2014年3月14日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
落語の独演会や寄席に行くと、
席に座ってにんまり、落語家を見てくすくす、話に引き込まれて大笑いというふうに
「あー笑ったなー」なんて、気持ちよく帰ってくる日が多いのだけど、
それを求めて、テレビの落語を録画し、CDを聴いたりしてみても、
おもしろくなくはないんだけど、違和感があって、うーん…と唸っていた。
時には、落語のおもしろさを一生懸命人に伝えようとして、
一緒に動画を見せたりもしたけれど、反応はいまひとつだったりして…。
「いや、違うんだよーーー!」と思ってはいるけど、
うまく説明できない自分へのもどかしさがつのるばかり。
この本を読んで、そんな気持ちが一掃された。
筆者によれば、落語はライブであり、閉ざされた空間・空気の中でこそ、
その魅力を最大限に発揮する繊細なものでもある。
だから本やCD、DVDなどでは、その2割や3割程度にしか楽しめない…と続くわけである。
読めば読むほど、自分が落語を楽しめない方に努力しているのが明確にわかって、
(さらにこれから落語を楽しもうという人にまで悪影響を及ばしていた)
愕然とした部分も多いのだけど、
この本は、落語の魅力や、それを活かす殺すものがどこからくるのかを分析しており、
明確に示してくれる。
席に座ってにんまり、落語家を見てくすくす、話に引き込まれて大笑いというふうに
「あー笑ったなー」なんて、気持ちよく帰ってくる日が多いのだけど、
それを求めて、テレビの落語を録画し、CDを聴いたりしてみても、
おもしろくなくはないんだけど、違和感があって、うーん…と唸っていた。
時には、落語のおもしろさを一生懸命人に伝えようとして、
一緒に動画を見せたりもしたけれど、反応はいまひとつだったりして…。
「いや、違うんだよーーー!」と思ってはいるけど、
うまく説明できない自分へのもどかしさがつのるばかり。
この本を読んで、そんな気持ちが一掃された。
筆者によれば、落語はライブであり、閉ざされた空間・空気の中でこそ、
その魅力を最大限に発揮する繊細なものでもある。
だから本やCD、DVDなどでは、その2割や3割程度にしか楽しめない…と続くわけである。
読めば読むほど、自分が落語を楽しめない方に努力しているのが明確にわかって、
(さらにこれから落語を楽しもうという人にまで悪影響を及ばしていた)
愕然とした部分も多いのだけど、
この本は、落語の魅力や、それを活かす殺すものがどこからくるのかを分析しており、
明確に示してくれる。
2009年7月19日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
ここまで「客」の立場にたった落語論はこれまでなかったように思われます。「落語はライブ」「聴衆が選ぶのはネタではなく演者」「落語に存在するのはキャラではなく人間」「ストーリーではなくセリフが大事」「言葉である前に歌」「一人芸ゆえに案外もろい」「客も参加者」といった著者の落語本質論を読んでいて思い出したのは、「客」としての自分が落語会で体験してきた様々な喜怒哀楽でした。
若かりし頃に落語ライブの素晴らしさを知ったときの満ち足りた気分、演者と客席が一体となったときの異様な高揚感、逆にマズい演者たちの噺を立て続けに聞かされた後のゲッソリ感、ウザイ客によって雰囲気が滅茶苦茶になった際の腹立ち、悲劇的な前座の狼狽ぶりにドキドキしながら「がんばれ」と心の中で応援したくなる感じ、あるいは、特定の噺家さんにほれ込み追っかけをしているときの「恋心」や、一度「嫌い」だと位置づけてしまった噺家さんを、その後だんだんと見方は変わっているのに、なかなか「好き」だと言い出し難くなるあのもどかしさ、などなど、自分の「客」としてのこれまでの経験が、適切な言葉で説明されているように思いました。
また、落語について語るとはいかなることか、という「落語論」そのものについての考察もなされており、面白かったです。本当はその場一度きりのライブがすべてであり、その上、個人ごとに落語体験は全然違うのだから、それについて正しく語る言葉など存在しない、という諦念から出発しつつ、だがそれでもなお「語り」を誘発してやまない落語の「語り方」に関して著者は色々と述べてみます。その核心は、落語論は演者への「嫉妬」から生じる、ということですが、これも自分が落語について熱く語っている際の心情を想起してみると、上手い具合に言い当てているような気がしました。
本書はたったの1ヶ月半で書き上げられたらしく、随所に煮詰め足りないように感じられる部分もありましたが、しかし、即興で書かれたがゆえのライブ感はありまして、この点、なんだか著者が身近に気軽に落語論を語ってくれているような読書感がありまして、個人的には、非常によかったです。
若かりし頃に落語ライブの素晴らしさを知ったときの満ち足りた気分、演者と客席が一体となったときの異様な高揚感、逆にマズい演者たちの噺を立て続けに聞かされた後のゲッソリ感、ウザイ客によって雰囲気が滅茶苦茶になった際の腹立ち、悲劇的な前座の狼狽ぶりにドキドキしながら「がんばれ」と心の中で応援したくなる感じ、あるいは、特定の噺家さんにほれ込み追っかけをしているときの「恋心」や、一度「嫌い」だと位置づけてしまった噺家さんを、その後だんだんと見方は変わっているのに、なかなか「好き」だと言い出し難くなるあのもどかしさ、などなど、自分の「客」としてのこれまでの経験が、適切な言葉で説明されているように思いました。
また、落語について語るとはいかなることか、という「落語論」そのものについての考察もなされており、面白かったです。本当はその場一度きりのライブがすべてであり、その上、個人ごとに落語体験は全然違うのだから、それについて正しく語る言葉など存在しない、という諦念から出発しつつ、だがそれでもなお「語り」を誘発してやまない落語の「語り方」に関して著者は色々と述べてみます。その核心は、落語論は演者への「嫉妬」から生じる、ということですが、これも自分が落語について熱く語っている際の心情を想起してみると、上手い具合に言い当てているような気がしました。
本書はたったの1ヶ月半で書き上げられたらしく、随所に煮詰め足りないように感じられる部分もありましたが、しかし、即興で書かれたがゆえのライブ感はありまして、この点、なんだか著者が身近に気軽に落語論を語ってくれているような読書感がありまして、個人的には、非常によかったです。
2009年7月29日に日本でレビュー済み
落語を「歌」に例え、
「リズム」と「メロディー」と云うふたつのキーワードで
最初に語ったのは立川談志だ。
だが、聴き手の立場で、ここまで丁寧にわかりやすく
「リズム」と「メロディー」を解きほぐしてみせたのは、
著者が初めてではないか。
この部分のわかりやすさだけで充分に感動的なのだが、
声の高低や長短、息継ぎのタイミング、「間」の意味、
演じ手の発する「気」などを語りつつ、
「うまい落語とは何か」という命題に
じわじわと迫ろうとする姿勢に、静かに拍手を贈りたい。
同書は極めて刺激的でもある。
その理由は、落語評論本であると同時に、
「落語評論」の評論としても優れていることにある。
批評と云う行為と、その意味について、極めて自覚的な分析は、
批評者すべてに対するアジテーションとも読める。
多くのプロアマの物書きたちが落語について語り、
文章を書き散らしている現状を
「百花繚乱。百家争鳴。百人一緒。死屍累々」
と表現する。爽快で痛快だ。
現状分析の刃は自らのココロネにも向かう。
批評行為の原動力のひとつとして「嫉妬」がある、という。
素晴らしい高座を観た後、楽屋に演者を訪ねたい、
と思う自らの気持ちを「みすぼらしい」と書くくだりには
胸を打たれた。
「リズム」と「メロディー」と云うふたつのキーワードで
最初に語ったのは立川談志だ。
だが、聴き手の立場で、ここまで丁寧にわかりやすく
「リズム」と「メロディー」を解きほぐしてみせたのは、
著者が初めてではないか。
この部分のわかりやすさだけで充分に感動的なのだが、
声の高低や長短、息継ぎのタイミング、「間」の意味、
演じ手の発する「気」などを語りつつ、
「うまい落語とは何か」という命題に
じわじわと迫ろうとする姿勢に、静かに拍手を贈りたい。
同書は極めて刺激的でもある。
その理由は、落語評論本であると同時に、
「落語評論」の評論としても優れていることにある。
批評と云う行為と、その意味について、極めて自覚的な分析は、
批評者すべてに対するアジテーションとも読める。
多くのプロアマの物書きたちが落語について語り、
文章を書き散らしている現状を
「百花繚乱。百家争鳴。百人一緒。死屍累々」
と表現する。爽快で痛快だ。
現状分析の刃は自らのココロネにも向かう。
批評行為の原動力のひとつとして「嫉妬」がある、という。
素晴らしい高座を観た後、楽屋に演者を訪ねたい、
と思う自らの気持ちを「みすぼらしい」と書くくだりには
胸を打たれた。
2018年10月25日に日本でレビュー済み
わかりやすいところを言うと、最近NHKでやってる「昭和落語心中」のドラマ化の論評をしている。ネットで読めるから流し読みしてみるといい。
この作品は原作は漫画、その後アニメ化しているから、落語を知らない人でも知ってる人はいるだろう。
単純に、漫画、アニメとこのドラマを比べてみるだけでいい。落語なんか聞いたことがない人でも、これならわかりやすいだろう。
役者が落語をやると落語家にならない。これは良くあることで、相当の名優でもやり損ねることが多い。落語家の志らくが言ってるが、役者は演じてしまうからだめ、役者は自分が前に出てしまうからだめ。落語家は自分を殺して、自分は後ろに引いて、落語の物語を前に出す。そうしないと客に落語の世界が広がならない。
今回ドラマの方は、またしても失敗している。この落語を聞いて落語ってこんなものなんて思われると落語がかわいそうなくらい。
アニメは、志らくが絶賛するほどうまかった。声優という人たちには役者と違う技があるようだ。
アニメは構成からして、ちょっとびっくりするくらい長く落語をやるのだが、私も見たが、びっくりするくらいあのアニメの落語は落語だった。
しかしこの評論家は、ドラマの「八雲」を褒めている。まあこの時点で見る目がないか、提灯持ちのどちらかだって事がわかる。
ドラマに関しては、脚本もなってないので、まあ役者ばかりのせいではないけれども、意外とまだへたくそな役の竜星涼の方が落語家らしい落語をやる。演技の方も、結構やる。
まあ、ドラマ評はともかく、この評論家は全然者を見ないで書いてるようだ。
この作品は原作は漫画、その後アニメ化しているから、落語を知らない人でも知ってる人はいるだろう。
単純に、漫画、アニメとこのドラマを比べてみるだけでいい。落語なんか聞いたことがない人でも、これならわかりやすいだろう。
役者が落語をやると落語家にならない。これは良くあることで、相当の名優でもやり損ねることが多い。落語家の志らくが言ってるが、役者は演じてしまうからだめ、役者は自分が前に出てしまうからだめ。落語家は自分を殺して、自分は後ろに引いて、落語の物語を前に出す。そうしないと客に落語の世界が広がならない。
今回ドラマの方は、またしても失敗している。この落語を聞いて落語ってこんなものなんて思われると落語がかわいそうなくらい。
アニメは、志らくが絶賛するほどうまかった。声優という人たちには役者と違う技があるようだ。
アニメは構成からして、ちょっとびっくりするくらい長く落語をやるのだが、私も見たが、びっくりするくらいあのアニメの落語は落語だった。
しかしこの評論家は、ドラマの「八雲」を褒めている。まあこの時点で見る目がないか、提灯持ちのどちらかだって事がわかる。
ドラマに関しては、脚本もなってないので、まあ役者ばかりのせいではないけれども、意外とまだへたくそな役の竜星涼の方が落語家らしい落語をやる。演技の方も、結構やる。
まあ、ドラマ評はともかく、この評論家は全然者を見ないで書いてるようだ。
2009年7月22日に日本でレビュー済み
年に400回以上、落語を聞きに行くそうです。
落語バカによる落語論。落語ラブ。落語へあてたラブレーターだと思って、読みました。
落語はライブがいのち、なので非常に壊れやすいことをさして、弱い芸術であると評します。
ライブは一回こっきりです。一期一会の好き嫌いなのです。
なので、落語を論じてもあまり意味がないとのこと。
落語論と銘打った自分の本を否定するような発言に、ドキリ。
そう、堀井さんの文章が好きなのは、こんな自分を省みる精神です。
”語り得ぬもの”だけど語りたいんだというのは、ストレートですよね。
あやしゅうこそものぐるおしけれ、という告白は、自信がないとできませんし。
もちろん、評論としても堂に入っています。一級。
声色を使い分けるのではなく、リズムと強弱で描きわけろというところなんかは、半可通にはいえません。
他にもいろいろありますが、現物をあたってください。
あとこれは、メインのテーマではないのですが、”小朝”の評価が低すぎると意の文章が気になりました。具体的に、どこがすごいのかは書いてありませんでしたが、孤高の天才だそうです。たしかに、”志ん朝”を評価の基準を地図の真ん中に置いたときに、小朝のいる場所を思い描くのは難しいんです。
僕なりに考えると、”こうであらなければならない”という言い方をする落語評論に対するアンチテーゼと、いいものはイインだという、当たり前を大切にする心かなと思います。
それに小朝は、ドラマ『三匹が斬る』では、高橋英樹、役所広司といった一流どころと、演技を戦わせていたのですから、ただ者ではないのに決まっています。
ともあれ、堀井さんによる落語への恋文。
ここでは、描ききれないよいところが他にもたくさんあります。
ぜひ!
落語バカによる落語論。落語ラブ。落語へあてたラブレーターだと思って、読みました。
落語はライブがいのち、なので非常に壊れやすいことをさして、弱い芸術であると評します。
ライブは一回こっきりです。一期一会の好き嫌いなのです。
なので、落語を論じてもあまり意味がないとのこと。
落語論と銘打った自分の本を否定するような発言に、ドキリ。
そう、堀井さんの文章が好きなのは、こんな自分を省みる精神です。
”語り得ぬもの”だけど語りたいんだというのは、ストレートですよね。
あやしゅうこそものぐるおしけれ、という告白は、自信がないとできませんし。
もちろん、評論としても堂に入っています。一級。
声色を使い分けるのではなく、リズムと強弱で描きわけろというところなんかは、半可通にはいえません。
他にもいろいろありますが、現物をあたってください。
あとこれは、メインのテーマではないのですが、”小朝”の評価が低すぎると意の文章が気になりました。具体的に、どこがすごいのかは書いてありませんでしたが、孤高の天才だそうです。たしかに、”志ん朝”を評価の基準を地図の真ん中に置いたときに、小朝のいる場所を思い描くのは難しいんです。
僕なりに考えると、”こうであらなければならない”という言い方をする落語評論に対するアンチテーゼと、いいものはイインだという、当たり前を大切にする心かなと思います。
それに小朝は、ドラマ『三匹が斬る』では、高橋英樹、役所広司といった一流どころと、演技を戦わせていたのですから、ただ者ではないのに決まっています。
ともあれ、堀井さんによる落語への恋文。
ここでは、描ききれないよいところが他にもたくさんあります。
ぜひ!