「ニューアカ」以降、ゼロ年代までの日本の思想を総括する
という、全くもっての力業です。
それをこの著者は、簡潔に取り纏め、判り易く提示すること
に、見事に成功しています。
読者は判ったような気になるのです。
著者がメインプレイヤーと呼ぶのは、80年代が浅田彰、中沢
新一、蓮實重彦、柄谷行人、90年代が福田和也、大塚英志、
宮台真司、そして00年代が東浩紀となります。
下名はニューアカ時代以前からの蓮實重彦の熱心な読者でし
たが、90年代以降は柄谷行人の新刊と、たまに中沢新一を読
む位でしたので、90年代以降の思想状況には疎く、下名と同
年生まれの著者による、時代の推移が見えて来る、判り易い
解説は大変に有難いものでした。
特に「思想読者」としての立ち位置に拘っている著者には、
共感を持てました。
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ニッポンの思想 (講談社現代新書) 新書 – 2009/7/17
佐々木 敦
(著)
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80年代、、浅田彰・中沢新一が登場した衝撃、柄谷行人・蓮實重彦の思想、90年代における福田和也・大塚英志・宮台真司の存在感、ゼロ年代に大きな影響を与えた東浩紀。思想と批評がこの一冊でわかる。
これまでになかった日本の現代思想史が登場!
浅田彰、中沢新一、蓮實重彦、柄谷行人から、福田和也、大塚英志、宮台真司、そして東浩紀まで──。
思想家たちの論点・対立点を示す試み。
これまでになかった日本の現代思想史が登場!
浅田彰、中沢新一、蓮實重彦、柄谷行人から、福田和也、大塚英志、宮台真司、そして東浩紀まで──。
思想家たちの論点・対立点を示す試み。
- ISBN-104062880091
- ISBN-13978-4062880091
- 出版社講談社
- 発売日2009/7/17
- 言語日本語
- 寸法10.6 x 1.6 x 17.4 cm
- 本の長さ352ページ
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登録情報
- 出版社 : 講談社 (2009/7/17)
- 発売日 : 2009/7/17
- 言語 : 日本語
- 新書 : 352ページ
- ISBN-10 : 4062880091
- ISBN-13 : 978-4062880091
- 寸法 : 10.6 x 1.6 x 17.4 cm
- Amazon 売れ筋ランキング: - 297,759位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
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2012年2月1日に日本でレビュー済み
3、4年前に買って読み切れていなかった本。気合を入れなおして、とばし読みしつつ一気に読みきりました。
80年代以降の日本の思想の遍歴がよく分かります。
リアルタイムで生きていなかった私にとっては、「そんなことがあったんだ!」という新鮮な驚きもありましたし、今に続く思想の流れについての理解も深まりました。
読んでいて損はない本だと思います。
読後、読んでみたい本も一気に増えました。
80年代以降の日本の思想の遍歴がよく分かります。
リアルタイムで生きていなかった私にとっては、「そんなことがあったんだ!」という新鮮な驚きもありましたし、今に続く思想の流れについての理解も深まりました。
読んでいて損はない本だと思います。
読後、読んでみたい本も一気に増えました。
2009年11月22日に日本でレビュー済み
ちょうど、90年代前半に、
「わかったつもりになりたい」学生だった身としては、
おもわずわが身を振返らざるを得なかった。
その時に読んだことが、
じぶんにとって、なんの意味があるのか、
いまだによくわからないが、
時間がたって、俯瞰してみたとき、
著者のいう「シーソー」に乗っかった
人間の一人だったのかな、と思った。
まあ、この本自体が、
80年以降の「ニッポンの思想」を
地図化したものでもあるので、
20年近くたっても、あいかわらず、
同じような本を読み続けている、
としんみりする。
「わかったつもりになりたい」学生だった身としては、
おもわずわが身を振返らざるを得なかった。
その時に読んだことが、
じぶんにとって、なんの意味があるのか、
いまだによくわからないが、
時間がたって、俯瞰してみたとき、
著者のいう「シーソー」に乗っかった
人間の一人だったのかな、と思った。
まあ、この本自体が、
80年以降の「ニッポンの思想」を
地図化したものでもあるので、
20年近くたっても、あいかわらず、
同じような本を読み続けている、
としんみりする。
2009年7月24日に日本でレビュー済み
日本の難しさは、日本、にほん、にっぽん、ニホン、ニッポン、ジッポン→ジパング、japan、本邦、本朝と書きわけることで、少しずつニュアンスがかわってくるところ。正しく言い切ろうとすると間違える危険が、常にあります。
本書ではタイトルに“ニッポン”をチョイス。決め撃ちの意味はないと思いますが、『日本の思想』とすると、日本が日本になる前の古代、天皇という言葉がまだ認知されておらず、大王(オオキミ)たちから連続する思想の本であるというイメージを与えるからでしょう。
プロローグにもありますが、この本では80年代スタート地点として現在まで続く、思想の流れを再点検しています。主な登場人物は、浅田、中沢、蓮實、柄谷、福田、大塚、東です。
ぼくの読んできた“ニッポンの思想”と時期がかぶり、うれしはずかしの読書となりました。思想を好きな自分がはずかしいのは、「こんなに難しいことがわかるオレさまは、なんてかっこいいんだ」につきます。
350ページにせまる労著で、もちろん星五つですが、ちょい違和感。
162ページに「……天皇裕仁が崩御し……」とあるのですが、
天皇裕仁としたいなら、亡くなり、が続く言葉です。
崩御としたいなら、昭和天皇が崩御され、です。
敬語の使い方を問題にしています。
ただ、ニホン語ではどうなのか? ニッポン語ではどうなのか? といわれたら、もうわかりません。嫌味ではなくね。基準となるはずの日本や天皇にさえ、永遠に続く時限立法のようなかりそめ感があり、そこらへんがむずがゆいのです。
本書ではタイトルに“ニッポン”をチョイス。決め撃ちの意味はないと思いますが、『日本の思想』とすると、日本が日本になる前の古代、天皇という言葉がまだ認知されておらず、大王(オオキミ)たちから連続する思想の本であるというイメージを与えるからでしょう。
プロローグにもありますが、この本では80年代スタート地点として現在まで続く、思想の流れを再点検しています。主な登場人物は、浅田、中沢、蓮實、柄谷、福田、大塚、東です。
ぼくの読んできた“ニッポンの思想”と時期がかぶり、うれしはずかしの読書となりました。思想を好きな自分がはずかしいのは、「こんなに難しいことがわかるオレさまは、なんてかっこいいんだ」につきます。
350ページにせまる労著で、もちろん星五つですが、ちょい違和感。
162ページに「……天皇裕仁が崩御し……」とあるのですが、
天皇裕仁としたいなら、亡くなり、が続く言葉です。
崩御としたいなら、昭和天皇が崩御され、です。
敬語の使い方を問題にしています。
ただ、ニホン語ではどうなのか? ニッポン語ではどうなのか? といわれたら、もうわかりません。嫌味ではなくね。基準となるはずの日本や天皇にさえ、永遠に続く時限立法のようなかりそめ感があり、そこらへんがむずがゆいのです。
2009年7月29日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
本書は書名から連想されるようなアカデミックな書でも軽率なジャーナリスティックな書でもなく、作者の自分史と重なるであろう力作(多くのテクスト引用と参考文献リスト付きで全349頁)である。
基本的には1980年代以降、浅田彰等によるポストモダン以降を扱っているので、思想に対する批評の勝利を確認するものとなっている(本書のタームに則するなら作品に対するテクストの持続の一時的勝利)。それはニュートラルな態度を装ってはいるが、持続的かつパフォーマティブにゲームに乗っかることが重要でありそこからの離脱を無効と見なす考え方で ある。
作者は批評の分野で執筆して来たので、確信犯的に「思想地図」を「批評地図」に置き換えてしまっている(p.12)。だから、基本的な哲学史への参照がなされないまま、すべてが状況論的なものとなってしまうのだ(ちなみに、批評は何かについて書くもので、思想はそれ自身何かになってしまうものである)。
本書の後半4分の一をしめる東浩紀への記述もそうした状況論の反復でしかない(最近の東浩紀の主張もルソーの社会契約の電脳版にすぎない)。
何よりも晩年のデリダはそうした状況論の失効を自ら引き受けるものだったと思うが、意図的に東浩紀は中期の神秘主義的デリダを可能性の中心としてピックアップし、デリダの晩年の社会性を意図的に無視したのであり、本書の作者も結果的にそれに準じている。
翻訳を前提とした柄谷行人、テクノロジーを前提とした浅田彰、社会的インフラを前提とした東浩紀、こうした異なる年輪を持つバームクーヘン状のレイヤーを横断するには、本書の消費社会を前提とした状況論的整理だけでは不十分のように思える。事実、2003年の<NAMの「失敗」>(p.265) 以降、デリダ以上に柄谷もまたこうしたゲーム(本書では思想の源流に遡られることがない伝言ゲームだ)の無効性を宣言して、今日に至っている。
本書には本来この主題で書くなら要求されるであろう、(哲学、仏教、論理学、美学、語学、経済学、社会学等の)基礎的教養もありはしないが、本書 の執筆はそうした状況論の失効に動機づけられているという意味で状況が用意したシーソーゲーム(p.22)を操作するというよりは自己言及のパラドックス(p.127)を誠実かつ皮肉にも体現しているように思う。
そもそも日本のアカデミズムが自前のソーカル事件(p.275)も用意できず、横断性を喪失したことに起因するとはいえ、「カントもヘーゲルもニーチェもフロイトも一冊も読んだことがないのに〜」(p.101-102)、批評をはじめてしまった時代の悲劇がここにある。
『批評空間』『思想地図』といった雑誌(=アソシエーション)の優位性を 確認できたのは収穫だったが、評論家菊池成孔を発掘したような作者の手腕はむしろ状況論を積極的にかつノイジーに活用した雑誌編集等にあり、今後書かれるという作者自身の思想の開陳とともに期待したい。
基本的には1980年代以降、浅田彰等によるポストモダン以降を扱っているので、思想に対する批評の勝利を確認するものとなっている(本書のタームに則するなら作品に対するテクストの持続の一時的勝利)。それはニュートラルな態度を装ってはいるが、持続的かつパフォーマティブにゲームに乗っかることが重要でありそこからの離脱を無効と見なす考え方で ある。
作者は批評の分野で執筆して来たので、確信犯的に「思想地図」を「批評地図」に置き換えてしまっている(p.12)。だから、基本的な哲学史への参照がなされないまま、すべてが状況論的なものとなってしまうのだ(ちなみに、批評は何かについて書くもので、思想はそれ自身何かになってしまうものである)。
本書の後半4分の一をしめる東浩紀への記述もそうした状況論の反復でしかない(最近の東浩紀の主張もルソーの社会契約の電脳版にすぎない)。
何よりも晩年のデリダはそうした状況論の失効を自ら引き受けるものだったと思うが、意図的に東浩紀は中期の神秘主義的デリダを可能性の中心としてピックアップし、デリダの晩年の社会性を意図的に無視したのであり、本書の作者も結果的にそれに準じている。
翻訳を前提とした柄谷行人、テクノロジーを前提とした浅田彰、社会的インフラを前提とした東浩紀、こうした異なる年輪を持つバームクーヘン状のレイヤーを横断するには、本書の消費社会を前提とした状況論的整理だけでは不十分のように思える。事実、2003年の<NAMの「失敗」>(p.265) 以降、デリダ以上に柄谷もまたこうしたゲーム(本書では思想の源流に遡られることがない伝言ゲームだ)の無効性を宣言して、今日に至っている。
本書には本来この主題で書くなら要求されるであろう、(哲学、仏教、論理学、美学、語学、経済学、社会学等の)基礎的教養もありはしないが、本書 の執筆はそうした状況論の失効に動機づけられているという意味で状況が用意したシーソーゲーム(p.22)を操作するというよりは自己言及のパラドックス(p.127)を誠実かつ皮肉にも体現しているように思う。
そもそも日本のアカデミズムが自前のソーカル事件(p.275)も用意できず、横断性を喪失したことに起因するとはいえ、「カントもヘーゲルもニーチェもフロイトも一冊も読んだことがないのに〜」(p.101-102)、批評をはじめてしまった時代の悲劇がここにある。
『批評空間』『思想地図』といった雑誌(=アソシエーション)の優位性を 確認できたのは収穫だったが、評論家菊池成孔を発掘したような作者の手腕はむしろ状況論を積極的にかつノイジーに活用した雑誌編集等にあり、今後書かれるという作者自身の思想の開陳とともに期待したい。
2009年7月31日に日本でレビュー済み
80年代から90年代、そしていわゆるゼロ年代の代表的な日本の論客の思想を概観し、今後、テン年代(この本の中で著者が命名してたけど、ゼロ年代ほどゴロがよくない)を迎える日本の思想の方向性を見極めるためには、とてもいい本だ。
80年代、高校時代に『逃走と力』を読んだ私も、まさにニューアカ世代だけど、その後の90年代には思想への興味を無くし、そして、9・11以降、また思想への興味を持ち始めている。
自分の感覚だが、80年代はオウムの事件、ソ連の崩壊で終わり、ゼロ年代は9・11で始まった。その間の90年代は、自分にとっては、思想的に「失われた時代」なのだ。
この本は、ニューアカの申し子というべき、浅田彰、中沢新一から蓮實重彦、柄谷行人の80年代から始まり、90年代は福田和也、大塚英志、宮台真司、ゼロ年代は東浩紀に至るまでの思想界の流れを分かりやすく解説してくれており、私の「失われた10年」を埋めるのに役立った。
それぞれの思想家に対する筆者の評価については、異論もあるが、80年代以降の日本の思想の主流を知るには最適な本だと思う。
80年代、高校時代に『逃走と力』を読んだ私も、まさにニューアカ世代だけど、その後の90年代には思想への興味を無くし、そして、9・11以降、また思想への興味を持ち始めている。
自分の感覚だが、80年代はオウムの事件、ソ連の崩壊で終わり、ゼロ年代は9・11で始まった。その間の90年代は、自分にとっては、思想的に「失われた時代」なのだ。
この本は、ニューアカの申し子というべき、浅田彰、中沢新一から蓮實重彦、柄谷行人の80年代から始まり、90年代は福田和也、大塚英志、宮台真司、ゼロ年代は東浩紀に至るまでの思想界の流れを分かりやすく解説してくれており、私の「失われた10年」を埋めるのに役立った。
それぞれの思想家に対する筆者の評価については、異論もあるが、80年代以降の日本の思想の主流を知るには最適な本だと思う。
2016年5月14日に日本でレビュー済み
80年代に彗星のように出現し20年後には凋落して見る影もないニューアカ。その秘密がこの一冊でわかります。思想家たちの膨大な著作に辟易しながらも真摯につきあい見取り図を書き上げた著者に敬意を評します。
「歴史」には「終焉」もなければ「切断」もありえず、ただひたすら「持続」している。(195頁)168頁に名前の出るコジェーヴが1959年の日本旅行で観察した結果得た結論が、有名な元祖「歴史の終わり」論であるのは周知のことです、曰く:
日本にはもはや語の「ヨーロッパ的」或いは「歴史的」な意味での宗教も道徳も政治もないのであろう。
「悪い場所」ニッポン、が自らを「悪い」「場所」として自己規定し、しかもそこから逃れ出られもしないのだということをはっきり認めてみせた (p251) 、そこでは「何も変わることはないし、変ったと思っていても実は変ってなどいない」(167頁) 。日本人の間でこういう認識が一般化したのは比較的最近のことですが、外国人にはとうから分かっていました。日本人を妻に持つスイス人 :「日本人は昔から変わらない」(ちょうどソ連が崩壊した時で、これからは「人間の顔をした」社会主義の時代ですか、と聞いたところ Eurocommunisum is over. と即座に返されたのを覚えています)
コジェーヴに言わせると:
「執拗な社会的経済的な不平等にもかかわらず、日本人はすべて例外なくすっかり形式化された価値に基づき、すなわち「歴史的」という意味での「人間的」な内容をすべて失った価値に基づき、現に生きている」彼は言葉を改める「生のままのスノビズム (*) がそこでは「自然的」或いは「動物的」な所与を否定する規律を創り出していた」と(*能楽や茶道や華道などの日本特有のスノビスム)。
これは山本七平の命名にかかる日本教の規定:
「日本教に絶対はなく、絶対者を知らない日本教徒は相対の世界に生きて」いるという「相対主義者」日本人を思い起こさせます。
p118 「従来あまり重要視されてこなかった「価値形態論」→ 久留島=宇野論争
* 「揺るがない」→ 「揺るぎない」
「歴史」には「終焉」もなければ「切断」もありえず、ただひたすら「持続」している。(195頁)168頁に名前の出るコジェーヴが1959年の日本旅行で観察した結果得た結論が、有名な元祖「歴史の終わり」論であるのは周知のことです、曰く:
日本にはもはや語の「ヨーロッパ的」或いは「歴史的」な意味での宗教も道徳も政治もないのであろう。
「悪い場所」ニッポン、が自らを「悪い」「場所」として自己規定し、しかもそこから逃れ出られもしないのだということをはっきり認めてみせた (p251) 、そこでは「何も変わることはないし、変ったと思っていても実は変ってなどいない」(167頁) 。日本人の間でこういう認識が一般化したのは比較的最近のことですが、外国人にはとうから分かっていました。日本人を妻に持つスイス人 :「日本人は昔から変わらない」(ちょうどソ連が崩壊した時で、これからは「人間の顔をした」社会主義の時代ですか、と聞いたところ Eurocommunisum is over. と即座に返されたのを覚えています)
コジェーヴに言わせると:
「執拗な社会的経済的な不平等にもかかわらず、日本人はすべて例外なくすっかり形式化された価値に基づき、すなわち「歴史的」という意味での「人間的」な内容をすべて失った価値に基づき、現に生きている」彼は言葉を改める「生のままのスノビズム (*) がそこでは「自然的」或いは「動物的」な所与を否定する規律を創り出していた」と(*能楽や茶道や華道などの日本特有のスノビスム)。
これは山本七平の命名にかかる日本教の規定:
「日本教に絶対はなく、絶対者を知らない日本教徒は相対の世界に生きて」いるという「相対主義者」日本人を思い起こさせます。
p118 「従来あまり重要視されてこなかった「価値形態論」→ 久留島=宇野論争
* 「揺るがない」→ 「揺るぎない」