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非社交的社交性 大人になるということ (講談社現代新書) 新書 – 2013/5/17
中島 義道
(著)
人間は一人でいることはできない。といって、他人と一緒にいると不快なことだらけ――。「人間嫌い」のための、居心地のいい人間関係のつくり方とは。哲学者が、カントの言葉「非社交的社交性」を手がかりに、哲学、日本、若者を考えるエッセイ。(講談社現代新書)
人間は一人でいることはできない。といって、他人と一緒にいると不快なことだらけ――。「人間嫌い」のための、居心地のいい人間関係のつくり方とは。哲学者が、カントの言葉「非社交的社交性」を手がかりに、哲学、日本、若者を考えるエッセイ。
人間は一人でいることはできない。といって、他人と一緒にいると不快なことだらけ――。「人間嫌い」のための、居心地のいい人間関係のつくり方とは。哲学者が、カントの言葉「非社交的社交性」を手がかりに、哲学、日本、若者を考えるエッセイ。
- 本の長さ224ページ
- 言語日本語
- 出版社講談社
- 発売日2013/5/17
- 寸法10.8 x 0.9 x 17.3 cm
- ISBN-104062882086
- ISBN-13978-4062882088
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登録情報
- 出版社 : 講談社 (2013/5/17)
- 発売日 : 2013/5/17
- 言語 : 日本語
- 新書 : 224ページ
- ISBN-10 : 4062882086
- ISBN-13 : 978-4062882088
- 寸法 : 10.8 x 0.9 x 17.3 cm
- Amazon 売れ筋ランキング: - 281,784位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 648位哲学・思想の論文・評論・講演集
- - 1,113位講談社現代新書
- - 45,609位ノンフィクション (本)
- カスタマーレビュー:
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2015年1月6日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
まだ 読み進めていませんが 大変ためになる本です。読めない時は枕の下に置いて 感じてます‼︎
2013年7月18日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
ok..............................................................................................
2013年11月1日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
中島義道のファンなので、購入しました。期待通りでした。
中古品とは思えない美しいものでした。
中古品とは思えない美しいものでした。
2013年6月7日に日本でレビュー済み
本の内容に、一定の完成度を求める、あるいは一貫性を求める、人生指南、または親代わりを求める、こういった事情で本を取る人は多いと思う。つまり読者の期待値が高く、読者に媚びて読者肯定してくれる癒し本系、あるいはオバさん占い師系の心をズバッと当てましょう的な、満足感たっぷりの本に高得点がついてしまう傾向がある。
自分の不安を、本を使って必死になにかをつかもうとしたけれど期待はずれであるというような批判もある。
この本を手にとった人の心構えとして、著者に甘えるのは本筋ではあるまい。著者は他の本でも繰り返しそのようなことを言っている。感想の手紙やファンレターも嫌いだと。本を書く人は、みな読者のレベルに降りてきてくれるという錯覚もあるんだろう。
私にとっては、自己研究と哲学の軽い案内が同時に味わえるのでちょうど都合がいい。
哲学のちゃんとした本も著者は多数出しているが、そっちには興味はない。
哲学者という人種は、自分の人生になにか引っかかるものが相当あった人たちなんだろうと思う。
いろいろな哲学案内書があるが、社会を変えたい、自分を変えたい、だいたいはどっちかになる。
この本は新聞連載をまとめたものらしいので、自分の読み方の方もぶつ切れ的に読むほうが向いていると思うし、じっさいそうしている。雑誌が大して面白くなくてもクレームなどつけないものだけど、一冊の本になるとガラッとかわるのはなんでだろうと感じる。雑誌一冊と新書一冊の値段は大して変わらないんだけど。
自分の不安を、本を使って必死になにかをつかもうとしたけれど期待はずれであるというような批判もある。
この本を手にとった人の心構えとして、著者に甘えるのは本筋ではあるまい。著者は他の本でも繰り返しそのようなことを言っている。感想の手紙やファンレターも嫌いだと。本を書く人は、みな読者のレベルに降りてきてくれるという錯覚もあるんだろう。
私にとっては、自己研究と哲学の軽い案内が同時に味わえるのでちょうど都合がいい。
哲学のちゃんとした本も著者は多数出しているが、そっちには興味はない。
哲学者という人種は、自分の人生になにか引っかかるものが相当あった人たちなんだろうと思う。
いろいろな哲学案内書があるが、社会を変えたい、自分を変えたい、だいたいはどっちかになる。
この本は新聞連載をまとめたものらしいので、自分の読み方の方もぶつ切れ的に読むほうが向いていると思うし、じっさいそうしている。雑誌が大して面白くなくてもクレームなどつけないものだけど、一冊の本になるとガラッとかわるのはなんでだろうと感じる。雑誌一冊と新書一冊の値段は大して変わらないんだけど。
2021年6月14日に日本でレビュー済み
著者は1946年生れの哲学者で、現在は「哲学塾カント」を主宰している。「市井の哲学者」に徹し、多くの一般向けの哲学書がある。世の中の「哲学者」の多くは、実際には「哲学研究者」であるが、著者は自らの哲学的思考を発信している「本物の哲学者」である。本書は著者が自らの人間観を赤裸々に語ったものである。コロナ禍が続く現在、「生活のために」あるいは「人間関係のために」妥協を迫られる「生きづらい人間」、特に社会生活に苦労している若者が生き抜くヒントを与えてくれる。
「非社交的社交性」とはカントが命名した、人間の性格の一つである。緻密で徹底した思考を好む哲学者あるいはその卵がその典型であろうし、またこれと性格の一部を共有する人間も少なくないはずである。第Ⅰ部では、典型的な「非社交的社交性」である著者が、自らの凄まじい体験を赤裸々に語りつつ、いかに生き抜いてきたかが語られる。その体験に基づいた若者へのヒントとして、第一に何よりも独立すること(経済的に、そして親から)、第二に金銭面以外でも他人に依存しない生き方を実現すること、を挙げている。後者は隠者になることを勧めるのではなく、自分に心地よい人間関係を自力で開発することである。たとえ孤独を好んでも、自分とって異質な人々とも大切に交流することであると著者は勧める。
第Ⅱ部は、「哲学塾」を主宰してきた中で集まってきた人々(特に若者)の寸評である。自尊心が強く、理屈っぽいこれらの若者に著者は苦労させられるが、彼らに共感も示す。欺瞞に満ちたこの社会に放り出された若者たちにも、著者は「非社交的社交性」を自覚して生きることを勧めている。
コロナ禍が1年以上続く現在、人間関係が希薄になり「孤独」で苦しむ若者たち(特に女性)が少なくないという。これらの人々にも本書は参考になると考えられる。
本書で参考になったのは、著者が留学し、その後もたびたび訪問するウィーンやヨーロッパと日本との言語観の比較である(p.103)。著者によれば、ヨーロッパ人は言葉とその意味とを一体としてとらえるが、日本人は根本的に違う。言葉とその意味とにズレがあっても、橋渡しがなくても何も感じず、追求もしない(禅語がその典型だが、日常生活でも「言外の意味」が重要な役割を果たす)。著者は日本で生活すると言葉を巡って日常的に小さなトラブルにぶつかるという。カント哲学のように言語を執拗に追求する哲学は、江戸期以前はもちろん、明治期以降も生まれなかった。日本語を駆使しても、多様な意味が被せられる以上、西欧哲学のような論理的な哲学は生まれようがなかった、と評者は納得した。このような文脈で考えると、西田幾多郎の日本ならではの独自性とその分かりにくさもうなずける。
「非社交的社交性」とはカントが命名した、人間の性格の一つである。緻密で徹底した思考を好む哲学者あるいはその卵がその典型であろうし、またこれと性格の一部を共有する人間も少なくないはずである。第Ⅰ部では、典型的な「非社交的社交性」である著者が、自らの凄まじい体験を赤裸々に語りつつ、いかに生き抜いてきたかが語られる。その体験に基づいた若者へのヒントとして、第一に何よりも独立すること(経済的に、そして親から)、第二に金銭面以外でも他人に依存しない生き方を実現すること、を挙げている。後者は隠者になることを勧めるのではなく、自分に心地よい人間関係を自力で開発することである。たとえ孤独を好んでも、自分とって異質な人々とも大切に交流することであると著者は勧める。
第Ⅱ部は、「哲学塾」を主宰してきた中で集まってきた人々(特に若者)の寸評である。自尊心が強く、理屈っぽいこれらの若者に著者は苦労させられるが、彼らに共感も示す。欺瞞に満ちたこの社会に放り出された若者たちにも、著者は「非社交的社交性」を自覚して生きることを勧めている。
コロナ禍が1年以上続く現在、人間関係が希薄になり「孤独」で苦しむ若者たち(特に女性)が少なくないという。これらの人々にも本書は参考になると考えられる。
本書で参考になったのは、著者が留学し、その後もたびたび訪問するウィーンやヨーロッパと日本との言語観の比較である(p.103)。著者によれば、ヨーロッパ人は言葉とその意味とを一体としてとらえるが、日本人は根本的に違う。言葉とその意味とにズレがあっても、橋渡しがなくても何も感じず、追求もしない(禅語がその典型だが、日常生活でも「言外の意味」が重要な役割を果たす)。著者は日本で生活すると言葉を巡って日常的に小さなトラブルにぶつかるという。カント哲学のように言語を執拗に追求する哲学は、江戸期以前はもちろん、明治期以降も生まれなかった。日本語を駆使しても、多様な意味が被せられる以上、西欧哲学のような論理的な哲学は生まれようがなかった、と評者は納得した。このような文脈で考えると、西田幾多郎の日本ならではの独自性とその分かりにくさもうなずける。
2016年2月1日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
前半は新聞連載を纏めたもの。あまり語られることがなかった筆者の生い立ちが綴られている。含蓄に富んでいるがぶつ切りになっているのがもったいない。
後半は、短気な著者と恐ろしく融通の効かない受講者たちとが繰り広げるドタバタコメディ。それはそれで笑えてしまうのだが、彼らの「病理」を単純な若者論に押し込めているのが残念だった。彼らの言動に疲労困憊していることは容易に想像できるが、新書として刊行するならば丁寧な論考がほしい。
これでは結局、「社交的社交性が大事だね」としかならないような。
後半は、短気な著者と恐ろしく融通の効かない受講者たちとが繰り広げるドタバタコメディ。それはそれで笑えてしまうのだが、彼らの「病理」を単純な若者論に押し込めているのが残念だった。彼らの言動に疲労困憊していることは容易に想像できるが、新書として刊行するならば丁寧な論考がほしい。
これでは結局、「社交的社交性が大事だね」としかならないような。
2022年3月19日に日本でレビュー済み
中島義道の本を読むのはこれが10冊目ですが、これは上位に入る面白さだった。
前半は新聞の連載などを集めたもので著者の本をすでに何冊も読んでいる人には特に目新しさはなかったけれど、哲学熟の生徒との交流について書かれた後半の書き下ろし部分は面白かった。
熟に来るのは中島氏の著書を読んでいるような人達だから、良くも悪くも変な人(人格障害っぽい人や発達障害っぽい人)が高確率でやってくるわけで…
あの中島氏がまるで自助グループのようなことをしているもんだからちょっと笑ってしまいました。
そういう困った人たちや未熟な人たちを本気で軽蔑しつつも、真剣に対応するところはやはり中島氏です。自身にも思い当たる点があるからだろうけれど…
前半は新聞の連載などを集めたもので著者の本をすでに何冊も読んでいる人には特に目新しさはなかったけれど、哲学熟の生徒との交流について書かれた後半の書き下ろし部分は面白かった。
熟に来るのは中島氏の著書を読んでいるような人達だから、良くも悪くも変な人(人格障害っぽい人や発達障害っぽい人)が高確率でやってくるわけで…
あの中島氏がまるで自助グループのようなことをしているもんだからちょっと笑ってしまいました。
そういう困った人たちや未熟な人たちを本気で軽蔑しつつも、真剣に対応するところはやはり中島氏です。自身にも思い当たる点があるからだろうけれど…
2014年1月25日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
筆者の生い立ちから始まったので不安に感じたが、やはりカントの解説書ではなかった。
後半は「うちの塾にこんな変な奴がいた」という雑談でありカントとは関係ない。
非社交的社交とはカントの言葉であり、それをタイトルにするのであれば内容も即したものにすべきではないのか。
内容もおもしろいか?と言われれば疑問。損した。
後半は「うちの塾にこんな変な奴がいた」という雑談でありカントとは関係ない。
非社交的社交とはカントの言葉であり、それをタイトルにするのであれば内容も即したものにすべきではないのか。
内容もおもしろいか?と言われれば疑問。損した。