小林秀雄、坂口安吾、保田与重郎をモチーフに文学の価値とは何かを論じた批評。
著者は〈空虚とは「人間」がないということである。圧倒的に美しく、懐かしいが、しかし「人間」がそこにないがゆえに、それはただ虚しいのである。また、虚偽とは「考える」という質が欠けているということである。〉と断言する。
昨今の「嫌韓反中」のネトウヨ運動が情緒的で事実に基づかない非論理的な喧伝であることと考え合わせると、空理でなくなる。「人間」と「考える」という肝どころを離さないということは「うしろめたさ」から書くことが求められ、そこから書くことは、ファシズム的な魅力を、その中心において拒絶することにつながる、と言う。そうすることで「文学」はファシズムに抗しうるのだと。
山城むつみの批評には、金時鐘の、演歌的な叙情歌、「日本的情緒」を強く拒否する詩精神と共通するものがあると思う。
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文学のプログラム (講談社文芸文庫) 文庫 – 2009/11/10
山城 むつみ
(著)
<書くこと>でいかに<戦争>と拮抗しうるのか――。小林秀雄、坂口安吾、保田與重郎の戦時下における著述を丹念に辿ることで、時局に追従する言説と彼らとの距離を明らかにし、保田の『万葉集の精神』を起点に、日本文を成立せしめた「訓読」というプログラムの分析へと遡行する。気鋭の批評家による<日本イデオロギー>の根底を撃つ画期的試み。群像新人文学賞受賞作を収めた第1評論集。
日本イデオロギーの根柢を撃つ気鋭の挑戦
<書くこと>でいかに<戦争>と拮抗しうるのか――。小林秀雄、坂口安吾、保田與重郎の戦時下における著述を丹念に辿ることで、時局に追従する言説と彼らとの距離を明らかにし、保田の『万葉集の精神』を起点に、日本文を成立せしめた「訓読」というプログラムの分析へと遡行する。気鋭の批評家による<日本イデオロギー>の根底を撃つ画期的試み。群像新人文学賞受賞作を収めた第1評論集。
山城むつみ
私が心底、驚いたのは、小林がただ「読む」ことだけで、いわばサシで、また丸腰でドストエフスキーの本文とわたり合っていたからだ。(略)どんなに高度な理論を参照している場合でも、ドストエフスキーをただ読む読み方で読み通すという原則を崩していなかった。これはあたりまえのことのようで実は容易なことではない。ただ読んで驚嘆したところを「書く」ためには尋常でない集中力と愛情で熟読を繰り返さねばならないからだ。(略)小林は尋常でない速度でドストエフスキーのテクストを歩いているのだ。驚嘆すべき脚力である。――<「著者から読者へ」より>
日本イデオロギーの根柢を撃つ気鋭の挑戦
<書くこと>でいかに<戦争>と拮抗しうるのか――。小林秀雄、坂口安吾、保田與重郎の戦時下における著述を丹念に辿ることで、時局に追従する言説と彼らとの距離を明らかにし、保田の『万葉集の精神』を起点に、日本文を成立せしめた「訓読」というプログラムの分析へと遡行する。気鋭の批評家による<日本イデオロギー>の根底を撃つ画期的試み。群像新人文学賞受賞作を収めた第1評論集。
山城むつみ
私が心底、驚いたのは、小林がただ「読む」ことだけで、いわばサシで、また丸腰でドストエフスキーの本文とわたり合っていたからだ。(略)どんなに高度な理論を参照している場合でも、ドストエフスキーをただ読む読み方で読み通すという原則を崩していなかった。これはあたりまえのことのようで実は容易なことではない。ただ読んで驚嘆したところを「書く」ためには尋常でない集中力と愛情で熟読を繰り返さねばならないからだ。(略)小林は尋常でない速度でドストエフスキーのテクストを歩いているのだ。驚嘆すべき脚力である。――<「著者から読者へ」より>
- 本の長さ256ページ
- 言語日本語
- 出版社講談社
- 発売日2009/11/10
- 寸法10.8 x 0.9 x 14.8 cm
- ISBN-104062900688
- ISBN-13978-4062900683
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登録情報
- 出版社 : 講談社 (2009/11/10)
- 発売日 : 2009/11/10
- 言語 : 日本語
- 文庫 : 256ページ
- ISBN-10 : 4062900688
- ISBN-13 : 978-4062900683
- 寸法 : 10.8 x 0.9 x 14.8 cm
- Amazon 売れ筋ランキング: - 873,160位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 1,393位講談社文芸文庫
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2022年3月11日に日本でレビュー済み
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批評とは「読み」そして「書く」ことである。「読む」ことと「書く」ことの連続と非連続、これが本書のテーマであり、批評家山城むつみの拘りである。「読む」とは己を空しくして対象に没入しようとする行為であるが、「書く」とは対象を分析し、論理を介して対象を所有しようとする。「知への倒錯的な愛」に突き動かされた、人間の原罪とも言うべき強迫観念だ。批評家は「書く」ために「読む」が、対象から距離を置き「知」を志向する「書く」は、対象と一体化しようとする「読む」との間に常に既にズレを孕んでしまう。
小林秀雄は批評家としての初発からこのズレに自覚的であった。自覚的どころではない。「自意識とその外部」を主題とした彼の批評はまさにこのズレを巡るものだった。だが小林は最終的にこの問題を放擲した。「倒錯」を封印して「書く」ことを断念する。そして「読む」ことに徹することを自らの批評と見定めた。見えないものを見ようとせず、見えるものだけを見とどけようとした。その集大成が『本居宣長』である。小林の断念に限りない共感を寄せつつも、山城はなおこの「倒錯」を生きることに批評のかすかな可能性を見ようとする。
だがそれは徒労に終わるだろう。山城の問いは切口は斬新に見えるが、認識と行為の断絶という昔ながらのありふれた問題だ。問題が困難なのではない。問い方が間違っているのだ。小林に「アシルと亀の子」という文章がある。アシル(=アキレス)とは認識であり知である。亀の子とは行為であり現実である。アシルは亀の子を追い越せない。これはパラドクスではない。原理的に不可能なのだ。それに挑むのは「倒錯」である。倒錯に執着するのは勝手だが、「病気」を押し売りするのは見苦しい。こういう批評スタイルを確立したのは柄谷行人だが、その悪しき性癖を日本の文芸批評は未だ克服できずにいる。評者の勘だが山城は実は大して病んでもいない。その昔『批評空間』界隈を支配した柄谷的な「意匠」に媚びてるだけのような気がする。
戦争への態度を巡る保田と小林の比較もピント外れだ。策謀によって宮廷を壟断した藤原仲麻呂を東條英機に比する頓珍漢はご愛嬌としても、汚名を覚悟で文学者として戦争にコミットした保田は潔く、文学の純粋性を留保して戦争を美化する小林は裏口から体制に迎合したというのは、保田理解としても小林理解としても浅薄だ。政治と芸術を峻別する、しないは各々の選択である。芸術は結果として政治的機能を持つが、それは芸術が政治の婢女であることを意味しない。保田は政治を芸術化した。但しイロニーとして。小林は一国民として政治を受け入れ、芸術に徹した。各々のやり方で芸術の自律性を守っただけだ。ファシズムへの抵抗を文学の課題とするのは自由だが、その前に戦争=ファシズムという己の空疎な等式を反省した方がいい。
「訓読のプログラム」なるものもお為ごかしで新しさは全くない。イデオロギー批判の文脈で持ち出すのは無意味だ。そんな事を言い出せば、全て「文体」はイデオロギーだと言わねばなるまい。真っ当な文学的感性を持っているのだから、つまらぬ意匠をいじくり回すのはやめた方がいい。
小林秀雄は批評家としての初発からこのズレに自覚的であった。自覚的どころではない。「自意識とその外部」を主題とした彼の批評はまさにこのズレを巡るものだった。だが小林は最終的にこの問題を放擲した。「倒錯」を封印して「書く」ことを断念する。そして「読む」ことに徹することを自らの批評と見定めた。見えないものを見ようとせず、見えるものだけを見とどけようとした。その集大成が『本居宣長』である。小林の断念に限りない共感を寄せつつも、山城はなおこの「倒錯」を生きることに批評のかすかな可能性を見ようとする。
だがそれは徒労に終わるだろう。山城の問いは切口は斬新に見えるが、認識と行為の断絶という昔ながらのありふれた問題だ。問題が困難なのではない。問い方が間違っているのだ。小林に「アシルと亀の子」という文章がある。アシル(=アキレス)とは認識であり知である。亀の子とは行為であり現実である。アシルは亀の子を追い越せない。これはパラドクスではない。原理的に不可能なのだ。それに挑むのは「倒錯」である。倒錯に執着するのは勝手だが、「病気」を押し売りするのは見苦しい。こういう批評スタイルを確立したのは柄谷行人だが、その悪しき性癖を日本の文芸批評は未だ克服できずにいる。評者の勘だが山城は実は大して病んでもいない。その昔『批評空間』界隈を支配した柄谷的な「意匠」に媚びてるだけのような気がする。
戦争への態度を巡る保田と小林の比較もピント外れだ。策謀によって宮廷を壟断した藤原仲麻呂を東條英機に比する頓珍漢はご愛嬌としても、汚名を覚悟で文学者として戦争にコミットした保田は潔く、文学の純粋性を留保して戦争を美化する小林は裏口から体制に迎合したというのは、保田理解としても小林理解としても浅薄だ。政治と芸術を峻別する、しないは各々の選択である。芸術は結果として政治的機能を持つが、それは芸術が政治の婢女であることを意味しない。保田は政治を芸術化した。但しイロニーとして。小林は一国民として政治を受け入れ、芸術に徹した。各々のやり方で芸術の自律性を守っただけだ。ファシズムへの抵抗を文学の課題とするのは自由だが、その前に戦争=ファシズムという己の空疎な等式を反省した方がいい。
「訓読のプログラム」なるものもお為ごかしで新しさは全くない。イデオロギー批判の文脈で持ち出すのは無意味だ。そんな事を言い出せば、全て「文体」はイデオロギーだと言わねばなるまい。真っ当な文学的感性を持っているのだから、つまらぬ意匠をいじくり回すのはやめた方がいい。
2014年2月10日に日本でレビュー済み
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作者自身が自ら編集した山城むつみの文学論集成。第1論文の小林秀雄論が秀逸です。小林秀雄のドストエフスキー論を丹念に追跡しつつ、小林秀雄の思考の臨界点、限界点に迫る論考です。なぜ小林秀雄の「白痴についてⅡ」は未完に終わったのか、そこからすぐに『本居宣長』に移行したのはなぜなのか、ここに小林秀雄の思考の転回がみられます。小林の回答は自分にはキリスト教というものが理解できないからだと答えていますが、その回答には別な深い意味がありました。ドストエフスキーの思考の臨界点に辿り着くことが不可能であることを悟った小林秀雄の自己弁解がそこにあったのです。小林は『作家の日記』に含まれている膨大な書簡の数々を典拠にしながらドストエフスキーの文学を読み解いていきますが、著者は小林のドストエフスキー論は別なもうひとつのドストエフスキー作品の創作にも等しい行為であったと論じています。デリダの言葉を借りれば小林のドストエフスキー論は、思考可能性としてのみ存在しえたドストエフスキーの「散種」であったということになります。後の大作『ドストエフスキー』では、二葉亭四迷がドストエフスキーの「政治的なもの」に気づいて、自己の『浮雲』創作の原動力にしたと書かれてありましたが、キリスト教(ギリシア正教)や政治的なもの等のモチーフはわたしたち日本人に理解不可能なものではけっしてありません。確かに『悪霊』などは政治的要素なくして理解できない作品であることは間違いないところですが、ロシアの大地とキリスト教、民衆から生まれたのがドストエフスキー文学なのでしょうか?私には政治犯としてのオムスクの死刑囚収容所でのドストエフスキーの想像を絶する自己体験から生まれた文学がドストエフスキーの文学の源泉なのではないかと思います。母なるロシアの大地も、キリスト教も、後から作り出されたモチーフです。『死の家の記録』で表現されているような、生と死が交錯する限界点での生活体験そのものがドストエフスキーというとてつもなく巨大な文学者を生み出したのではないか?そこには救いというものはなく、生と死を決めるのは自己の運命以外の何ものでもない。小林秀雄はドストエフスキーの心の深淵を自ら覗き込み、これ以上ドストエフスキーについて論じるのが恐ろしく感じられたのではないか。それが純日本的なる精神への回帰、『本居宣長』へと小林を向かわせた理由ではないのでしょうか。この点については興味が尽きないくらい、面白いテーマですが、小林秀雄のドストエフスキー論を徹底的に読み込む以外に方法はないのでしょう。もうひとつは、ドストエフスキー作品に登場する奇怪な人物たちの言動や行動を注意深く読み込むことが大切だと思います。例えば『罪と罰』では、老婆を殺したラスコーリニコフはなぜソーニャに真実を語ったのか、そもそもなぜ老婆を殺さなければならなかったのか、スヴィドリガリエフはなぜ自殺したのか、など『罪と罰』という作品一つ取り上げても読めば読むほど謎が深まるばかりです。これらの作品群は、母なるロシアの大地やキリスト教、政治的なるものだけではとても語り尽くせないものがあると思います。こうした謎を読者に提示した山城むつみの文学的想像力・思考力に深く敬意を払う次第です。大作『ドストエフスキー』と共に何度も読み返したくなる評論です。
2022年8月10日に日本でレビュー済み
『文学のプログラム』は、文芸評論家・山城むつみさん第1作目の著書です。群像新人文学賞受賞作「小林批評のクリティカル・ポイント」、坂口安吾や安田與重郎から着想を得た「戦争について」、安田與重郎や和歌を論じる「万葉集の『精神』について」、ラカンを起点にして日本語の特徴を語る「文学のプログラム」の4本が収録されています。特に『批評空間』に掲載された「万葉集の『精神』について」はかなり難解だったので、私には語る資格がありません。山城さんの評論は題材や語り口が非常に渋く、いかにも「意識高い系ガチ勢のための批評」という感じです。
「小林批評のクリティカル・ポイント」では、小林秀雄のドストエフスキー論考『「白痴」について』が、小林の仕事における臨界点(クリティカル・ポイント)だとみなされます。他人の作品をダシにして自己を語ってきた小林は、ドストエフスキーに傾倒してから「作者が答えなかったことを自分が答えてはならない」という、異様な鑑賞スタンスを取ります。小林は『「白痴」について』で、不可知なものを不可知であるが故に知りたいという情熱を持っていました。しかし宣長論に着手した小林は、不可知なものへの情熱を失ったようです。
「戦争について」のテーマは、「戦争の美しさ」と「日本回帰のうしろめたさ」です。小林秀雄・坂口安吾ら日本の文豪は、戦争の光景の美しさに感動しました。戦争の美しさに魅了されるのは危険なことであり、戦争の美しさに対抗するには「考える」ことが大事です。また、人間は孤独や出身地から逃れることができず、孤独や出身地のような「家」に帰るのには「うしろめたさ」が伴うと安吾は考えました。文学者が家に帰るときのうしろめたさから筆を執るとき、戦争の美しさに対抗できるという結論は、素敵だなあと思いました。
「文学のプログラム」は、文学と言うよりは日本語のプログラムに関する評論だと思います。ラカンは、日本語では「音読みが訓読みを注釈する」と考えました。日本語では漢字=音読みが、話される日本語=訓読みを無意識的に注釈しているのです。ラカンによると、音読みと訓読みが併用されているので、日本語の無意識から話し言葉の距離は触知可能らしいです。しかし欧米の言語では音読みと訓読みが併用されていないので、無意識を分析する必要があります。漢学を学んだ夏目漱石は訓読みのプログラムに慣れていましたが、イギリスではそのプログラムが通用しなかったことが一因で神経衰弱になったという説があります。漱石さんお疲れ様でした。
「小林批評のクリティカル・ポイント」では、小林秀雄のドストエフスキー論考『「白痴」について』が、小林の仕事における臨界点(クリティカル・ポイント)だとみなされます。他人の作品をダシにして自己を語ってきた小林は、ドストエフスキーに傾倒してから「作者が答えなかったことを自分が答えてはならない」という、異様な鑑賞スタンスを取ります。小林は『「白痴」について』で、不可知なものを不可知であるが故に知りたいという情熱を持っていました。しかし宣長論に着手した小林は、不可知なものへの情熱を失ったようです。
「戦争について」のテーマは、「戦争の美しさ」と「日本回帰のうしろめたさ」です。小林秀雄・坂口安吾ら日本の文豪は、戦争の光景の美しさに感動しました。戦争の美しさに魅了されるのは危険なことであり、戦争の美しさに対抗するには「考える」ことが大事です。また、人間は孤独や出身地から逃れることができず、孤独や出身地のような「家」に帰るのには「うしろめたさ」が伴うと安吾は考えました。文学者が家に帰るときのうしろめたさから筆を執るとき、戦争の美しさに対抗できるという結論は、素敵だなあと思いました。
「文学のプログラム」は、文学と言うよりは日本語のプログラムに関する評論だと思います。ラカンは、日本語では「音読みが訓読みを注釈する」と考えました。日本語では漢字=音読みが、話される日本語=訓読みを無意識的に注釈しているのです。ラカンによると、音読みと訓読みが併用されているので、日本語の無意識から話し言葉の距離は触知可能らしいです。しかし欧米の言語では音読みと訓読みが併用されていないので、無意識を分析する必要があります。漢学を学んだ夏目漱石は訓読みのプログラムに慣れていましたが、イギリスではそのプログラムが通用しなかったことが一因で神経衰弱になったという説があります。漱石さんお疲れ様でした。
2010年1月13日に日本でレビュー済み
Amazonで購入
昔単行本で読んだものが文庫化されたので、再読。文芸誌で連載中のこの人のドストエフスキー論を、いつかまとめて読んでみたい、との思いを強くした。著者の小林論にしたがえば、ヒトのドストエフスキー論を待つくらいなら、自分でガンガンドストエフスキーに向かえばよいのだろう。それが正解なのだろう。でも、ドストエフスキーだけ読んでいるのも疲れる。ついつい哲学や批評に逃げていってしまう。著者の「『萬葉集の精神』について」には保田與重郎への愛が感じられる。論旨が行ったり来たりするのはそのためだろう。自分の読みたいように読むのではなくて、対象に従って読むとはこういうことなんだろうなと、再読して納得した。
2011年8月4日に日本でレビュー済み
桶谷氏の読替え以降も保田與重郎の強靭な引力に対する
根源的な批判というのは未だなされていない、と感じていた。
「鬱勃とした自信」とうらはらに保田の筆が滞る
「畏怖の心理」に「訓読」という日本語のシステムが
がはらむ決断と躊躇へと論を進め、後者に保田の引力への
起源からの批判の可能性をみる。
こうした視点はかつてみたことのないもので、独創的なものだと
思う。ただ、これを著者に書かせている状況の圧力というものに
ついて、著者と同様に危機として認識を同じくしうるかというのは
また別の問題だと思う。
根源的な批判というのは未だなされていない、と感じていた。
「鬱勃とした自信」とうらはらに保田の筆が滞る
「畏怖の心理」に「訓読」という日本語のシステムが
がはらむ決断と躊躇へと論を進め、後者に保田の引力への
起源からの批判の可能性をみる。
こうした視点はかつてみたことのないもので、独創的なものだと
思う。ただ、これを著者に書かせている状況の圧力というものに
ついて、著者と同様に危機として認識を同じくしうるかというのは
また別の問題だと思う。