巻末の「年譜」によると、『夏目漱石論』が最初に青土社から刊行されたのは蓮實重彦氏が42歳をむかえた1978年(昭53)10月。本書は――青土社版の約10年後に刊行された『夏目漱石論』(福武文庫、昭63・5)を底本とする――新装版の文庫版『夏目漱石論』です。講談社文芸文庫版として復刊されたことによって、『夏目漱石論』は、ながらく絶版状態にあった福武文庫版や青土社版よりは、手軽にアクセスしやすくなった書物になったといえるでしょう。
本書の目的はいたってシンプルです。それは、「漱石を不意打ちすること」。手垢にまみれた「夏目漱石」という文学的神話から自由となり、「言葉いがいのいっさいのものを視界から一掃」し、テクストを「読む」ことにほかなりません。
では、具体的にどのような読みが本書で実践されているのか。蓮實氏は、はじめに個々の「作品」という境界線を解体し、「個々の小説を超えた大がかりな言葉の戯れの可能な場」として、「漱石的作品」と命名されるテクスト群を措定します。2つ目に、「漱石的作品」において物語が組織されるモチーフ――「横臥」「模倣」「媒介」という姿勢――が、いくばくかの変奏を経ながらも反復されていることに着目します。3つ目に、物語を活気づける言葉の「運動」が考察の対象となり、「近さ」と「遠さ」という距離の意識や「明るさ」と「暗さ」という光学的意識が、作中でいかに言語化されているかが分析されます。最後に、漱石的作品における「風景」という空間の問題がとりあげられ、「水」・「雨」のモチーフと「縦の運動」というモチーフを軸に、テクストが分析されます。したがって、本書で試みられているのは、漱石の個々の作品に焦点をあてた「作品論」としての読みではなく、総体としての「漱石的作品」が内包する言葉が、どのような機能をはたすのかという問題を、言葉の細部に立ち止まりながら読み進めていくというシンプルな「読み」の実践であるといえるでしょう。
読んでいて個人的に興味深いと感じたのは――第一章の「横たわる漱石」はいわずもがなですが――おもに第七章と第八章で分析される漱石的作品における「雨」の問題です。「雨を衝く一輌の車は輪を鳴らして、格子の前で留つた。がらりと明く途端に、ぐちやりと濡れた草鞋を沓脱ぎへ踏み込んだものがある。――叙述は第三の車の使命に移る」という『虞美人草』の表現について、語り手が「雨」の一語を口にすることによって、「物語に変化を導入する符牒」としての機能が「雨」という言葉に付与されていることを蓮實氏は指摘します。「雨」が物語を動かすファクターとなっているのは『虞美人草』にかぎったことではなく、『草枕』や『行人』、さらには『明暗』などにおいても、同様の現象が反復されていることを蓮實氏は読み解いていきます。藤尾のヒステリックなふるまいがどうしても目をひいてしまう『虞美人草』において、「雨」という言葉が物語を動かす契機となっていたという蓮實氏の指摘には「なるほど」と感嘆しましたし、そういえば藤尾が命を絶つ瞬間においても――彼女の「歇私的里性の笑」が「窓外の雨を衝いて高く迸」っていた――そうか「雨」が降っていたのかと、恥ずかしながら初めて気づかされました。
加えて、第九章で分析される漱石的作品における垂直運動の問題も、個人的にきわめて示唆的でした。『坊つちやん』の冒頭では、「親譲りの無鉄砲」な性格をもつ「おれ」が、小学校の二階から飛び降りる場面が描写される。また、『道草』においても健三が少年だったときに、芝居小屋の二階の勾欄の向うに稲荷鮨の弁当を落とす場面や、廊下で小便をしながら眠ってずっこけてしまう場面も描写される。漱石的作品におけるこうした何気ない「落下」の場面の描写を、蓮實氏は単なる作中人物の性格描写のひとつとして処理しません。「おれ」や健三が、少年時代に「落下」という垂直運動を経験するための舞台装置として、「落下」にふさわしい「高さ」が作中で周到に用意されていることが重要なのだと指摘します。何気ない細部に着目することで、物語を動かすファクターを明るみに出す蓮實氏のあざやかな読みさばきに、なるほどこんな読みもできるのかと率直に感服してしまいました。
青土社版の『夏目漱石論』が刊行されてから40数年の時間を経た時代においてはじめて本書を読みましたが、蓮實氏が示した漱石的作品に対する「読み」の斬新さは、今なおまったく色褪せていないと思います。なぜなら、テクストの細部に立ち止まり、その言葉の数々がもつ居心地のわるさや収まりの無さに戸惑いながらも、「読み」を進めていくことの難しさと楽しさを、蓮實氏は本書を通してわたしたちに示しているからです。
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夏目漱石論 (講談社文芸文庫) 文庫 – 2012/9/11
蓮實 重彦
(著)
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「則天去私」「低回趣味」などの符牒から離れ、神話的肖像を脱し、「きわめて物質的な言葉の実践家」へと捉えなおしてまったく新しい漱石像を提示した、画期的文芸評論。
70年代後半、数多ある文芸評論とは一線を画し、読書界に衝撃を与えた斬新な漱石論。
三十数年を経た現在もなお挑発をやめない名著。
※本書は、1988年5月刊『夏目漱石論』(福武文庫)を底本とし、1978年10月刊『夏目漱石論』(青土社)を適宜参照しました。
70年代後半、数多ある文芸評論とは一線を画し、読書界に衝撃を与えた斬新な漱石論。
三十数年を経た現在もなお挑発をやめない名著。
※本書は、1988年5月刊『夏目漱石論』(福武文庫)を底本とし、1978年10月刊『夏目漱石論』(青土社)を適宜参照しました。
- 本の長さ368ページ
- 言語日本語
- 出版社講談社
- 発売日2012/9/11
- 寸法10.6 x 1.2 x 15.1 cm
- ISBN-104062901757
- ISBN-13978-4062901758
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登録情報
- 出版社 : 講談社 (2012/9/11)
- 発売日 : 2012/9/11
- 言語 : 日本語
- 文庫 : 368ページ
- ISBN-10 : 4062901757
- ISBN-13 : 978-4062901758
- 寸法 : 10.6 x 1.2 x 15.1 cm
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2021年1月30日に日本でレビュー済み
2015年5月13日に日本でレビュー済み
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最初は表現が難しく読みにくかったのですが、慣れてきて、その誠意ある取り組み方に感心しました。
2016年7月13日に日本でレビュー済み
ユニークな視点はある。しかし、それを打ち砕き、不毛なものにするために余念のないような論述。現代日本語にわずかに残された歴史との繋がりを入念に否定し、冒涜する。バブル期日本の徒花。東京が製造の世界の辺境と成り下がり、流通に魂を売った悲劇の産物。