時間論の書物はいろいろあるが、まずその前提となる”時間”の捉え方が論者によってはっきりしない。日本語として時間がまず意味するのは、例えば午後2時から午後5時までのある時からある時までの間をいう。時間論がこのある時からある時までの間について論じたものでは無いことははっきりしている。すなわち、”時論”と言った方が正確である。ただ、時論って何?ということになるので、時間論という表現になっている。
次に、時間と物理的空間との関係でそれを不可分一体と考えるのか、不可分一体と考えないのか、このマクタガートもそうだが、他の時間論の論者もはっきりしない。物理学者特に宇宙物理学者はそれを不可分一体と考える。そうしないと、時間と空間が別物になってしまい理論構築ができず研究が進まない。
思考実験として、こういう例を考えてみた。この宇宙が空間ごとパッと無くなってしまう。星も銀河もそれを覆っている空間もすべて無くなってしまう。そして悠久の時が流れた。その後また宇宙が出現した!神業とも言うべきことが起こった!この場合、時間と物理的空間との関係でそれを不可分一体と考える宇宙物理学者は、その悠久の時を考慮しない。すなわち宇宙は空間的にも時間的にも連続していると考える。たとえ消滅と創造が行われたとしても、もともと空間と切り離された悠久の時など論外としているのだから宇宙は連続しなければならない。もし、物理学者が”悠久の時”など言い出したら、物質も空間もないところで時間を持ち出すなんて、あなたの物理学はどんな物理学なんだ!時間だけ特別扱いなのか?と言いたくなる。しかし、哲学者の頭の中には悠久の時が存在できる。すなわち、時間は物理的空間と一体となったレベルと別次元で存在するレベルの2種類を考えることができる(尚、実際は宇宙物理学におけるインフレーション理論などは、それまで存在しなかった宇宙が存在するようになるまでの間の、物質も空間もない悠久の時を考えている証左であり、もはや物理学の領域を超えて悠久の時を考えている)。
すなわち、現在まで物理的時間と心的時間(フッサールの言うような心的時間の意味ではなく、単に空間と切り離された、いまのところ頭の中でしか考えられない時間という意味)の区別が曖昧なまま時間論の議論が行われてきた為、いったいどちらの議論をしているのかはっきりせず、混乱の元となっている。マクタガートの「時間の非実在性」においては、この点ごちゃごちゃしてはっきりしない。A系列・B系列は物理的空間の中での系列なのか、マクタガートの頭の中の系列なのか、それとも何か別物なのか?はっきりしない。普通の読者は時間と物理的空間との関係でそれを不可分一体と考える宇宙物理学者と同じ土俵で読むのではないだろうか。
他にも、決定的なことに認識論のように素朴実在論がないことがあげられる。認識論のスタートラインはこの素朴実在論である。時間の素朴実在論は無い。時間そのものを五感で認識できない以上、素朴に実在するとは言えない。無色透明、延長なしの実体不明の厄介なしろものである。物の物理的変化や空間移動をもとに、間接的に物の変化の前後に辻褄を合わせているだけで、いわば時間の間接的素朴実在論ならある。物理的空間と一体のものとして時間を考えても、時間そのもののスピードの基準が無い。早く進んでいるのか、遅くなっているのか、頼りになるものは何も無い。時計や太陽の動きを頼りにしたところで、それは時間そのものではない。1日24時間でも、時間のスピードに合わせて時計も人間も早く進むならば、時間の加速に気が付かない。気が付かないうちに昨日と比べて5分足りないなんてことも想定できる。根本的には時間は加速したり減速したりするのかどうかもはっきりしない。いうなれば時間は元々非実在論的なものである。間接的にしか考えることができないのだから、論者によってそのイメージは大なり小なり異なるであろう。時間論の論者がどのような時間の間接的素朴実在論を有しているのかがはっきりしない。時間に対する論者のイメージがはっきりしないので、当初から同じスタートラインに立っているのかどうかもはっきりしない。はっきりしないことばかりである。
哲学には、存在論・認識論・実践論などいろいろあるが、この時間論がもっとも困難な課題を抱えている。それは上記のように論者どうしの間、および読者との間に共通のコンセンサスが無いということに起因する問題である。この問題は今のところ自分で解決するしかなさそうである。ただ、マクタガートの「時間の非実在性」のような本が一番有り難い。一般の日本の学者が書いた当たり障りのない時間論では読んでしまって終わりということも多々ある。哲学は極論から始まる。マクタガートの「時間の非実在性」のような極論と対峙することが、それすなわち自分の哲学となっていくものと思う。
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時間の非実在性 (講談社学術文庫) 文庫 – 2017/2/11
ジョン.エリス・マクタガート
(著),
永井 均
(著, 翻訳)
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マクタガートの「時間の非実在性」は、A系列(過去、現在、未来)・B系列(より前、より後)のふたつの概念を導入し、時間が実在しないことを証明した論文として名高い。これまで日本には全訳がなかったが、ついに、本書が本邦初訳となって登場した。本書は、それだけではない。訳者・永井均氏が、段落ごとに詳細な注解と論評を加えている。訳者独自の付論も掲載。全訳とともに、こちらも必読。まさに「時間の哲学」の決定版だ!
マクタガートが1908年に「Mind」誌に発表した「時間の非実在性」(The Unreality of Time)は、時間の哲学についての不朽の名作として名高い。発表から100年を過ぎた今でも、必読の文献とされる。
しかしながら、これまで、邦訳が刊行されていなかった。
本書は、現在、日本の代表的な哲学者の一人である永井均氏が、はじめて全訳し、かつ、きわめて詳細な注解と論評を施したものである。
マクタガートの時間論で、核心をなすのが、時間のA系列、B系列という議論である。
A系列とは、過去・現在・未来と流れていくことに時間の本質を見る。
B系列とは、より前であるか、より後であるか、に時間の本質を見る。
マクタガートの議論を丁寧に解説し、そのうえで、A系列、B系列をもとに、訳者が独自の「注解と論評」を加えた、必読の決定版。
マクタガートが1908年に「Mind」誌に発表した「時間の非実在性」(The Unreality of Time)は、時間の哲学についての不朽の名作として名高い。発表から100年を過ぎた今でも、必読の文献とされる。
しかしながら、これまで、邦訳が刊行されていなかった。
本書は、現在、日本の代表的な哲学者の一人である永井均氏が、はじめて全訳し、かつ、きわめて詳細な注解と論評を施したものである。
マクタガートの時間論で、核心をなすのが、時間のA系列、B系列という議論である。
A系列とは、過去・現在・未来と流れていくことに時間の本質を見る。
B系列とは、より前であるか、より後であるか、に時間の本質を見る。
マクタガートの議論を丁寧に解説し、そのうえで、A系列、B系列をもとに、訳者が独自の「注解と論評」を加えた、必読の決定版。
- 本の長さ264ページ
- 言語日本語
- 出版社講談社
- 発売日2017/2/11
- 寸法10.8 x 1.2 x 14.8 cm
- ISBN-104062924188
- ISBN-13978-4062924184
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商品の説明
著者について
ジョン.エリス・マクタガート
ジョン・エリス・マクタガート(1866-1925)
ロンドンに生まれ、ケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジで哲学研究を続けた。イギリス観念論者として、ヘーゲルの研究で評価を得たが、もっとも有名なのが、1908年に雑誌「Mind」に発表した論文「時間の非実在性」(本書)である。
永井 均
1951年生まれ。慶應義塾大学大学院文学研究科博士課程単位取得。現在、日本大学教授。専攻は、哲学、倫理学。〈私〉という概念を使いつつ、独自の哲学を展開する注目の哲学者。『〈私〉のメタフィジックス』『私・今・そして神』『哲学の密かな闘い』『存在と時間 哲学探究1』など、著書多数。
ジョン・エリス・マクタガート(1866-1925)
ロンドンに生まれ、ケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジで哲学研究を続けた。イギリス観念論者として、ヘーゲルの研究で評価を得たが、もっとも有名なのが、1908年に雑誌「Mind」に発表した論文「時間の非実在性」(本書)である。
永井 均
1951年生まれ。慶應義塾大学大学院文学研究科博士課程単位取得。現在、日本大学教授。専攻は、哲学、倫理学。〈私〉という概念を使いつつ、独自の哲学を展開する注目の哲学者。『〈私〉のメタフィジックス』『私・今・そして神』『哲学の密かな闘い』『存在と時間 哲学探究1』など、著書多数。
登録情報
- 出版社 : 講談社 (2017/2/11)
- 発売日 : 2017/2/11
- 言語 : 日本語
- 文庫 : 264ページ
- ISBN-10 : 4062924188
- ISBN-13 : 978-4062924184
- 寸法 : 10.8 x 1.2 x 14.8 cm
- Amazon 売れ筋ランキング: - 172,568位本 (本の売れ筋ランキングを見る)
- - 185位自然哲学・宇宙論・時間論
- - 587位講談社学術文庫
- - 1,687位哲学 (本)
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トップレビュー
上位レビュー、対象国: 日本
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2021年4月7日に日本でレビュー済み
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2018年12月12日に日本でレビュー済み
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マクタガートの時間論は、世界から時間の特性を取り除いたうえで、時間の概念を使わずに改めて整合的に世界を語れるかという試みとして読める
このさき人類が滅びたとして、私たちが生きていたという事実は残る。信長は本能寺で倒れたが、彼が天下統一の直前まで行ったという事実は動かしようがない。これらはなかなかに否定しがたい直観である。しかし言うまでもなくこれは事実の永遠化であり、時間を取り除くことである。そのうえで彼が時間の特性とみなすA系列B系列などの(それ自体からは時間の感覚をできる限り排除する)概念を使って、時間を組み立ててみせる。では単純に考えて、彼の試みが矛盾なく成功したとき「時間は存在しない」と言えるのであって、矛盾に導かれるならその概念群は時間をうまく説明できないのであり、つまり時間は存在するということが、この本から読み取るべき正しい洞察なのではなかろうか
時間は世界の在り方を説明する要素として問題なく機能している。したがって自分の提供する概念が不十分であるなら、間違っているのは自分であり、時間は存在する。マクタガートがその程度の自覚を持っていれば、まだ見どころのある論文になりえただろうが、残念ながらそうはならず、とすると不十分な概念群だけが残る
私の初読は英語であり、無駄なものを読んだという印象が残った。その後これを永井氏が解説付きで訳し、氏の哲学に光を当てるものであるというレビューを読んで、こちらを見直してみる気になった。なるほどなあと思う部分はあったが、その腑に落ち方は、おそらく氏の望む方向ではないのだろう
マクタガートの論文は、哲学的な時間論がまず間違いなく犯す過ちを繰り返している。すなわち事実を永遠化したうえで時間を述べなおすということである。では哲学が取り組む課題は何か。「たとえ過去になったとしても、その出来事があったということは事実として残る」という前提部分に疑いを持つことだろう。これは人が人である限り、かなり困難である。記憶の持つ性質を抜きに時間を語ることが難しいということのほかに、死すべきものである私たちの心情がこの前提を受け入れたがるということもある
もう一つ、マクタガートとは別の理論で時間を否定するという選択肢もあるのだろうが、ここでは考えない
これが読み直してみて得た感想だ。しかし永井氏は奇妙にもマクタガートの間違いを拡大する方向へ行ってしまう
マクタガートが正しいとしたうえで、強引とも思える意識と時間との相互メタフォーに向かわせたものは何だろう。ちょっとわかりにくい説明かもしれないが、時間抜きの時間論と、意識抜きの意識論が、各時制や各意識の安易な相対化という点で、論の構造として似ているのではないだろうか。事実の永遠化(無時間化)に相当するのは意識の偏在化である
なぜ私は他の誰でもなくこの私なのか。この問いはあまりに私の感覚とずれていて、これを重要視する永井氏の著作をいくつか読み、反射的に低評価にしてしまった。マクタガートの時間論を読みながら思ったのは、しかしこの問いが重要になる世界観も確かにあるのだろうということだった
それは妥協なしの唯物論である。もちろんこの名称は哲学者には貶めの言葉となるし、氏がそうであるということではない。ただあくまで外側からこの謎に共感する手続きとして、わかりやすい世界観は他にないということだ
唯物論の中では、私は再生可能である。AIの意識化も当然のことであり、とすれば私の思考パターンをハードに組み込むことで、あるいは永遠の生もある。このような世界において、私が私であることは深刻な謎となる
永井氏が唯物論者ではないとしても、意識と世界が簡単に反転可能であると考えておられることは確かではないだろうか。つまりそれは理論の文脈次第であると
しかし意識の特質は何かというに、反転可能性の徹底的な排除であると私は思っている。意識は複製の利かぬ、一回限りのものである。素粒子レベルでコピーしても、あるいは輪廻転生しても、私の自己意識は持ち越されず、したがってそれは私ではない。どんなに二元論への批判が盛んでも、主観ということには確かに意味がある。客観的なものは複製可能であり、主観はそうではないからだ
やはり私には、氏の問いかけが意識の特質を無視した、宙ぶらりんの謎にしか思えない。少なくともそこに共感し得るような、十分な世界観を提供できていないのではないか。周囲の無理解を嘆くのは早計である
とりあえずいろいろなことを考えながら読めたので、原著者に二点、解説者に二点。初心者は、細かい議論を無視して、全体的に間違った論証であることを承知して、さらっと読み流すことをお勧めする
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時間は世界の在り方を説明する要素として問題なく機能している。したがって自分の提供する概念が不十分であるなら、間違っているのは自分であり、時間は存在する。マクタガートがその程度の自覚を持っていれば、まだ見どころのある論文になりえただろうが、残念ながらそうはならず、とすると不十分な概念群だけが残る
私の初読は英語であり、無駄なものを読んだという印象が残った。その後これを永井氏が解説付きで訳し、氏の哲学に光を当てるものであるというレビューを読んで、こちらを見直してみる気になった。なるほどなあと思う部分はあったが、その腑に落ち方は、おそらく氏の望む方向ではないのだろう
マクタガートの論文は、哲学的な時間論がまず間違いなく犯す過ちを繰り返している。すなわち事実を永遠化したうえで時間を述べなおすということである。では哲学が取り組む課題は何か。「たとえ過去になったとしても、その出来事があったということは事実として残る」という前提部分に疑いを持つことだろう。これは人が人である限り、かなり困難である。記憶の持つ性質を抜きに時間を語ることが難しいということのほかに、死すべきものである私たちの心情がこの前提を受け入れたがるということもある
もう一つ、マクタガートとは別の理論で時間を否定するという選択肢もあるのだろうが、ここでは考えない
これが読み直してみて得た感想だ。しかし永井氏は奇妙にもマクタガートの間違いを拡大する方向へ行ってしまう
マクタガートが正しいとしたうえで、強引とも思える意識と時間との相互メタフォーに向かわせたものは何だろう。ちょっとわかりにくい説明かもしれないが、時間抜きの時間論と、意識抜きの意識論が、各時制や各意識の安易な相対化という点で、論の構造として似ているのではないだろうか。事実の永遠化(無時間化)に相当するのは意識の偏在化である
なぜ私は他の誰でもなくこの私なのか。この問いはあまりに私の感覚とずれていて、これを重要視する永井氏の著作をいくつか読み、反射的に低評価にしてしまった。マクタガートの時間論を読みながら思ったのは、しかしこの問いが重要になる世界観も確かにあるのだろうということだった
それは妥協なしの唯物論である。もちろんこの名称は哲学者には貶めの言葉となるし、氏がそうであるということではない。ただあくまで外側からこの謎に共感する手続きとして、わかりやすい世界観は他にないということだ
唯物論の中では、私は再生可能である。AIの意識化も当然のことであり、とすれば私の思考パターンをハードに組み込むことで、あるいは永遠の生もある。このような世界において、私が私であることは深刻な謎となる
永井氏が唯物論者ではないとしても、意識と世界が簡単に反転可能であると考えておられることは確かではないだろうか。つまりそれは理論の文脈次第であると
しかし意識の特質は何かというに、反転可能性の徹底的な排除であると私は思っている。意識は複製の利かぬ、一回限りのものである。素粒子レベルでコピーしても、あるいは輪廻転生しても、私の自己意識は持ち越されず、したがってそれは私ではない。どんなに二元論への批判が盛んでも、主観ということには確かに意味がある。客観的なものは複製可能であり、主観はそうではないからだ
やはり私には、氏の問いかけが意識の特質を無視した、宙ぶらりんの謎にしか思えない。少なくともそこに共感し得るような、十分な世界観を提供できていないのではないか。周囲の無理解を嘆くのは早計である
とりあえずいろいろなことを考えながら読めたので、原著者に二点、解説者に二点。初心者は、細かい議論を無視して、全体的に間違った論証であることを承知して、さらっと読み流すことをお勧めする